Neetel Inside 文芸新都
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 パキン、とか。

 ミシミシ、とか。

 ぼきり、だとか。

 ポキン、などなど。

 心が折れる音とは、そんな優しい効果音ではありません。

 ビシビシビシビシ!
 べり、べりぃ、べりべりべりぃぃぃ!
 ぶちんっ。
 ゴリゴリゴリゴリ……
 ……ばたり。

 これがキョウコさんの、心が折れる音。だいぶ大げさですが。

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 初めに言っておくと、これはキョウコさんの自業自得です。

 キョウコさんはFacebookをしていました。始めたころこそ熱心に投稿していたものの、元々飽き性な性格のキョウコさん。今となってはログインもしなくなっていました。

 その日、早く帰宅することができたキョウコさんはネット通販のページを眺めていました。
 特に目的もなかったため、ただ時間が無意味に潰れるだけ。そんなとき、ブックマークに登録されているFacebookを見つけたのです。
 ああ、そう言えば……と、何となく、それこそ気まぐれでログインをしてしまい、数少ない投稿を見てしまったのです。
 過去の投稿には、元恋人と過ごした思い出――旅行に行ったときのこと、デートをしたときのこと、何気ない日常の1コマ。そんな写真や日記が残されていたのです。
 恋人と別れた日から、記憶が蘇るような思い出の品々は目に見えないようにダンボールに入れていました(そのわりにケータイのアドレスは残したままですが)。
 ですが、Facebookの友達登録は完全に盲点。まさに不意打ちだったのです。

 この時点で、そっとブラウザを閉じておけば良かったのです。心の中で歯を食いしばり、血をにじませながらも、まるで苦行のようにそれを読み続けたのです。
 そして何を思ったのでしょう。元恋人のページをクリックしてしまったのです。
 もはや暴挙、凶気、正気の沙汰とは思えない行為。当然その報いはキョウコさんに襲いかかります。

 表示されたものは、元恋人と、その新しい彼女さんの楽しそうな、幸せそうな日々の写真や日記の数々。
 新しい彼女さんはまだ大学生なのでしょう、キョウコさんよりもずっと年下でした。そして何と言ったらいいのでしょうか……世の多くの男性が好みそうな非常にグラマラスな体型、それでいて童顔という、男性ならまず放っておかないような女性だったのです。
 別にキョウコさんが劣等感を感じることもないのですが(需要はどこにでもありますし)、どうやら逆鱗に触れたようでマウスのそばに置いていたコーヒーカップをひっくり返してしまいました。

 読み進めるにつれ、キョウコさんは溶岩のような怒りが覚め、どんどんと悲しくなっていきました。
 元恋人は、新しい相手と仲良くしている。もはや自分にはとても遠い、遠い、人になっている。もしかしたら……と期待していた分、ドン底まで落とされたような気分をキョウコさんは味わいました。
 悔しい、悲しい。キョウコさんは静かに泣きました。

 最後にもう一度言っておきましょう。これはキョウコさんの自業自得です。

 バカな女。そう言ってしまえばそれまでです。キョウコさんも自覚ぐらいあります。
 ただ、気持ちを整理にするには、まだ少し早いだけなのです。

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「お疲れのようですね」

 バーテンダーに声をかけられ、キョウコさんはびくりと肩を震わせました。

 3度目ともなれば慣れたもので、『LittleBAR』に入って、座って、オーダーして、呑む。それらに何の違和感もなくなっていました。それだけに気持ちが緩んでいたのでしょう、メニューを見つめたまま意識が遠のいていたのです。

「あはは、ごめんなさい……最近、仕事が忙しくって」

 笑って誤魔化すものの、その顔はやっぱり優れません。キョウコさんもそのことは知っていましたが、どうすることもできませんでした。
 あのFacebookの出来事からもう3日は経とうとしていましたが、ずっとキョウコさんの身体に、心に重くのしかかっていました。

 1杯目に注文していたミントジュレップ。すでに氷が溶けてしまっていて、バーボンの琥珀色が薄い麦茶のよう。グラスも水滴でべちゃべちゃ、それを吸い込んだコースターがブヨブヨに膨らんでいました。
 ごくり。ミントの風味は微々たるもの。とても「おいしい」とは言えないものでした。

「何か、お作りしましょうか?」

 このとき、キョウコさんは少し自暴自棄だったのかもしれません。

「アルコールがちょっと強めのもの、ほしいです」

 酒の場でありがちな、道を踏み外すパターンでした。
 仮に同行者がいた場合、その同行者の性別や善悪の判断でキョウコさんの身に危害が及ぶ可能性がある――ちょっと大げさですが、そんな言葉。

「できれば甘い口当たりのもので」

 ……すぐに元の道に戻るあたり、キョウコさんはまだまだ理性的。

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 カウンターの向こうでバーテンダーが『アルコールがちょっと強めで甘い口当たりのもの』を作っている、キョウコさんはその様子をぼんやりと眺めていました。
 いつもなら興味津々に見つめているのですが、とてもそんな気分になれませんでした。

 ネガティブな気分のときほど、さらに悪く物事を考えてしまいがちです。キョウコさんも例に漏れずそんな悪循環に陥っていました。

 自分は何をやっているのだろう。こうして独りでグラスを傾けている間も、元恋人は幸せな時間を送っているのだろうか。自分のことを思い出したりしてくれないだろうか。
 考えたって意味のない自問、願望により、キョウコさん自身が苦しめられます。

