Neetel Inside ニートノベル
表紙

横井、宝くじ当てたってよ
第一部

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『明日どこいくー?? v(?へ?)v』


 これがたったいま俺に来たメールだ。いかにも女子から休日の過ごし方を尋ねられたメールっぽいだろう。
 糞喰らえである。
 横井である。
 何が悲しくて男からこんな顔文字に精を出したメールをもらわねばならないのか。そのvはなんだと言いたい。目をハテナにしてダブルピースしてるやつを見かけたら俺なら近寄らないか塩を撒くかのどっちかである。夜中の二時半に何考えてんだ横井のやつは。しかも茂田ともども男三人で駅前へ繰り出すのは明後日の予定である。ほんと横井なにしてんの横井。俺は充電コードのついたガラケーをマットレスに投げて枕に顔をうずめた。貴重な睡眠時間をいくらかでも取り戻さねば。
 沢村が手から火を出した挙句に天ヶ峰がバスを蹴り倒したあの一件からまだ一週間と経っていない。学校は次の週末を乗り越えてテスト返却に付き合えば夏休みへと突入する。もちろん帰宅部の俺は死ぬほど忙しい。おおよそ三日に一度は茂田と横井と駅前に繰り出す予定である。カラオケに映画にファミレスで駄弁って中古書店でマンガの安売りセットを買った後に茂田の家で64をやっているうちに夏休みなどバクチのカネか暑中のアイスかといった具合にぼろぼろ溶ける。溶けまくりである。
 俺はごろんと寝返りを打って天井にぼそっと呟いた。
「彼女、欲しいなあ……」
 うっ。
 やばい。涙が滲んできた。これからあと何十年この天井を一人寂しく見上げるのだろうかと思うと嫁がバケモノでも魔人でもいいんじゃないかと弱気になってくる。駄目だ後藤、頑張れ後藤。その考えはいろいろ負けだ。
「はあ……」
 夏休みが楽しみじゃないとは言わない。無論、楽しみだ。少なくともお昼過ぎまで寝てられるしいいともだって見れる。MMORPGでも買ってくれば男三人のアバンギャルドをぶっちぎって廃人ゲーマーになることだって可能だ。でもそういうことじゃないのだ。なんか違うのだ。もっとこう、ワクワクしたものが欲しいのだ。
 もっとも観客視点が身に染みついている俺がワクワクなどとほざくのは分不相応な戯言かもしれないが。
 思考が空転する。またぼそりと本音をこぼす。
「宝くじでも当たんねえかなあ……」
 末期である。このセリフが出てきたら福沢諭吉を生贄に捧げてプロのマッサージを受けるか、父方のおばあちゃんちでトトロを見ながら芋ヨウカンをご馳走になる以外は精神が回復する見込みはない。おおよそこのセリフの後に「月極駐車場とか経営したい」などと言い出したらもう社会復帰は見込めない。うんこ製造機確定である。
 俺はうんこ製造機にはなりたくないので、ぶんぶん首を振った。焦ることはない。俺はまだ十七歳である。天下無敵のセブンティーンである。これからである。これから。
 はあ。
 目を瞑る。ぼんやりとしたオレンジ色の豆電球のあかりを瞼に浴びながらそうして寝たフリをしていると、なんだかんだで男三人の駅前探索が楽しみになってくるから、男子高校生はやめられない。
 そのままいつもなら眠りに就くところだったのだが、隣の部屋から妙な音が聞こえてきて寝付けなかった。それはシクシクシクシクと延々と続く、女のすすり泣きだった。
 夜中の二時半過ぎである。
 なに考えてんだ。
 俺は壁ドンした。黒木に習った弾くブローで壁さんを傷めないように、ただし音だけは派手めに。アパートの壁に反響した打撃音は女のすすり泣きを一時的に止めた。息を呑むような気配。だが、しばらくするとまた、
「ううっ……ううっ……」
 これである。俺はバリバリと髪をかきむしった。今日は日付が変わって金曜日。試験休みなどという生ぬるい制度はうちの高校にはない。俺は速やかに寝て爽やかに起きて全国の男子高校生たちと同じように高校生活の代え難い一日をやっつけなければならんのだ。それをお前、「ううっ」じゃねーよ「ううっ」じゃ。泣きたいのは俺だよ。
「すいません、うるさいんですけど」
 割りと大きめな声で言ってみた。だが声は止まない。
「すいませーん!」
「ぐすっ……えぐぇっ……ひっぐっ……」
「なんなんだよ……」
 このままではとても眠れたものではない。俺は隣に住んでいる住民の顔を思い出そうとしたが、どうしてもできなかった。確か隣はだいぶ長いこと空き部屋だったはずだ。確か前に住んでいた人間が失踪したとかで、ちょっと大家さんも気味悪がっていた部屋だ。というかそもそも隣に誰かが引っ越してきたという話を俺は聞いたことがない。
 時計を見る。
 三時前である。
 もしかして……
 幽霊?
「とでも言うと思ったか寝るわああああっ!!!!」
 俺はタオルケットをバサァーッとおなかにかけてお眠りスタイルを取った。何が幽霊だアホか。貞子だろうが犬神家だろうがどんと来やがれってんだ。たとえのしかかられても構うもんか。その時は天ヶ峰から見て覚えた俺の巴投げが火を噴くだけだ。そのままひっくり返してマウントを取ってしまえば呪いも糞もない。パンチに次ぐパンチでKOである。
 そこまで考えて一人ニヨニヨ笑っていると、いつの間にか隣室からのすすり泣きが止んでいた。最後、「ぐふっ」と妙な声を上げていたが肉まんでも喉に詰まらせたのだろうか。
 ま、どうでもいいか。早よ寝よ。
 俺はそのまま嘘のように、すうっと眠りの中へと落ちていった。
 無論遅刻した。


