Neetel Inside ニートノベル
表紙

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「あっはは。そんな怖がらないでよ。ただのシロップだよーコレ」
「シロップ、って」
「香りづけ、色付け、あと一応味付けにも一役買うけど、コレ自身にはアルコール分はないから」
 聞いて、何となくホッと安心する。度数の弱いカクテルを作ると言われていたのに、色やイメージだけで僕は何を怖がっていたのだろう。
 慎重にゆっくりと赤色のシロップを挿して、今度は混ぜずにそのまま、
「ということで完成です。レシピは見てて分かったと思うけど、何て名前のカクテルか分かる?」
「すいません、全然分からないです」
「スプモーニ、でございます。ちょっとアレンジしちゃったけどね。綺麗でしょ」
 コツ、とコースターの上に置かれたグラスをじいっと見つめてみる。全体がやんわりとしたオレンジ色で、合間合間に最後に加えた赤いシロップが筋のように漂っている。筋は所在なさげに常にカクテルの中を浮き沈みしていて、まるで晴れた日の輝かしい夕日、その眩しい光のようだ。確かに、綺麗と評されるのも頷ける。
「さ、まずは飲んでみて」
「……いただきます」
 お酒に不慣れなせいか、未だにおっかなびっくりな僕だけれど、意を決して唇を付けてみる。音や見た目からいるのは分かっていた炭酸だが、ジュースやリキュールの分希釈されているのか、あまりきつい刺激はない。適度な炭酸濃度に爽やかさを感じた次には、複雑な味が待ち構えていた。
 ツン、と鼻を抜けるようなちょっとした苦味。次に柑橘系の酸っぱさが追いかけてきて、口の中で炭酸とともに弾ける。最後に残っていたのは、仄かで絶妙な甘い味。主張の強い一つ一つの味が爽快で、全て融和した先に訪れたのは少々耽美な安心感。
 色んな味が一度に楽しめて、それでいてそれぞれが邪魔をしない、まとまった仕上がりだ。どれがどの味なのかは僕には分からないが、コレがカクテルか、と思い知らされるほどの驚きを感じる。
「美味しい……」
 思わず呟く僕に満足気な様子の店主さんは、小さな受け皿に瓶から炭酸を少し浮かべてロイエの前に置いた。氷は既に食べきったようで、次に出されたそれを当然と言わんばかりに口にし始める。
 ……というか、食べたり飲んだりするんだ、この鳥。つついていた氷は溶けて水になったわけでもなく、しっかり跡形なく消え去っている。透けた身体の中に溜め込んだ様子もないし、一体どこにやったんだ。
「かなり完成されたレシピでね。グレープフルーツ少量とトニックの掛け合わせは、リキュールを別なものにしてもマッチするんだ」
「トニック、ってその炭酸ですか?」
「そ。ただの炭酸とは違うんだけどね。オレンジとかグレープフルーツの苦味をちょっと足したようなやつで」
「苦い炭酸……?」
 炭酸水にそんな味付けをしているものなら、もっと口当たりがきつくなっていそうなものだけど、少なくとも苦には感じない程度の苦さだったはずだ。それに愚か僕はさっき、甘いとまで思ったほどなのに。
「不思議なもので、グレープをトニックで割ると結構甘みが出てくるんだ。何でだろうねー。先入観でコレは酸っぱいものだ、と思いながら飲むと意外とそうでもない、っていう錯覚だと思ってるんだけど」
「へぇ……」
「だからグレナデンシロップ差しても違和感小さいんだよ。加えるともっと苦味が和らぐし、相性はいい」
 材料それぞれの味を把握しつつ、一つのドリンクを作り上げる。飲み物とはいえまるで料理のようだ。
 恐らく既存のレシピがあるカクテルなのだろうけど、店主さんの口から直接話を聞いていると目の前の華奢な女の人が何だか博識に見えてくる。
「少年。スプモーニ、という言葉。どういう意味かご存知かな」
「え」
 トニックと言うらしい炭酸水に嘴を突っ込んでいたロイエがふとそんな問いかけをする。凄い、やっぱり少しずつ減っている。
「イタリア生まれのカクテルでな。名前の由来もイタリア語から来て、泡を立てる、という意味だ」
「泡、って言うと今ロイエが飲んでるそれだね」
「うむ。意味も理解したところでさて、美奈が何を意図してそれを作ったのか、未だ掴めんな」
 そういえばそうだ。このカクテルが僕の悩みというか疑問に対してのオーダーであれば、回答としての意味合いが込められているはず。前回の、チョコレート・ブラウンと同じように。
「実はまーた変な話になっちゃうのです。だからロイエが想像つかないのも無理はないかな」
 とすると一体何を指して僕への答えになるんだろう。どれがどの味を出しているのか僕には分からないけど、それはまだ知らなくていい、とか?