「お客様」
「……は、はいっ」
「おまたせしました」

 またぼぉっとしていたキョウコさんは、差し出されていたそれにようやく気づきました(コースターも新しいものに変えられていました)。

 丸い、口径の広いグラスに大きな球体の氷。それを浸すように注がれている蜂蜜のような色のお酒。
 少し揺らしてみると、ゆらり、ゆらりと中のお酒が揺れました。不思議なことにとろみがあるように見えました。

 そっと香りを嗅いでみると、鼻に残るような甘ったるさの中に、ツンと強いアルコールの香り。

(ウィスキー? いや、前と同じで実はバーボンという可能性も否定できない……でも、まだ何かが混ざってるはず。なんだろう……メイプルシロップだったりして)

 色も似ているし、なんだか甘そうだし、いい線いってるかも――なんて考えるものの、どうせ正解は訊かない限りわからない。何より呑んでみないと始まらない。

 グラスに唇が触れ、そのまま、コクリ。

「うわっ」

 コクリ、コクリ。

「わぁっ」

 甘い。とても甘い。まるでトローチのように粘っこい甘み。そして次の瞬間にはツンツンと舌を刺すアルコールの辛さ。
 身体が求めた二口目。するとどうでしょう、一口目にあったアルコールの辛さはどこかに消え、口も慣れたのか程よい甘さに広がり、いつまでも残るようでした。
 そこからしばらくすると、とろぉんと酔いが身体を回ります。神経を、血管を巡るようにお酒が浸透するように。

 甘くて、そしてアルコールがちょっと強め。それに加えて、ミントではありませんがハーブの香り。
 キョウコさんの要望、それどころか好みを見事に満たしていました。

「お味はいかがでしょうか?」
「すっごくおいしいです、甘くって呑みやすくって。それにいい香り……」
「それは何よりです」
「これ、なんですか?」

 すでに半分なくなっていました。まるまるとした氷を残したまま、やや興奮気味にキョウコさんは訊ねます。

「こちらはラスティネイルと呼ばれる、スコッチウィスキーとドランブイのカクテルでございます」
「ドランブイ?(ああ、これはウィスキーなのかぁ)」
「ドランブイは、モルトウィスキーをベースに作られたリキュールです。蜂蜜やハーブ、スパイスなどを加え、香り豊かに、味もどっしりと重めの甘さで仕上げられています。
 つまりラスティネイルはウィスキーとウィスキーリキュールのカクテル。合わないはずがありません。」
「ほぇ~(ハーブってとこだけ覚えた)」
「ですが何と言っても、ドランブイの歴史はとても深いのです」


「簡単に説明させていただきます。
 その昔、スコットランドのある王家の者が、フランスと競合し王位継承権を巡って戦争を起こしました。
 ですがその翌年、たったの1年で敗けてしまい、スコットランドのスカイ島へ逃走することになりました。
 しかしながら捨てる神あれば拾う神あり、とでも言うのでしょう。その王家の者を助け、フランスへの亡命を手助けした者がいました。
 王家の者は、その褒美として門外不出の王家のお酒の作り方を伝授しました。
 それが、このドランブイなのです」


 あまり興味のないキョウコさんでしたが、熱心に話すバーテンダーがとても新鮮で、思わず聞き入っていました。
 ですが、所詮は興味のない話。そのほとんどが頭に入らず、酔ったことで静かに潜んでいたマイナス思考が顔を見せました。

「じゃあ、ドランブイって」


 ――負け犬の酒。


 声に出す寸前のところで、キョウコさんは口を閉じました。
 誰に対して失礼というわけではありません、感想なんてどう言おうと自由です。けれどキョウコさんは口を閉じたまま、何も言えませんでした。

「ほんの少し歴史が変われば、ドランブイは世に広まらなかったことでしょう」

 沈黙を避けるように、バーテンダーはそう言いました。

「私は、このラスティネイルを作るのが好きなのですよ」
「……そうなんですか?」
「ラスティネイルは非常にクラシカルなカクテルです。これに限らず、昔ながらのカクテルを作るのが好きなのです。
 それにラスティネイルはウィスキーとドランブイ、この2つだけで作れて、甘くて、辛味があって、香り高い。これほどシンプルで表情豊かなカクテルはそうありません」

 ドランブイの瓶を取り出し、キョウコさんの目の前に置きました。

「歴史に“もしも”はありませんが、もしも王位継承権を巡る戦いに勝利していたら、少なくともこのドランブイはここにないのかもしれません。
 ……こう言っていいものかわかりませんが、私は争いに敗けて良かったと思っています。敗けて、しかし得るものもあるのですから」
「敗けて、得るもの……」

『敗けて良かった』。矛盾しているようなその言葉が、キョウコさんの心をくすぐりました。
 手元の、半分しか残っていないラスティネイル。それを一気に傾けました。
 鼻のてっぺんにこつんと氷が当たってしまいますが、気にもしません。一滴残らず、呑み干しました。

「ン~~~~、甘い、でも辛い」
「お、お客様」
「でも」

 コトン。置いたグラスの氷が鳴りました。

「やっぱりおいしい。これが呑めて、良かったです」

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 帰宅後、キョウコさんはFacebookを退会しました。元々ログインすらしていない状態でしたし、それに少しでも元恋人のことを忘れるためでした。

 でも、まだメールアドレスを消すことはできていません。ですがそれでも1歩、前進できました。

       

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