「僕と一緒にいておくれよ。僕はもう自分でもおさえられないくらい、きみを求めているんだ」
 草むらから蜘蛛が、若木にとまる小鳥に言う。

 夏の近く、爽快な青空の下。古木が立ち並ぶ年老いた森。その中に小さく開けた草花の野。そよ風に乗せて、小鳥はこの穏やかな午後を讃えるように歌っていた。しかし蜘蛛の濁った声によって、さえずりの音楽は途絶える。
「初めまして、蜘蛛さん。求めているとは、どういう意味かしら」
 赤く生長した若い枝の上、淡いみどりの羽根を風が撫でる。小鳥は凛とした声を蜘蛛に送る。
「きみのきれいな歌をきいたら、僕の体はその音色でいっぱいになってしまった。ずっと僕のそばで、その歌をうたっていてほしい」
 まだら模様の細長い脚。丸くふくらんだ腹部。地面にしがみつく蜘蛛は、8つの単眼で小鳥を凝視している。
「私の歌を気に入ってもらえたのね。ありがとう――でも、私の歌は何も特別ではないの。私の仲間たちなら、誰でも歌えるのよ」
「それは違う。特別だよ。僕はうぐいす色の羽根をしたきみの仲間たちの歌もきいたけれど、きみの歌とはあまりにも違った。きみの歌だけが、僕の体を支配したんだ」
「歌にも色々あるのよ。エサ場を教える歌や、仲間を呼ぶ歌、愛の歌という風にね」
「愛の歌?」
「ええ。さっきまで私が歌っていたのが、愛の歌よ。普通は繁殖の時期にだけ、オスが歌うものなのだけど」
「愛とは、一体なんなんだい? 初めてきく言葉だ。体の内側が熱くなるような、きみへの感情も愛なのかい?」
「あなた、愛を知らないの? 親から教えてもらわなかった?」
「知らない。僕は産まれてすぐ、一度も脱皮をしないうちに親とはぐれてしまったんだ」
「あなたって、すごく強いのね。愛を知らずに生きてきたなんて、普通はできないものよ」
「分からない。僕は僕の親や仲間と出会ったことがないんだ。普通がどういうものか、分からない。でも、きみの歌声をきいて分かったことがある。僕にはきみが必要なんだ。僕のこれからのために」
「あなたはさっき、私を求める感情が愛なのかきいたわね。それは愛と似ているけれど、違うものよ。愛とは、いのちを限りなく永遠に近づけることを言うの。私とあなたの間に、子孫は残せないわ。だからそれは、愛と呼べないのよ。私なんかに愛を求めることは、およしなさい」
「永遠も、初めてきく言葉だ。それは一体なんなんだい? 僕やきみにとって、永遠に近づくのが重要なことなのかい?」
「そうね。私たちにとって、とても重要なことだと思うわ。私やあなたや他のみんなも、そのために生きているのよ。あなたもいずれ、その大切さに気付くときがくるわ。私たちはみんな、等しく親から生まれてきたのだから」
「分からない。もしも僕が死んでしまったら、僕にとって子孫だとか永遠だとかは重要ではないじゃないか。それよりも今、きみの歌をきいていることの方が、僕にとって大切なんだよ」
「死が終わりではないの。いのちは子孫を通して、ずっと続いてゆくのよ。私がそれを止めることはできないわ。だからあなたとは一緒にいられない」
「僕が醜いから? きみの仲間は、僕を醜く汚い生き物だって言うよ。だから僕と一緒にいてくれないのかい?」
「そうではないわ。醜いとか美しいだなんて、そんなもの本当は無いのよ。あなたは私の歌をきれいだと言ってくれたけれど、それも真実ではないの。いっときの思い過ごしなのよ」
「なぜきみは、かたくなに僕の誘いを断るんだ? 僕ときみとの間に子孫が残せないだなんて、どうして分かるんだい?」
「決まりがあるの。私たちの意志では、どうにもならない決まりが。私とあなたは、結ばれることができない決まりもあるのよ」
「そんなばかな決まり、いったい誰が決めたんだ?」
「私たち自身よ。遠い昔のことだから、よく思い出せないかもしれないけれど」
「そんなの嘘だよ。じゃあ僕はいったい、どうしてきみを見るとこんなに胸が張り裂けそうになるんだ? きみと一緒にいられなければ、僕はまるで地獄の炎にあぶられるような苦痛のうちに暮らすことになってしまうよ」
「落ち着いて。そんなものは存在しないわ。地獄なんてどこにもないの」
「じゃあどうして。僕は、僕は……」

「僕は、死が、こわい。こわくてこわくて仕方がない。――きみの歌だけが、そのこわさをやわらげてくれるんだよ。僕がきみを求めるのは、いけないことなのかな?」
「私の歌は、たぶんあなたが思っているほどあなたのためにはならないわ。気を強くもって。大丈夫よ。世界はこんなにも安定して、今日も私たちの上に陽をそそいでくれている。風も水も私たちを助けてくれている。この老いた森は生き物たちであふれていて、私もあなたも生きることに足りているわ。大丈夫」
「本当に、そう思っているの? 遠い砂漠の地では、大きな生き物たちの争いが何度も起きているって、旅の鳥たちが話しているのを聞いたよ。他にも、新しい疫病が流行りはじめたことや、西の大陸では風の流れが変わって、黒い嵐が巻き起こっていることも聞いた。きみだって知っているだろう? それでも、大丈夫だって信じられるの? この古い森だって、いつ寿命がきて死んでしまうかも分からないじゃないか」
「それらの話は、私もきいたわ。それでも私は、信じているの。それに死は、おそれるものじゃないわ」