「泡を立てる。何かが泡になる、ってことだよね。君は泡になるものとして何を連想する?」
「泡ですか? 泡……石鹸とか」
「あーっとそうだな、現実にある実際の道具とかから離れて考えてみて」
「うーん……? 努力が水の泡になる、とかも言いますよね」
「お! いいセンだよそれ! そうそうそんな感じ!」
 諺に近いもの、というと何かな。水泡に帰す、泡を食う、濡れ手に粟、……ってその粟じゃない。慌てふためく、……いやもうアワと言う名の物体ですらない。ああぁぁ段々訳分からなくなってきた。
「美奈の十八番として、童話や昔話を引き合いに出す癖がある」
「あー、そのヒントちょっと簡単すぎない?」
「ということでもう分かるな、少年」
「泡、で童話……。泡になる……あっ」
 最後に泡になって消えていった、哀れなヒロインの話。
「人魚姫ですか?」
「正解。作りながら思ったけど、なかなか人魚姫のシナリオに近しいものを感じるんだよね、このカクテル」
 海に溺れた王子を助けるが、介抱したのが自分と知られず歯痒い思いをする人魚姫。何とかこの事実を伝えたいという願い一心で人間になった彼女だが、王子と再会しても声を引き換えにしたせいで話すことすら叶わない。勘違いをしたままの王子は自分を介抱してくれたと思い込んでいる相手と結婚式を挙げるのだ。人魚姫は姉たちに貰った短剣を愛する王子に向け、人魚に戻ることを決心するも、あまりに深い愛ゆえに彼を殺すことができず、自らが泡となって消えていった。
 大体のあらすじを思い出して、なるほど頷ける所も多い。初めに感じた鼻を通るほろ苦さ、一瞬で消えゆく気泡に、じわりと残った甘み。どの味をどのシーンに当てはめるか人によって意見が分かれそうだけど、人魚姫の暗喩としてこのカクテルはとても優秀に思えた。
「悲恋を描いた、悲しいお姫様の物語として語られているけれど、私ね、このお話はコレでよかったと思ってるの」
「と、言うと」
「凄い変な話になっちゃうけどさ。最初王子様を人魚姫が助けるけれど、まずあそこで自分に気付かれたら一大事だよね。確か、人間に姿を見られてはいけない、なんて決まりも人魚たちの世界にはあったはず」
 細かい設定はところどころ忘れてしまっているが、人魚が人間に見られたら大変なことになるのは想像がつく。
「で、人間として王子様の元へやってくる人魚姫。彼女、言葉を喋れたらきっと事実を言っただろうね」
「そのために会いに行ったようなものですから」
「この際筆談でも何でもいい。じゃあ、本当のことを伝えたとしよう。それを王子様が信じるかが一つ。その場に居合わせただけで玉の輿に乗れるかもしれなくなった女の人が反発しないかが一つ」
「ちょっと、そんな急に現実味帯びさせちゃ……」
「ふふ、確かに雰囲気も何もあったもんじゃないよね。お話も、破綻しちゃう」
「お伽話が真っ青ですよ、そんなの」
「そう……破綻しちゃうの。真実が王子様に知れても、人魚たちに言われるまま王子様を殺してしまっても、純朴に一途に彼を愛し続けた美しき人魚姫の話が、滅茶苦茶になっちゃう。だから、王子様は何も知らないほうがいい」
 ――知らないほうがいい。知るべきではない。
 店主さんが言おうとしているのは、そういうことか。
「変な話。本当に変な話だよ。絵本にある昔話を持ってきて、現実に摺り寄せ仮定を立てたらどうなるか、なんて」
「いえ、でも何となくは分かりますよ」
「君はいい子だね。理解が早い子はお姉さん好きだよ」
 にっこりと笑って、彼女も手製のスプモーニを一口運ぶ。どこか感慨深そうな表情で、じっくりその味を確かめているようだった。
 真実がどうあろうとも、王子様と一人の娘が幸せになるためには、自分を助けてくれた張本人のことは知るべきではない。そう、まるで世界がシナリオ通りになるよう、仕向けていたみたいだ。声を奪った魔女にしても、自分が人魚に戻る方法にしても。情報が、統制されている。