「おっせーよ後藤。金曜の一限は数学だから出ないと駄目だって」
「そんなことは俺が一番わかっていた。わかっていたんだ」
 三限前の中休みに俺は教室へ入った。茂田の机にどかっとケツを下ろしてうなだれた。
「超気分悪い。吐きそう」
「お前八時間以上の睡眠取らないと具合悪くなるってわかってるんだから早く寝ろよ」
「そうだぞ後藤ぉー」
 ニコニコと横井が俺と茂田の間に割って入ってきた。
「夜更かしはお肌によくないからな」
「あーごめん横井。いま横井って気分じゃないから」
「いや気分って……俺じゃない気分ってなんだよ……」
「ていうかてめーのせいだろうが」俺はずびしっと横井の丸顔に指を突きつけた。
「夜中の二時半にメール送ってきやがって。なにが明日なにするだよ。遊ぶのは日曜だろうが」
「悪い悪い」ちっとも悪びれていないご様子。
「ちょっとテンション上がっちゃった。えっへへ、てへぺろ」
 俺はべろりと飛び出た横井の舌にポケットから取り出したマスタードをぶちゅりと放出した。世にも恐ろしい断末魔を上げてのた打ち回る横井と俺と茂田とクラスのみんなが冷たい目で見下ろす。茂田が醜いものから目を逸らさずに言う。
「おまえそのマスタードさあ、こないだフランクフルト買った時に余分にもらって使わなかったやつだろ」
「うん。無駄にならなくてよかったよ」
「腹壊されたらめんどくせえぞ……遊ぶの明後日なのに」
 横井に始末をつけた俺が言うのもなんだが、茂田くんなかなか辛辣である。ちょっと茂田―横井間の内政問題はそのうち俺が取り持ってあげないと駄目かもしれない。まあでも横井だしいいか。
 人の苦しみを見て俺が心穏やかな気持ちになっていると、沢村がやってきた。
「よお、後藤! 授業に遅れるのはよくないぞ」
「それはお前が左手にぶら下げてるものを取ってから言え」
「あはは……」
 沢村の左手には、妹の朱音(あかね)ちゃんが頬ずりするようにもたれかかっている。先日の一件で俺の男気に触れ、近親相姦のタブーをぶっちぎって生きていくことを誓った現代社会への反逆者である。この子だけは普通な子だと思ってたんだけどなあ。後藤、超残念。
「いや、こないだからこの調子でさ……下手すると一緒に授業も受けかねない感じで」
「兄さん……兄さん……」
「朱音、ほら、そろそろ三限始まっちゃうから。な?」
「もう……兄さんのいけず……」
 朱音ちゃんが色っぽい流し目をしながらも沢村から離れた。くすりと笑って、
「こんにちは、後藤先輩。茂田先輩。ご機嫌うるわしゅう」
「朱音ちゃん、なにか悪いものでも食べた?」
 俺の心からの心配に朱音ちゃんはぷうっと頬を膨らませた。
「まあ失礼な。私は実の兄に好かれるために人格を改造しただけです」
「悪いもの食べるよりも危険な所業だねそれ」
「ふふっ。そう、私は危険な果実……私と兄さんは新世界のアダムとイブなんです」
 なぜだか無性に紺碧の弾丸さんこと紅葉沢さんに会いたくなった。連絡取ってないけど元気かなあ。この子のことなんとかしてあげてくれないかな。飲み薬とかで。
「それじゃ、私はこれで。みなさん失礼」
 ぺこり、とお辞儀して朱音ちゃんは去っていった。沢村は笑顔で手を振っていたが、自分の席に座ると両手で顔を覆った。
「俺っ……お袋とオヤジになんて言ったらいいかっ……」
「だろうな……」
 実際に妹から求愛されたら気まずいどころじゃないだろう。親に指詰めて詫び入れるレベルの話である。
「とりあえず今は朱音ちゃんとのことは一線を越えないように……な?」と俺。
「そうだぜサワムー。AでもBでもCでも駄目だ。ましてやDなど」と茂田。ちょっと黙ってて。
「ああ……参ったぜ……相変わらずサイキッカーたちとの闘いは続いてるっていうのによ……ああ、俺ってなんて不幸なんだろう」
「お前ってほんと主人公体質な」と俺。
「主人公なんじゃね?」と茂田。
 沢村は深々とナーバスなため息をついた。
「もしそうならやめたいよ。後藤、代わってくれないか」
「無理無理。だって俺の人生ヒロインいねーもん」
「リアルな問題だな……」
 できれば同意じゃなくてフォローして欲しかったよ。え、後藤おまえ知らないの、何組の何部の何々子ちゃん、実はおまえのこと好きなんだぜ? ヒューヒュー!
 的な。
 そういうのないんすか。ないんすね。
 俺は一人で無闇に凹んだ。夏とかマジでテンション下がるし。
「てかまだ闘ってるんだ?」
 横井が机の下からせり上がってきた。唇からただれた舌がはみ出しているが気にしないことにしたようである。
「ああ」と沢村は深刻そうに頷いた。
「政府の組織は解体されたみたいだけど、俺と同じように野良でサイキックに目覚める連中はどんどん増えててさ……そのうち誰かが指揮取って組合みたいなの作らないとヤバイんじゃないかな」
「紫電ちゃんとかに相談したらどうだ? あの人、家が極道かなんかみたいで裏社会に幅利くって天ヶ峰が言ってた」
「えっ、極道なの!?」
 なぜか横井が食いついてきた。うるせーちょっと舌でもしまってろ。
「お母さんがアメリカ人らしいんだけどな、オヤジさんの方が」
 俺は頬に指で線を引いてみせた。
「ま、組っていうよりも地元の名家が大きくなりすぎて裏も仕切ってるって感じらしいけど」
「そういや俺も聞いたことあるな」と茂田。
「結婚する時に相当揉めたとかなんとか」
「紫電ちゃんも大変だなあ」
「そうだな……ま、時期を見て話してみるよ。正直、立花さんとか天ヶ峰とか割りとマジで戦力になるし」
 戦力っていうか、最終兵器だろ。
 俺が心の中で突っ込むと、三限の化学受け持ちの森が入ってきた。今日も元気に白衣の前を膨らませている。断っておくが、腹の話である。
 俺と茂田は授業が始まる寸前のごたごたで話を続けた。
「でさ、明後日どうするよ」と俺。
「あんま金ねえんだよなあ」と茂田。こいつはいつもこれである。俺もだが。
「宝くじとか当たらねーかなー」
「な」
 その時、ぐりんと満面の笑顔で振り向いてきた顔があった。
「なーっ!? 宝くじとか当たったらいいよなー!?」
 横井である。
 俺と茂田は硬直した。じっと横井の顔を見た後、お互いに目と目と交し合う。
 思っていることはひとつである。
 何この反応?
 え、だってさ、宝くじ当たらないかなってもっと暗い顔でやる話題じゃない?
 それをこの満面の笑顔で、しかも横槍で話に飛び込んできたというのは、ちょっと横井が空気を識字していないからといっても、不自然である。
 前置きはよそう。
 俺と茂田は確信した。



 横井の野郎、宝くじ当てやがった。







『登場人物紹介』

 後藤……カムバック
 茂田……横井とナマズだとナマズの方が好き
 沢村……今朝飲んだコーヒーに妹の髪の毛が入っていたことに気づいていない

     




