◆星屑の音楽 (2007.11.9)

初出:
「泡沫断片集」(文藝新都登録作品 短篇集)
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=2694
※登録削除済み
※執筆時期不明(2004年頃?)
 一

 十一月の寒い早朝、その日も僕は家のそばの陸橋を通過する始発電車の音で目覚めた。布団の中と外とで信じられないほど温度が違い、暖かい布団から出るのは大変だった。眠たい眼をこすりつつカーテンを開けると、まだ日が昇る前で、窓の外は暗いねずみ色が広がっていた。やはり薄着では寒く、僕はパジャマを脱いで厚手の洋服に着替えた。布団の方に眼を向けると、母はまだぐっすりと眠っていた。
 これから起きる母には悪いと思いつつ、僕は洗面台近くの窓を開け、冷たく澄んだ外の空気を静かに吸い込んだ。僕は、早朝の空気が好きだ。空は大分明るくなってきていたけれど、建物や道路はまだ真っ暗で、街灯が僅かばかりの光を地面に投げ掛けていた。
 とうとう今日が来てしまった。もう明日になれば、僕は十一歳になってしまう。その意味を自分に言い聞かせるように、同じ言葉を何度も繰り返して胸に刻んだ。嫌な胸騒ぎがするような、不安な気分が込み上げて来たけれど、その事についてはそれ以上考えないよう努めた。これまでも沢山考えて来たし、いまさらほじくり返しても仕方が無いと思った。別に、今日だって昨日と同じように過ぎるだけなんだ。それだけなんだ。
 寒さに耐えられなくなり、僕は窓を閉めて台所へ向かった。味噌汁の入った鍋を確認して、ガスコンロに火を点ける。ガスの青い火が暖かく、僕は焚き火にあたっているような具合に両手を火の近くに寄せた。指先が動かしやすくなると、近くの戸棚から二人分の食器を取り出して並べる。時計を見ると、針は四時五十二分を指していた。
 味噌汁が温まったので火を止めると五時になったらしく、母の枕元で目覚まし時計がやかましく鳴り響いた。母は億劫そうな手つきでそれを止めると、布団に未練を残しつつも起き出して来た。
 お母さん、おはよう。僕は眠気を払うように、はっきりと声を出した。母は僕を見て、おはよう、いつも早いね、と寝ぼけた小さな声で返した。母は朝に弱い。味噌汁を温めておいた事と茶碗を用意してある事を伝えると、母は唇をゆるませた。ありがとう、お利巧さんだね。そう言って、僕の頭をなでる。それくらいなんてことないよ、子供じゃないんだもん。僕は恥ずかしく思い、母のそばから離れた。小さな子供みたいな扱い方をされるのは、何か悪い事のように感じた。ご飯よそっておくから、着替えててよ。
 母は僕に言われた通り、のろのろとした動きで着替えに行った。僕と母が暮らしているこの家は狭く、洋服の入っている箪笥と台所の位置もかなり近い。寒い寒いと言いつつパジャマを脱いでいる母の姿に、相変わらず微笑ましくさせるものを感じた。
 お味噌汁飲んだらあったまるよ。僕よりも寒がりな母に声をかけ、少しはいい事が言えたかなと思った。

 いつもと同じで、静かな朝食の風景だった。ご飯と味噌汁からは湯気が立ち昇り、気温の低さが引き立てられるように感じた。母はただ黙って、目の前の食べ物を口に運ぶ事に集中しているようだった。あるいは、まだまどろみの中にいるのかもしれない。母が僕の視線に気付き僕と視線を交すと、僕は目を茶碗に戻し、そこに箸を伸ばした。母は何も言わず、僕も何も言わなかった。ご飯は、何も味がしなかった。僕は匂いに鈍感らしく、微妙な味の違いが分からない人間だった。ただ噛む事を繰り返し、僕の小さな食道に送り込める程の大きさにすると飲み込む。箸を使って食べ物を口に運び、さっきと同じように噛んで飲み込む。僕はそれを繰り返す。たくあんを頬張る軽快な音が部屋に響いていた。
 朝食を済ませて、母の代わりに食器を洗う。食事の最中に見た母の手は、水仕事のためか荒れて赤くひび割れてしまっていた。僕には手荒れの経験が無かったけれど、それは見ただけでいかにも痛そうだった。
 保湿クリームとか塗った方がいいんじゃないの、と僕が洗い物をやりながら言うと、どっちにしても仕事で毎日やってるから同じなんだ、と母は応えた。その言葉に僕はドキリとした。もしかして、母はクリームを買うお金すら我慢しているのだろうか。
 気が付けば、もう五時半になろうという時刻だった。そろそろ出かけなければ、母はパートに遅れてしまう。後でお布団をしまって、燃えるゴミを出しておくから、お母さんはゆっくりお化粧しててよ。僕の言葉に、母は化粧品を三つほど並べて鏡に向かいながら、ゴミは行くついでに出せるから出しておくけれど、他の事はお願いね、と返した。僕は食器を布巾で拭きつつ相槌を打った。
 たったの五分足らずで化粧を済ませた母は、ゴミを持って家を出るときに、いつもごめんね、本当は私がやらなくちゃいけないんだけど、と言った。気にしないでよ、お母さんは毎日朝から晩まで働いてるじゃん、僕に出来る事は僕がやるからいいんだよ。そう言いながら、僕はなぜそんな事で母に礼を言われるのかと不思議に思った。母はまだ何か言いたそうな顔だったけれど、ありがとうね、とだけ残し、玄関から出て行った。

