Neetel Inside 文芸新都
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終着駅のラジオ
alison

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「あれ、先輩」
 駅に一歩入ったところで思わぬ先客に呼ばれ、蟻村有は思わず背筋を正した。外では相も変わらず梅雨が叩き付けており、毎日を一様に灰色の色彩で染める中で、その明るい声に有はひどくハッとさせられた。思えば何日も誰とも話していないのだからそれも当然だ。
 目の前にいる少女は自分と同じ制服を着ているのだから、同じ学校の生徒なのだろう。そして、先輩、と呼ぶからには後輩なのだろう。顔にも見覚えはある。問題は、ただでさえ友人のいない有が、部活動や生徒会、委員会に所属していないのに後輩と接点を持ち得ないことだ。あの、お名前は、とか、どなたですか、とか、丁寧に相手が誰なのか確認しようと色々と考えを巡らしてはみるのだが、結果的に口から出るのはもっとそっけない言葉だった。
「だ、誰?」
「あ、そっかー、一回会っただけだから、憶えてなくても仕方ないですよね。ほら、私は新利春子ですよ。写真部の」
 少女は笑顔を崩さずに、さもその会話が驚く程楽しいものであるかのように自己紹介した。
「ニイリ、ハルコ」
 有はたどたどしく繰り返した。
「そう。先週、写真部の展覧会で会ったじゃないですか」
 ああ、あの子か。
 有はようやく少女の正体に思い当たった。そして、同時に、なんとも言えない気分になった。憂鬱と切なさと郷愁が入り交じった、あの居心地の悪い冷たさを思い出す。


     

 一週間前。梅雨入りから二日が経過したその日の放課後、有は写真部の展覧会を見に行った。特に深い理由はなかったが、その日読んでいた文庫本を読み終え、暇だったのだ。
 「恐れへの回帰」、と題されたその展覧会の案内板が講堂の壁に立てかけられていた。流れ落ちるような草書体の黒い文字が、真っ白な紙に浮かび上がる。そのシンプルさが今時の学生がやる企画の宣伝としては珍しく思われた。そして、講堂に入ると、そのシンプルさが写真展に展示されている作品とマッチしていることが分かった。
 展示されている写真は全て白黒だった。全ての方角に、そのモノトーンのせいでひどく古びて見える風景の幻影が整然と飾られ、始まったばかりにも関わらず特有の重さを持ちつつある雨期の空気と相まって、有は懐かしさと不安を併せ持った世界に誘われた。サティの「ジムノペディ」がバックで低く流れる。
 神村高校の写真部は全国レベルのコンクールで争う強豪なだけあって、どの写真も見る者に謎を投げかけ、背筋に寒気を走らせ、心の奥で眠っていた怠さや青さを呼び起こしたのだが、とりわけ有の目に留まったのは、「alison」と名付けられたコーナーだった。なんの特徴もない字で書かれた表題の下に小さく「生の自画像」と書かれているのはサブタイトルだろう。
 そしてそのサブタイトル通り、「alison」に展示されていた写真は全て、一人の少女の自画像であるらしかった。曇った鏡にカメラを向け、フラッシュを焚く少女の顔。クルクルと楽しげに舞う少女。タンポポだらけの草原に横たわり、胸に両手を組んで置いている少女。一人の少女の女性美への、異様なまでの固執を感じさせる、白黒写真の連なり。どれもフィルムに作為的に傷がつけられたらしく、映像も傷だらけで、昔の映画のようだった。
 やがて、「alison」の最後の一枚にたどり着くと、有は驚いた。
 「傷物」というタイトルの一枚。少女の手首が真ん中に映っている。その側でカッターナイフが無造作に寝ていたことから、華奢な手首に筋を作っている黒いものが血らしいと気付くのに時間はかからなかった。それだけの写真なのだが、繊細な違和感に満ちていて、名も知らない美しい少女がこのために自らの手首をカッターナイフで切ったと思うとゾクッとして、有はすっかり魅入られた。
「気に入りましたか」
 突然背後から話しかけられ、有が振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。小柄で痩せた少女。「alison」から連想された少女のイメージと重なる。
「今回はいい作品がいっぱいありますから、ゆっくりしていって下さい」
「あ、はい」
 有がそれだけ答えると、少女は少しなにか考えて、再び口を開いた。
「すみません、よかったらクラスと名前を教えてください」
「え」
「あ、いや、そのー、ぜひ今度写真のモデルになってもらいたいなー、なんて」
 有は返答に困った。彼女は自分が写真のモデルに値するとは思えなかったし、突然見知らぬ人間にそんな話を持ちかけられても、答えようがなかった。
「嫌でしたらせめて学年だけでも教えてください。お願いします」
 少女は相変わらず熱心に誘ってくる。顔を覗き込んでみて、有は驚いた。少女が大変な美少女だったからだ。あどけない顔つきをしているのだが、そのパッチリした目はどことなく憂いを感じさせ、有の心の底まで見透かすようにこちらを見つめていた。有は根負けして、
「二年」
 とだけ答えた。
「あ、やっぱり先輩だったんですね。でも、びっくりしちゃった、こんな大人っぽい女の子がこの学校にいるなんて思ってなかったもん」
 大人っぽい? 私が?
 有は少し戸惑った。周りの人間が子供っぽいと思ったことはあっても、自分が大人っぽいと思ったことは一度もないし、大人っぽくあることを望んだこともない。
「じゃあ、モデルの話、考えといてください。今度会えたら返事を下さいね」
 少女はそう言って有に背を向け、ゆっくりと歩いていった。その一瞬、袖のカフスからなにかが覗くのが見えた。有は息を呑んだ。
 少女の手首には、絆創膏が貼られていた。


