Neetel Inside 文芸新都
表紙

終着駅のラジオ
big plane

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 灰色の空模様は途切れることなく続いた。雨は時には激しく、時にはしめやかに降り注いだが、止むことはなかった。
 渕谷部のいる学校に居心地の悪さを感じ、有は終礼や掃除を済ませてさっさと駅に移動するようになった。功二と春子はやや間を置いて現われる。珠希も誘ったけど忙しいからって断られちゃった、と春子は愚痴る。
 水深一メートル、とでも喩えられるような、低い温度で安定した活動が駅舎のベンチ周りで繰り広げられる。春子がラーメン屋からもらってきた古いラジカセはよく雑音が入った。常にバックでホワイトノイズが走っているだけでなく、たまにブツッ、と派手に音が割れた。思いのほかラジオの受信状況もよくなかったので、民放のラジオはほとんど流さずにCDを流し、「WILD SEVEN」の最初の番組が五時半から始まるとそれを三十分ばかり聴いて帰ることが多かった。多くは90年代初頭のUKインディーズものと日本のロキノン系で、これは春子の趣味であるらしかった。ロックの轟音が外の波音と混じるなかで、三人は時折会話を挟んで読書をした。有はベンチに座って梶井基次郎の「檸檬」を読み進める。功二はその隣で漫画雑誌やライトノベルに顔を埋め、たまに改札を抜けてホームに出る。春子は「ライ麦畑で捕まえて」の合間に、持ち込んだアコースティックギターで「Psychocandy」を下手糞かつお茶目に弾き語る。圭一は人数分の無糖ブラックの缶コーヒーを提げてごく稀に顔を出し、コーヒーの苦手な有を苦しめた(好きな男の子がせっかく用意してくれたのだ、誰が突き返せよう)。圭一だけは本も漫画も嫌いと見えて、決して本を開かず、床に寝そべって軟式野球のボールを天井に放ってはグラブで捕球した。非建設的で不健康なアンニュイさを湛えた現実逃避。万事そんな調子で毎日が送られる。