 太陽がようやく顔を見せ、雲を赤く染めた。日差しは暖かく、夜の寒さや湿りを取り払っていくように感じた。布団を畳んで、窓から外を眺める。朝が来て、街に住む人たちもまどろみから抜け出して少しずつ活動しはじめる。カラスがゴミ捨て場に集まり、単調な鳴き声をそこかしこに送る。通りを走る車の音が、段々とせわしなくなってくる。窓の外に見える景色はいつもと同じで、灰色のコンクリートに埋め尽くされていた。
 学校に行くまで、まだいくらか時間があった。僕は居間から部屋へ行き、勉強机の引き出しを開けた。ハサミやノリやコンパスなどをかきわけて、奥から小箱を取り出す。一昨年の誕生日に母に買ってもらった、僕の宝物のオルゴールだ。それは表面にちょっとした模様が入っているだけの簡素な作りをした木製の箱で、僕はその質素な印象がとても気に入っていた。底に取り付けられているネジを回すと、ゼンマイ仕掛けのオルゴールはゆっくりと音楽を奏で始める。どこかで聞いた事があるような旋律。有名な曲なのかもしれないけれど、ネジの横に書いてある曲名は英語でつづられ、僕には読めなかった。椅子に腰掛けて小箱の生演奏を聞いていると、昔に見たプラネタリウムが思い出された。真っ暗闇の空に点々と輝く星々。それは美しく、とても壮大で不思議な世界を作っていた。オルゴールのフタを開けると、中に金色の機械が動いているのが見えた。小さな突起がいくつも付いた円筒状のシリンダーが回り、櫛の歯みたいな振動板を弾き、鉄琴に似た高い音色を鳴らす。そうして紡がれる音の流れは、ささやかに、穏やかに、慎ましく煌めく星を散りばめた静かな夜そのものだった。僕はこの音色が好きで、それを歌う小さな箱が好きだった。この街からは星が見えず、僕は自分の目で星空を見た事がないので、余計にそう思うのかもしれない。
 宝石箱を模して作られた小箱。中に宝石が入っていなくても、それは僕の宝物だった。

 窓の外ではすでに太陽が力強く陽光を放ち、青々とした空が広がっていた。時計を見ると七時を回っていた。僕はオルゴールを引き出しにしまい、上着を着てカバンを持ち、ガスの元栓を締め、鍵を持って玄関に向かった。玄関は居間よりも寒かった。外ではもっと冷たい風が吹いているのだと思った。
 家を出て、ドアに鍵を掛ける。同じ形のドアが並ぶマンションの廊下で、前方から金髪の若い男性が歩いてくる。彼はしかめっ面のまま僕に目をやる。僕は背の高い彼の注意を引かないよう、外の方に眼を向けながら彼とすれ違った。

 二

 いつも通りの通学路を辿る。巨大なマンションたちに囲まれた隙間のような道を、車に注意しつつ歩く。通り道の脇にはこぢんまりとした交番があり、種類の違ういくつかのコンビニエンスストアがあり、つぶれたスーパーマーケットの名残りがあり、車で一杯の月極駐車場があり、広い駐車場を備えたパチンコチェーン店があり、生命保険や不動産や携帯電話の店舗があった。
 校門近くまで行くと、門の前に教師が立ち生徒たちと挨拶を交しているのが見えた。先生おはようございます。はいおはよう。児童が元気良く声を出し、先生がにこやかに応える。僕は声をかけられないように、なるべく先生と離れた位置から校門をくぐった。
 下駄箱で上履きに履き替え、四階にある五年二組の教室へ入ると、すでに何人かの生徒が来ていた。彼らは入ってきた僕の方を少し見て、何事もなかったように雑談を再開させた。自分の机に座ってカバンから筆記用具と教科書を取り出し、机にしまう。僕が座ったまま外の天気を眺めていると、やがて次々にクラスの生徒たちがやってきては声をあげ、昨日の事だとかの話を始めた。
 僕は誰にも声をかけず、また誰からも声をかけられなかった。僕はこのクラスに、この学校に友達がいない。僕の家にはテレビがなく、ましてやゲームもなく、クラスの人たちと何を話せばいいのか分からない。一学年前はいじめられっ子と仲良くしていたけれど、彼はもう引っ越してしまっていない。その友達の家で見たテレビやゲームの面白さといったら、今でも忘れる事が出来ない。どうしてクラスの人たちがその事ばかりを話題にするのか、充分に納得できるほどだった。
 チャイムが鳴ると担任の先生が来てホームルームをやり、今日も一本調子で退屈な授業を始めた。若い男の先生は教科書を読み、生徒に問題をあてて答えを引き出そうとするが、生徒はてんで自由気ままな返答をする。解答が出るか、それに近いものが出るまで、先生は順に生徒を立たせて答えを要求し続ける。国語でも社会でも理科でも算数でもそれと同じ調子なので、同級生たちはおしゃべりをしたりノートに落書きをしたりする。僕も自分の番が迫ってくるまでは窓の外を眺めたり、掲示板や壁の模様や教科書の別のページを見たりして過ごした。しかし、発言する順番は決まっているし、解答も探せば教科書に載っているので、どうしてクラスの人たちが間違い続けるのか分からなかった。正解すれば授業は次に進み、退屈する事もなくなると思うのに。けれど、僕も苦手な算数はよく間違うので、そんなものなのだと思うようにしていた。いつも決まった面子ばかりが正解し、それ以外の人たちはまるで正解そのものに何の興味もないような様子だった。授業は退屈そのものだった。
 休み時間が来ると女子生徒が数人で先生に駆け寄り、おしゃべりを始める。その女子生徒たちが喋っている最中にくるくると表情を変えるのを見て、僕はいつもその様子を不気味に思う。そもそも、先生と共通の話題があるのかどうかが不思議だった。例えば天気の話なら、誰とでも話せるだろうけれど、その話題で盛り上がる事もないと思う。しかし、その女子生徒たちはとても楽しそうに喋り、絶えずそちらから笑い声が響いてきた。

 二時間目と三時間目の間にある中休み、僕は昼休みに読むための本を探そうと図書室に行った。いくつか気になる題名の本を手に取ってみるが、どうにも内容が頭に入らず、本を借りるのは諦める事にした。教室と図書室を往復する途中で数え切れないほどの生徒とすれ違ったけれど、その中に僕の友達は一人もいなかった。僕にとって当たり前の事が校舎内では珍しい事で、僕はこの建物の中が居づらくて仕方がなかった。多くの生徒でにぎわうこの場所は、母と二人で暮らす家の中とは何もかも勝手が違う。僕はそこに定められている規則を破り、非難される事をおそれた。僕は普通の生徒ではなく、標準に遠く及ばない人間だ。せめて規則くらいは守らなくてはいけないと思う。
 体育の授業は校庭でサッカーをやり、前日までやってきたドリブルやパスやシュートの練習を踏まえたクラス対抗の試合だった。四、五人の男子が話し合ってポジションを決め、球技が大の苦手である僕はキーパーを任された。僕は目の前にいるディフェンスの人と同じように、遠くでボールを奪い合う人たちの様子をただ眺めていた。こちらの陣地に攻め込まれ、ゴールを決められる度に十番を着るサッカー少年団の人に謝り、ドンマイドンマイ、と励まされた。サッカー少年団の人は寒い風が吹いているのにジャージを脱ぎ、Tシャツ一枚でボールを追って走り回っていた。