     

「すごいでしょう、ここ。こんなにいっぱい本があるんですよ」
 春子は両腕を広げて笑いながら一回回った。なるほど、その仕草には、確かにあの日の写真の面影が感じられた。
 駅舎の壁にはいくつもの本棚が並んでいて、そのどれもが様々な本に埋められていた。その様子は、さながら小さな図書館のようだった。四方の壁にひしめき、威圧的にも思える光景。しかし、有は驚きはしなかった。
「知ってる。ここ、毎日来るから」
 有は事も無げに春子に言葉を投げ返した。春子はその淡白さにお構いも無しにはしゃぐ。
「あぁ、そうだったんですか。私は今日が初めてなんです。前から噂は聞いてたけど、まさかここまでだなんて思ってなかった。こんなにたくさんの本、誰が持ってきたんだろ」
「ここの本、全部私の」
 正面の改札から右の壁にある本棚の一つから「ライ麦畑で捕まえて」を取り出す春子に、有はボソッと言った。春子はますます顔を輝かせた。発する一言一言が弾んでいた。
「えー、すごーい。どんな人がこういうことをするのかと思ったら、先輩だったんですね。かぁっこいい。やっぱり美少女には本ですよねー」
 美少女。ビショウジョ。聞き間違えたかとも思ったが、間違いなく、春子は「美少女」と言った。そして、その言葉の対象は間違いなく有なのだ。有は俯いて、少し下唇を噛んだ。顔は「美少女」という単語の甘さに酔ってしまったかのように赤くなった。
「でも、どうしてここに本を運ぼうと思ったんですか?」
 しまった。理由を訊かれた。
 有にとって、本を駅に運び込んだ理由は気恥ずかしくて説明しづらいものだった。そんな困った質問を、目の前にいる可憐な下級生が、澄んだ目でこちらを見つめながらしてくるのだ。有は動揺を隠そうと項垂れつつ、自分なりに答えをまとめようとした。

 ずっと昔の、暑い夏。弱い風が木の葉や髪の間をくぐり抜けて、瞬間にその透明感が形を持つ。空の青に島のように浮かんだ入道雲が見える。蝉も合唱して夏をけたたましく演出している。熱病のような倦怠感に蝕まれる日々。いや、嘘かもしれない。本当は、そこまで完璧に「夏をしている」夏ではなかったかもしれない。そんなにドラマチックで理想的過ぎる季節に、有は出くわしたことはない。だが、その夏に食らった幸せな不意打ちは本物の記憶だ。
 ベンチに腰掛け、頬杖をついてアリの巣を見つめる昼間。突然掴まれた左手。長い長い、幼い女の子には永遠とも思える、炎天下の二人の行軍。蛇のようにうねり、大口を開けて海へと誘う坂道。たどり着いた廃駅。楽しそうに遊ぶ、見知らぬ子供達。その輪に突然加わった、内気な自分。秘密基地のような薄暗い部屋での秘密結社ごっこ。
 初めてできた友達らしい友達だったが、みんな歳を重ねて、一人ずつ駅からはなれていく。最初に手を掴んでくれた少女を除いて。その彼女も、三年前にイギリスに行ってしまった。
 それでも有は、なんだかみんなが帰ってくる日が訪れる気がした。昔読んだ童話の数々でも、最後には、いなくなっていた人や旅をしていた英雄は、みんな元々いた場所に帰ってきた。それと同じように行かないとは分かっていても、ついつい期待してしまう。