「あーあ、いつまでもこうしてられたらいいのになぁ」
 本を膝の上に伏せ、功二は伸びをした。
「どしたの、突然」
 その日何回目かも分からないAのコードを鳴らして、春子は尋ねた。
「お前はまだ一年だし大丈夫だけどさ、俺達もう高二だから、いいかげん勉強とかに本腰入れなくちゃいけないんだよ。それを考えると、なんかなぁ」
「とかなんとか言って、お前理系科目以外ぜってぇ勉強しねぇだろ」
 圭一が功二をからかう。功二は少しムッとして返した。
「国語とかはまだいいだろ。俺は理科大行ければなんだっていいし、そもそも学校の国語なんて文法とか以外は」
「はいはい、分かった、分かったよ」
「でも、なんか不思議だね」
 春子が少し切なそうに言った。
「子供の頃ってさ」
「春子が大人になった憶えはねーな」
「うるさいよ圭一」
 春子にたしなめられると、圭一は小馬鹿にしたように笑ってから、話は聞いてるぜ、と続きを促した。
「子供の頃ってさ、なんかこれから毎日、なんにも変わんないで続くって思ってなかった? 毎日仲のいい子と通学路歩いて、学校で勉強して、給食を急いで食べて校庭に出て、野球グループとサッカーグループとドッジボールグループの場所取りが激しくて」
 春子の話を聞きながら、有は自分の幼少期を思い出した。小学校低学年の頃ならまだそんな思い出が少しは残っていて、有は安心したが、同時にあまりにも長い空白が現在の自分との間にあって、少し情けない思いもした。
 そっか。親や先生がなにを言っても、毎日孤独なのは変わらないとどこかで思ってた。だから本当に変わらなかったんだ。
 春子達を見回す。
 この子達に出会っても、変わらないと思ってたかな。少しでも疑ったりしてたかな。
 有は少し申し訳無さを感じた。
「放課後も日が暮れるまで遊んで、暗くなるのが怖くて、家まで走って息を切らすと、自分が夕焼けに溶けて無くなってく気がすることも、たくさんあった。そんな時に、家族が家にいるとホッとしてさ。お父さんはリビングで新聞読んでて、お母さんは台所で美味しいものつくってて、おに」
 春子の言葉が不意に切れた。少し複雑そうな表情をして、春子は強引にまとめた。
「とにかく、毎日楽しいことばっかり続くって、ずっと思ってたけど、気がついたら私達もちょっとずつ大人に近付いて、つまんないことも増えるんだなぁって」
「そう、それだよ、それ。要はそういうこと」
 功二が手を叩いて相づちを打った。自分の気持を分かってくれたのが嬉しかったのか、少しはしゃぎ気味だった。
「要するにお前らは楽しいことしか考えてねーガキ、と」
 功二の仕草を真似ても、圭一のそれは醒めていた。
「有なんか、いかにも人生設計がしっかりしてそうだぜ」
 圭一が有に振り返りざまにそう言った。自分の名前が出てきて、有は驚いた。
「全然だよ? ほら、あれ、大学もまだ決めていないし」
「へぇ、意外だなー。なんなら一緒に東京理科大行かない?」
「文系だからちょっと無理、かな」
 進学の誘いを断られてへこむ功二を圭一は軽く小突く。
「私もさっさと出て行きたいなぁ。ダサい青森、ダサい栗江、ダサい学校、ダサい私。東京行って、ここのレベルじゃないちゃんとしたお洒落がしたい」
 春子が自嘲的かつ妙に明るいトーンでそう言った。
「まぁな。東京に行かない俺が言うのも難だけどよぉ、こんなところいてもどうしようもねーしなぁ」
 意外にも圭一が同意したので、一同はあれ、と小さく声に出した。
「確かに展開もねーし、大した仕事もねーし、ここに居続ければどうなるって訳でもねーし。知ってるか、ここって『平和宣言都市』やら『自然保護モデル都市』やら大層なもん名乗ってるんだぜ。ちょっとくらいでかいったってたかが地方都市なのにな。何ができるんだよって」
 それはまるで渡邊恒雄の「分をわきまえろ、たかが選手が」発言のような字面だったが、ほとんど重みは感じられなかった。必要以上に力を与えられていない地方都市の、必要以上に力を与えられていない若者が、問題を指摘しながらも「どうでもいいや」と日和っているに過ぎない。春子の言う「ダサい青森」を認めてしまっているし、圭一の言う「展開もねぇ」栗江市そのものを体現してしまっている。
「でも、じゃあ、なんで清水君は東京に行かないの?」
 有は軽く首を傾げた。
「何も起きない寂しい街を離れて、日本の中心に行けば、なんだって手に入るのに」
 圭一はそうだなぁ、と呟きながら意見をまとめた。
「好きなんだよな」
「好き?」
「あぁ。実現できもしねー無駄な主張をするこの街も、ダセぇ俺達も、好きなんだよな。それから」
 少し間を置いて、圭一は苦笑いを浮かべた。
「はっきり言っちまえば、『皆行っちまって俺独りぼっちだよ』って思えちゃう自分も好きだったりするかもな。とにかくどっか違う場所行ってガツガツやる気がないだけかも知んないけど。あ、断っとくけど、俺功二と違ってナルじゃねーから」
「充分、充分」
 春子がニヤリとしながら前髪を指先に流した。るせーよ、と返してから、圭一は有に問い返す。
「有は、どうすんの?」
「よく分からない」
 そう、言われてみれば、考えたこともなかった。この街を出て行くなんて、何が起きたってイメージしなかった。そのことに有は気付かされる。
 圭一の話は曖昧で釈然としない部分が多かったけれども、その言葉を聞くと栗江市神村は最小単位で完結した無気力な世界であり、ゴールに思えたし、一方では春子や功二にとってはこの街はスタート地点、踏み台でしかないこともよく分かった。でも、自分がどちらに属するのか。どちらにつくのが正しいのか。それは分からなかった。
 こうして、また答えを先延ばしにするのかな。
 有は心の奥の方で舌打ちをした。紅く燃える陽の存在しない夕刻までは、まだ時間が残っている。


     