 授業が始まったが、俺と茂田はそれどころではなかった。中学の頃からツルんでいる横井の異常を感じ取れないほど薄情でもない。宝くじにせよ何にせよ、横井に何かがあったのは間違いないのだ。
 茂田の携帯がまさかの電池切れを起こしたので、以後俺たちはメモ帳のきれっぱしを用いて秘密通信を続けた。
『宝くじじゃないとすればなんだ? 彼女か?』と茂田。
『それなら絶対自慢してくる』と俺。
『たしかに』
『スイクンを三分くらいで捕まえたとかかな?』
『あいつは遭遇率の低い伝説のポケモンはいないものとしてプレイしている』
 おおらかでゆとりのあるゲームスタイルである。横井らしいや。
 俺はため息をついた。
 まァさっきまではなんだかんだでテンションが上がっていたが、実際問題として横井が宝くじを当てたなんていうのは現実的じゃない。どうせ古い牛乳を飲んでもおなかを壊さなかったとかくだらねーことで陽気になっているだけだろう。いくら横井が『当たり屋』とはいっても、それはおおまか今のところは初めて寄ったゲーセンでたまたまその日だけ格ゲーの大会が行われていてハイパーアウェータイムだったり、コンビニに行ったら天ヶ峰がジャンプ立ち読みしていたり、そういうどちらかというとマイナス方面でのツキであって、決して横井を喜ばせるような類ではない。ましてや宝くじなど。
 考えすぎか。
 俺は茂田にメモを回すのも飽きたので授業に戻った。頬杖を突いて森が一生懸命に板書している黒板を眺める。あくびをひとつ。
 世はこともなし。
 昨夜のすすり泣き女のせいで寝不足だったこともあって、俺はとぐろに巻いた腕の中でウトウトと眠たくなってしまった。エアコンの稼動音を聞いていると電車に乗っている時のような逆らいがたい睡魔に襲われる。少し寒いくらいの気温が走ってきた身体に心地いい……
 そのまま本当に眠ってしまったらしかった。
 俺が意識を回復させたのは、妙な騒音が耳朶を打ったからだ。いや、そんなレベルではなかった。その「ずごごごごご」という音はもはや振動だった。机と胸板がゴンゴン当たってすげー痛いので俺は逆ギレ気味に跳ね起きた。
「うるっせえな、なんだよもう!」
 うるせえのも当然だった。
 教室中が総立ちになっていた。みんな一様に窓の方向を見やっている。俺もそれに倣った。
 ばらばらばらばらばら。
 窓の外に、ヘリが飛んでいた。蜂の目じみたコックピットのガラスからヘルメットを被ったパイロットが肩をすくめてこっちを見ていた。
 窓枠に、スクールバッグを背負った横井が足を乗せている。俺に気づいて、お、と口をすぼめ、
「――っ!! ――っ!!」
 ヘリのローター音で何も聞こえない。俺はわけもわからずウンウン頷いてしまった。横井はちょっと声を高めて、
「――藤ぉ! 寝すぎだぞぉ――っ!!」
 知ってる。
 唖然とする俺たちを残して、横井を乗せたヘリはばらばらばらと飛び去っていってしまった。そして静寂が戻ってくると、そこはいつもの教室で、いつもの放課後だった。
 俺はその場にがくりとヒザをついて、唇を噛み締めた。汚い床についた手がぎゅっと拳を作る。
 どう見てもお金持ちの所業……っ!!
 完璧に自分たちの住む世界とは違うところへ行ってしまった友人のことを思って慟哭する俺に、ぽんと肩を置くものがいた。俺は振り向いた。そいつが言う、
「横井の三億円事件、だな」
 うるせえわ茂田。
 俺はわけもわからず溢れてきた涙を拭って立ち上がった。教室には部活組も含めてほとんど残っている。俺は教壇に立って、みんなを睥睨した。
「今の一件でお分かりだと思うが、横井が巨万の富を手にした」
 だろうな、と黒木が言う。俺は頷く。
「以前、沢村の一件でもクラスが団結することがあった。今、ここにその集いを再結成したい」
 というと? と江戸川が言う。
「いま、みんなの気持ちは一つだと思う。それは、横井を締め上げて巨万の富を奪い尽くしたい……そうだろう?」
 異論はなかった。当然だ。みんな綺麗な目をしている。俺は続けた。
「だが、独り占めはよそうじゃないか。それに現実問題として、横井の富が銀行口座などに振り込まれている場合、奪うのは難しい。ATMまで横井の首を絞めて連れていっても、その前に死んでしまう可能性が高いし、そもそも男子高校生の首を締め上げてカネを下ろしているやつがいたら警備員さんに怒られてしまう」
 そうだな……とあちこちで無念そうな嘆息が漏れる。
 だが、挙手がひとつあった。寺嶋さんである。俺は手で彼女を示した。
「どうぞ。有益な意見はひとつでも欲しい」
「ありがとう。……横井くんの自宅でキャッシュカードを奪い、暗証番号を割らせればいいんじゃないかな?」
 鬼かこいつは。
「寺嶋さん、落ち着いてくれ。それは、自宅にカチコミかけるのはいくらなんでも可哀想だろう」
「可哀想……?」
 このアマ理解してねえ。
「それにだ」俺はこほんと咳払い、
「横井もアホじゃない。キャッシュカードは隠しているだろうし、自宅には傭兵か何か
を雇っている可能性もある……」
「そう……それなら仕方ないわね、戦争になるとコトだものね」
「うん……まあ、うん、そうだね……コトかな……」
「じゃあ、どうやって横井からおいしい汁をすするんだよ!」と黒木。屑め。
「落ち着け。どう頑張ってもやつからすべてを奪うのは無理だ。カツアゲってレベルじゃねーぞ。おそらくあのヘリからして横井の懐には、億の金がある……そんなもの正面から取り上げてみろ、普通に通報されるわ」
「でもよぉ……」
 俺はどうどう、とみんなを冷静にさせた。
「お前たちはひとつ、大事なことを忘れている。それは、俺たちには時間があるってことだ」
「時間……?」
「そうだ。今日、クラスに一人、欠員がいるのを忘れていないか?」
 ハッとみんながどよめいた。そう、そうなのだ。今日ここには一人、恐らくこの件でもっと興味関心を示すだろうクラスメイトがいないのだ。
 それは、


「それは、今日、夏バテと称して学校をサボり、サーティーワンアイスクリームのトリプルアイスの画像をさっき俺に送ってきた天ヶ峰美里だ!」


 教室がしぃん……と静まり返る。
 そんな中、ごくり、と茂田が生唾を飲み込んだ。
「お前ら、なかよしだな……」
「ふざけろ、あいつに友達がいねえだけだ。送信先調べたら紫電ちゃんにも送ってた」
 俺はシクシクと痛む胃をさすりながら茂田を睨んだ。縁起でもないこと言いやがって、今晩下痢になったらこいつのせいである。
「とにかく、最優先なのは『天ヶ峰にバレないこと』だ。もしやつが知ったら俺たちの取り分なんかあるわけねーだろ」
「確かに……」
「いずれにせよ、しばらく様子を見ようじゃないか。横井が自分から打ち明けるとは思えないが、もし打ち明けたら俺たちは思い切りたかってやろう。それまで、各自勝手な都合は慎むように。以上」
「他クラスへの対処はどうする? さっきのヘリはどの教室からも見えたはずだぜ」
 すっかり質問役になったつもりの黒木である。見れば教室の戸の向こうには人だかりができていた。空手部の澄田さんと金髪の田中くんがメンチを切ってくれているので侵入は防がれているが、それも時間の問題だろう。俺は決断した。
「沢村」
「えっ」あまり話についていけずに携帯をいじっていた沢村が飛び上がった。
「何、え、俺?」
「そうだ、お前に頼みがある」
 沢村の目に決意が宿る。根は熱血なやつなのである。
「わかった。何でも言ってくれ」
「そうか。ありがとう。じゃあ……」
 俺は言った。
「ここから飛び降りてくれ」
 ぶわあっと。
 沢村の顔に汗が浮かび上がってきた。
「待ってくれ後藤。お、俺が悪かった……」
「どうした? お前は何も悪いことはしていないぞ? 俺はただ、三階のこの教室から飛び降りてくれと言ったんだ」
「な、なんで……?」
 俺は腕を組んだ。
「ヘリで出て行ったのはお前ってことにする。例の沢村キネシス騒動の余波って筋書きでな。そうすれば横井のことなんか誰も気にせん。この場は収まる」
「俺の身体はどうなる?」
「朱音ちゃんにはすまねえって言っとく」
「言っとくじゃねえよ!? そして多分あいつはお前のことを許さないよ!!」
 その可能性はかなり高いので俺はちょっと怯んだが三億円のためである。さらば沢村。
「茂田、黒木、寺嶋さん! やってくれ!」
「ちょっ、やめっ、寺嶋さん! 寺嶋さんやめて! 親指を手早くミシン糸で縛るのはやめて! おまえらほんとっ、燃やっ、燃やすぞ!! 燃やっ……あ」
 沢村はポイっと窓から打ち捨てられた。ぐちゃり、と嫌な音がした気がするがきっと気のせいだろう。俺は夏まっさかりの青い空に向って敬礼した。
「無茶しやがって……」
「無茶させたのはお前だけどな……」
「うるせえぞ茂田。それよりここ出るぞ。野次馬連中が田中くんをナメ始めている。直に防衛線を突破するだろう」
「出てどうするんだよ?」
 俺は茂田の耳を引っ張って囁いた。
「様子見なんてするわけねーだろ。先んじて手を打ちにいくんだよ」
「マジかよ。おまっ、ワルだなー後藤おまえ」
「ふふふ」
 俺と茂田はこっそりと窓から外へ出た。給水のパイプを伝って屋上へと這い上がる。
「それにしてもよー、手ってなんだよ手って」
「思い出せよ茂田。今日休んでるのは天ヶ峰だけじゃねえだろ?」
「え? そうなの? でもお前あいつだけって……あーおまえほんとワルだな。魔性のワル」
「うるせー」
「で、誰が休んでるんだ?」
「酒井さんだよ」
「酒井さん?」
 俺は屋上の縁から手を差し伸べて、茂田を引っ張りあげながら答えた。
「忘れたのかよ。酒井さん、沢村に自宅吹っ飛ばされてから横井んちに居候してたろ」
「そういえばあったなーそんなことも。なるほどな、酒井さんなら横井の変貌について何か知ってるかもってことか」
「そういうこと。いくぜ」
 俺と茂田は屋上から騒々しい校内を駆け下りて、校庭へ出て、一目散に学校を後にした。


