Neetel Inside 文芸新都
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 珠希に運動部のマネージャーを勧めたのも渕谷部だった。
 四月下旬のある夕方。夕焼けを浴びて、校庭の運動部員にも、鞄を提げて家路を辿る生徒にも長い影がつきまとっているのを屋上から眺めていて、珠希が運動部って青春って感じですね、と感嘆の声を漏らしたのがきっかけだ。
「上級生と知り合えるし、他の人の笑顔をたくさん見れるし、悩んでいる人間と触れることもできるから、やりがいがあるだろうし、いい経験になると思うよ」
「でも、そういう仕事をしたいのはやまやまなんですけど、私スポーツのことってさっぱり分かんないんですよ」
 困惑した珠希の表情に、渕谷部の中の意地悪な虫が動く。
「じゃあ、どこに入っても変わんないね。折しもどこもかしこもマネージャー不足。どの部にも一人二人はいい男がいる。さあ、どうする?」
 いい男、という言葉に反応して、珠希の頬が赤くなった。あまりにもうぶ過ぎて訳もなく叫びたくなるくらい渕谷部は微笑ましく思った。
 不意に屋上のドアが開いて、土汚れした白いユニフォームの軍団がバラバラに駆けてくる。一階から屋上までの五フロアで競走をする。野球部がいつも締めにやっている階段ダッシュだ。もっとも三年生は大抵投げ込みが足りない、とか、感覚がいまいちしっくりこないからもうちょっと打ちたい、とか適当な理由をつけてサボるので、実のところ二年生と一年生しかいないが。
「あれ、渕谷部じゃねーか。お取り込み中のところ失礼。その子は彼女?」
 仕切っているらしい、帽子を前後逆にかぶっている背の高い少年が手を挙げる。少し息を切らしてはいるものの、練習の疲れを感じさせない爽やかさで笑う。
「お疲れー。この子は委員の後輩。今運動部のマネージャーやるかどうかで迷ってる」
「そうか、そいつはちょうどいい。野球部の半端ねーとこ見せてやろう。よーし、下から五人、罰ゲーム。一年生だらしねーぞ」
 少年が一年生達に向き直る。
「先輩に勝てる訳ないじゃないっすか」
「何言ってんだよ、バーカ」
 太った眼鏡の後輩の反論は少年に一蹴された。
「それと安江、お前二年生なのに日代戸に負けるなんてなに考えてんだよ、ど素人。ショート取られても知らねーぞ」
 安江と呼ばれた男が反省もせずにサーセン、と笑う。
「今日は腹筋三十回、抱え込みジャンプ二十回。安江はプラス腕立て二十回。五、四、三、二、一、始め」
 少年の合図と同時に、まだ疲れの残る五人の部員が地面に寝転がって腹筋を始めた。残りの七人はフェンスにもたれかかってその日の練習の感想を言い合っている。少年はその中心にいたが、他の二年生より頭一つ背が高いので、顔がよく見える。
 切れ長の涼し気な目を細めて、楽しそうに話している少年に、珠希は痛覚を刺激された気がした。他の部員とは違い、帽子から出る程度には髪が伸びていて、微風を受けて少しずつ汗が乾いてゆくように見える。次第に薄暗くなる空の下でシルエットになりかけている少年を、珠希はじっと見つめた。
「じゃあ、終わった奴から上がれよ。鳩間、見張りよろしく」
「了解。今日ラーメン屋行く?」
「今日はやめとく」
「分かった。じゃあな」 
 二年生一人を罰ゲーム参加者の見張りに残して、少年を含めた六人が開けっ放しのドアを通り、階段を下りて行く。そこから更に一人、また一人と練習を切り上げて行き、安江が腕立て伏せを終えて鳩間と一緒に屋上を去る頃には日がだいぶ沈んでいた。
「先輩」
「なぁに、珠希」
「野球部のマネージャーになれば、さっきの人と……。会えるん、ですよね」
 風に小さくそよぐスカートの裾を見るように顔を下げ、もう一度上げて、渕谷部に問う。渕谷部は膝に手をついて、珠希の顔を覗き込んだ。一緒だ。潤った目や、含羞で染まった頬を見て、そう思う。相手はもちろん違うが、二人とも恋をしている、という点では一緒だ。
「まぁね。あなたが望まなくても、ほとんど毎日、会える」
「そっかぁ。よかった……」
 ちょっと涼しくなってきましたね。そう言って、珠希は渕谷部の左腕にしがみつき、顔を寄せる。最終下校を知らせる放送が入って、改めて空を侵す闇に気付かされる。

 結局、珠希はその年の夏から少年と交際を始め、順調な滑り出しを迎えるかに思えたが、気がついた時には破局を迎え、二人とも野球部を去っていた。落ち込んでいる珠希を慰めながら、渕谷部は少し怯えた。自分が功二と付き合ったらどうなっていたのか、やはり珠希と少年のようになっていたのだろうか、と不安になった。しかし、同時に、珠希と同じ目に会わないで済んでいることがありがたく思えて、渕谷部は自分を落ち着かせるために珠希に優しい言葉をかけた。
 渕谷部は気付いた。結局自分が人に優しくしてきたのは自分のことを考えていたからに過ぎない。打算的な親切を積み上げて自分を作ってきたそのことを悟った瞬間から、珠希は渕谷部にとって可愛い後輩ではなく、醜い自分を無理矢理見せてくる鏡になってしまった。


       

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