Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 この際に何が決定されたのか分からないが、再びカウンター内で戸棚を物色し始めた辺り、恐らくオーダーのことだろう。人が求める注文が分かると豪語した彼女の手つきに迷いはない。今度は前準備の時と比べ、緩慢な動作だった。
 ゆったりと取り出したのは、何やら大きく仰々しい器材。上と下に合わせて二つのガラス製の丸容器がついて、お洒落なランプに見えなくもない。
「コレ……」
「サイフォンって言うの。何を作る道具でしょーか?」
 こんな変なもので作るもの、と言われて一つもピンと思い当たらず答えに詰まる。店主さんも返答を待たずしてまた色々取り出しにかかった。さっき沸かしていたのかお湯の入ったポットと、
「アルコールランプ?」
「お、こっちは知ってたか。君ぐらいだと懐かしいって思うのかな」
 小学生理科実験以来の顔合わせだった。しかしランプっぽい何かと、実際のランプ、それに調理場であるシンクが自分の頭の中で相容れずやはり首が曲がりっぱなしだ。
 店主さんがガラスの球体が二つ並んでいる方の器材に手を掛ける。よく見ると上の球体は下の球体に筒が伸びていて、フラスコをひっくり返して底を抜いたような形をしていた。そのフラスコもどきを外して、中で栓をするように紙のフィルターを被せる。
 モノが落ちなくなったフラスコの中に入れたのは、挽いたコーヒー豆だ。
「こんなもので、コーヒー……?」
「意外、というか珍しい? 面白いからよく見ておくといいよ」
 本気でこの器具でコーヒーを淹れるらしい。出来上がる過程が全く想像できないので、言われるまま作業をじっと見つめる。
 片手にコーヒー豆を入れたフラスコを持ちながら、下の球にはポットからお湯を注いでいる。隣にあったアルコールランプにライターで火を付けて、お湯をガラス越しに炙り始めた。元々熱かったせいですぐに沸騰を始める。煮沸の泡がボコボコ出てきた頃に、フラスコ下部の棒を差し込んで嵌め戻す。すると、
「お湯、昇ってきてる」
 差し込んだ筒を通って、コーヒー粉のある上のフラスコへお湯が上がる。浸った液体は勿論茶色に染まっていった。お湯と触れて抽出されたコーヒーが湯気とともに香り立つ。本当にコーヒーが出来上がってるんだ。
「後は出来上がりまでちょっと待ってないと。その間、お話でもしようか」
 奥からカップを二人分用意した店主さんが、カウンター越しに座ってまた向き合う構図になる。
「自分が何者なのか。きっと人間だったら誰だって疑問に思うことだよ。私だって多分君より何年も長く生きてるけど、未だに分かってない」
 僕より何年も長く、と言う彼女が全然そうは見えなくて、思わず年齢を尋ねてしまいそうになる。そういえば答えられないから訊くな、と前に止められていたことを思い出して咄嗟に口を噤む。
「ある人は物凄く優しい人って言うし、またある人はとんでもない人って驚いたりする。全部、ウチに来たお客さんの言葉なんだけどね」
 サイフォンを挟んでガラス越しに見える店主さんの顔は、僕の話を聞いていた時に比べ、少し感傷的な笑みになっていた。サイフォンの方はほとんどお湯が昇り切って、ストローが届かず吸い上げ切れないお湯が下でぶくぶく泡立っている。
「自分がどんな人間なのか。それは他人に決めてもらうものなのか、と言うと微妙だけど、そこらの話は置いといて」
 という言葉と同時に、球を炙っていたアルコールランプを端にどかして火を消してしまった。すると、沸騰していたお湯が冷めて、釣られて温度の下がった容器へ上からコーヒーが降りてきた。初めて見る光景に見とれてしまう。
「他人の言うことも気になっちゃうモノでね。君の場合は、自分の身から出てきた疑問のようだけど」
 丁寧にフラスコを外して、取っ手のついた下のガラス球からコーヒーを二人分カップへ注ぐ。透明度の低い濁った液体は、家でインスタントに作るよりも手間がかかってる分美味しそうだ。