 三時間目の漢文が終わり、音楽の授業に移動しようとした時に、有は渕谷部に話しかけられた。
「蟻村さん、お願いがあるんだけど」
 脊髄反射で自然と体が強張るが、どうもしっくり来ない。というのも、渕谷部の声にいつもの勝ち気さ、有にだけ見せる高圧的な刺々しさがなかったからだ。顔を向けて、有は初めて渕谷部の顔を直視した。
 口の悪いいじめっ子ではなく、潤んだ目で切実そうにこちらを見つめる一人の少女がそこにいた。
 あまりにも頼りない、少女の姿。
 見てはいけないものを見たかのように有は俯く。
「四時間目終わったら、屋上に来てくれないかな?」
「雨、降ってますよね……?」
 有が恐るおそる尋ねる。
「その方が誰も来ないし、都合がいいから」
「でも、濡れるし」
「いいから来て」
「でも」
「お願いだから、来てよ。お願いします」
 渕谷部が有の両肩を掴んで必死に懇願した。いかなる理由があってか、彼女はその瞬間、自分を有の下に置き、自分のややもすれば卑屈に見える姿を気にせずに有にすがりついていた。
「どうしても、訊きたいことがあるの」
「どうしても、ですか」
「どうしても」
 渕谷部は確認するように首を縦に振る。断ってはいけない気がしてくる。
「分かりました」
「じゃあ、四時間目終わってすぐ、屋上」
 そう言い残して、渕谷部はゆっくりと教室を出、そこから駆け足で階段を降りて書道の授業に向かう。有はその背中を見送り、渕谷部とは反対に階段を上って音楽室への移動を始めた。頭は既に四十五分後の約束でいっぱいだった。

「よかった、本当に来てくれたんだ」
 少し安心したような面持ちで、渕谷部は屋上のフェンスにもたれかかる。音楽の授業が五分遅れて終わるまでの間、ずっと屋根の下に入らずに待っていたらしく、髪もシャツも濡れてべたついていた。清しい雰囲気がした。
「蟻村さんのことだから、私が怖くて逃げたかと思った。自分で不幸を招いておいて被害者面するような人だし」
 彼女は力なく笑って憎まれ口を叩くが、余裕のなさが見て取れる。
「訊きたいことってなんですか」
 渕谷部の精一杯の嘲笑に反応せずに有は切り出した。足下の仮想の小石をいじるように右足を動かして、渕谷部はしばらく地面を見つめ、そのまま慎重に尋ねた。
「蟻村さんは、ナカコーのなんなの?」
「なんなの、って?」
「蟻村さん、最近ナカコーと随分つるんでるでしょう」
 渕谷部の声には微かな震えがあった。
「ナカコーが新利に気がないのは、分かってた。けど、でも……」
 軽く洟をすすって、渕谷部は顔を上げ、有を真っ直ぐ見た。彼女は泣いていた。
「蟻村さん、見てると、分からない。蟻村さんといる時、ナカコーって、すごく、優しい目をしてるし、話し方も、他の子と話してる時と、全然違う。だから、蟻村さん見てると、分からないよ、全然」
 分からない。分からない。分かんない。何度かひとりごちるように渕谷部は言う。有は黙ったままだ。
「だから、蟻村さんに、訊きたいの」
 もう一度洟をすすり、右手の甲で目をこすって、再び有に視線を戻す。
「蟻村さんにとって、ナカコーは、ただの友達なの? だったら、ナカコーから離れてくれないかな」
 ぐっしょり濡れた渕谷部の体中から水滴が流れ落ちる。どれが雨粒でどれが涙なのか、さっぱり分からない。有自身、かなり雨を浴びていた。有の心は揺さぶられ、ひどく痛んだ。しかし、答えはほぼ決まっていた。
 心の中で落ち着け、有、と唱える。今、私は優位な立場にいるはず。自分の思うことをちゃんと伝えなきゃ。元々嫌われてるんだから、失うものもないし。
「ナカコー君は、友達です。友達から離れるなんて、無理です」
 渕谷部は大きく溜め息をついた。
「でも、ナカコーは、ただの友達とは、思ってないかも、しれないでしょ? あの子、ちょっとした素振りを、自分のいいようにとって、勘違い、しちゃうかも。そしたら、傷つくの、ナカコー、だよ?」
「でも、無理です」
 渕谷部がまたフーッ、と息を吐く。そっかー、と呟く。そっかー。
「そうだよね。正しいよ、蟻村さん」
 身を翻して、渕谷部はフェンスの向こうを見つめる。暗色の海が初名浜の岩に叩き付けられ、砕け散って、また引いてゆくのが、遠くに見える。
「……昔は、仲良くしてたのになぁ、ナカコー。小学校上がってから、私は毎年、一つずつ増えるみたいに、習い事が増えて、遊べなくなった」
 渕谷部は白い指をフェンスに絡ませて、ボソボソと話し、それから顔だけを有の方に戻して続けた。
「私、ずっと、ずっと、新利のポジションに、憧れてた。まるで妹みたいに、いつもナカコーと、一緒。優しくて、かっこよくて、たまに情けない、ナカコーと、いつでもどこでも一緒。でも、ナカコーは、新利に、恋をしない。妹みたいな、もんだから」
 作り笑いをする渕谷部に、有はなんの言葉もかけられない。なんだか、渕谷部が自分を下げ過ぎて、かえって上に立っているような、矛盾した印象を受ける。過ぎたるは及ばざるがごとし、なのだろうか。 
「幼稚園の頃、鬼ごっことか、よくした。私は、鬼ごっこが、終わったも同然なのを、知らないで、続けてきたの。今日まで。でも、気づいたら、追いつけなくなってた。結局、私があの人たちを、嫌いなふりしてたのも、ただの妬み。不幸なのも、被害者面してるのも、傷を舐めて欲しいのも、全部、私。所詮、あなたと一緒。笑って、いいよ、蟻村さんは、正しいから」
 有は笑わなかった。渕谷部は舌打ちをして再び海を眺めた。有もその隣に立ち、二人して雨に打たれ続けた。