『登場人物紹介』
 後藤…才気煥発
 茂田…テンションゆえに屋上に這い登ったが危ないので二度としないでおこうと誓う
 酒井さん…欠席

     




 横井んちマンションに着くと、いつもは「オートロックとかマジで生意気だし超めんどくせえ」としか思わないその八階建ての建物が、なぜか急に魔的な空間に思えた。
「なんだろうな、この無駄な緊張感」と茂田。
「たかが横井んちなのになあ」と俺。
「これがカネの為せる業か……」
 俺はエントランスで横井んちのナンバーを押して返事を待った。かちゃり、と受話器を取る音がして、
『はい、横井ですー』
 横井のお母さんの声である。俺は咳払いして言った。
「こんちわ、後藤です。いつもお世話になってます」
「あら、後藤くん? ごめんねえ、純のやつ、ちょっといまいないのよ。さっき一度帰ってきたんだけどね、またどっか行っちゃって」
「帰ってきたって……どうやって?」
「どうやってって……変なこと聞くのねえ後藤くん」
 横井のお母さんは不思議そうにこう言った。
「水菱重工のMH4800で屋上に乗り付けて帰ってきたに決まってるじゃないの」
「お邪魔しました」
 俺はインターフォンの接続を切った。
「横井のお母さんはもう駄目だ、貨幣経済の闇に飲み込まれている」
「いつかまた元気な姿で焼きそば作ってくれる日が来てほしいな……」
「そうだな……」
 俺と茂田は横井んちを後にした。
「つか、酒井さんについては聞かなかったけどいいのか?」
「いたら代わってくれただろ。あの言い方と雰囲気はどっちもいねえってことだよ」
「じゃ、これからどうすんの?」
「酒井さんのいそうな場所を片っ端からしらみつぶしにするしかないな……」
「いそうな場所って……俺たちそんなに酒井さんと仲良くないじゃん」
「こういうとき横井がいねえと不便だ」
 俺と茂田は信号待ちの間、重苦しい沈黙に耽った。
「酒井さんとなかよしっていうと誰かな」
「その質問は間接的に俺たちが頼れる女子は誰かっていうことになるな」
「確かに」
「ふむ……よし」
 俺は携帯電話を取り出してアドレス帳を呼び出した。女子の知り合いというと二人しかいないので探すのがラクである。
 呼び出し音を聞いていると茂田が不思議そうな顔で見上げてきた。
「誰に電話してんの?」
「天ヶ峰」
 ダンクシュートもふいになる見事なハエ叩きが俺の携帯を吹っ飛ばした。
「おまえ何すんだよ!!」
「それはこっちのセリフだよ!!」茂田はわざわざ吹っ飛んだ携帯を追いかけて足で踏み潰しやがった。てめえ!!
「天ヶ峰がこのことを知ったら明日にはこのマンションはねえぞ!?」
「知ってるよ! だから逆に俺があいつに電話する時はさほど重要じゃねえんだってイメージを持たせられるだろうが!!」
「ゴキブリだって学習すんだぞ!! おまえはあいつの愚鈍さにあぐらをかきすぎだよ!!」
 俺たちは怒鳴りあって体力を消耗した。ぜいぜいと肩で息をする。
 ぐぬぬ……確かに俺は天ヶ峰を幼稚園児相当として扱っている節が多々あるので、やつが水面下で成熟している可能性はなきにしもあらずだ。仮に大した用事ではないことが向こうに伝わってもヒマしていれば「あたしもそっちいく」とか言い出しかねない。そうなればすべてがご破算である。ほんとめんどくせえ。
「茂田……確かにお前の言い分もわかる。俺が性急だった。すまねえ」
「わかってくれればいいんだ」
「ああ。それとな」
 俺は粉々になった携帯電話を見下ろした。夏のアリが運ぼうとしている。アメじゃねーよそれ。
「やりすぎじゃね?」
「ごめん」
 謝罪に対する応報は鉄拳のみ。俺は茂田の倫理観を信じて拳を振り上げたが、そこでとぅるるるるると着信音。
「なに?」
「俺のだ」だろうな。
 ポケットから携帯を取り出して画面を見る茂田。
「ヒィッ」
 絞められた鶏みたいな声を出してぶるぶる震え始めた。心なしか頭上に雲までかかり始めた。
「……どうした?」
「…………」
 茂田は黙って、俺に携帯の画面を見せた。

『天ヶ峰美里』

 俺は天を仰いで慟哭した。
「さっきのアレ、イタ電だと思われてる……!!」
「ど、どうする……出た方がいいのか!?」
「いや待て落ち着け。冷静になれ」
 俺たちは深呼吸した。すーはーすーはー。
「まずひとつ確認しておこう。天ヶ峰には『ゴメン』が通じない」
「おまえにもな」
 うるせえ。
「もし出たら厳しい追求が待っているだろう。なまなかな理由じゃやつは俺たちを許さん。あいつは一度ネットの掲示板に馬鹿正直にメアド乗っけて携帯が鳴り止まなくなってから若干テレフォンアレルギー気味なんだ」
「携帯解約すればいいのに……」
「あいつは意外と夢見がちだからな……」
 携帯は鳴り止まない。俺は決断を下した。
「だから……こうするのが一番いいんだっ!!」
 俺は打ち下ろしの右(チョッピングライト)で茂田の携帯を粉砕した。
「ああーっ!! お、俺の携帯がーっ!!」
 俺は拳から立ち昇る不可視の紫煙をふっと吹き消した。
「生命には代えられまい」
「バッテリー抜けばいいだろ!!」
 茂田、賢い。俺は舌をぺろりと出してすっとぼけることにした。
「ゴメーンネ」
「お前、絶対にただやり返したかっただけだろ……」
「そんなことないよ? ヒトを疑うのよくない」
「もういいよ……そろそろ行こうぜ。つーか暑いわ」
 夏休み直前の七月中旬である。今年もアスファルトで目玉焼きが喰えそうだ。
「どうする。ひょっとして俺たちには明日がないのか」
「そんなバッドエンドで終わりそうなセリフはやめろ。こうなったら酒井さん締め上げて横井のことも締め上げて、謎のカネをふんだくるか横井が乗って帰ったヘリ奪うかして、南の島へ逃げるしかねえ」
「お前と?」
「俺と」
 茂田はううっと目を覆った。
「十七の夏を前にして、せっかく逃避行というシチュエーションまで辿り着いたのに相手がお前か……。なんでお前が女の子じゃないんだろう……」
 いや、その考え方はどうかと思う。茂田おまえペットの犬にも似たようなこと言ってたよな? なんかすげー背筋が寒いんだけど。
 こんな暑い中にも頑張って夕刊を配達しているおばさんにぷっぷーとクラクションを鳴らされてしまったので、俺と茂田はとりあえず移動することにした。