 注ぎ終えてから店主は、シュガーと牛乳パックをそれぞれ戸棚、冷蔵庫から取り出して持ってきた。
「あ、僕コーヒーはブラックが」
「おぉ、見た目によらずブラック派か。でも駄目ー」
「えっ」
「何をお出しするかは私が決めるの。君に一番のオーダーを」
 止める暇もなく、二つのカップに牛乳が注がれていく。真っ茶色だったコーヒーが白と混ざり合って、目に優しい柔らかな色合いになった。
 あぁ何てことを、などと口には出せず、目の前にカップとスティックシュガーを置かれた。砂糖は自由にしていいのに何で牛乳は強制なんだろう。
「ブラック派の君でも、今の君にはコレを飲んでもらいたいな」
「はぁ……」
「この絶妙な色は粉乳だと出せないんだ。見るからに美味しそうな、心安らぐ暖かい色。コーヒーはチョコレート・ブラウンで。ね?」
 ね、と催促されましても。
 ……とは思いつつ、言葉が上手いなと反面で感心する自分もいる。言われてみると確かにミルクチョコレートに似た色合いから、口当たりが優しそうな感じが連想されてきた。カップに浮かぶ油膜はコーヒー豆独特のものなのか牛乳由来のものなのか最早分からなくなっていたが、白の混ざったチョコレート・ブラウンの上では吹けば見失うほど希薄だ。
「じっと見てるだけじゃなくてホラ、飲んでみてよ」
 あまり気乗りはしなかったが、勧められるまま口をつけた。ずっとアルコールランプで炙られていたお湯は、触れた唇へ染み入るほど熱い。
「……ほっ」
「どう?」
 いつもはブラックで飲むコーヒーだが、牛乳で薄めて飲んだことだって勿論ある。だから味の予想は大体ついていた。しかし感動がなかったわけではない。
 レギュラーコーヒー独特の酸味の強さが喉奥にガツンと来るものだと身構えていたのに、牛乳のまろやかな味わいで程よく中和され、引っかかることなく胃の腑に落ちていく。それでも口に含んだコーヒーの芳醇な香りはしっかりとそこにあって、鼻を抜け心をほぐしてくれた。舌をザラザラと撫でる泥みたいな安っぽさもなく、ゆっくり、そしてじんわりと……身体の芯から暖まる。
 田園を未成熟な緑の穂が埋め尽くす季節、春の陽気に外さない、安らぎの一口だった。
「人間ってさ、コーヒーに似てると思うんだ」
 緩んでいたであろう僕の表情を見て、味の感想を待たず店主さんは話し始める。
「例えば君はブラックで飲むのが好きみたいだけど、私なんかは苦くてちょっと遠慮しちゃうんだ。逆に、甘いのが苦手な人は、このチョコレート・ブラウンを飲むと、子供の飲み物だ、なんて嫌味ったらしく言うんでしょうね」
「えぇ。人それぞれ、好みはあるでしょうから」
「そう。それ、人にも同じことが言えるんじゃないかな」
 一つ吐息をして、二口目。慣れた口当たりとは別の味わいを見せるカップに、運ぶ手が進む。頂いたコーヒーを飲みながら、店主さんの話を懇々と聞く僕がいた。
「さっき言っていた色んな場所での色んな自分。仮に、その中からコレだ、と思った本当の自分を見つけて、それをずぅーっと、どこに行っても貫いたとしよう」
 ここら辺りで、言わんとしていることが何となく掴めてきた。
「その本当の自分はどこの誰に向かっても、同じように映ると思う?」
「……」
 答えられない。それは本当の自分というものに実感とか心当たりがなくて想像できないからではなく、想定の話でも頷くことはできなかったから。
「テレビで少しずつ取り沙汰され始めた、面白いと評判の芸人さん。彼を君のクラスメイトは全く同じく評価を下すかな」
「それは……ないと思います」
「そんなもんなのさ。同じコーヒーを飲んでもらったって、周りの人がそのコーヒーを各々別のものに変えちゃう」
 寧ろ、心当たりならあるぐらいだ。過去に僕が持っていた人脈をつまみ食いするように記憶から引っ張りだしてみる。
 情に脆い、負けず嫌いの熱血漢がいた。いつだって冷めた様子で、けれど誰より合理的なことを述べる論理派がいた。今言ってくれた例のように、楽しむことに、そして楽しませることに自分の価値を見出すムードメーカーがいた。
