Neetel Inside 文芸新都
表紙

二人のトム
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 その町の中心には一本の道がある。まるで幅広のコールタールの河といったふうに、まだ青味がかって濡れたような色艶の路面に、揺るぎない中央線が引かれているだけ。台紙から剥がしてシールのようにぺったりと貼り、「ほら道だぞ、通れよ」とでもいわんばかりの拵えかたをされた道路だった。そうであるから時に片側一車線、あるいは片側二車線通行になり、一年に二、三度はドライバー同士でデッドヒートが巻き起こったものだ。些細な追い抜きが端緒となり、男と男の誇りが火花を散らしてぶつかり合う。速度は力であり、力とは相手をねじ伏せるためのもの。アクセルペダルを踏み抜くことで示されることがある。だがそういったことを除けば至極平和であり、このあたりの地方ではいたるところで見られる、いわば類型的な道でもあった。
 航空写真で真上から町の作りを観察すると、大昔の地形に逆らわないようにしながらほぼ幾何学的な形に計画されている。これまた類型的な郷邑である。
 その町のメインストリートの西外れに小さな店があった。

 トムズ・バーガーショップ

 テーブルセットは店内三席、歩道にテラス席が二つ。看板が軒先から張りだしていて、黄色の地に赤い文字で
「うまい肉とぶあいそう トムズ・バーガー」
 と手書きされている。訛りさえも含んでいそうな、実にあじのある金釘文字だった。
 店の主人のトムは平日の昼下がり、客入りが一段落する暇な時間帯になると、いつものように入口がよく見える奥の席に腰かけ、氷をたっぷり使ったグラスで冷たいコークをちびちびと飲みながら新聞を広げていた。
 その時、ガラス戸を派手に開け放って一歩、店内に足を踏み入れる人影。トムは新聞紙の端を指先で軽くしならせ、ちらりと左目だけで客をのぞき見た。
 入ってきた男は汚らしく、深夜の町を徘徊する若者風のやくざな格好をし、肌は黒く、頭には未開民族が悪魔祓いのために身につけるような、骨や牙や貝を繋げたアクセサリーを巻いている。粋がっていながらもまるで威風などなく、映画であれば本物のギャングスタの恐ろしさを際立たせるためにあっさりと殺されてしまうような端役の似合う小男だった。ひとたび口を開けば周りの人間を――とりわけ人生の深みと哀愁を知った男達を――無性に苛立たせる声音をもっていた。全身から滲みでる胡散臭さはある種、天賦の才とも言えた。
 小男は主人の目をまっすぐに見つめ、「ハンバーガー、一つ」と漏らす。
 対するトムは曲がった新聞を両の手の巧みな動きできちんと伸ばし、再びコークを啜りながら読み耽った。
「おいおい、聞こえなかったのかい? ハンバーガーひとつとコークのMサイズだ。キンキンに冷やしたやつをくれよ」
 主人はため息をついて二つ折りにした新聞を机の上に投げた。それから気だるげに脚を組んで椅子にもたれかかり、親指で真後ろの壁を指し示す。
 壁面には「礼節を弁えない客に対し、我々はサービスの提供を拒否する権利を有す」と印刷されたポスターが。
「分かるかね。お前さんは私にとって神聖で犯しがたい至福のひとときを害したんだ。それは極めて礼節に反する行為である」
 その時、小男の後ろから少女がやってきて、「おじさん、いつものハンバーガーちょうだい」と威勢よく声をかけた。主人はあいよ、と立ち上がり、「五分だけ待ってくれよ、すぐ作るからな」と言って、客席から中の様子がよく伺えるガラス張りの調理室に入る。それから入念に手を洗い、創業以来幾千幾万と繰り返した熟練の手つきで肉を焼き、野菜を刻み、パンによって全てに調和を与えた。小さな客のためにマスタードを抜くのも忘れず。
「ほらよ」と愛想一つなくハンバーガーを渡す主人に、少女はきらきらと光る硬貨と微笑みを残して去っていった。
 そこで「ちょっと待てよ」と腑に落ちない表情の小男。
「あれは何だ」
「あれとは何だね」
「チビだよ。どうしておいらには作れなくて、あいつには作るんだ」
 トムは即答せず、くたびれた新聞に目を落として思案した。
「贔屓にしているチームが昨夜のナイターゲームで負けて、私は悲嘆に暮れていた。しかしあの少女の鈴が鳴るような声に勇気づけられて、私は明日を生き抜く活力を取り戻した。いわば天による救済のようなものだ。その恩に報いるために、私ができることといったら美味いハンバーガーを作ることぐらいじゃないかね」
「そいつは差別っていうんじゃないのかい」
「差別かもしれんが、理屈は一応通してある」
 そりゃないぜと、小男は左手で顔を覆い、大仰な仕草で天をあおいだ。

 *

 小男は毎日トムズ・バーガーショップにやってくるようになった。一日中店の外や中から、調理場に立つ主人のことを、切り身にされる寸前の白身魚みたいに哲学的な目でじっと眺めている。遠くにいても眉根に皺を寄せなかったから、目はかなり良いほうなのかもしれない。
 ある休日の昼どき、テラス席で若い男女の観光客が談笑していた。小男はちょうど若者たちの座るテーブルの傍にいた。女の方が男の耳元で何事かを囁くと、男は思わず吹き出しそうになって口に手を当てた。それから女は三分の一ほど食べ残したハンバーガーを紙包みごと、このぼんやりとした黒人の足元に投げてよこす。これは女にとって野良犬に餌を与えるのと同様の意味しかなかった。小男は一瞬だけ視界の端にそれを捉えはしたが、すぐに無視をして一心に調理場へ再び視線を注いだ。
 予期せぬ小男のこの行動に興醒めした若者たちはやがてテーブルを立ち、まず男のほうがわざと小男に肩でぶつかり、平然とした表情で謝りもせずに通り過ぎた。後ろからついていった女は、路傍のハンバーガーをヒールで執拗に踏み潰し、ぐちゃぐちゃにかき混ぜてから足早に歩きだす。女の歩いたあと、石畳の歩道にはソースの小さな染みが点々とこびりついていった。

 *

 昼下がりの店が暇になる時間帯、トムがコークを一杯やる段になると、男たちは時々とりとめもない言葉を二つ三つ交わすようになった。
「毎日私の店に来ているが、一体お前は何者なんだ」
「何者なんだろうな。父親も母親もいないし、兄弟姉妹も同じく。そんでもって天職は宙ぶらりんときている」
「宙ぶらりん」
「そう。その意は推して知るべしってやつだな」
 しかし主人は職業的な意味合いにおいての宙ぶらりんとは何かという問いに対し、それが考慮に値するとは到底思えなかった。だからすぐ忘れることにした。

 *

「お前さん、名前は」
「トム」
 ほう、という主人。私と一緒なのか。
「たった今、精霊さまがおいらの耳元で囁き、洗礼を与えてくださったんだよ。栄えある御主と子と我が名に於いて、忠良なる汝を洗い清めトムの呼び名を授け祝福す、ってな具合に」
 主人はめちゃくちゃだ、と思いつつも不信心な小男を少しだけ気に入った。鼻を鳴らすだけだったが、愛想笑いのようなものまで漏らした。九回の裏、ツーアウト一、二塁で点差は一。一打逆転のチャンスありといったところか。あとひと押しあればハンバーガーを作ってやらんこともないぞ、小僧め。
 そこへ通りがかりの客がやってくる。長い煙草を口にくわえ、頭髪は短く、隆々たる筋骨を薄着によってさらに強調している大男だった。
「トムズ・スペシャルのダブルを三つくれ」
「あいよ」
 厨房に向かう主人。むっつりと黙り込みながら手を洗っていると、小男が店の奥にある例の特等席でくつろぎ始めた。この時、主人は嫌な予感を覚えたがそれはすぐさま現実となる。小男の無遠慮な振る舞いにより、まさに飲み干されようとするコーク、折り目ほどかれ、散らかされた新聞。調理しながらも気が気ではない。
 私のコークが、私の新聞が、私の席が!
 しかし主人は見事な手練手管でハンバーガーを作り上げ、釣り銭の計算まできっちりとやり遂げた。客は品物を受け取って満足げに帰っていく。主人の葛藤に気づきもしないで。
 クソッ、見逃し三振ゲームセットだ。この借りは高くつくぞ、小僧め。

 *

「なあ、穢らわしきトムよ。礼節とはなんだね」
 主人はいつしか小男を穢らわしきトムと呼び、自らを清らかなるトムと呼称していた。
「礼節。たとえばあいつみたいな身なりの人間が備えている」
 穢らわしきトムは通りの向かい側にある衣料店の巨大な看板を指差した。イラストタッチで描かれた古式ゆかしい紳士像。
「確かに、あるといえばあるといえるがそれは社交界的な――」
 と主人が言い淀んでいるうちに、小男は店を飛び出していった。

 次の日、穢らわしきトムは店を訪れなかった。

 しばしの平和な日々に物足りなさを感じながら、主人は今日もコークを啜る。すると氷と上唇が接触する瞬間に静電気程度の予感が男の半身を走り抜け、過去と同一の瞬間が繰り返された。やはりガラス戸は派手に開け放たれたし、真の男を不快にさせる耳慣れたあの声が聞こえてくるのだ。主人は新聞紙をちらりと折り曲げて瞠目し、口に含んでいたコークを思わず喉の奥に落とし込んでしまった。刺激で咳き込みそうになるのをこらえる。
「穢らわしきトムよ、どうしちまったんだい。その格好は」
 小男は、およそ彼の存在とは似つかわしくない漆黒のタキシードに身を包んでいた。だが全体的に丈は長すぎ、カフスやネクタイなどの小物はおよそ正しくない留め方をされている。
「見てくれよこの服装、いいだろう。おいらはあれから、住処に戻って色々と準備してさ、電車に飛び乗って隣の隣の隣くらいの遠い街まで行ったんだ。人が出かける時の習わしにそってさ、ゴミ捨て場で拾った、いい匂いのする水を身体中にいっぱい振り撒いて。都会の人間はみんなそうするんだろう。合ってるよな」
 小男は目を輝かせながら捲したてているが、主人の方は鼻がもげてしまいそうだ、と苦々しげに心中呟いた。
「それでさ、おいらは都会の駅についてからしばらく歩いたんだ。大通りからちょっと外れた適当な店を見つけて入ってみることにしたんだが、おいらの一張羅じゃどうも場違いな感じがしてあまり居心地は良くなかったね。周りの客の目もあまり親切な感じじゃなかったし、店員にしたってそうだ。おいらが店に入って十と数えないうちに若い男がついてさ、なにかもの問いたげな表情をしてるんだ。だからおいらはポケットから財布をだして、膨らんだ札束をちらりと覗かせてやった。そのあたりの豹変ぶりがまさに傑作というやつなんだぜ、親父さん。あんたにも見せたかったよ。まあ、実はその財布の中身というのも色味だけをきっちりと似せたただの紙切れなんだがな。バレはしなかったよ、おいらはそういうことにかけちゃ天才的な演技力があるんだ。そしてな、いかにも事情通な態度を取りつつ言ってやったのよ。さあ、ひとかどの男が着るに相応しい、いっとう上等な服を仕立ててくれたまえ、と。どこか砂漠の大国の王子のようにな。若い男は畏まって、次から次へとおいらに似合いそうな服を持ってくるんだ。もちろんうんざりするほど慇懃な説明口調も一緒に添えてな。だから適当に相槌を打ちつつ頃合を見計らって、こいつを貰おうと短い一言。店員は、じゃあ丈を合わせますからなんていって巻尺を取り出したんだが、いや、このままでいいと突き放して試着室から出るおいら。しかし、しかし、なんて相変わらず難癖をつけやがるから厳しい調子で、このままでいいと言っているんだ、なんて軽く叱りつけてやったらようやく黙ったよ。それでそのまま店の入口に向かってずんずん歩いていく。すると、あの、お客様、お代を頂戴したいのですが、だって。馬鹿だねえ。すかさずおいらは着替えの時に仕込んでおいた自慢の拳銃を懐からやにわに取り出してさ、あいつの眉間に星を合わせてやったのさ。それから睨みと凄みをきかせての、両手を上げなって台詞。奴は血相を変えた。だからニヤリと笑ってウインクをぶちかましたのさ。すると男はしかめっ面をして、首を鋭く横に降り、さっさと消え失せろクソッタレめという動作をしたのさ。おいらは銃を突きつけたまま慎重に後ずさって、通りに出たら全力で走った。クソ重たくて走りにくい服だったが、そんなことは関係なかったね。あの時のおいらはそうだな、喩えるならば瞬く間に天地を駆ける雷光のように速かったと思うぜ、いや本当に」
 穢らわしきトムは嬉しそうに語り、清らかなるトムのコークをひっつかんで喉を潤した。それから急に憑きものが落ちたように力を失って、手に届かない限りなく遠くの誰かに向かって語りかけるように話した。
「だけどな、親父さん。おいらはこれっぽっちも悪くないよな。それこそ砂漠の砂ひと粒ほども。なんたってあいつらのやり口はおいらにも分かるさ。いくら頼み込んだって、あいつらがよこしたこの服は、本当のいっとう品じゃないに決まってる。丈だってこの通り、ちんちくりんさ。そしてあいつらは試着室に残してきたおいらの一張羅を得る。なあ、何も問題はないだろう」
「何も問題はないな」
「で、だ。どうなんだい。こいつは礼節を極めた服装だぜ親父さん」
 自信ありげに腕を組む小男に対し、主人は憐れっぽい眼差しを向けた。何かが可笑しく、そして悲しかった。とんでもない見当違いを犯している無垢で愚かな魂は、トム親父の精神にとって甘い弱毒のような作用を及ぼした。
「違うんだ、違うんだよ、穢らわしきトム。例えばな、お前さんのそのシャツにソースが一滴でもこぼれてみろ。それは地獄の到来だぞ。ことハンバーガーを食するに至ってはな、きっちりとした格好は良くないんだ。ハンバーガー的には礼節に反するといえる。でも私が本当に言いたいのはそうじゃない。お前さんは、我々の関係をどう捉えているんだ。私自身は一種のゲームのようなもんだと考えてるんだよ。お前は何としてもハンバーガーを食べたい、しかし私はちょっとした意地悪を働いて何とかお前にハンバーガーを食べさせない口実を見つける。だからもう礼節だとか、そういう些細な問題は我々にとってまるきり意味のないものじゃないか、そうだろう」

