Neetel Inside 文芸新都
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消失点
7. 彼女

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彼女



 実は一度だけ彼女がいたことがある。
 僕は中学三年生の時、塾を乗り換えた。前の塾の数学の教師が酷く嫌な奴で、こいつに一年間接するのは耐えられないと思ったので僕は思い切って塾を変えた。出ていく時にその教師のダメな点をボロカスに言ってやった。教師が半泣きになっていたのが良い思い出だ。
 新しく乗り換えた方の塾で僕は彼女に出会った。妙に勉強ができた僕は新しい塾で特別待遇を受け、入塾してすぐに最高レベルのクラスに突っ込まれた。そのクラスにいたが彼女で、彼女もある程度は勉強ができたはずなのだが、彼女はいつも僕の隣の席で寝ていて、とても優等生には見えなかった。僕の彼女に対する初めての印象は、身長は低く、小さいのに生意気な典型的中学生女子という感じだった。悪い印象しかなかった。
 さて、今から思えば中二病以外の何物でもない醜い発想だったが、僕はこのクラスの人間とは話したくないと思っていた。自分より勉強ができる奴がいることは塾全体のランキングを見れば明らかで、それはよく知っていることだった。だがこのクラスの人間は自分より能力のない連中で、そんな奴らと話す時間がもったいないとさえ僕は思っていた。とんでもなく傲慢なエリート主義だ。だから僕は三年生の初めに入塾してから殆ど誰とも話さずに過ごしていて、塾に友達はいなかった。
 夏休みを超え、秋になった。僕は順調に成績を伸ばしており、自分の住んでいる地域では最難関の公立進学高校の第一志望高の判定をいつもAでキープしていた。塾からは私立の滑り止めに必要だからと口を酸っぱくして国数英理社の五教科を履修するように言われていたが、金が勿体無かったので英数しかとらず、自分で勉強していた。けれど五教科全てにおいてトップ層に食い込んでいた。思えば人生の黄金期だった。相変わらず塾に友達はいなかったが。
 そんな頃に僕は彼女と話し出すようになった。きっかけはなんだったか覚えていない。確か家で勉強するのが面倒だったので宿題を終わらそうとして教室に遅くまで残っていた僕と、授業中寝ていたせいで課題を終わらせていなかった彼女が教室で二人きりになったとかそんな感じのシチュエーションだったと思う。集中力のない彼女が僕に話しかけてきて、僕はそれに嫌々ながら応対したという感じだったとうっすらと記憶している。
 それがきっかけで妙に彼女に懐かれた。好きなバンドが共通しているなどの理由から、彼女と会話することが増えた。ちなみにそのバンドというのはラッドウィンプスとバンプオブチキンだ。この点から考えても僕は中二病だったと思う。まぁ今でもラッドウィンプスの演奏力の高さは称賛しているし、初期のバンプのエネルギーは好きだけど。とにかく僕と彼女は授業前に自然に会話したり、自習中に筆談したりするようになっていた。クラス一成績はいいが無愛想な俺と、クラス一不真面目な彼女。その二人が仲良く話しているのは、周りから見れば変な光景だったと思う。
 彼女との会話の内容はよく覚えていない。好きなバンドの話と、勉強を教えていたことぐらいは覚えている。彼女は勉強がそこまでできるわけではないのにプライドは高く、僕が一から教えるのを「馬鹿にされているみたいだ」と言って嫌がった。わからないから僕に聞いた癖にと思いながらも、僕は全て教えずに、どこからが分からなくなったかを窺って適度にヒントを出すという教え方に慣れていった。
 そこから僕は少しずつクラスにも馴染むようになっていった。クラスの人たちはちょっと変わってはいたが気のいい奴ばかりだった。僕はこれまで話してこなかったことを後悔したし、心の中にあった奇妙なプライドが解けていくのを感じていた。