 いただきます、という合唱の合図で始まる給食の時間、デザートとして出されたプリンを、くれよと男の子に懇願された。僕がそれを彼にあげると、彼はとても喜んだ。僕はプリンが嫌いではなかったけれど、それをそんなに美味しいとは思わなかった。プリンも、そんな僕に食べらるより彼に食べられる方がずっとましだろうと思う。彼は何度もお代わりをして、実に沢山の量を食べていた。僕は食べるのが遅く、いつもごちそう様でしたという合図で終わる直前まで食べ物を噛んでいる。給食に出る肉は硬く、何度も噛まないと飲み込めなかった。
 昼休み、僕は何もする事がなく、考えもなしにただ校庭の端を歩いていた。冬が近いので花壇の花はみんな散り、少し前までひっきりなしに飛び交っていたトンボたちも、今はもういない。たんぽぽは綿毛を蒔き尽くして裸になり、空には輪郭のぼやけた灰色の雲が漂い、全てが寒い風に吹かれていた。僕はどうしてこんな寒い所に座っているのか、自分でも分からなかった。けれど、教室で所在なく座っているよりはいくらか気楽でいいと思った。冬の気配が近付く空気も嫌いではなかった。
 僕はぼんやりと校庭を眺めながら、ここはとても寒い世界だと思った。昔、ブラウン管の中で明るい光に満ち溢れた華やかな世界を見た。唖然とするほど僕の生活との落差があり、眩暈がするようにも思えた。けれど、その世界にとても惹きつけられた。暖かい笑顔でいっぱいの世界、沢山の人たちが優しさを持ち寄って支えあう社会。僕はその仲間入りが出来ないのか、または実際の世界がそうじゃないギスギスしたものなのか分からないけれど、とにかく僕のいる環境との隔たりは果てしなく深く遠いものに思えた。
 僕は何もかも僕と違う同級生が理解できず、彼らが恐ろしく思えて仕方がない。上手に喋れない僕と違って滑らかに喋る人や声の大きい人。数人で固まって楽しそうにひそひそ話をする女子。僕の知らない芸能人の物真似をして周りを笑わせる男子。先生に怒られても、階段の手すりを使って滑り降りるのをやめない男の子。僕はどうして彼らが何も恐れていないのか分からなかった。でも事実として、彼らは僕より運動神経も視力も良く、ドリブルが上手だった。僕はどうしたらそのように物事をうまくこなせるのか、彼らに聞いてみたかった。少しでもコツを教えて貰えたらいいな、と思った。でも僕は、その代わりに何かを教えてあげたり、笑わせたり、すごい事をやってみせたりは出来ない。そんなつまらない奴と友達になりたがるような人だって、ほとんど誰もいなかった。けれど、僕が集団行事などで足を引っ張ってもクラスの人たちに文句を言われたり責められたりする事はなかった。だから僕もクラスの人たちが嫌いではなかったし、なるべく邪魔にならないようにしていればいいと思っていた。

 三

 学校が終わると真っ直ぐに下校し、図書館から借りている二冊の本を持って家を出た。図書館に行く途中で、母に買ってもらったけれど盗まれてしまった自転車を探しながら歩く。少し遠回りをして、駅前の自転車置き場を見てみた。そこには余りにも沢山の自転車が所狭しと並んでおり、気が遠くなるように思えた。念入りにひとつひとつ確認して回ったが、そこに僕の自転車を見つける事は出来なかった。駅前の商店街やデパートの方も見てみたが、どこにも僕の自転車は無かった。僕は仕方なく自転車を諦め、図書館へ向かった。
 市立図書館は立派な建物で、中は暖かい匂いがして、誰もが静かに振る舞い、僕はその雰囲気がとても好きだった。返却口で本を返すと、他の本を見て回りたくなるのをこらえ、すぐにそこから出た。ついでと思って図書館の駐輪場もざっと見てみたが、やはりそこにも僕の自転車は無かった。
 図書館の付近には多くの樹が植えられている。僕はその並木通りを歩きながら、どうして自転車に鍵を掛けておかなかったのかと後悔した。小学三年生の時に買ってもらったその自転車は防犯登録もしてあるので、警察に言えば探してもらえるのも知っている。けれど、警察に探してもらうには、まず母に自転車が盗まれてしまった事を告げなければいけないだろう。僕はせっかく買ってもらったのに失くしてしまった事を母に伝えるのがとても嫌だった。怒られるのが怖いわけじゃなく、一日中働いている母に手間をかけさせるのがたまらなく嫌だと思った。
 僕の家には父親がいない。離婚したのか、それとも死別したのか、僕はどうして父親がいないのか知らない。その事について母に聞いてみようとも思わない。どうしてなのか僕にも分からないけれど、それを聞いてしまったら取り返しのつかない事になるような、漠然とした不安が胸のうちにもやもやとして、何か恐ろしく思えた。込み入った事情のある話は苦手だった。しかし、母が大きな額の借金を抱えているのは知っていた。父親が残したものなのか、それもやはり詳しく聞いておらず僕には分からない。きっと僕は子供である事を盾にして、母のそういった事を知らないままでいようとしているんだろう。その方が僕にとって気楽だから。けれど、そんなんじゃいけない、というのも気付いている。だからって、僕に何が出来るだろう。せいぜい、母にこれ以上困った事を引き受けさせないようにするだけしかないじゃないか。だから、自転車の事も母には言えないんだろう。そうさ、言うべきじゃないんだ。

 ふと見上げた空はすでに鮮やかな色の夕焼けに染められていた。カラスたちが神社のある森の方へ帰って行く。斜陽を背に、街並のシルエットが夕暮れのグラデーションを切り取るように屹立している。そこにある高層ビルたちは、例え台風の強い風にあおられようとも、地震に揺さぶられようとも、決して崩れないのだという。それは僕の想像の及ばない、知恵の結晶だった。それは完成された存在だった。それは僕を侮蔑するように見下ろしていた。僕はそのコンクリートの塊の威容に、ただ頭を垂れる他なかった。そして、自分がいかにちっぽけな存在かを思い知らされた。例えその巨大な建築物を押してもそれは微動だにしないだろうし、蹴飛ばしたとしてもそれは傷一つ負わないだろう。僕は全くの無力だった。
 道端にある街路樹の銀杏が、アスファルトで四角く区切られた地面に根を張って立っていた。その樹も当然誰かの所有物で、戯れに枝を折ったりしてはいけないんだ。僕は葉を全て散らしたその木に触れる事もせず、横目で眺めつつ家路を辿った。傾いた日差しはビルの群ればかりを照らし、道路には大きな影が広がっていた。日の当たらない歩道で、僕は日暮れを告げるような犬の遠吠えのこだまを聞いた。太陽が沈む。沈んでしまったら、もう二度と僕の上に昇らない。