     



 俺と茂田は酒井さんを探して町をうろつき回った。女子が行きそうなケーキ屋さんや小物屋さん、洋風なファミレス、ゲームセンター、ユニクロ、青山、ホームセンター、二郎。特に二郎はかなりいい線いっていると思ったのだが、ガラス戸から覗き込んだ店内はもやしを掘るかどんぶりを噛み砕くかの激戦区で、沸き立つ湯気の中、男たちの汗と汗が麺と絡みあっていた。ちなみに俺は初二郎で見事に未完食だったのでやんわりと退去をうながされ、それから自主的に出入り禁止を己に課している。あの時はほんとすみませんでした。
「いねーなー酒井さん」
「もう完全に打つ手なしだな。歩き回りすぎて時間喰ったしもう家に帰ってんじゃねえか?」
「なんだよ、つまんねえな」
 茂田はぷうっと頬を膨らませた。やめて。
 俺はポン、と茂田の肩を叩いた。
「まあいいじゃねーか。どの道、酒井さん探し出してもどうなるってもんでもねえしさ」
 宝くじ当たったんだって、と言われてもそうですか、としか答えられないし。
「じゃあ何? 俺ら横井のヘリに心躍らされた哀れなドリーマーってこと?」
 ずいぶんと薄汚れたドリームである。まったくこれだからけだものは困るよ。
 俺はアタマのうしろで手を組んで、少し赤くなり始めた夏の夕日を見上げた。
「あーあ……せめてもの希望は、横井が宝くじを当てたんじゃなくって、酒井さんがブルセラでパンツ売ったとかだったら、それをネタに脅して南の島にいけるってことくらいかぁー」
「その説を取ると酒井さんの使用済みパンツには三億円近い値が張る計算になるけど、いいのか?」
「いいじゃん」
「いいのか……」
 茂田は貨幣経済の闇に向って目を細めた。
「……帰るか」
「そうだな」
 俺たちはとぼとぼと家路に着いた。完全に負け犬二人組である。
「あーほんと、天ヶ峰どうしよう」
 茂田がボヤくので俺は静かに首を振った。
「助かろうとしないことだけが、助かるかもしれない道だ」
「なんで普通に生きててそんな状況に追い込まれなければならないんだよ……」
 俺と茂田は駅前に出た。二人とも徒歩で家に帰れるので、わざわざ駅前に来るのは遠回りになるのだが、なんとなく最後にこの町で生きたということを胸に刻んでおきたい気持ちだった。
 ふと、茂田が足を止めた。
「なあ、カラオケいかねー?」
 見上げると、カラオケ『絶望』の入った雑居ビルがちょうど俺たちの前にあった。
「いつ見てもひっでえ名前だな……よく登記できたもんだ」
「子供に悪魔ちゃんとかつけるセンスとなんら変わらねーよな」
 そのビルに入っている店もまあ、軒並みひどい。二階は喫茶店『闇』が下ろしきったブラインドの向こうに見てはいけないものを孕んでいそうだし、三階は雀荘『千年の一撃』が麻雀の歴史が千年も続いていないという事実を覆い隠している。四階は『絶望』、五階は満を持してのプールつきホストクラブ『よしお』という有様である。ていうかこの規模のビルの最上階によくプールとか作ろうと思ったな……万一、水で床が抜けても四階から一階までぶち抜きでゴミしかいなさそうだから?
 俺はウーンと背伸びをして、言った。
「歌ってくかァ」
「歩き回って疲れたしな、さっぱりしようぜ」
「この国での最後の宴になるかもしれないしな」
「なあやっぱ亡命しかねえの? ほんとにそうなの? 俺マジでヤなんだけど」
 ぶつくさ言いながら、俺と茂田はビルに入って通路奥のエレベーターを待った。ちなみに一階は空きテナントになっている。前はおもちゃ屋さんがあったのだが、ミニ四駆の衰退とユザワヤの底力の前に店を畳んだ。店主のじいさん、まだ生きてっかな。
 やってきたエレベーターに乗って、四階のボタンをポチンコ。
 ぐんぐん上がっていくエレベーターケージの中、俺は壁に背中を預け、茂田は階数ボタンに鼻をくっつけんばかりに接近している。
 茂田が言う。
「……後藤くんはお父さんのことが嫌いなの?」
 俺は髪を振り乱して叫んだ。
「好きになれるわけないよォ、あんなやつゥ!!」
「自分から逃げてるのね」
「好きなことやって、そればっかりやってて、何が悪いんだよぉ!! うわあああああ!!!!」
「綾波ぃーっ!! 来いーっ!!」
 いやお前はいま綾波だろ茂田。
 チン。
 電子レンジのそれとまったく同じ音がして、エレベータが四階に着いた。がららららと開いていくドア。
 俺と茂田はツタヤにいく時と同じくらいの心地いいテンションでエレベーターを降りようとした。
 が。
 目の前に、小柄な女子が立っていた。
「?」
 茂田は「誰だこいつ」みたいな顔して早くどけよオーラを出している。が、俺にはわかっていた。何度か紫電ちゃん越しに面識がある。ああ、なんてこった。
 男鹿(おが)である。
 姓に男とあるのに女という、男でいうと早乙女みたいなやつで紛らわしいことこの上ない。身長一五〇センチ弱。ウェーブがかった脱色気味の髪。ガキがクレヨンで描いたのかと思えるほどのパッチリとした両目。
 そして、沢村や佐倉某と同じく超能力者で、例の沢村事変の際に政府から送られてきた対沢村用決戦女子である。ちなみに、俺は事変中には男鹿と面識がなく、あの忌々しい結末――遊び疲れて眠りやがった天ヶ峰を俺が自宅まで運んだ――を迎えたキャンプファイアーが終わった後に知り合った。
 性格はというと、
「ぐわああっ!!」
 いきなり茂田が誰に触られたわけでもないのに宙を浮いて床に叩きつけられた。見ると透明な手が男鹿の背中から伸びて茂田の耳を床と挟んでいる。
「助けてくれっ、ごとっ、ごとおおおおおおおお!!!!」
 無理に決まってんだろ。馬鹿か。
 俺はエレベータの閉めるボタンを押した。が、男鹿の足払いがエレベータードアを止めた。
「後藤」
「なんでしょう、男鹿さん」蹴られたエレベーターケージがヘコんでるんだけど。
 男鹿はふうっとため息をつき、大人びた仕草で髪を払った。ナメたことしてんじゃねーぞ貧乳。
「困ったことになった」
「俺もいま困ってるところなんですよ」
 後藤ォォォォ――!! と叫んだまま動けない茂田も大変お困りのご様子ではあったが、いまは捨て置く。
「実は今日、私はヒトカラに来ている」
「でしょうね」
「ところが、いざ支払いの段階になって、財布を開けてみると……」
 男鹿はくっと口惜しそうに顔を払って涙を切った。
「二十円ほど足りなかったっ……!!」
「なんでそんな切羽詰った財政でカラオケに来ちゃうの?」
「足りると思った」
 しれっと言い返す男鹿はコンマ数秒前まで涙を見せていたとは思えぬ鉄仮面である。
「なので」
 ちっちゃなお手々を俺に差し出し、
「慈悲を」
 優しさって暴力を背景にチラつかせて得てもいいものなのかな……?
「男鹿、実は俺も今日、お金が」