 受験が近くなると日曜日に遠くの教室まで出かけて行ってレベルの高いテストを受けるという授業が始まった。また偶然彼女と隣の席になった。名簿順で教室の席の左前から順に並べただけなので、本当に偶然だ。その授業中に彼女が話しかけてくるのを適当にあしらいながら、ここまでは僕は偶然だと思っていた。後からその教室にいた人に聞いた話だが、彼女は相当うるさかったらしく、彼女の周りに対する印象は悪いものしか無かった。おそらく僕に対する印象も悪かったと思う。
 受験を目前にした冬、僕は彼女と志望校について話した。第一志望は僕と同じ難関公立進学校で、滑り止めで受ける第二志望も僕と同じ某私立大の付属高校だった。偶然だった。運命なんて安っぽくなってしまった言葉を使う気はないが、僕はなんとなく奇妙な繋がりを感じていた。しかし彼女の成績が第一志望の高校を目指すには危ないということも知っていた。なんとなくこの先の展開について予想がついていた。
 私立の受験日はとんでもない大雪になった。幸いだったのは朝は晴れていたということで、朝の段階で交通機関に支障は出ず普通に受験会場に向かうことができた。国語の受験中に雪が降ってきて、最後の教科ではものすごく強い勢いになっていたのを覚えている。試験は殆ど緊張せずに解いた。すらすら解けた。
 試験が終わった。僕はダウンジャケットの前をきちんと止め、念の為に持ってきていた折り畳み傘を開いて帰ろうとしたところで会場から出てきた彼女に出会った。彼女が傘を持ってくるのを忘れたので一緒に帰ろうというのだ。僕は彼女の頭に傘を差してやりながら駅までの道のりを歩いた。気温はとんでもなく寒かったはずだが、寒かったとか冷たかったという記憶は無い。彼女と取り留めもないことを話しながら帰った
 私立には普通に合格した。合格発表の日、暇つぶしにネットサーフィンしていたら、血相を変えて合格通知を持ってきた母親がやってきたという記憶がある。僕は「合格してたよ」という母の声に、どうして本人より先に袋を開けたんだという突っ込みをせずになんとなく「ああそう」と答えてパソコンの画面に目を移した。金がかかる私立には興味が無かった。その後電話をかけてみたら彼女も合格していたらしい。
 公立の受験日、僕は一人で高校に向かい、一人で教室に入り、一人でテストを受けた。得点源だった英語でこけ、数学と国語で何とか稼いだ。次の日の推薦入試の小論文と面接も難なくこなした。だが僕は不安で仕方なかった。テストを受けた後にここまでできなかったと感じたことは無かった。
 二日目の帰り道は彼女と一緒だった。塾のみんなで、一度塾へ行って担任の先生に報告しようということになっていた。僕は彼女に不安をこっそりと打ち明けた。今から思えば彼女はもっと不安だったはずだ。成績で言えば僕よりずっと合格する確率が低かった。そんな彼女に僕はあんなことを言うべきではなかったのだ。だが彼女は、普段自信に満ちている僕が不安だったのが奇妙だったからかもしれないが、いつもの偉そうな態度はどこへやら、ひたすらに僕を励まし慰めようとしていた。
 塾へついて担任に報告した後、皆は残っていたが僕は先に家に帰るというので彼女はそれについて来てくれた。二人でひたすら受験とは関係のないことを話しながら歩いた。気が付くと右手に暖かいものが触れていた。
 彼女が僕の手を握っていた。
 僕も握り返した。
 それでも僕らは何事も無かったかのように受験とは関係の無いことを話していた。だが心臓はそうはいかなかった。大きく脈打っていたのがばれないか、それが心配だった。僕が手を強く握ると、彼女も僕の手を握り返した。
 その時から僕は彼女が好きになった。プライドが高く、わがままで、胸もそこまで大きくもなく、小柄で見た目もそこまでかわいくは無い。どちらかと言えばモテそうにない。でも彼女が好きだった。
 好きで好きで、愛おしくて仕方なかった。