 そんなことをありのまま話すのは、有には少し難しく思えた。誰々を待ってるの、なんて悲劇のヒロインぶるのは恥ずかしいのだ。
「前読んだ小説に、世界中の知識が集まる図書館が出てきたから……」
 あ、この答えもダメだ、と思った時には、既にそう答えてしまっていた。こんなんじゃ、きっと笑われる。有はひどく後悔した。
 しかし、しばらくの沈黙のあと、春子の顔に浮かんだ表情は嘲るようなものではなかった。
「そっかぁ。なんかロマンチックですね」
 春子は有の答えに魅力を感じたらしく、さっきまでのはしゃぎっぷりとは全く違う、穏やかな口調でそう言った。有は少し驚いて顔を上げ、春子を見た。
 有の中に、春子に対する疑問が浮かんだ。
 本当に、「alison」の被写体は春子だったのだろうか。
 本の多さを話題にしていた時の高揚感が静まった今、春子はどことなく繊細に見えるが、それはあくまでも前向きな繊細さに思えた。あの一連の写真や、そこに映っていた少女が持っていた、もっと耽美でナルシスティックで、一歩間違えば薄氷を突き抜けて破滅に向かいそうな繊細さとは種類が違う。春子はもっと普通の、女の子らしい女の子に思える。そもそも作品の題名は確認したが、撮影者にはそこまで気を配っていなかったし、春子が作者を名乗らない以上、あの作品は春子のものだと思う根拠は、春子の華奢な体躯とあの日手首に貼っていた絆創膏くらいだ。似たような体つきの人間は他にもいるだろうし、たまたま手首を怪我していたということはないと誰が言い切れるだろうか。
「ねぇ」
 無意識のうちに春子に呼びかけてしまう。
「はい」
 有は少し躊躇って、質問を続けた。
「先週の写真、あれ、撮ったのあなた?」
「はい、そうですけど」
 これで、「alison」が春子の作品だということははっきりした。しかし、有の好奇心はまだ半分しか満たされていない。
 有は目を伏せてしばらく考えた。次の質問は、春子も快く思わないだろうし、自分にとっても、尋ねて気持ちのいいものではない。そもそも、まだ有は春子のことをよく知らないし、春子も有のことをよく知らないから、答えづらいだろう。結局、有は別の質問をすることにした。深呼吸をして息を整え、自分を落ち着かせる。
「質問ついでだけど……」
「はい」
 しばらく間を置き、呼吸をゆっくり整えて、有は再び口を開いた。
「春子は…… 春子は、友達?」
 失敗した、と有は思った。再び俯いて目を逸らす。本当は、友達になってくれるかな、と訊くつもりだったのだが、上手く言えなかった。親友が三年前に引っ越して以来、有は自分の世界を共有してくれる友人を欲していた。そしてようやく、友達になりたいと思える人間を見つけた。それなのに、口下手なせいで、変な印象を与えてしまったかも知れない。心臓の鼓動が速く感じられ、ソワソワしてしょうがない。
 フフフ、と笑い声がした。ドキッとして有が春子の方を見る。春子ははにかみながら笑顔で有を見つめていた。
「はい! 私は先輩の友達ですよー!」
 有が決まりが悪そうに床に視線を戻すと、春子はまた笑った。フフフ。なんて静かに、それでいて楽しそうに笑うんだろう、と有は思った。
「なんだか告白されたみたいで、照れちゃった」
 春子がそう呟く。言われてみるとそんな気もしてくる。有も笑い声をあげた。声に出して笑うのは久しぶりだった。
「でも先輩、友達は多い方がいいでしょう。今度は他の子も連れてきていいですか?」
「あ、その……」
「ダメなん、ですか?」
 少しだけ、春子の表情が曇る。今、この場を自分のせいで暗くしたら罪だ。有は少し勇気を出して、精一杯の笑顔で、出来るだけ黙らずに返事をした。
「ううん。ぜひ、連れてきて」
「はい! 無理矢理にでも連れてきますよ」
「無理矢理は、ちょっと」
 春子の陽気な返事に、有はためらいながらも突っ込みを入れた。
「冗談ですよ。じゃあ、明後日の日曜日でいいですか」
「うん」
 気がつくと、あれ程暴力的だった雨脚はだいぶ弱まっていた。久しぶりに梅雨晴れ間がくるかも知れない。今ならここは理想郷だと信じてもいいと、有はふと感じる。


       

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