「死は、私たちが獲得した能力のひとつなのよ。死ぬことができるから、私たちは変化していくの。生きるのに最適な変化をとげた者が、また新しいいのちをつなげられる。その繰り返しを行うちからが愛で、私たちは全体でひとつの生き物なのよ。私は遠い昔、羽根もない時代から沢山の変化を積み重ねてきた。だから私は自分の生に、執着していないの。死は、そんなにこわいものではないわ」
「分からない。僕は、きみみたいに考えられない。死ぬことは、やっぱりこわいよ。死んで二度ときみの歌をきけないなんて、絶対にいやだ。誰だって、死ぬことはいやなんじゃないのかな? だからみんな、生き延びるために必死になっているんじゃないのかな? そうだろう?」
「どうやら、あなたは死に魅入られてしまっているようね。少し、私の仕事の話をしましょう。私は、歌うたいをしているの――まだ駆け出しだけれどね。私は声を遠くの空まで響かせて、仲間の助けをしているわ。愛の歌は、傷ついたり、はぐれて弱ってしまった仲間たちに、元気を分けてあげられるのよ。だから、もしかしてあなたも、私の歌で……」
「待った。待ってくれ。どうか、その先は言わないでほしい。言ってしまったら、僕はもうきみと会えなくなってしまうだろう。お願いだから、その先は言わないでくれ」

 風向きが変わり、若草色の羽根を持つ小鳥はそろそろ次の仕事にとりかかるときとなった。
「この風なら明日も晴れて、暖かくなるでしょうね。私は明日もこのあたりでうたうわ。きっとあなたにも届くでしょう。余裕があれば、その歌をよく注意してきいていてね。あなたが愛の意味に気付くように、あなたのためにも歌うから」
 身を切るようなつむじ風が来ると、それに乗って小鳥は発った。澄んだ羽根色と、純白の尾羽。あとをひく軌跡。

 そして、蜘蛛は願った。
 その場で身をたたみ、越冬のための眠りにつくようにして、願いつづけた。青虫から蝶へ変態するように、蜘蛛ではない何かになるように。
 そのまま蜘蛛は微動だにせず、じっと息をひそめて、待ち続けた。

 長い長い願いだった。
 数えていた歌の回数を忘れるほどの時間がたち、やがて蜘蛛の体表から薄い絹のように繊細な糸状の物質が伸びてゆき、次第に蜘蛛の体がその糸に覆われていく。
 いつしか蜘蛛のうちで生と死が混ざり合うころ、薄糸の繭の中で、蜘蛛は自身の内でうごめき、変化してゆくものを感じた。
 苦痛と快楽。恐怖と安堵。狂喜と絶望。すべてがひとつに合わさり、新しいからだが形作られてゆく。



 そこで男は目を覚ました。
 なんてことのない、いつも通りの自室風景だった。奥行きのあるローテーブルに据え置かれたPCから、ファンの音が響いている。男はローテーブルに突っ伏したままの状態で眠っていたのだ。
「あぁ、あー、あぁ……」
 しゃがれ声でうめいたあと、男は伸びっぱなしの頭髪をガリガリとひっかいて四方にフケを飛ばした。
「体がクソいてぇ」
 骨がきしむような音をならしながら、男はゆっくりと伸びをする。緑の小鳥の素晴らしいさえずりを聴いた。しかしもう、その旋律を思い出すことができない。あの蜘蛛は、あれから一体どんな変化を遂げたのだろう。男は反芻するように記憶を漁ろうとしたが、喉の渇きや空腹が邪魔をして一向に何も思い出せない。

 しばらく夢とうつつの間を行き来していた男は、やがて土中で生活する虫のようにもぞもぞと活動を再開した。煙草に火をつけて、煙を大きく吸い込む。ニコチンが肺の内に広がる。口内にこびりつくタールを、炭酸の抜けたぬるいビールで胃に流し込む。怠慢な手つきでつきっぱなしのPCを操作し、フォルダに乱雑に詰め込まれた中からファイルを探す。ダブルクリック。何千回と繰り返し聴いた、お気に入りの音楽が再生される。

 埃をかぶった電子レンジで加熱されたレトルト食品を胃に詰め込んで落ち着いた男は、不安定な歩行で押入れからダンボールを引っ張り出した。ダンボールの中からビニール袋に入ったタッパーを取り出し、開ける。中から強い悪臭を放つガンジャの枝を拾い上げ、バッヅの欠片がこびりついた鼻毛切りで小さく分断してゆく。刻んだ植物をボングの網皿の上に詰め、ライターであぶる。煙はボングのビンにためられた水を通過してタールを減らし、吸い口を通って男の肺に充満する。
 ぶくぶくぶくぶく。ボング内の水が舞い、音をたてる。

 ――まるで裸のランチ。俺はさっきまで、一匹の虫だった。文学的カフカ・ハイってわけ。俺の自我は今日もまた薬物の力に拠って強制的に、快楽の泥濘へと落ちてゆくだろう。クソの価値も無いもんに拘るよりは、全裸の聖者となろう。孤独と乖離こそが俺の住処なのだ。
 たとえ苦痛からの逃避でしかないと、気付いていたとしても――

 フラジル・フロイト。まるで脆弱な精神構造をそのままに、今日も彼は涅槃を求め自己完結の物語を紡ぎ続ける。