 そんな彼らだって、周囲から一様の評価をもらっていたわけじゃない。暑苦しい。ウザったい。つまらない奴。人によって評価は様々あった。
 けれど、
「評価は確かにそれぞれ違います。けれど、実際にその人がそうかということは除いて、何て言うんでしょう……えっと、目指すところ、というか。どんな人間になろうとしているか、みたいなのは理解してあげられるんじゃないですか」
「あー。そう言われればそっかもねー。芯の通ってる人間は、評価はさておき認められはするか」
 がくっ。
 僕の疑問にそれっぽく答えてくれるんじゃないか、とある種期待して訊いてみたのに、ふっと手のひらを返されて、肩透かしを食らった気分だ。
「あっはっは。私も宗教家じゃないからね。相手に気付かされることぐらいあるって」
「いえ、そんな」
「でもまぁ、どれだけ自分をしっかり持った人でも、他人から理解されるためにずっとその“自分”を張ってるんじゃ疲れちゃいそうじゃん? 芸人さんだって滑ったら落ち込んだっていいし、真面目な顔して異性と話したっていい。誰に咎められるものじゃないよ」
 それはそうだ。自分を一切偽らずずっと本当の姿でいようだなんて、きっと思っていてもできない。たまには本当の自分を休みたい時だってありそうなものだ。
「あとはこんな台詞よく聞かない? 『本当の自分を誰も理解してくれない』なんて。コレが意外や意外、芯がしっかりしてそうな人ほど結構言うものなんだよね。有名人とかさ」
「小説なんかでも、そんな一文よくありますね」
「周囲の曲解も、大多数の意見になればそれが世の中に通っちゃう。人の、人に対する認識は主観によるのさ。舞台を小さくしても同じだよ。本当の自分なんて周りに、友人にだって歪められてしまう」
 僕も知らず内、そんなことをしていたのかもしれない。そう思う程度には親近感を覚える話題だ。
「ロイエ」
 思い出したように針金細工の名を呼ぶ店主さん。カウンター上で首を傾げていたフクロウは、またふよふよと不安定な高さを保って羽ばたき、僕たちの方へ近づいてきた。
「君にとって、フクロウってどんな鳥?」
「フクロウですか? え、っと」
 目の前のでたらめな存在ではなく、一般的なフクロウに対する印象を答えればいいんだよね。
「そうですね……大きくて、動物園ぐらいでしか見られない、珍しい鳥、とかですかね」
「うん。フクロウってそんなものだよね。けれどもコレが異国へ飛ぶと大変。一躍神様扱いされるんだ」
「聞いて驚くな。ギリシャ神話では智の象徴だ」
 自慢げに両翼を広げて自分を大きく見せるロイエ。聞き齧りの雑学でしかないけど、元々知っていたことは黙っておこう。
「反面、酷い扱いされてたりもするけどね」
「余計なことを言うでない」
 僕の中ではフクロウ全般はともかくロイエは化け物です。うっかり忘れそうになったけれども、時間を置いて再度見てみてもやっぱり飛ぶし喋る。針金細工なのに。
「ま、こんなだからさ。本当の自分なんて気張る必要はないんだよ。確固とした自身を持つ人がそれを固持するのをやめろとは言わないけど、自棄になって探したり、無理を押して誇るものでもない」
「……何かそう聞くと、気が楽になりますね」
「でしょ? 周りに何と言われたって気にしないでいいの。と言うのもね、どこのどんな自分だってきっと本当の自分。ブラックだってチョコレート・ブラウンだって、コーヒーだ」
 ……そうか。
 強い意志が伴う振る舞いでも、そこに本当の自分が見いだせなくても、自分は自分。
 わざわざ探すまでもなく、案外身近なものなのかもしれない。店主さんと話しているとそう思えてきた。
 気が付くと、碁盤の目から逃げ出そうとバイクに跨った瞬間の変な焦りも、愚痴をこぼす間の暗澹たる気持ちも、今となってはほとんど霧散していた。
「……コーヒー、美味しいですね」
「うん。たまには慣れてない味もいいものでしょ」