 暗くならない内に家に帰ると、まず手を洗って、カバンの中から宿題を取り出した。しかしよく考えてみると別にやらなくてもいいので、放っておく事にした。けれど他にする事もなく、母に宿題の事を聞かれるとまずいので、机に教科書とプリントを広げ、宿題を済ませる事にする。漢字の練習を一ページ分済ませると国語の教科書に載っている文章が気になり、つい読んでしまう。それを読み終えると、明日の時間割に合わせた教科書をカバンに詰めておいた。暇だから掃除機でもかけようかな、と思ったが、掃除は昨日もしたばかりだった。時計を見ると、まだ六時だった。なんて夜は長いんだろう。母が帰って来るまで、あと二時間もある。

 月のない夜だった。窓から顔を出して見た空はまるで色がなく、それは今にも向かいのマンションに押し潰されてしまいそうにさえ思えた。僕は前に家を訪ねてきた人にもらった聖書を取り出して、少し読んだ。内容はほとんどがちんぷんかんぷんだったけれど、キリスト教には興味があった。人類は神によって創造され、最初の人間であるアダムとイブは禁断の実を食べたために楽園から追放され、その罪を抱えて悲惨と苦痛の渦巻く地上世界で生きなければならなくなったのだという。それはまるで気の利いた頓智か何かのように思えた。西暦がキリストの生まれた年から数えているように、その教えは今日の人間にも深い影響を与えている。人々の心の支えになっている。僕もそういった人々と同じように、そこから何かしらの真実を見つけたかった。けれど、今日も聖書は退屈な文字列にしか見えなかった。僕にはその素晴らしさが分からないのかもしれない。産まれた時から目が見えない人の気持ちだとか、この世には分かりようのないものがあり、それと似たようなもので、僕はキリスト教を理解できないのだろうか。または、僕が救いようのない人間だからかもしれない。

 その日、母は八時を回っても帰ってこなかった。いつも帰ってくる時間に、帰ってこない。一年くらい前にもそういう事があった。母が仕事先で倒れ、病院に運ばれた時だった。母は僕と同じで、体の丈夫な人ではない。それでも毎日、お金のために長い時間を働き続けている。僕にはとても真似できない事だった。それに加え、くたびれているだろうに、料理なども手を抜かずにきちんと作ってくれている。今日だって、昼休みの間に夕食の材料を買い、家に帰って下ごしらえを済ませておいたものが冷蔵庫の中に入っていた。そんな母を見て、大人になったら恩返しをしようと心の底から思う。けれど、一年前に突然倒れてしまったように、母の負担は大きすぎる。お医者さんは、そのまま働き続けるのは体に悪いからやめなさいと言った。直接言うのを避けていたようだけれど、つまり、死んでしまってもおかしくないという事だろう。昔、クラスの人の父親が突然死んでしまった事について先生が話をしていた。無理をして仕事をやりすぎると、そうなってしまう事があるのだという。遠くない将来、同じように母は死んでしまうかもしれない。いくらなんでも悪い方に考え過ぎなのかもしれないけれど、母の命に限りのある事は明らかだ。それに、仕事中に突然倒れて病院に運ばれたのも事実だ。近いうちに死なない保証なんて、どこにも無いんだ。 起きぬけの疲れた顔に、赤く血がにじむ手指に、母の苦労を見た。僕は早く大人になりたかった。けれど僕はまだ子供で、まともな仕事をやれるようになるまでにまだまだ年月が必要だった。いつかは分からないが、その間に母は亡くなってしまうだろう。両手で器を作ったとしても、それは次々と指の隙間から滑り落ちて行ってしまう。つかみ取る事も出来ず、すくい上げる事も叶わず、僕はただ落ちて消え去ってゆく様子を眺めるだけしか出来ないんだ。
 少し前、母子家庭なら小学生でも新聞配達が出来るらしい事を知り、近所の新聞屋さんをまわってみた事があった。けれど、どこも人手が余っているほどで、僕のような子供のやれる仕事はほとんどないという事だった。不況の影響で年配の人までが次々にやってくるという話も聞いた。今や誰にでも出来る仕事は奪い合われ、特別な能力のない僕などは、雇う立場の人から見れば何の価値もないのだろう。確かに僕は無価値な人間だった。自分の事ながら、僕は僕が大嫌いだった。
 蛍光灯がチカチカとまたたいた。もう寿命が来て、使えなくなってしまう合図だった。照明を見上げた時、僕はとても大切な事を忘れていたのに気付いた。母が帰ってくる前に遺書を書こうと思っていたんだった。どうして僕は、大事な用すら忘れてしまうのかと腹が立った。ぼんやりしていると母が帰ってきてしまう。僕は勉強机に座り、用意してあった便箋に、あらかじめ考えておいた文句を出来るだけ丁寧に、しかし手早く書き綴った。
 僕は最初、遺書なんて書きたくはなかった。母への気持ちを文字にしてしまったら、それは僕の決意をにぶらせる足かせになると思った。未練も後悔も残さず、自分勝手に死んでしまいたかった。けれど、後になって考えを改めた。僕が何の理由も告げずに突然死んでしまったら、母は自分や誰かのせいでそうなったと思うかもしれない。だから僕が死ぬのは僕自身のせいだ、という内容を書こうと決めた。自分が抱き続けてきた感情を詳しく書こうとすればするほど自分が恥ずかしくみじめに感じられ、結局、最低限の言葉だけを並べる事にした。
 どうか僕を許して下さい。僕が死ぬのは他の誰のせいでもなく、僕自身が切実にそう願ったためです。悪い人間は僕一人だけしかおらず、また僕はその悪人がどうしても許せませんでした。どうぞ僕の事は気にせず、すぐにでも忘れてしまって下さい。どうか、僕のわがままを許して下さい。
 遺書を書き終わると、引き出しに入っているオルゴールと一緒にしまっておいた。書いている途中、字数の少なさに自分でも驚いた。けれど書き残したい事なんて、それ以上ありもしなかった。