「財布を見せてくれれば信用する。もしくは飛んで」
 完全にカツアゲである。この町の警察は何をしているんだ……
 俺はふっと肩から力を抜いた。
「わかりましたよ。ですから男鹿さん、その足をどけてください」
「うん」
 男鹿が乗せていた足をどけた。俺は笑顔で、閉めるボタンを押した。作戦名『天丼』である。
「さようなら」
「後ッ……藤ゥゥォォォォォォォォ!!!!!!!!」
 親友の血が噴出すような絶叫が聞こえたが、無視する。優しい時間の流れがきっといつか俺の中から茂田という存在を忘れさせてくれるだろう。予想としてはこのエレベーターが一階に着く頃くらいには。
 俺は万感の思いと共にエレベーターが閉まるのを待った。
 が、
 閉まらない。
 俺はだらだらと冷や汗を流した。
 男鹿は笑っても睨んでもいなかったが、さっきより顔が近い。
「後藤?」
「えっと」
 がんばれ俺。いままで自分が潜り抜けてきた修羅場のことを思い出してなんとかがんばれ。
「いや、ちょっとATMで金を下ろそうかなと思って」
「二十円のために?」
「……あの……ちがくて……これは……だから……えっと……」
 泣きそう。
 男鹿は、ふっと目を閉じ、
 カッと見開いた。
 瞬間、下段の水平蹴りが俺の身体を宙に浮かせた。物理学的必然による蹴り上げが発生したが、男鹿は俺の足首を掴んでブゥンと振った。
 片手で、である。
 俺はぶん投げられて茂田の上に折り重なった。
「ギャフン」
「あべし」
 真っ白に燃え尽きた俺と茂田の前に仁王立ちした男鹿が、ぶいっと指を立てた。
「正義は、勝つ」
 どこが正義? なにが正義? カウンターの中で真っ青になってるお前の会計を待ち続けている店員さんの目を見ても同じことが言える?
「言える」
「心を読むな」
「後藤の思考は単純」
 そう言って、制圧完了を認めた男鹿が、茂田を押さえつけていた透明な――というよりも、紺碧の大海原をその形に切り取ったような――腕を出所である背中付近まで下げた。そして、消える。腕がなくなると、男鹿の制服の首元がだるんとゆとりを持った。
 俺の下で茂田が呻く。
「ご、後藤。なんなんだよこの女子」
 俺は腕を組んで鼻息を荒くしている私TUEEEE状態の女子を見上げ、
「こいつは男鹿。超能力者で、紫電ちゃんの下っ端だ。能力は、透明な手を肩甲骨の間から招じさせる男鹿ハンド」
「男鹿ハンド言うな」
 また男鹿がにゅっと男鹿ハンドを背中から伸ばして俺らを威嚇した。そう、こいつの能力は背中からダイレクトに出るので、服がだるんだるんになってしまうのである。そのせいでいつも貧しい胸の気配をかもし出す鎖骨があらわになっている。かわいそう。
「後藤、なにか失礼なことを考えてる」
「まさか! この状況で自分の身の安全以外に思いを馳せる余裕なんて俺にはないよ」
(よく言うぜ)
(うるせえ黙ってろ茂田)
「それより二十円が欲しいんだろ。ほら持っていけ」
 俺はケツを振って自分の財布を差し出した。男鹿は財布を拾って、中から百円玉を取り出した。しくった、十円は切らしていたんだった……
「ついでにマックのクーポン券ももらっていく」
「それで俺たちの生命が助かるなら致し方もねえ」
 男鹿はだいぶ待たされた店員さんに謝罪と共に二十円を支払っていた。支払いの遅滞よりもエレベーター壊したことを謝れよ。
「助かった。ありがとう、後藤、モブ」
「モブって俺のこと? ねえ俺のこと?」
 喰っていたラーメンのナルトにハエが止まったような顔をする茂田。
 男鹿はかくんと小首を傾げた。
「二人もカラオケ? 仲がいい」
「ああ……」
 と答えかけて、俺はハタと気づいた。男鹿もこれでも多少は女子である。酒井さんが行きそうなところに心あたりがあるかもしれない。
 俺は言った。
「なあ男鹿、酒井さん見なかった?」
「かおりちゃん? 見た」
「そうか見てないか……うぇぇ!? 見たの!?」
 茂田が俺を哀れそうな目で見上げてきた。
「後藤、おまえリアクションのセンス古いな……」
「ふんヌッ!」
 俺のエルボーが茂田の意識を叩き潰した。
「それで? 男鹿。どこで見たんだ」
「このビル」
「酒井さんもカラオケに来てんの?」
 だが、男鹿はブンブン首を振った。そして、指をピシリと天井に向ける。
「うえ」
「うえ?」
 俺はきったねえ煙草のヤニがへばりついた天井を見上げて、そして気づいた。
 上って……
「酒井さんは、ホストクラブ『よしお』にいるのか?」
「うん」男鹿は頷いた。
「エレベーターの中で会った」
 そこで男鹿は悲しそうに俯いた。
「気まずかった」
「だろうな……」
 女子高生がホストクラブにいくって……大丈夫なのか? 法律とか、条令とか。
「気がはやるのはまだ早いぜ!」
 モブがむくりと目を覚ました。日本語だいじょうぶか?
 茂田は俺の冷たい視線にも気づかずに続ける。
「ひょっとしたら酒井さんの兄弟が働いているのかもしれないぜ。酒井さんはきっとお弁当とかを届けに来たけなげな妹に違いない」
「まあ、そうかもな……確かに酒井さんがホスト相手に酔っ払ってるザマは想像できねーし」
 男鹿も頷いた。
「人を疑うのはよくない」
 最初から決め付けてたのはおまえです。
 俺と茂田は立ち上がって、階段に向った。
「待って、後藤」
「なんだ男鹿。おまえは古巣に帰るがいい」
「どうしてかおりちゃんを探しているの?」
 俺はふっと髪をかき上げた。
「実は俺は酒井さんに惚れててな……これから告白しにいくところなんだ。告げてやるぜ、俺の愛と悲しみのラプソディー」
 茂田が万感の思いを込めた感じで天を見上げた。
「かっけえ! 後藤さんマジかっけえっす!」
「フフ……」
 俺はチラッと男鹿の方を見やった。さてこのネタ、ちょっと怒られそうだが反応はいかに――
 だが、
 男鹿の反応は俺の外角高めをぶち抜いた。
 ばしり。
 いきなり両手を掴まれて、俺は二の句が告げなくなった。
 視界一杯に、頬を赤くした男鹿の顔が広がる。
「応援する……!!」
「はい?」
「後藤がかおりちゃんのことが好きだなんて知らなかった……」
 男鹿はまるで自分に何らかの責任があるかのように唇を噛み締め、
「似合ってると思う……二人は……!!」
「……あのー?」
「がんばれ、後藤……!!」
 男鹿は握った俺の両手をぶんぶん振って、むふぅと鼻息を荒くした。
「私は、後藤の味方……!!」
「あー……ははは。それは、どうも、ありがとう?」
「いこう……綺麗な愛と遥かな未来が後藤を待ってる……!」
 ずんずんと前をいく男鹿。その堂々とした後ろ姿を見ていると、むしろこいつの前にこそ遥かな未来がある気がしてならない。
 呆然とする俺のわき腹を、茂田が肘で突いた。
「どうすんだよ」
 俺が知るかあ……!!