 酸味も重みも軽減されたそれが飲みやすくて、会話する以外はほぼずっと口につけていた。身体に自然と入り込む優しさがブラック好きの僕にも心地よく感じる。
「白空、って苗字、私はやっぱり好きだな」
「えっ、い、いきなり何ですか」
 腕にロイエを止まらせて、目線は誰に向けるでもなくそう言う。急に苗字のことを掘り返されてどぎまぎしてしまう。
「真っ白で空っぽ、確かに自我がないと悩む君には嫌な苗字かもしれないけど、人によっては羨ましいことかもしれない」
「空っぽなことが、ですか?」
「そ。それってね、言い方を変えれば何にでもなれるってことなのさ」
 何にでもなれる。言われた僕としてはそんな自信はまるでないのだが、それを羨ましがる人のことは、何となく理解できるかもしれない。
「本当の自分を規定した人って、それに囚われて不自由な思いをする印象があるなぁ。そう考えると君の苗字に明良って名前をつけたご両親は、やっぱり良いセンスと人生観を持ってるよ」
「……そこまで考えてつけたんでしょうかね」
「両親がそのつもりじゃなくても、自分でそうだって決めちゃえばいいんだ。時間が過ぎて、歳を重ねて見えてくるものだってある。君の探してたものだって、そういうものじゃなかった?」
 色んな自分が散見されるのも、空っぽだから故の強みかもね、と付け足して店主さんが微笑む。今まで名前を褒められたことがないから少し変な気分で、カップのコーヒーを一気に飲み干した。気道に入り込んで咳き込んでしまう。
「げほっ、ぼっ、僕、そろそろ行きますね」
「はーい。多分またどこかで会うことがあると思うから、その時は遠慮せず寄ってってね」
「は……はい」
 発言の意図するところが汲み取れなくて少し言葉に詰まるが、何となくこの店主さんに言及する気も起きなくて、カップを置く手をそのままに席を立ち上がる。店主さんがロイエと一緒にカウンターの向こうで座ったまま見送ってくれる。その姿を立って見るとやっぱり背が低いことが気になって、今まで喋ってくれた話とそのヴィジュアルにギャップを感じ得ない。
 しかしそんな違和感も口にできず、玄関のドアを開けようとして、この店に訪れた元々の目的をようやく思い出した。
「あっ、そうだ。えっと美奈さん」
「うん?」
「あの、僕ガソリンなくなって困ってたんですけど、近くにガソリンスタンドありませんか? どっちの方向か、とか」
「あー大丈夫。外に出たら解決してると思うよ」
「……え?」
 はっきりとしない、抽象的な答えに握っていたドアノブを離そうとしたのだが、その意志とは逆に手首はノブを捻って、ドアを開け放っていた。そのまま振り向きもせず外に出て、背後からは扉の閉まる音だけが聞こえる。
 まるで無理やりそうさせられたような、不可解な強制力が働いていた。店主さんの言葉の意味が判然としないのならば、もう一度ドアを開けて細かく訊けばいいものを、何故か未だ眼前にあるカフェの看板を見ても入ろうと思えない。外に出たら解決してる。その適当とも言える口振りを、どういうわけか信じようとさえ思えてくる。
 改めてお店を見つけた時、入店した時の超絶体験をありありと思い出して少し背筋が寒くなるが、それでも不思議と心の底から逃げ出したい、などの恐怖は湧いて来なかった。何だったのだろう、と一瞬で過ぎ去った嵐を見送るような軽い気持ち。針金細工のロイエにもところどころ要領を掴めない店主さんの言葉にも、言及の気が起きない。ただちょっと貴重な体験をしたな、ぐらいの感想をそこそこに、僕はバイクのスタンドを蹴りあげた。
 車体を押しながらカフェの敷地から道路に出てすぐに気づく。店を訪れたときは四方をびっしり囲っていた緑の田んぼが、全く見当たらない。
 変わりに見えたのは、僕が育ちの都会から逃げ出してきた際最後に通過した、街の外れのガソリンスタンドだった。

       

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Neetsha