 さて、第一志望の高校に僕はなんとか合格した。推薦入試も同時に受かったので、中学のクラスメイトがまだ受験しているのにも関わらずいち早く受験から解放された。そして、予想はついていたことだが、彼女は残念ながら落ちた。地域の公立に行くのを嫌がった彼女は滑り止めでかけていた高校に入ることが決まり、僕らは別の高校に進学することになった。
 とはいえ、二人とも暇になった。僕らは駅で待ち合わせして、お互いに誘い合って色んな所へ行った。要するにデートだ。そしてある春の日、公園へ行った。狭い公園だが、一本の立派な桜の木があり、その近くにベンチがあった。僕らはそのベンチに座って長い間話をしていた。取り留めもない話だった。
 どの話からそんな流れになったかは全く覚えていないが、僕は彼女に付き合おうと言った。奇妙かもしれないが、これまで付き合うかどうかという話はしていなかった。お互いに惹かれあっているのはわかっていたが、怖くて付き合うかどうかという話はできていなかった。彼女は嬉しそうだった。彼女もずっと、僕が好きになるより前からずっと好きだったらしい。
 その公園で僕は初めてキスをした。
 触れるか触れないかわからないくらい軽く。
 幸せだった。おちてくる桜の花びらが残像のようにして脳裏に焼き付いている。
 これまでの人生で一番幸せな記憶だ。
 それから後のことはあまり思い出したくないがハイライトで書いておく。高校は違ったがお互い日曜日を空けるようにして、二人で何度デートに行ったし、会えなくても電話を何度もしたし、家にも行ったし、セックスもした。兎に角僕らは仲が良かった。だが、一年半ほど経って、どこかでほどけてしまった。硬い結び目が、どうやったかわからないうちにほどけるように。いや、逆に、結び目一つない糸が、気づかないうちにごちゃごちゃ絡まってしまうように、突然仲が悪くなり、突然別れてしまった。
 今の僕に言えることが一つだけあるとするならば、僕が悪かったということだ。僕は彼女に依存しすぎた。彼女に多くを求めすぎたのだ。彼女はそれを息苦しく思ったのだと思う。僕が悪かった。
 最後のことは思い出したくないが、ここまで書いたのだから最後まで書く。もう僕とは付き合えないと言った彼女は、僕とはずっと友達でいたいと言った。だから一度別れてしばらくしてから、僕から声をかけて、僕らはもう一度出会った。僕は彼女にこれまでのように話したが、彼女は僕に興味が無いかのように振る舞った。覆しようのないわだかまりができていてそれは壊せなかった。
 その夜、僕は彼女にメールを送った。二度と出会わない方が良いと思う。僕からは二度と連絡しないようにする。でも、もし、君から会いたかったらしてほしい。そういう内容のメールを送った。返事は無かった。
 そこから二度と話していない、と言いたいところだが、実は大学に受かってから一度連絡したことがある。電話をかけた時の第一声は「誰?」だった。彼女はアドレスを消していたみたいだ。そりゃそうだよなぁと思いながら五分だけ話した。僕は家族が急病で倒れたことや第一志望の大学に滑って後期で大学に転がり込んだことを話した。彼女は今大学でやっている勉強が楽しいとか、部活が楽しいとか言っていた。
 それから暫くしてから僕の携帯が壊れ、アドレスデータが消え、彼女と連絡する方法は無くなってしまった。彼女に出会う方法はもう存在しない。彼女は僕のことをどう思っているのだろうか。窺い知ることも出来ない。
 彼女のことは今でもよく思い出す。彼女の声も、彼女の顔も、彼女の唇も、彼女の体温も、しっかりと思い出せる。だがそれは思い出だ。あの時の僕にとっては意味や価値のあることだった。だが今は、ただの思い出だ。彼女がいた記憶は、彼女がいた過去は、僕にあの頃のような意味を与えない。彼女がいたことは、いつしか忘れてしまうだろう。
 全てはそうやって消えていく。
 繰り返そうか。
 過去とは遠景だ。

       

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