『登場人物紹介』

 後藤…悲しみのラプソディー
 茂田…いつ男鹿に自己紹介するべきかタイミングをうかがっている
 男鹿…本屋さんのえっちなコーナーは目を逸らして歩く
 酒井さん…五階にいるらしい
 雀荘『千年の一撃』…常連客がふざけて書いたサインがいくつも置いてある。
 カラオケ『絶望』…閉店

     





「しかしホストクラブか」
 茂田が腹痛を起こしたような顔をしている。
「どう思う? 後藤」
「帰りたい」
「怖い金髪のお兄さんたちにいきなり胸倉掴まれたりしたら、俺……」
 茂田は階段を登りながらひゅんひゅんと左のジャブを空に放った。
「びっくりして倒してしまうかもしれない」
 なんでそんな好戦的なんだよ。あたたかい牛乳でも飲んでろ。
 俺はため息をついた。
「手荒なマネをするのはやめとけ。勢い余って酒井さんが覚醒したりしたらどうする」
「いやいや覚醒って」茂田がにやけ顔の前で手を振った。
「マンガかよ」
「その甘さが命取りにならなければいいがな……」
 俺は置物のように静かになっている男鹿をちらっと見た。
「何かあった時は手を貸せよ」
「うん」
 返事だけは素直なやつ。
 階段が終わって、踊り場にある扉を俺と茂田が肩で跳ね飛ばすようにして開けた。両手を顔の前で交差させて部屋の中へと飛び出して、叫んだ。
「伏せろ、伏せろーっ!!」
「警察だあ動くなあ!!」
 紺色の生徒手帳を振りかざし、俺たちはプールサイドを地獄に変えた。
「何やってんの?」
「あっ」
 茂田の言ったとおり、金髪のお兄さんたちがぬっと現れて、俺たちの手を掴んできた。わりと痛い。
 ちなみにみんな海パン一丁、日サロばっちりで小麦色に焼けている。マーガリンとか塗ったら美味しそう。
「離してください、警察を呼びますよ!」俺は叫んだ。
「ぼくたちにひどいことするつもりなんでしょう!? エロ同人みたいに!!」茂田の悲鳴。
 金髪の兄ちゃんが茂田の馬鹿を聞いて「おえっ」と舌を出してえずいた。
「そんなわけあるか。ちょっとね、お客さんに迷惑だからやめてもらえる? 君たち西高の生徒だよね。これ罰ゲームか何か?」
「いじめられてるなら相談に乗るよ」とコメカミに傷のある兄ちゃんが爽やかな笑顔を見せた。やっべえケツがむずむずする! あーっ、逃げたい!
「実はここにクラスメイトがいると聞きまして、未成年なので連れ戻して注意するようクラス委員に頼まれたんです」
 ちなみにここにいるはずのやつがクラス委員である。狂ってる。
 俺は怒られながらも酒井さんを探して周囲を見渡した。
 ホストクラブ『よしお』はいったいなんでそんな純和風な名前をつけたんだと責任者を呼びたくなるほど綺麗なところだった。簡単に言うとでかいプールがあって両サイドにカクテルバーがある。あちらこちらにはパラソルつきのベンチがあって、どこもかしこも中年を越えたセレブなオバサン方が若い男と水をかけあったりパフェを食べたりしている。吐きそう。
「その子は酒井と名乗っているはずなのですがご存知ないですか」
「どうしてそんなちゃんとした理由があるのにあんなふざけたことしたの? お客さんビックリしちゃうでしょ」
 どう見てもババアの目にはあんたらのケツしか映ってねーよ。微動だにしてなかったもん。
 しかし反論したらマンガとか小説とかでよくある風に腕をねじ上げられてますます怒られそうなので、俺は大人しくすることにした。
「すみません、実は横井ってやつが俺たちのこといじめてきてて……」
「ちゃんとふざけないとエロ同人みたいなことするって言うんです」と茂田も便乗。お前さっきからそれしか言ってねーな。
「それで、酒井のやつはいますか」
「ああ、酒井さんなら……」
 と金髪さんが振り返りかけた時、ガラスが砕けるような悲鳴が上がった。
「なななななな、なんで後藤くんと茂田くんが!? それに男鹿ちゃんまで……!!」
 そこにいたのは、トイレから手をふきふき出てきた酒井さんだった。正気の沙汰とは思えない極彩色のビキニを着て、アップにした頭のてっぺんにグラサンを乗っけている。
 俺はつかつかつかと酒井さんに近寄ってその胸倉を掴み上げた。
「おまえここどこだと思ってんだ? ハワイか? グアムか? それともフィリピンじゃないだろうな」
「ぎゃああああああどこ掴んでるのよこのバカ放して!! ヒモが、ヒモが」
 放すわけがない。俺は怒りに駆られた野獣のフリをして手にもっと力を――
 背骨の軋む音。
 気づけば、俺はプールサイドに大の字に伸びていた。採光ガラスから降り注ぐ光の粒が美しい。
 その暖かな光景を男鹿の顔がアップで遮った。
「人でなし」
 ぐうの音も出ない。
「わざとじゃないんです」
「よくもペラペラと」
「ぐう」
 そこで男鹿は声を潜めて囁いた。
「告白は?」
 俺も声を潜めて囁き返した。
「実は俺ってツンから始まってデレで終わるアレなんだ」
 男鹿はガラパゴスかどこかの珍妙な生き物を目にしたようなツラをした。
「なるほど」
 なるほどじゃねーよバカか。ちょろい女だな。まあいい。
 俺は立ち上がり、生意気にも胸元を押さえている酒井さんに再び詰め寄った。
「ない胸を見てやろうって言うのにその態度はなんだ?」
「さ、最低すぎてどこからもツッコめない……!! けど、けど、負けてたまるもんかあ……!!」
「こんなところにいるところを見られたのがすでに負けだと気づけ」
「えっ。あっ」
 酒井さんはその場にうずくまって頭を抱えてしまった。ぶるぶると震えながら言う。
「違うんです」
 何がだよ。俺と茂田は顔を見合わせて肩をすくめあった。
「ネタはあがってるんだ。さあ吐け。ここで何をしていた? あの筋骨うるわしい細マッチョのお兄さんに何をしてもらっていた?」
「なっ、何もしてもらってないっ! 仮にされてても言うわけないでしょ!!」
 涙目で叫んでくる酒井さん。俺はふんふん頷きながら、金髪兄さんに意見を聞いてみた。
「……と申しておりますが実際のところどうなんでしょう」
「足揉んだり手を繋いで泳いだりとかですね」
「ギャーッ!!」
 酒井さんが頬に手を当てて絶叫しぶっ倒れた。だがすぐに起き直って、
「そ、そういうのって守秘義務とかあるんじゃないの、リョウ! これはあたしたちだけの秘密だねって、リョウ言ってくれたじゃない!!」
 金髪兄さん、リョウって名前なんだ。
 そういうわけでリョウ兄さんは満面の笑顔で、
「仕事ッス」
 答えた。
「ギャーッ!!」
 今度は後頭部から危ない角度で床に落ちていった酒井さん。座っている状態から床に落ちるってすげーな。どんだけテンパってんだよ。
 そのまま額を床に押し付けてしくしく泣き始めた。
「ひどい……いくらお金だけの関係でも節度ってものがあるよ……」
「店側に切られるって酒井さん相当厄介な客だったんじゃないかな」
 ちらっとリョウ兄さんを見るとどうもそんな感じだ。
「頻繁にメールしたり所構わず電話を要求したり、しまいには兄さんの薬指にある指輪跡について追求したりしたんだろう」
「なんで知ってるの!? さては後藤くん、きみ、私のことストーカーしてるんでしょう!?」
 脳内シナプスが焼ききれてんじゃねーかこのアマ。