「ナカコー、久しぶりー」
 食堂に入って功二の姿を認めるなり、春子は無駄に元気よく駆け寄って隣に座った。確かにその日は春子が日直だったこともあって全く会っていなかったが、だからといって久しぶり、はないだろう。
「夢、見た」
 春子の嫌なスイッチが入ってしまっているらしい。功二はそういう予感を覚える。冷たくて不快な、一つの予感。皮肉にも、そのBGMのごとく昼放送で流れるのは、清涼感と透明感に満ちたSlowdiveの「Celia's Dream」だ。
「どんな夢?」
 夢の内容が春子の死んだ兄に関するものだと分かりきっていても、功二はそう訊いてしまう。その質問を耳にして、春子は鬱陶しそうに髪を掻き乱し、また整えて両サイドを耳の後ろにまとめる。
「とぼけないでよ」
 そう言って、春子はプチトマトを一つ口に入れ、噛み潰す。
「……私ね、昔からカステラの表面の茶色いとこが好きだったんだけど、お兄ちゃんも一緒だったから、よく奪い合いをしてた。その夢を見た」
「だから、嶺治さんのことは何回も謝ってるじゃん、謝ればどうなるってもんでもないけど」
「分かってるじゃない」
 春子は責めるように厳しい口調で言う。左手で右手首をブレスレットの上からさする。
「ナカコーがいくら謝ったって、お兄ちゃんは帰って来ない。だから、私はナカコーのこと、許してなんかいないよ。一回も。勘違いしないでね」
「お前、また手首やったのか」
「多分、世界で一番綺麗なものだって思うんだけど、知ってる? この真っ白な肌に赤い血が伝うの。止血しなくていいなら、ずっと見てたい。ずっと見てれば、お兄ちゃんに会える。でも、結局できないんだけど」
 終止笑顔のまま、春子は口ぶりだけ変えて、自傷の世界を耽美に語った。それは功二にとっては、いつみてもぞっとする光景だった。しかし、それ以上に、突然スイッチが切れて、いつも通りの春子に戻る瞬間に戸惑わされる。
 春子がしばらく黙り込む。何かを考えている風でもなく、弁当を食べる訳でもなく、ただ顔を伏せて手首を見つめ、まるでハムスターのように撫でている。そして突然、口を開く。
「ナカコー、昨日の『志村どうぶつ園』見た? 青木さやかがさー」
 唐突にテレビ番組の話題を持ち出す春子の言葉を、功二は聞き流す。
 俺は、なにを求められているんだろうか。
 春子はいつまで、兄の影を引きずるんだろうか。
 そればかりが、頭の中を巡る。


     

「渕谷部先輩、今日いつもより元気ないですよ? どうしたんですか」
 体育祭の資料に目を通している渕谷部に珠希が尋ねる。顔を上げると、向かい側に椅子を置いて座っている珠希と目が合う。テーブルの木の色よりわずかに暗いだけの、彼女の褐色の瞳に映っている自分の姿が儚く見える。
「別に大したことじゃないよ。しかし、ちゃんと人の不幸に気を配るなんて、さすがに私の一番弟子だけのことはあるね」
 冗談めかして陽気に答えこそしたが、実際には渕谷部は傷ついていた。
 六限目が終わってからホームルームが始まるまでの間の空き時間に、渕谷部は告白するつもりで功二に話しかけてみた。できる限り心象よく、親し気に声をかけたつもりだったが、何故だか功二は苛ついていた。しかも、昔よく一緒に遊んだこともあまり記憶に残っていないらしかったことは渕谷部を落ち込ませた。結局、思いを打ち明けられずにホームルームを迎え、クラス委員の仕事に身が入らない状態になってしまった。
「先輩のおかげで中学からずっと気を配るのが仕事ですから。でも、先輩の優しさには全然敵いませんよ」
 この子、私が優しい善人だって信じてるんだ。
 笑顔が地の珠希がにこやかに返すのを見て、以前から感じていた珠希へのやんわりとした、しかしそれでいて確実に心の片隅に巣食っている嫌悪感を感じる。だが、それは同時に虚像の渕谷部に憧れて努力をしている珠希を騙し続ける自分にも向けられている。
 エアコンの弱い風に乗って、珠希の髪の先が少し揺れるのを見る。珠希は髪型を変えないから、昔も今と似たような揺れ方をしていたのだろう。顔つきもあまり変化はなく、幼い感じがする。だが、珠希は間違いなく以前の珠希とは違う。明るく振る舞う珠希の所作はわずかになめらかさに欠け、ぎこちない。好きだった以前の珠希とは、違う。

 渕谷部が珠希と知り合ったのは、小学生だった頃の通学班がきっかけだった。五年生の春に珠希の家族が団地を出て近所の借家に引っ越してきたのだ。無邪気で子供っぽい性格でありながら下級生の面倒見がよい一つ年下の少女は、常にクラス委員を務めてきた渕谷部の作業意欲を刺激した。珠希が中学に上がるなり、渕谷部は生徒会役員に立候補しかけていた彼女に、生徒会よりクラス委員の方がクラスに密着した仕事ができ、友達のニーズに応えられる、とクラス委員に引き込み、イロハを叩き込んだ。みんなの幸せを第一に考える。渕谷部のモットーを立派に受け継いだ珠希はたまにクラスメートに煙たがられる程熱心に働いた。


     