 四

 母は帰宅すると、まっすぐ台所へと向かった。遅くなってごめんね。お腹すいたでしょ、すぐに作るから、ちょっと待っててね。いそいそと台所へ向かう母を見て僕は、ご飯、いらないよ、と反射的に言っていた。母はきょとんとして僕を見た。友達の家で食べて来たのかと尋ねられる。そうじゃないけど、と言って僕は続く言葉を探した。風邪か何かでお腹が痛いのかと問いつつ、母は自分のおでこを僕のおでこに当てた。風邪じゃないけれど、お腹はすいてないんだと言うと、母は驚いたように、でも、お昼の給食から何も食べてないんでしょ、と確認する。僕は曖昧な返事をした。困った事になったと思った。母を困惑させてしまった。僕は何かもっともらしい言い訳を考える。僕はどうして、ご飯を食べたいと思わないんだろうか。どうせ食べても食べなくても一緒だから。今日の夜に僕は死んでしまうから。そんな事、口が裂けたって母には言えない。母は心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。疲れてるんでしょ、無理してご飯作ること、ないよ。僕は目を伏せつつ言った。母は少し間を置いて、言い聞かせるようにゆっくりと喋る。でも、私もご飯食べるから、結局ご飯を作らないといけないじゃない、それでも食べたくないの。いや、そうだね、うん。それだったら僕も食べるよ。僕はそれ以上反論出来ず、母の言葉に従うようにした。変な事を言うものだと思われただろう。僕もどうしてあんな事を言ってしまったのかと後悔した。
 お茶碗によそうご飯の量を少しだけにしようかと、母がきいた。でも、いつもちょっとしか食べないじゃない。そんなだと、その内病気になっちゃうよ。心配そうに言う母にどう返答すればいいのか分からなくなり、僕は笑って相槌を打ち、誤魔化そうとした。母は僕の困った様子を見て取ったのか、それ以上は何もきかず、夕食の用意を進めた。
 正座をして、小さな食卓越しに母と向かい合い、遅い夕食をとる。これは最後の晩餐だ、と思った。神は死んだのだと誰かが言っていた。ここは人間の牛耳る大地だ。手垢にまみれた都市の世界だ。どこに行ったって、規則からは逃げられやしないんだ。富豪の配下につかまり、神様は人間たちに殺された。弱い人を救う偉い人が、お金の為に、悪人の為に、殺された。最後の晩餐、キリストはパンを肉に、ワインを血になぞらえて、自分の身体を切りさばいて振舞ったのだという。僕は僕の将来に何の希望も見い出せないが、母は僕と違って良く出来た人間だ。そんな人が僕なんていう下らない人間の為に身を削るのを見ているのは耐えられない。出来るのなら、僕も自分の身体を切り割いて母に捧げたかった。母こそ生き永らえるべき人間じゃないか。ちんけな子供を守り、自らを犠牲にするべきじゃないはずだ。
 だから僕は十一歳の誕生日が来るまでに、自らの命を絶とうと決めた。けれど僕は命を惜しんだ。覚悟を決められず、ずるずると今日まで生き続けてしまった。もう明日になれば十一歳になってしまう。誕生日が来れば、母は自分の血をお金に代えてプレゼントを用意するだろう。それじゃあいけないんだ。貴重な母の血をすすって生きる事なんて、もう沢山だ。
 煮物の椎茸を頬張りながら、痩せた母を見た。このままではいけないんだ。何かを決定的に変えなければ、状況を打破できやしないんだ。

 食事を終えて、風呂を沸かしつつ朝と同じように食器を洗う。夕食をとってから風呂に入るというのが僕の習慣になっていた。使命感のような感情が、体の内に渦巻いていた。
 風呂に入っている時も、似たような事を考え続けた。母を救いたいと思うなら、僕は命を掛けて犠牲にならなければいけない。母に与えられた血を、自分の中から返さなければいけない。
 僕があがると母も風呂に入り、あがった後に母はパジャマ姿で髪をとかし始めた。櫛の流れにそってまとめられる髪の毛の様子を見ているのは、いつも面白かった。母の髪は長い方ではなかったけれど、僕は濡れて黒く光る母の髪を綺麗だと思った。僕にもやらせてよ、と言いたくなるけれど、母の髪を櫛ですくのは男のする事じゃないように思えてぐっとこらえ、ただ母のその仕草を眺めていた。
 いつもならもう布団に入る時間の頃、母は膝をついて僕の両肩に手を置き、僕の眼をすくい取るように覗き、いつもありがとうね、お母さんとっても感謝してるよ、と言った。母の手が優しく、僕の頬や耳に触れる。僕は照れてくすぐったく思い、どう応答すればいいのか迷った。母の指先が僕の首に触れると、不意に、母に首を絞めて貰いたいと思った。どうせ死ぬのなら、僕の好きな母に殺されたい。顔を上げ、母の目を見ると、僕はひどく捻じ曲がった事を考えたのだと感じた。にがい味が胸の中に広がるのを覚えた。僕は無性に、目の前にいる母に抱きしめて貰いたい衝動にかられた。それは感情の根元から来るような、反射的な行動のようだった。気が付くと、僕は母に向かって手を伸ばしていた。しかし、一体母の何を触るのだろう。そう思うと、僕は母に触れられなかった。差し出した手を引っ込めようとすると、母は僕の手を両手で包み込み、僕の頬に軽い口付けをした。まだしっとりと濡れている母の髪から、まるで花のような芳香が鼻の内に滑り込んでくる。その匂いに、僕に触れる母の感触に、心の中がぐちゃぐちゃにされてしまいそうになった。僕はどうしてもそのままではいられず、もう寝るね、と言って母から離れ、押入れから二人分の布団を出して畳の上に敷いた。振り返って見た母の顔は、僕に向けて穏やかな笑みを浮かべていた。僕は胸が締め付けられるような圧力を感じた。母を見ると、湧き上がってくる大きな感情に押し潰されてしまいそうになる。
 母に救われてはいけないんだ。
 突然、窓の外の暗闇から声が届いたように思えた。けれど、それはまぎれもなく僕自身の声だった。
 忘れるな、僕が母に受けた恩に報いる事が出来ない以上、母に救われてはいけないんだ。
 僕はその言葉に対して何も言い返せなかった。それは全くもって正しい意見だった。だから僕はなるべく母の姿を見ないようにして、布団の中に潜り込んだ。僕にはこれ以上の喜びや楽しみを得る権利なんて無いんだ。背筋に震えが走ったけれど、僕は力を込めてそれを押さえつけた。そして、半年もの時間を掛けて練り上げた計画の通りに狸寝入りを決め込む。本当は何もかも忘れて眠りに落ちてしまいたかった。でも、もうこれ以上先延ばしには出来ないんだ。もう、明日なんて存在しないんだ。自分自身を鎖で縛り付けるように、弱気な意思を鈍器のような力でねじ伏せ続ける。それは想像以上の努力が必要な作業だった。さらに気が遠くなるほどの時間、それを継続しなければいけなかった。
 睡眠は僕を誘惑する悪魔だ。決して楽な方に流されてはいけないんだ。僕は体を強張らせ続け、目を閉じても寝てしまわないよう努めた。自然と、母の立てる物音に注意が向けられる。家のどの場所にいるかは把握出来るのだけれど、どんな姿勢でどんな行為をしているのかまでは分からなかった。その内、母が電気を消して布団の中に入る音を聞いた。おやすみなさい。母ははっきりと、僕に向かってそう言った。僕は仰向けの状態から寝返りを打って、母と反対の方を向いた。そうでもしなければ、母の言葉に反応してしまいそうだった。

 それから先は、ただ真っ暗な世界があるだけだった。瞳を開けてみても、それは変わらなかった。道路を走る車の音が近く遠く、絶えず響いていた。掛け時計の鳴らす定期的な音が耳について離れなくなった。しばらくして秒針の小さな音が気にならなくなると、自分の心臓の鼓動が妙に大きく感じられた。そのリズムは、いつもより少し早いと思った。心臓から送り出された血液が全身を駆け巡る様子を思い浮かべた。僕は、生きている。そんな当たり前の事が、強い意味を持って感じられた。
 それからどれだけの時間が流れただろうか。十分だけだったのか、二時間もあったのか、僕には分からなかった。もうそろそろ、動いてもいいだろう。もし母が起きていて、どうしたのか聞かれたら、トイレに行くと言おう。思考を先回りさせ、もっともらしい言い訳を用意する。数え続けていた脈拍が千回に達して、僕はなるべく音を立てないように注意しつつ布団から抜け出した。

 五

 隣の布団で寝ている母の様子を、そっと覗いてみる。母はほとんど寝息をたてず、まるで死人のように昏々と眠っていた。僕は背中に冷たいものが伝うような感覚を覚え、思わず唾を飲んだ。真っ暗闇の中で静かに眠る母は、まるで幻か何かのように思えた。僕はそこに、本当に母が存在しているのかどうか手を伸ばして確認してみようかとすら思った。けれど、これは夢でも何でもない。母は熟睡しているだけだ。それだけ確認すれば充分なはずだと思い直し、母に気付かれないよう、そろそろと居間を抜けた。
 勉強机の引き出しからオルゴールと遺書を取り出し、居間の食卓の上に遺書を置く。台所の戸から包丁を抜き取り、風呂場へ向かう。その間ずっと、何かが心に引っ掛かっているような感覚があった。いや、何もないはずだろう。僕はただ、未だに覚悟が出来ていないだけなんだ。
 後ろめたいような、心もとないような、漠然とした不安を抱えたまま、包丁とオルゴールを持ってぬるくなった湯船に身を浸した。深い眠りに入っている母の耳にまでは届かないだろうと思い、オルゴールのネジを巻く。小さな箱は優しい儚いメロディを奏で始める。
 僕がいなくなれば、母はもっと楽に、自由に生きてゆけるだろう。僕がいなくなれば、クラスの人たちだって余計な気を遣う必要もなくなるだろう。僕は何かの間違いで産まれてしまって、母は仕方なくその責任を取り続けているんだ。僕がいなくなっても、この世界は何も困らず、変わらずに回り続けるだろう。むしろ、僕がいなくなればその分貴重な資源が節約されるだろう。なんという事だろう。僕が生きているのに何の利益もないけれど、僕が死にさえすれば必ず誰かが得をするんだ。
 でも、そんなのはただの言い訳だって事を、分かっている。もっと生きていたい。無性にそう思い、涙がとめどなく溢れて来る。死にたくない。言葉にしたくない気持ちが次々と胸の内から湧いて絶えない。死にたくない。死にたいわけがないじゃないか。
 分かってる。前から全部分かってるはずだろう。頬を伝う悲しみだって、所詮は動物的なものに過ぎないんだ。僕は歯を噛み締め、ひたすらそれを拒んだ。生き永らえたところで、どうなる訳でもないんだ。自分に嘘をつき続ける事なんて出来ないんだ。僕は人付き合いすら出来なく、かといって何か長所があるわけでもない最低の人間なんだ。手を差し伸べてくれる母にすがりついて、その助けを借りたって、他の人には到底かなわないクズなんだ。自分の未来を思い浮かべたって、つらい気分になるだけだ。僕は僕自身を一番理解出来ている。僕が本当にどうしようもない奴だって事を知っている。そんな奴が、ただ一人だけ好きな母親を失くしてしまったらどうなるか。僕はそうなりたくない。偽りのない僕の願いは、僕がこれ以上情けない存在に成り下がらないようにする事だけだ。
 死にたくないからって、怖いからって生き延びてたって、不安と恐怖の毎日が続くだけだろう。苦しいからって、母に胸の内を包み隠さず全て打ち明けたって、ただ自分の苦しみを押し付けるだけだろう。どうせ僕も母もお互いの心の中を全て見透かせる能力なんてないんだ。母と数多く言葉を交わしても、長い時間を一緒に過ごしても、僕の苦しみのひとかけらとして、本当の意味で理解されるだなんて出来やしないんだ。僕は母と、肉体で確実に隔てられているんだ。確かに僕は、本当の気持ちを母に伝えたらどれだけ楽になるだろうかと思う。でも、だからって何か変わるわけでもないだろう。母の借金が減るわけじゃないんだ。ただ母の悩みが増えるだけじゃないか。あるいは、僕が楽に生きるために、テレビだとかゲームだとか、もっといい暮らしをしたいと思っても、それは残酷な欲望だ。母に向かってこれ以上働けだなんて、言えるわけがない。何よりも事実として、いずれ必ず母は死ぬんだ。そうさ、母を信じてはいけないんだ。キリストは弟子に裏切られて磔にされ、レノンは彼のファンに拳銃で撃たれて死んだのを忘れてはいけない。母だって、どうせ僕に殺されるんだ。僕がそうしたくなくたって、結果として避けられない悲劇が用意されてるじゃないか。何をどうしようと、母から、また僕自身から、逃げる事なんて出来やしないんだ。行き先には地獄しかなく、引き返しても別の地獄だ。ならば、僕は何を迷う事があるだろう。生きて誰かを殺す苦しみを味わうくらいなら、死んでしまう方が楽に違いないじゃないか。
 いつの間にか涙は止まっていた。怒りにも似たやり場の無い感情が、体中を駆け巡っていた。僕はゆっくりと息を吸って吐き、気持ちを落ち着かせようとした。自分を追い詰めたって仕方がないと思った。これまでだって、何度も同じような事を考えてきた。でも、そんなものは長続きのしない一時の感情の揺れだった。僕は、崖の上から突き落とされるように死にたくはない。
 始まりはどんな風だったろうか。僕が自殺しようと思う理由は、もっと単純で、もっと抵抗しづらいものだったと思う。母のためなどというのは、こじつけに過ぎないんじゃないのか。そうだ、僕はただ、僕自身に絶望して、僕自身を憎悪して、僕自身に殺意を抱いているだけなんだ。余計な事ばかりが思い浮かぶけれど、それだけが唯一の真実だろう。殺されたくないという気持ちよりも、殺してやりたい気持ちの方が強いんだ。
 僕はいつまでもつきまとって離れないとまどいを振り切る事を諦め、何も考えずひたすら行動に徹しようと思った。お母さん、ごめんなさい。遺書に書いた文句が脳裡をかすめた。気付いた時には止まっていたオルゴールのゼンマイをもう一度巻いて、湯沸かし器の上に置いた包丁を手に取った。
 僕が死ぬのは、僕のエゴのためだけだ。もう生きて苦しみたくない。それだけのためだ。星空の音楽に集中し、頭の中をからっぽにするよう努める。右手に握った包丁を湯の中に入れ、左の手首にあてる。身体が震えて仕方がなかった。ためらい傷、という言葉とその意味を知っている。だから昆虫のように、何も考えず、やるべきをただやればいい。僕は包丁を持つ手に力を込め、出来る限り深く、包丁の根元から先端までたっぷりと、取り返しのつかないくらいに包丁を入れる。鉄の刃が皮膚を裂き、血管を分断させた。手首にある腱のようなものと包丁の刃がこすれる嫌な感触があったものの、緊張のせいか、痛みはほとんどなかった。
 手首から流れる血は、お湯の中で煙のように広がっていった。水中にあるので、血は傷口で固まらず、止まらずに流れ続けるはずだ。あとはもう、待つだけだ。僕はところどころ脂と血のこびりついた包丁をオルゴールの横に置いた。湯船の中は僕の血で濁り、驚くほど目立つ赤色に染まっていった。次第に、手首の傷の痛みが増していく。とても不快な気分になり、嫌な汗が体にまとわりついて離れななくなる。思わず湯船から出て走り回りたくなった。ずきずきと一定の間隔で伝わる激しい痛みに耐えるのは難しく、左手を動かしてみたり、右手で頬をつねってみたりと、じっとしてはいられなかった。流れる血を見るから、傷口の様子を見ようとするから、痛みを痛感するのかもしれない。忘れてしまえばいい。しかし意識しないように努めるのは難しく、切り傷は大きな声で神経に訴え続ける。そのままでは気が狂ってしまいそうだった。左腕をわしづかんだままの姿勢で、僕は目の前にオルゴールがある事に気付いた。
 木目の小箱は、まだ歌をやめていなかった。そうだ、何のためにこれを置いてあるんだ。この曲に、大切な大切なこの音色に、もう数え切れないほど繰り返し聴いたこの旋律に、ただ心を傾けていよう。これが僕の救いだ。これがキリストだ。
 暗闇をうがってささやかな光を注ぐ星々の情景を眺めながら、僕は体から熱が抜けていくような感覚を覚えた。湯船に張ったお湯が冷めてしまったのかもしれない。または、血と一緒に体温まで流れ出てしまっているのかもしれない。なぜだか僕の体は重くなり、空気の流れもゆるまっていくように思えた。風呂場に響くオルゴールの高い音だけが鮮明に聴こえる。
 音色というのは不思議だ。ふっと現れたかと思えば、すぐに消えて去ってしまう。まるで、ほんの少しだけ光ってすぐに燃え落ちてしまう星屑のようだ。あるいは、星空の中で未だ光り続けているけれど、もうすでに消えて無くなってしまった恒星のようだ。僕らは遅すぎて、その現象を形跡としてしか捉える事が出来ないんだ。
 頭がバランスを無くしてしまったかのように揺れた。とめどない吐き気を覚え、胸がむかむかして落ち着かない。呼吸が荒くなる。何故なのか、涙が溢れて止まらない。悲しい、という感情が胃から体外に吐き出され続ける。どうしてそこで泣いてしまうのか、自分でも分からなかった。ただ、僕は敗北したのだ、という事が確信された。殺されてしまう僕自身がひどく可哀相に思えた。理性の残酷さに本能が抵抗させるように、僕は泣いた。ひび割れて悲鳴をあげる肉体の痛みを聞いた。僕は母の顔を強く想起した。ただ、母という存在を目の前に思い浮かべた。母をそんなに思うのなら、どうして母に対してすまないと思う事をしているんだろう。そう思うと、両手両足を強烈な力で引きちぎられてしまいそうな気がした。胃液が逆流しそうになる。ああ、どうせなら、このままバラバラになって排水溝に流れ落ちて消えてしまえばいい。お前なんて死んでしまえばいい。涙と鼻水にまみれている自分に対して嘲笑が込み上げ、僕は思わず笑ってしまった。全く馬鹿げた話だと思った。風呂桶の中で、素っ裸で、堪らなく泣いているのは、滑稽だった。異常だ。狂ってる。殺してやりたい。お前なんて死んでしまえ。

 刹那、まるで悪夢のような光景を見た。傾いた陽が窓から差す家の中で、僕は戸口が乱暴に叩かれる音に脅えていた。戸外で重く太い声が怒号をあげるのを聞き、荒々しく叩かれ続ける戸がきしむ音を聞いていた。僕は早くいなくなってくれと願った。何度も神様の名を呼び、助けを乞うた。どうか僕を許して下さい。ドアの前から立ち去って下さい。尚も執拗にドアは叩きつけられ、永遠にも思える長い時間の中で、僕は扉が壊れて暴力が侵入するのではないかと恐れ続けた。
 それは小さな頃の体験だったのだと、思い出した。思い出すと、どうして今までそれを忘れていたのか不思議に思った。僕はその恐怖につかまえられ、逃げられなくなった。七歳くらいの頃だったか、僕と母が前に住んでいたアパートには、頻繁に借金取りが訪ねてきていた。僕は彼らの暴力的な物腰に脅え、呼び鈴の音にもいちいち驚くようになり、誰が来ても居留守を使うようになった。物陰だとか布団の中だとかに隠れ、相手が諦めて帰るまで息を潜めてやり過ごしていた。後で玄関を覗いてみると、ただ水道局が水質調査に来ただけだという内容の紙が置いてあったりもした。
 不意に、赤黒い色の絵が通り過ぎたように思えた。嫌な予感がした。浴室に広がる僕自身の血の匂いが、過去の一場面を呼び起こす。それは、物心がついた頃の記憶だった。
 大きな握り拳が、まっすぐ僕の顔に振り下ろされる。体がひしゃげてしまいそうな衝撃。僕は、体の大きいその人に訳も分からず殴られていた。肌や肉や骨を伝う痛みは、どれほど殴られても慣れなかった。もう殴られたくないと、僕は泣きじゃくりながら手を広げて顔の前に掲げた。けれど、それは何の防御にもならなかった。僕はその男に手を掴まれ、泣くな、と再び石のような拳で殴られる。殴られた頬や胸や腹は燃えるような熱を持ち、僕は体に火が点いたように思え、声を張り上げて泣きたくなった。けれど、目の前の肩幅の広い男は、僕が泣き声をあげると殴り、それを止めようとする。僕は必死に、それは必死に、こみあげる感情や涙をこらえた。歯を食いしばり、息を止めて、苦痛を押し殺す。そこは蛍光灯に照らされ、食器や新聞や食べ物などがその男によって取り散らかされた汚らしい部屋だった。僕はそれらのように殺されたくなかった。男の目から逃げるように、隅の方で後姿の女性が割れた皿を片付けていた。僕は力を込めて涙を抑えながら、鼻からゆっくりと血が流れ落ちて行くのを感じた。むせ返るような血の匂いが、僕の口や鼻に充満していた。その時になってようやく、視界の端にいる女性が母である事に気付いた。
 もう充分だ、もう二度とそんなものは見たくないと思った。それらの経験を、どうして忘れていたのか分かった。僕は悪意の渦巻くその世界から逃げ出したかった。手足を丸めこんで、すっぽりと隠れてしまえるだけの穴があればいいと思った。幼虫のように、土の下で嵐が過ぎ去るのを待っていたかった。

 しばらくそのままで、僕は何も動かそうとはしなかった。なぜだか、石鹸の、花のような香りをかいだ。
 湯気と交じり合うように浸透していた、メロディはなおも流れ続けていた。オルゴールは、力を使い果たすまで止まらない。昔から知っているような懐かしさを感じさせる旋律に、まだ幼児だった頃のひどくぼやけた、柔らかで優しい思い出が、泥の海の中からすくい取られるように浮かび上がった。それは音も無く、ところどころ色の剥げ落ちた絵画のような一場面の映像だった。僕はただ白く暖かいものに覆い包まれて、淡くほのかな笑みを浮かべる若い母を見ていた。
 強く輝いて眩しい太陽と、訳も分からずただ恐ろしかった暗闇と、僕の手を離さないようにつかんでくれていた人がおり、それが僕の全てだった。
 繰り返される音色に誘われ、僕は迷路のように入り組んだ道に足を踏み入れていた。途切れ途切れの曖昧な情景が浮かんで消えて、確実に巨大な出口へと進んでゆく。そこに近付いてゆくにつれ、僕の中で不安が広がっていく。
 それが何であるか、僕は知っている。それは、僕が母の胎内に宿っていた時から蠢いていた。それは、絵画の額縁のように果てを決める。僕はまたこうして、適温の羊水に浸かり、来た道を戻ろうとしている。小さな子宮の世界に帰り、忘れてきたものを思い出そうとする。産まれる前から知っていた、僕に恐怖を植えつけた大きな力。それは物事の最後に待つ、明けのない夜だった。僕はそれを認めると、もう恐れを感じなくなり、逆にその大きさに安堵した。

 目を開けて見た風呂場の景色には、どこか違和感があった。少しずつ流れ動き、変形してゆくように思えたが、それがなぜなのかすぐに理解できた。僕の希望通り、次第に世界は崩れていった。崩れて、消え去る様子を見て取った。まるで恐ろしく、驚くべき事だった。強大な重力に引きずられて色や形が沈み、彼方へ落ち去り、死んでゆく。それと共に、全身を支配していた不快感が減退する。僕は痛みから解き放たれるのを感じた。長いあいだ夢見ていた、僕の願いが叶う至福の瞬間だった。僕自身の全ての罪は許された。縛り付ける鎖が腐り落ち、首輪も手錠も外された。僕はもう悩みも苦しみもない、完全な自由を手に入れていた。
 僕はゆりかごの中で夢を結ぶ赤子のように、夜の安らぎにつつまれ、限りない眠りの世界へと落ちていった。
 オルゴールから聞こえるメロディはゼンマイの終わりを告げるように緩まり、僅かばかりの音を鳴らすと何の名残惜しさもない様子で止まった。止まってしまうと、もう二度と内包している旋律を鳴らす事は無かった。
 静寂が訪れると、それまで奏でられていた音色の暖かさがひどく懐かしく、かけがえのないものだったように思えた。

 色の無い世界で、風呂場の引き戸がカラカラと開くような音を聞いた気がしたけれど、それはひどくぼやけて、隣の家から聞こえる音のようでもあった。



星屑の音楽/了
sage