「人魚姫も危うく王子様を刺しちゃうところだったけど、彼女はそうしなかった。コレが普通の感性を持った人だったら、そもそも人魚への戻り方は知るべきではなかったでしょう。人魚姫がそれを知ったのは、知っても問題がなかったからじゃないかな」
「聞けば聞くほど、哀しい話ですよね。何とか、人魚姫が幸せになる方法、なかったんでしょうか」
「恐らく、泡と消えて精霊になるのが彼女にとって一番幸せだったと思うんだ。歩けない、喋れないときた人魚姫が人間と結婚して、何も不都合ないとは考えられなくて」
「……なるほど」
 僕は一度も考えたことがなかった。泡となって消えゆく結末が、彼女にとっての一番のエンディングだっただなんて。
 好奇心で行動はしない、と決めている店主さんは人魚姫をそう解釈した。
 言われてみれば確かに、あの童話はあのシナリオだからこそ、綺麗なのだろう。人魚姫をモチーフにした映画などの作品は多いけど、それだけこの話に魅入られた人たちも多いということも言えそうだ。
 グラスに半分ほど残るスプモーニをもう一口。経験したことのない複雑な味を美味しいと感じていたはずなのに、今はほんのちょっぴり、切ない。人魚姫が消えていった空の色も、こんな柔らかな橙の中だったのかな。
「アンデルセン童話の一編として名高い人魚姫は、歴史も深くてな」
 トニックを啜ったためか、渋そうに目を細めてロイエが頭を上げる。
「ジュゴンを人魚に見間違えた、という話もあるが、恐らく人魚姫に出てくる人魚のモチーフは、ヨーロッパ圏の伝承が起源だ。次いで日本にも八百比丘尼という伝説が見受けられる」
「化物とか妖精とか、昔からいる印象があるね」
 僕にとってはロイエも人魚に負けないぐらいの存在だけども。
「仮に、この人魚姫の童話が過去にあった真実ならば、と考えるのも面白いな」
「ん? おぉ? どゆこと?」
「もしこんな非業な運命を辿った哀れな人魚が現実にいたら、その話は誰にも知られずこうして童話や伝説としても残らなかったに違いない。全て、泡沫と消え入ったのだからな」
「……そっか。童話の中でも真実を知っているのは人魚姫だけで、姉たちも人魚だから人間の前に姿を見せることができない」
「それがこうして後世に語り継がれることとなったのだ。或いは……そうさな。八百比丘尼の伝説を借りれば、人魚の肉を食した人間は何百年も生きると言う。この童話を作った、いや残した人間は、そいつやもしれん」
 何百年と経てようやく明かされた事の顛末は、今世において究極の美談として脚光を浴びるようになった。どことなくそれも皮肉めいてるな、と僕は思う。
「おー、おーおー、あー、そうだよ。私が言いたいこと、それそれ!」
 思いついたように店主さんもしきりに首を縦に振り出す。
「今その時は知るべきでない、明かされるべきでないことでも、その内ほろっと、いつの間にか耳に入っちゃうこともあると思うな。そして大抵そういう時ってね、後からすれば大したことなかったり、笑い話や美談になったりするの」
 僕よりも早いペースでスプモーニを飲んでいた店主さんが、しみじみと語り出す。知るべきでない情報の機密性、ってところに繋がる話かな。
「そ、だからね。私やロイエや、このお店について、今はあまり言えることはないけども」
「えぇ」
「時期が……その時が来たら。それまで気長に待ってくれたらな、って思います」
 グラスの中でひっきりなしに下から上へ昇る気泡が、水面や氷の縁で白くこびりついてから、弾けたりまたカクテルに飲み込まれたりして消えていく。そろそろこの一杯も終わりが見えてきた。
「待ってますよ。美奈さんが話してくれるまで」
「やー、話さないかもしれないけどねー」
「そんな」
「っはっはっは。人魚の肉を食らえるかな。少年」
 底の方で沈んで溜まっていた赤いシロップは、眺めると流し入れた血が滲んでいるようで。
 飲み込んでみると、口の奥にしばらく残るぐらい、陶酔しそうなほど甘かった。

       

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Neetsha