 それから二日間、穢らわしきトムは店を訪れなかった。

 *

 二日というのは人が生まれ変わってしまったり、あるいは散らかってしまった心の拠り所を整理したりするのに充分な期間といえようか。それは否だ。ひと握りの悲しき人間は、全人生をかけてさえも過去を清算できないまま、虚しい死の床を迎える。この空白をおいて、穢らわしきトムは彼なりに行動し、その中で何かを見出そうとした。それは思考の浅瀬を力の限り、早く泳ぎ抜けるという類のものではあったが。
 トムズ・バーガーショップを再訪したとき、男の全身は大小様々な創傷に赤黒く彩られ、顔中を青痣だらけにしていた。だが最初の時と同様、若者風のやくざな格好を取り戻していた。
 主人は小男の姿を一瞥しただけで彼の身に何が起こったかを容易に想像することができたが、敢えて問おうとはせず、普段通りに振舞った。
 午後のゆったりとした時の流れの中で、店の入口に仁王立ちする小男の口が静かに開かれる。真っ白な歯が唇の間からのぞく。
「トムズ・スペシャル。ダブルでだ」
 主人は持ち前の無愛想を発揮し、あいよ、と短く答えて調理場に入った。
 そこではまさしく職人の腕が発揮され、鉄板の上で焼かれる肉は魔法に掛かりミートパティとして新たな生命を与えられたように光り輝いた。新鮮な野菜類も冷水をくぐり抜けて、農園で陽の光を浴びている頃よりもいっそう鮮やかに色づいていた。それら食材の上に三種の秘伝ソースがまぶされ、空腹者にとっては天上界の芳しき糧食にも見劣らない巨大なハンバーガーが姿を現す。主人はそれを紙に包み、カウンターで客と相対した。
 その刹那、小男は懐から銀色に美しく光る大口径のリボルバーを取り出し、主人の眉間に狙いを定めた。
「ハンバーガーを机の上に置いたら、両手を上げるんだ」
 指示に従う主人。ニヤリと笑う小男。主人は生まれついてこのかた演技などしたことなかったが、しかめっ面をつくり、首を鋭く横に振って、出て行けと合図した。小男は片手に紙包みを掴み、狙いを定めたまま後退していく。そして店の入口から通りへ出ると、狂人のように勝鬨を上げながら全速力で走った。
 高く掲げられたその右手には拳銃、左手にはトムズ・スペシャル。
 雄叫びがメインストリートから遠のいていくのを感じながら、トムは無愛想に鼻を鳴らし、特等席でいつものようにコークを啜り始める。
 それは一つの物語の終わりを意味していた。二人の男たちの運命が再び交錯する日は二度と訪れないだろう。


(了)
 



 

       

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Neetsha