「自意識過剰女め。あぶく銭を得て正気を失ったか」
「くっ、やはり金の魔力」やはりってなんだよ茂田。
「あ、あぶく銭ってなんのこと……?」
 途端に酒井さんはもぞもぞと身じろぎし始めた。
「えーと私なにか忘れているような……あっ、男鹿ちゃん! いいところに、私これから帰るの。一緒に帰ろう? そうしよう?」
 ゾンビのように突き出された酒井さんの手を男鹿がパシリと振り払った。
「男鹿ちゃん……!?」
「現実と向き合うべき」
 男鹿はたぶん何か誤解しているのだろうが、いまは好都合だ。俺はガシリと酒井さんのアタマを掴んで逆アイアンクローをかました。
「ふんヌッ」
「放してっ! 髪の毛にさわんないでよ!」
 効果がない。俺は泣く泣く手を放した。
「握力が欲しい」
「おまえリンゴを前にするといつもそれ言うよな」
 黙ってろ茂田。
「とにかく、酒井さん、ネタはあがってんだ」
「な、なんのことやら……」
「今日、横井が放課後ヘリに乗って帰った」
「あのバカあああああああ!!」
 酒井さんはその場に跪いて滂沱の涙を流した。
「なんってバカなの……横やん……!!」
「それは俺たちも思った」
「だから俺たちはここにいる」
 俺と茂田は酒井さんを取り囲んで仁王立ちになった。
「白状しろ。横井に何があった? 宝くじを当てたのか。埋蔵金でも掘り出したのか。それとも血統的あみだくじに勝ってどこぞの大富豪の遺産でも相続したか?」
 酒井さんはなりたての未亡人のような悲哀を漂わせて、俺たちを見上げてきた。
「それを知ってどうしようというの……」
「あわよくば獲る」
「……大きな野望(ゆめ)だね。大きすぎるよ、後藤くん」
「男ってのはそういうもんだ。……ん?」
 視界の端で、何を勘違いしたか男鹿が爆発しそうになっている。茂田がプールから汲んだ水をぶっかけているが湯気が止まらない。なに考えてんだよ。
「で、結局のところどうなんだよ」
「どうもこうも」
 酒井さんは腰巻にしていた布をぎゅーっと絞って水を吐き出させながら、
「私はなんにも聞いてないよ。ただ、こないだ急にさ、家がなくなって大変そうだからって三千万円ぽんっと渡されて、これで新居でも買ってくださいって」
「マジ?」
「マジマジ」酒井さんはもう隠しきれねえと腹をくくったのかヒートしてきた。
「でね? 実はうちのおじいちゃんがもう知り合いから中古の一軒家を借りる手はず整えちゃっててさ、私それ知ってたから、だからこの三千万べつにいらないなーって思って。でも別に言う必要もないなーって思って」
「あるだろ」
「ないよ?」
 目が死んでる。もうやだこのひと。
「それでね? 家族にも言う必要ないなーって。そしたらこの三千万ムダだなーって。ムダなら使っちゃえばいいかって」
「ならねえよ」
 茂田が青ざめている。
「ちょっと待ってくれ酒井さん、そしたら何か、マジで使っちゃったの? 三千万? ここで?」
 酒井さんは空ろな笑い声を立てた。
「リョウがいけないんだあ、リョウがね、『どんぺり』が飲みたいなって言うから。そしたらあたしね、リョウにどんぺり飲ませたいなーって思って。気づいたらお金払ってて。リョウどんぺり飲んでて。うっ……うううう」
 酒井さんはまた亀のように丸くなって泣き始めてしまった。さすがに可哀想になって俺はリョウ兄さんを振り返った。
「マジすか。マジでここで三千万円キャッシュでドン! ……すか?」
「うん」
「ええー……止めてあげてくださいよ」
「いやだってドンペリ回さないと店も回らないし」
 なにその「上手いこと言ったし俺は正しいよ?」みたいな顔。やっぱイケメンだな。クズが!
 俺はため息をついて、茂田に目線で合図、一発で理解してくれた相棒と共に酒井さんを亀状態のまま持ち上げた。
「今日の支払いはまだっすよね。悪いっすけど、この子連れて帰りますよ」
「ちょっとちょっと」
 それまで友好的な雰囲気だった『よしお』の面々の顔色がどす黒くなってきた。
「困るよ、そういうの。もう今日は二本ドンペリ開けてるんだから」
「でも、飲んだのはこの子じゃないでしょ?」
「そういう問題じゃないんだよ」
「じゃあ、どういう問題ですか」
「こういう問題だよっ!!」
 リョウ兄さんの右フックが飛んできた。俺は鮮やかなスウェーをしたがやや届かずしたたかに顎に右をもらってもんどりうって倒れた。酒井さんは落とした。
「ぐふっ」
「おい後藤、できないことはするなよ!」
 茂田はいま物凄く正しいことを言っている気がする。くそう。俺は酒井さんの背中に手を預けて立ち上がりながら、回っている目と震えている膝の回復に努めた。
「お、男鹿」
「ん?」
 見ると男鹿はバーのカウンターに座って、届かない足をぷらぷらさせながら、バーテンのお兄さんにおごってもらったとおぼしきリンゴジュースを飲んでいた。くそっ、可愛いは正義か!
「助けてくれ。口の中が切れちゃった」
「んー……」
 男鹿は悪いやつではないのだけれど、グラスに残ったリンゴジュースの方が俺よりも大事そうな目つきをしていた。ひどいよ。
「頼むっ!! 俺と酒井さんの恋路のためだ!!」
「……わかった」
 ぴょこん、と降りて。
 男鹿はお兄さんたちの前に敢然と立ちはだかった。
「いって、後藤」
「恩に着る」
「おまえのことは忘れないぜ!」と茂田が元気に言う。男鹿はそれを見て悲しそうに首を振った。
「……やめてモブ。私にはあなたを受け入れる優しさがない」
「セリフと心が一致しすぎだよ……」
「泣いてないでいくぞ茂田。じゃ、男鹿、あとよろしく」
「ん」
 俺たちは現実を見るのをやめた酒井さんを運搬しながらその場を後にした。
「大丈夫かな」
 と茂田が言うので、俺は首を振って見せた。
「すぐわかる」
 そして狙っていたかのように、頭上で悲鳴が聞こえ始めた。
 ひとつ……ふたつ……みっつ……
 恐ろしい破壊音と共に大の男たちが上げる情けない絶叫が雑居ビルに響き渡った。
 茂田がぼそりとこぼした。
「ホラーだな」
「この町に住んでて女に素手でケンカ売る方が悪いよ」
 俺たちが酒井さんを無事に日の下に連れ出しておっぽり出すと同時に、魔王のいびきのような音がして、背後の雑居ビルが地面に吸い込まれていった。いや、違う。倒壊を起こして崩れ始めたのだ。ずるずると消滅していく雑居ビルを見ながら、俺と茂田は訳もなく敬礼していた。その頬に冷たい涙が光る。
 これで死人が出ないんだから地柱町は今日も平和である。




『用語説明』

 どんぺり…正式名称は『ドン・ペリニヨン』最高級になると一本10万。それに『リョウお兄さんの酔った拍子にしか出ない一発芸』をオプションでつけると値段がおおよそ十倍まで跳ね上がる。

 リョウ兄さんの右フック…脇を絞める力がリョウ兄さんにはないため、力が分散し、虚弱な後藤でもノックダウンせずに済んだ。ちなみに天ヶ峰のデコピン(小指)に相当する。

 雑居ビル…いろんな事業主が一発当てるために借りるビル。壊すときは業者に頼むか、男鹿ハンドを無闇に振り回すと壊れる。



       

表紙

顎男 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha