Neetel Inside ニートノベル
表紙

70000歳
おっぱい!

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 モロボシは700年ぶりに目を覚ました。
「おっぱい」
 そして、700年ぶりに聞こえた音は、乳房の俗称であった。乳房の俗称を言い放った透明感のある涼やかな唇は、目の前にあった。
 ところで何故、モロボシが700年だと即答できたのかというと、夢の中で700年というアホみたいに膨大な時間を、夢という反則的な跳躍力を用いず、真面目に過ごしていた為である。
 夢の中には夢であることを活かした、悪夢のように巨大で静謐な図書館があり、その棚に一分の隙もなくズラッと並ぶ本一冊一冊に込められた何百何千という文章。それをまるで珍味のように舌の上で丁寧に味わい尽くすことが、モロボシの700年という時間の過ごし方スタイルであった。
 いつになればこの夢は覚めるのだろうか? 自分は本を読む機械なのではないだろうか? もはやこちらが現実なのではないだろうか? そういう類の妄想に囚われることは一度もなかった。モロボシは本を読むくせに妄想力は貧困であった。だからこそ、700年も夢と現実の区別をつけていることができたのかもしれない。
 淡々と本を読み込んでいく日々は、義務でもあり生き甲斐でもあり、夢の中なのに生きがいとは面白いとか思ってしまうナンセンスさで緩やかに回転し、700年の歳月をかけてようやくその糸車の糸が尽きた。
 今、目の前には少女がいる。
 それも普通の少女ではない。乳房の俗称を発言した少女だ。
 少女は、自分の発言した乳房の俗称が聞かれたのか聞かれていないのかを探るような目つきでモロボシ見下ろしていた。その瞳の奥で若干の恥じらいがきらめいたのをモロボシは見逃したり見逃さなかったりした。
「……なんちゃって」
 何がなんちゃって、なのだろう。思い当たるのは乳房の俗称であるが、乳房の俗称を少女が発言したことは、なんちゃって、とお茶目に結ぶものなのだろうか? そんなことはどうでもよく、彼女の黒い髪がモロボシの頬に触れているので、少しだけくすぐったい。
 少女の唇が再び動く。
「いつから起きてた?」
「……」
「今起きたってこと?」
「……」
 モロボシは沈黙していた。沈黙することしかできなかった。主に、肉体的な理由である。
 少女はやけくそのように振り返って、
「ね! ミクリヤ起きたよこれ! 生きてたよこれ! すごい! 人間って不思議!」
 すると視界の端から声が返ってきた。
「そうだね不思議だね……良かった。で、取りあえず、そこから退いてあげた方がいいんじゃない? 困ってるだろうし。そこのポジションに居られて、困らない人なんていないと思うな」少女はモロボシの身体を包むようにして覆いかぶさっていた。
「あ、ごめんね」
 うへへと笑いながら退く。どうやらモロボシはベッドに寝かされているらしく、しかも両腕両脚は黒い革でベッドに固定されていた。
「ごめん、勝手に束縛させてもらったよ」
「ミクリヤの趣味だよ」
「渡しの趣味ではない」
 ミクリヤ、と呼ばれた人物がパタパタとこっちに向かってくる。
 彼女は何度も洗濯されて毛羽立っている白衣を引きずって、モロボシの頭の後ろに立った。そして、モロボシを見下ろす。
 ミクリヤは、先ほど乳房の俗称を口走った少女よりもさらに幼い印象であった。伝統を感じさせる長い黒髪。前は一直線で後ろの髪はゆるく束ねられている。一重まぶたから半分だけ覗いている瞳。その瞳がモロボシに尋ねる。
 しかし不思議なことに、彼女の目には知的好奇心の色は窺えなかった。気がする。
「君は一体、何者なんだ?」
「……あ」
「ん?」
「……ああ、あっああ…」
「大丈夫っ?」
 乳房の俗称を口走った少女が言った。なぜあのとき乳房の俗称を口走ったのか? 後にそれを彼女に尋ねると、彼女は心無しか顔を赤らめて、おっぱいって言ったら起きるかなと思って。具体的には勃(ぼ)っと起きるかなって、みたいな供述をした。勃(ぼ)っと起きるとはどういうことかと尋ねると、だからなんか怒張する感じで、と答えた。どこが怒張する感じなのかと尋ねると、彼女は答えてくれなかった。
「うめいてるよっ」
「たぶん声が出ないんだと思う。何百年も喉を使っていなかったはずだから。ツツジ。渡し水か何かを持ってくるから取りあえず見てて」
「りょうかいっす!」
 ミクリヤ、はまたしてもパタパタと足音を立てて視界の外に消えて行く。モロボシは頭部までも固定されているのに気付いた。ミクリヤが視界の端でプツリと消えて行った代わりに、乳房の俗称を口走った少女が現れる。
「ねえ、あなたの名前を教えて?」
「……あっ」
 答えようとするが、ミクリヤの言う通り声が出なかった。上手く喉が言葉を紡いでくれない。声を絞り出そうとすると、喉がヒリヒリと火傷のような激痛を走らせる。
「渡しの名前はツツジ。齢は十四。固体銘はツツジ科ツツジ属第9種」
「あ」
 彼女はモロボシが拘束されているベッドに座って、またしてもモロボシの顔を覗き込む。
 それからツツジはモロボシの身体を包むようにして覆いかぶさる。体位的には先ほどと変わりなかったが、彼女の内的テンションが違った。理性的というよりかは本能的。人間的というよりかは動物的。直接触れてはいなかったが、彼女の暖かい身体の存在が全身で感じられた。不覚にもようやくそこで気づいたのだが、モロボシは全裸であった。
 何一つまとうことなき、純潔たる、全裸であった。
「もしもあなたが……本当に、例の一族ならさ」
「……あ」
「世界を救うために、渡しを孕ませてよ」
「水持ってきた」
 先ほどのミクリヤが帰ってきたので、ツツジはまたしてもうへへという顔をして退いた。
 ミクリヤが持ってきたのは500MLのビーカーに入った水だった。
「どうやって飲ませよう。これじゃ勢い良すぎて口の端から零れるな」
 ツツジが思いついたように、
「あ! いつもお茶を入れるときに使うヤツあるじゃん。あれ使えばいいんじゃない?」
「漏斗か。なるほどね」
 ミクリヤは再度モロボシの視界の端に消えて、今度は数秒で戻ってきた。手にはY字の形をしたガラス製の物体が握られている。
「口開けて。あーんして」
 モロボシはミクリヤに言われたとおり開ける。
「よしよし。よっと、あ奥入れすぎた」
 口の中に漏斗のストローみたいに細長い部分を入れられる。それだけでミクリヤが一苦労しているのを見て、ツツジが、
「1人で出来る? ちゃんと押さえてる? しっかり持ってよ」
「わかってるってば。それじゃ行くよ」
 そう言ってミクリヤはトクトクとビーカーの中身を注いでいく。
口の中に水が溜まっていく。このままでは溢れてしまうので、喉を動かして飲む。700年ぶりに喉を通過したと思われる水は、ほのかな痛みと共にすぐさま身体に吸収されていく。しかし一度で一気に飲めないので、何度か口の中で小分けして飲んでいく。
「あっ」
 ミクリヤはどういう不注意からか、つるっ、とビーカーを離してしまい、水の入ったビーカーをばしゃーんとモロボシの顔面にぶつけてしまう。モロボシの顔はびしょぬれになり、ビーカーはそのまま床に落ちてパリンと割れた。
「ご……ごめん? 痛くない? 痛かったよね」
「痛くないはずないじゃん。あーあ、ミクリヤ博士今月で何回目ですか?」
「う、うるさいな……これは、ちょっとしたお茶目だ!」
「取り敢えず拭かないと。何か布とかある?」
「あ、ここにある」
 ミクリヤが手元に会った布でモロボシの顔の水分を吸い取る。少しだけ、気のせいかもしれないが、薬品的な刺激がある。音にすると、ヒリヒリする。
 何遍か拭いて、
「あ!これこの前硫酸拭いたやつだ!」
「もーホント何やってんの?」
「ご……ごめん」
「ミクリヤはもう地面片づけてよ」
「うん……」
 大人しくツツジに言われた通り、割れたビーカーの破片を片付けるミクリヤ。ツツジはモロボシの顔を拭きながら尋ねる。
「……ねえ、さっきの。痛かったんじゃない? 大丈夫なの?」
「本当にごめんよ……」
 ミクリヤが破片を回収しながら呟く。
 モロボシは発声を試みる。
「……ん、あ」
「あ?」顔を拭く手を休めてツツジが食いついた。
「あー……あっ」
「まだまだ駄目か……もーちょい、って感じはするんだけどなあ。でさミクリヤ、もうこれは外して良いんじゃない? この人は乱暴する感じ、しないよ」
「どうして?」
 とミクリヤはなおも片付けながら聞く。
「だってビーカー鼻に当たっても怒らないで平然としている人だよ。温和に決まってるじゃん」
「それは予断というものだよ」
「まったくミクリヤは相変わらず疑り深いなあ。大丈夫だよね? 外しても」
 と、モロボシに同意を求める。
 モロボシは頷く。
「ほらね」
「けどなあ」
「大丈夫なんだからさ、もう普通に接してあげようよ。可哀想だよこのまんまは」
 そして今気付いたのだが、ツツジは顔を拭くその延長で、モロボシの下半身に手を伸ばしていた。
「おお! これが男性器! へーなるほどなるほど。実物は……重みがある。おいしそう!」
「おい……食べるものじゃないよそれ」
「わかってますよーだ。でもたまに口に含んだりはするんだよね?」
 またしてもモロボシに同意を求める。
 モロボシは頷かなかった。
 身体の水分を完全に拭きとられ、割れたビーカーの後始末も終った頃、取りあえず上半身の拘束が解けた。
「普通に水飲ませてあげようよ」
「わかったよ」
 ミクリヤは再度水を取りに行く。その間にツツジはどこからともなくスケッチブックを取り出し、ペンで何かを書いてモロボシに見せた。

 あなたはカレー大名ですか?
 →はい
 →いいえ
 →わからない

 モロボシはゆっくりといいえ、に指先を触れる。
「やっぱり言葉はわかるみたいだよ!」
「それは、どう答えたら正しいんだよ。まずはカレー大名の定義が要るだろ」
 言いながら、ミクリヤはモロボシに水を渡した。1000MLのビーカーである。モロボシはそれを一気に飲み干す。ツツジがカレー大名の定義をあれこれ考えながら喋っているのを聞き流していると、少しずつ700年間スリープさせていた感覚がよみがえってきた。
 空になったビーカーをミクリヤに返す。
「あ……ああ」
「えっ?」
「……あ……り、がと」
「しゃべった!」
 ツツジが大げさすぎる声を上げる。
「そりゃま喋るよ。同じ人間なんだもの」
「でもさでもさぁ、何か嬉しくてさー」
 ミクリヤは「はいはい」とツツジをあしらい、一直線な前髪の下からモロボシを見つめて、
「えーっと、それじゃ自己紹介した方が良いのかな?取りあえず渡したちも、あなたと同じ人間です。渡しの名前はミクリヤ。齢は十一。固体銘はツツジ科ミクリヤ属ミクリヤ」
「あ、ミクリヤは一種相続種だからミクリヤだけで良いんだよ」
「たぶんそんなこと言っても伝わってないと思う。でこっちのうるさいのは」
「うるさいってなんだよ! ドジっ子の癖に」
「ドジっ子って言うな!」
「さっき自己紹介したよ。ねー」
 とモロボシに同意を求める。
 モロボシは頷く。
「あっそう。じゃあえっとね。どこから説明すれば良いのか……取りあえず、渡したちは、あなたから見れば、未来の人間です。で、渡したちから見れば、あなたは大昔に絶滅した一族です。ここまでは良い?」
 モロボシは頷く。
「あなたはずっと、ツツジの家の奥で眠っていたの。言わば冷凍睡眠ね。肉体を凍らせて脳を冬眠状態にして、長期間仮死状態になっていたの。で、あなたの種が絶滅したのは少なくとも700年前だから、つまり700年以上あなたは寝ていた」
 モロボシは頷く。自分の記憶となんら齟齬はない。
「で、700年気持ち良く眠っていたところを渡しとツツジに見つかって、医療機材の揃った渡しの家に運ばれた。それからいろいろと脳を電極で弄っているうちにあなたが目覚めたというわけ。わかった?」
 モロボシは頷く。
「よし。それじゃ今度はこっちが訊く番ね。声は大丈夫?」
「あ……か……」
「『うん』か『いいえ』で良いよ。あなたは男性?」
「……う、ん」
「名前はっ?」
 ツツジが割り込んだ。
「……モロボ、シ」
「モロボシ。モロボシモロボシ……そんな属いたっけなあ? 何科?」
「いやたぶん、モロボシにしてみたら、渡したちの言ってることがチンプンカンプンだろうね。固有銘という概念が生まれたのは大体500年前の話だから」
「あそっか」
「で邪魔されたさっきの質問。どうしてあなたはあそこで寝ていたの? 憶えている中で最後の記憶はある?」
 考える。700年前のこと。埃の詰まった頭をフル起動させる。
しかし思い出されるのは本を読んでいたという行為だけで、その中身すらも思い出せない。ましてや現実での記憶なんて、700年という山脈に阻まれて姿さえ見えない。考え続けるうちに耳の内側の部分が熱くなり、くら、とめまいを起こしてモロボシは倒れた。
「大丈夫っ?」
「もう休ませてあげよ? 700年ぶりに目覚めたんだもん。寝起き最悪にもほどがあるじゃん」
「そうだね……答えはまた後でってことか。さしあたっての問題はどうやって暮らすか、だけど」
「うん」
「取りあえず今日は、ここで寝てもらう」
「えーずるい!」
「ずるいも何も、ツツジの家は科属がうるさいじゃないか。科祖直系なんだから、いきなり見知らぬ者がやってきたら大騒ぎになる」
「でも、もともとは渡しの家に居たんだよ」
「それでも古い言い伝えを解読したのは渡しで、蔵の奥深くに巧妙に隠されていたのをツツジが発掘したんだろ? もしかしたら禁忌に触れてしまったかもしれないじゃないか。起こしてはいけない存在だったかもしれない。科属にその裏付けが取れるまでは、モロボシのことは誰にも秘密にしておくべきだ」
「それはそうだけど」
「それに、モロボシは目覚めたばかりだ。いきなりツツジの家まで移動させるのも酷だろう。今はここで安静にしておく方が良い」
「わかったよ。その代わり先を越したら許さないからね」
「安心しろ、渡しの身体はまだまだ先が長い」
「妊娠したら絶交だからね!」
 そう言ってツツジは帰って行った。彼女が去ると途端に部屋は静かになる。
さて、とミクリヤは呟いて、
「何か食べたいものあるか? 作ってあげよう。モロボシの知っている料理を渡しが知っていればの話だがね。いや知っていると言うよりも、作れるかどうかが問題だな。物理的に」
 とぶつぶつ独り言をする。
「……君、ひとり……?」
「そうだ。先の争いで属祖を亡くして……あ、属祖っていうのは」
「親」
「冴えてるね」
「……ぁ」
「無理するな。まあそうだな。お粥って知ってるか?」
 モロボシは頷く。
「じゃあそれ作るから、それ食べたら今日は休みなよ。さっき起きてまた休むってのもアレだけど。今は冬眠していた脳が突然動いてビックリしている状態だから、適度に休ませないといけない」
 ミクリヤはまたしても部屋から消えた。
 モロボシは仰向けになって、改めて室内を眺める。
 奇妙な調度品の並ぶ棚。茶色い背表紙の古めかしい本がぎっしり詰められた本棚。紙束で散らばった机。ランプ。地球儀。望遠鏡。中でもひときわ目を引いたのが、天井につるされた人体の骨格模型だった。よく良く観察すればその他にも猫や犬や全長3メートルはありそうな蛇の骨格模型が天井を埋め尽くしている。
 米が茹でられる臭いがした。これが良い匂いなのかどうかはわからなかったが、少なくとも懐かしい感情を思い出して、700年ぶりにお腹が鳴った。
それを聞いたのかミクリヤが得意げな様子で、
「まあ待て落ち着け。渡しの料理は逃げない。あとだいだい4ふ……うわっ!」
 からんころんと食器類が転げ落ちる音。
「……ごめん、あと20分」
 台所から用意し直す聞こえてくる。
「あ、そうそう寝ながらで良いから訊いてくれ。たぶんこれはモロボシにとってかなり重要なことだ。重要なことだからこそ、必要以上に強張らないで聞いて欲しいんだ」
「……」
 カタカタと鍋の煮える音がする。
 ふいに、
「この世界には、君の一族はいないんだよ」
 勿体付けるような沈黙。
 それはどういうことなのか尋ねようとした矢先、
「男性は大昔に絶滅したんだ。この世界には、女性しかいない」
 どこかで読んだことのある話だな、とモロボシは思った。
 
 
 

       

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Neetsha