Neetel Inside 文芸新都
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 渕谷部は教室の壁にかかった、秒針の壊れた時計に目をやった。あと五分もしたら会議のために生徒会室に行かなければならないという事実が煩わしく思えるが、それはどうしようもない。その五分で功二とのやりとりや珠希の痛手や、自分にまつわるその他諸々の回想から吹っ切れ、なにごともなかったかのように会議で活発に意見を出す義務がある。仕事のできる人間という自覚がある以上、その義務をこなさないことをプライドが許さない。深く息を吐いて資料を読み返し、一ページ読み終えたところで珠希に尋ねる。
「珠希、ちょっと訊いていいかな」
 珠希の視線が渕谷部に向けられる。見られているということが少しズキッとくる。
「あいつのことにも関わってくるけど、それでもいい?」
 珠希の前では名前を出さずに『あいつ』と呼んでいるが、珠希はすぐにそれが誰なのかを理解し、少し顔を強張らせる。あの、それはちょっと、と言いたげな素振りを見せながらも、珠希は小さく頷いた。
「例えばさ、珠希はあいつのことを何も知らないで一目惚れしたでしょう。 でも、もしあいつや、あいつを好きでいることに傷つけられるって分かってたとして、それでも好きになってたと思う?」
 珠希は少し首を傾げて、困ったように笑顔を作る。
「ごめんなさい、ちょっと答えたくないです」
「ううん、全然いいよ。そっかぁ、やっぱり答えにくいよね」
「はい」
 私とナカコーの場合は分かってた。渕谷部はそう思った。
 恋愛感情はないとはいえ、功二にはいつもつるんでる幼馴染み、新利春子がいる。ただでさえそんな人間が側にいるのに、そこに最近もう一人、ひどく大人びた少女、蟻村有が加わり、功二は明らかにこちらには惹かれていた。少し世間離れしていてすれたところが全く無く、自然体の振る舞いがいちいち美しい日本的な少女。渕谷部は、有のことを何も知らないこと、そんな有に功二を持っていかれることが悔しかった。しかし一方では、功二が自分にさほど関心を持っていないことは分かりきっていて、それでも渕谷部は功二に思いを寄せずにはいられなかった。
 珠希の場合には、予備知識は一切なかった。少年の恋愛への疎さや、人の頼みが断れない意外な気の弱さは全てあとからの発見だった。
 それさえ分かってたらあいつに一方的に傷つけられることもなかったのに。珠希を嫌いにならなくて済んだのに。腐れ縁を作らないで生きられたのに。渕谷部は少し唇を噛み締める。
「あの、先輩、そろそろ移動しないと遅れますよ」
 珠希が遠慮がちに言ったその一言で正気に返った。珠希は片腕に筆箱とメモ帳と資料を抱えて、椅子をテーブルにしまって立っていた。
「あ、ごめんごめん。にしても、なんか甘いもん食べたくなんない? 帰りに『ちくだて』のセロリシャーベットおごってあげよっか」
「それはやめてくださいよぉ。私は抹茶みるく寒天がいいな」
「よし。じゃあ、話し合いの後は『ちくだて』でお茶しよう」
  渕谷部も珠希に習って胸に道具を抱え込み、二人並んで食堂を出た。
 私は仕事ができる女じゃなきゃいけない。だから、作り笑いだって、愛嬌を振りまくのだって、その気になれば珠希より上手く出来るんだよ。
 そんなことを考えて自分を励まそうとしてはみたが、珠希は短い間ながらも好きな男と交際していたし、作り笑いはともかく、道具の抱え方が珠希ほど可憐である自信がなく、どこか釈然としないまま渕谷部は真っ白な廊下を歩いて行った。

       

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