 珠希に運動部のマネージャーを勧めたのも渕谷部だった。
 四月下旬のある夕方。夕焼けを浴びて、校庭の運動部員にも、鞄を提げて家路を辿る生徒にも長い影がつきまとっているのを屋上から眺めていて、珠希が運動部って青春って感じですね、と感嘆の声を漏らしたのがきっかけだ。
「上級生と知り合えるし、他の人の笑顔をたくさん見れるし、悩んでいる人間と触れることもできるから、やりがいがあるだろうし、いい経験になると思うよ」
「でも、そういう仕事をしたいのはやまやまなんですけど、私スポーツのことってさっぱり分かんないんですよ」
 困惑した珠希の表情に、渕谷部の中の意地悪な虫が動く。
「じゃあ、どこに入っても変わんないね。折しもどこもかしこもマネージャー不足。どの部にも一人二人はいい男がいる。さあ、どうする?」
 いい男、という言葉に反応して、珠希の頬が赤くなった。あまりにもうぶ過ぎて訳もなく叫びたくなるくらい渕谷部は微笑ましく思った。
 不意に屋上のドアが開いて、土汚れした白いユニフォームの軍団がバラバラに駆けてくる。一階から屋上までの五フロアで競走をする。野球部がいつも締めにやっている階段ダッシュだ。もっとも三年生は大抵投げ込みが足りない、とか、感覚がいまいちしっくりこないからもうちょっと打ちたい、とか適当な理由をつけてサボるので、実のところ二年生と一年生しかいないが。
「あれ、渕谷部じゃねーか。お取り込み中のところ失礼。その子は彼女?」
 仕切っているらしい、帽子を前後逆にかぶっている背の高い少年が手を挙げる。少し息を切らしてはいるものの、練習の疲れを感じさせない爽やかさで笑う。
「お疲れー。この子は委員の後輩。今運動部のマネージャーやるかどうかで迷ってる」
「そうか、そいつはちょうどいい。野球部の半端ねーとこ見せてやろう。よーし、下から五人、罰ゲーム。一年生だらしねーぞ」
 少年が一年生達に向き直る。
「先輩に勝てる訳ないじゃないっすか」
「何言ってんだよ、バーカ」
 太った眼鏡の後輩の反論は少年に一蹴された。
「それと安江、お前二年生なのに日代戸に負けるなんてなに考えてんだよ、ど素人。ショート取られても知らねーぞ」
 安江と呼ばれた男が反省もせずにサーセン、と笑う。
「今日は腹筋三十回、抱え込みジャンプ二十回。安江はプラス腕立て二十回。五、四、三、二、一、始め」
 少年の合図と同時に、まだ疲れの残る五人の部員が地面に寝転がって腹筋を始めた。残りの七人はフェンスにもたれかかってその日の練習の感想を言い合っている。少年はその中心にいたが、他の二年生より頭一つ背が高いので、顔がよく見える。
 切れ長の涼し気な目を細めて、楽しそうに話している少年に、珠希は痛覚を刺激された気がした。他の部員とは違い、帽子から出る程度には髪が伸びていて、微風を受けて少しずつ汗が乾いてゆくように見える。次第に薄暗くなる空の下でシルエットになりかけている少年を、珠希はじっと見つめた。
「じゃあ、終わった奴から上がれよ。鳩間、見張りよろしく」
「了解。今日ラーメン屋行く?」
「今日はやめとく」
「分かった。じゃあな」 
 二年生一人を罰ゲーム参加者の見張りに残して、少年を含めた六人が開けっ放しのドアを通り、階段を下りて行く。そこから更に一人、また一人と練習を切り上げて行き、安江が腕立て伏せを終えて鳩間と一緒に屋上を去る頃には日がだいぶ沈んでいた。
「先輩」
「なぁに、珠希」
「野球部のマネージャーになれば、さっきの人と……。会えるん、ですよね」
 風に小さくそよぐスカートの裾を見るように顔を下げ、もう一度上げて、渕谷部に問う。渕谷部は膝に手をついて、珠希の顔を覗き込んだ。一緒だ。潤った目や、含羞で染まった頬を見て、そう思う。相手はもちろん違うが、二人とも恋をしている、という点では一緒だ。
「まぁね。あなたが望まなくても、ほとんど毎日、会える」
「そっかぁ。よかった……」
 ちょっと涼しくなってきましたね。そう言って、珠希は渕谷部の左腕にしがみつき、顔を寄せる。最終下校を知らせる放送が入って、改めて空を侵す闇に気付かされる。

 結局、珠希はその年の夏から少年と交際を始め、順調な滑り出しを迎えるかに思えたが、気がついた時には破局を迎え、二人とも野球部を去っていた。落ち込んでいる珠希を慰めながら、渕谷部は少し怯えた。自分が功二と付き合ったらどうなっていたのか、やはり珠希と少年のようになっていたのだろうか、と不安になった。しかし、同時に、珠希と同じ目に会わないで済んでいることがありがたく思えて、渕谷部は自分を落ち着かせるために珠希に優しい言葉をかけた。
 渕谷部は気付いた。結局自分が人に優しくしてきたのは自分のことを考えていたからに過ぎない。打算的な親切を積み上げて自分を作ってきたそのことを悟った瞬間から、珠希は渕谷部にとって可愛い後輩ではなく、醜い自分を無理矢理見せてくる鏡になってしまった。


     

 渕谷部は教室の壁にかかった、秒針の壊れた時計に目をやった。あと五分もしたら会議のために生徒会室に行かなければならないという事実が煩わしく思えるが、それはどうしようもない。その五分で功二とのやりとりや珠希の痛手や、自分にまつわるその他諸々の回想から吹っ切れ、なにごともなかったかのように会議で活発に意見を出す義務がある。仕事のできる人間という自覚がある以上、その義務をこなさないことをプライドが許さない。深く息を吐いて資料を読み返し、一ページ読み終えたところで珠希に尋ねる。
「珠希、ちょっと訊いていいかな」
 珠希の視線が渕谷部に向けられる。見られているということが少しズキッとくる。
「あいつのことにも関わってくるけど、それでもいい?」
 珠希の前では名前を出さずに『あいつ』と呼んでいるが、珠希はすぐにそれが誰なのかを理解し、少し顔を強張らせる。あの、それはちょっと、と言いたげな素振りを見せながらも、珠希は小さく頷いた。
「例えばさ、珠希はあいつのことを何も知らないで一目惚れしたでしょう。 でも、もしあいつや、あいつを好きでいることに傷つけられるって分かってたとして、それでも好きになってたと思う?」
 珠希は少し首を傾げて、困ったように笑顔を作る。
「ごめんなさい、ちょっと答えたくないです」
「ううん、全然いいよ。そっかぁ、やっぱり答えにくいよね」
「はい」
 私とナカコーの場合は分かってた。渕谷部はそう思った。
 恋愛感情はないとはいえ、功二にはいつもつるんでる幼馴染み、新利春子がいる。ただでさえそんな人間が側にいるのに、そこに最近もう一人、ひどく大人びた少女、蟻村有が加わり、功二は明らかにこちらには惹かれていた。少し世間離れしていてすれたところが全く無く、自然体の振る舞いがいちいち美しい日本的な少女。渕谷部は、有のことを何も知らないこと、そんな有に功二を持っていかれることが悔しかった。しかし一方では、功二が自分にさほど関心を持っていないことは分かりきっていて、それでも渕谷部は功二に思いを寄せずにはいられなかった。
 珠希の場合には、予備知識は一切なかった。少年の恋愛への疎さや、人の頼みが断れない意外な気の弱さは全てあとからの発見だった。
 それさえ分かってたらあいつに一方的に傷つけられることもなかったのに。珠希を嫌いにならなくて済んだのに。腐れ縁を作らないで生きられたのに。渕谷部は少し唇を噛み締める。
「あの、先輩、そろそろ移動しないと遅れますよ」
 珠希が遠慮がちに言ったその一言で正気に返った。珠希は片腕に筆箱とメモ帳と資料を抱えて、椅子をテーブルにしまって立っていた。
「あ、ごめんごめん。にしても、なんか甘いもん食べたくなんない? 帰りに『ちくだて』のセロリシャーベットおごってあげよっか」
「それはやめてくださいよぉ。私は抹茶みるく寒天がいいな」
「よし。じゃあ、話し合いの後は『ちくだて』でお茶しよう」
  渕谷部も珠希に習って胸に道具を抱え込み、二人並んで食堂を出た。
 私は仕事ができる女じゃなきゃいけない。だから、作り笑いだって、愛嬌を振りまくのだって、その気になれば珠希より上手く出来るんだよ。
 そんなことを考えて自分を励まそうとしてはみたが、珠希は短い間ながらも好きな男と交際していたし、作り笑いはともかく、道具の抱え方が珠希ほど可憐である自信がなく、どこか釈然としないまま渕谷部は真っ白な廊下を歩いて行った。

       

表紙

岸田淳治 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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