Neetel Inside 文芸新都
表紙

竜を駆る少年たち
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 途方も無い夢物語のようだけれど、僕は時折真夜中の窓辺に立って、この世界を守る力になりたいと願うことがあ る。名も知らぬ誰かには狂人の妄想だと笑われるかもしれないが、君ならきっと理解してくれるだろう。
 人間は各個人レベルで多様に世界を認識する。僕の世界の中心に佇む自我にとって、この戦いは天に定められた運命に他ならなかった。だから、戦うことを決めたんだ。

 *

 金網にかけた指の関節が少し痛みだした。一体どれだけの時間、ここに立っていたのだろう。演習場を囲む鉄柵の 向こう側で、今日も竜騎兵の卵たちは訓練を受けていた。遠くてはっきりと見分けがつかない顔ぶれの中に、僕の親友が混ざっているはずだ。何の相談もなく、一冊の本と栞にメッセージを託して、友は戦いの場へ赴こうとしている。僕は学校の帰りにここへ立ち寄って、彼らの成長を見守る。そんな日々が続いていた。
 僕は溜息とともにその光景に背を向け、家路につく。
 朝にはぬかるみだった道もすっかり乾いていた。こんなに晴れるのならば、レインスーツを着て自転車で登校すればよかったと少し後悔しながら、傘を片手に歩く。
 しばらく歩いて町の中心までたどりついた。僕は往来のまんなかで足を止めて、ビルの隙間から覗く山を見た。
 あの山の向こう側のどこか遠い場所で、戦争が起きているのだろうか。
 奴らはいつどこに現れるのか分からない。衛星軌道上を周回する汎斥力場防御要塞から、何の前ぶれもなく部隊を送り出しては無差別に地球全土を攻撃する。まだこの町には一度も戦火が及んでいないけれど、いつ大規模な攻撃があってもおかしくはない。
 けれど往来の連中を見回してみても、誰一人として生々しい戦争の足音を耳にしていなかった。そういう顔つきをしている。僕自身もそうだろう。理由も目的も分からない宇宙人を相手どった戦いにどうして現実味を感じられようか。それが分かるのは恐らく銃を握って実際に対峙した兵士だけだ。
 僕はビルの壁面に反射する夕日の色から目を背けた。そして再び往来の中を歩き出す。
 どこにも立ち寄らず、ふらふらと歩いて自宅に帰り着く。以前からの習慣で反射的にテレビを点けた。青白いディスプレイの中で妙齢のニュースキャスターが原稿を読み上げる。僕達の国の軍隊は、少数だけれど国境を越えて兵士を派遣していた。隣国の兵団と協力してどうにか宇宙人の大部隊を退けたらしい。
 チャンネルを変えてみる。どの番組も戦争の話題で持ちきりだった。と、チャンネルを変える指が止まる。
 若い女の人が晴れやかな笑顔を浮かべながら竜騎兵の宣伝を行なっていた。
 竜、騎兵。画面に映し出される漆黒の機体。彼らの駆る竜は機械仕掛の怪物だ。基本設計こそエアバイ(飛行自動二輪)を踏襲しているものの、全くの別の乗物といっていいくらい違う。

 竜騎兵の大半は若く、健康的な男子だ。竜を乗りこなすにはバランス感覚と、ある程度の筋力が必要だから。それゆえか、しばしばプロパガンダに利用され、ある意味では戦場の華形でもあった。男の子ならみな憧れるもの、そういうことらしい。馬鹿みたいな話だけれど。
 僕は歯ぎしりをしてテレビを消した。それからソファに寝そべったまま、放り投げた通学カバンを手元に引き寄せて中身を取り出す。教科書、読み終わったハンス・イーベルの短篇集、そして託されたハードカバーの本。彼は何を考えて僕にこの本を渡したのだろう。共に竜騎兵として戦う時が来たら返してくれ。そういうことなのだろうか。
 ヴィルは手の届かない金網の向こう側に行ってしまった。だから今日も返せなかった。恐らく明日も返せないだろう、明後日も、もしかしたらこのまま永遠に。
 ヴィル、なぜ君は志願した。僕はつぶやき、本の背表紙を指でなぞる。
 僕も彼も、名も知らぬ誰か――いや、正体不明の何かと――血みどろになって戦うなんて夢にも思っていなかったはずだ。文学を愛し、小説を築き、詩を編み、言葉を磨き、心のおもむくままに筆を執るのが似合っている。武器なんてとるものじゃない。君もそう考えていたはずだ。
 なのにどうして。
 最後に交わした会話は何だったか懸命に思い出そうとする。だけど浮かんでくるのは、夕闇に深く影を落とす部屋の中で、黙ったまま本を読む彼の姿だけだった。

 *

 窓辺の席に座って今日も歴史の授業を受ける。窓の外に揺蕩う夏の午後は、見かけ上去年と同じように過ぎていった。時計を見ると、授業時間の三分の二を過ぎようとしていた。そろそろあれが始まる頃だろう。
 そう思った矢先に教師は本日の講義を簡単にまとめ、黒板の文字を消して、悠然と教壇の中心に立った。
「さて、毎度お馴染みとなってしまったがよく聞いてほしい。君たちも知っての通り、人類の未来はいま、未曾有の危機に瀕している」
 教師は僕達生徒に向かって演説調に語り始めた。周囲の級友たちの反応は様々だ。飽き飽きしてあくびを漏らしている奴、何かもの言いたげに口元を緩めたり締めたりしている奴、表情の窺い知れない奴。
 残りの授業時間をすべて使い、教師はものわかりの悪い子供に言い聞かせるように幾つかの命題を示し、結論を下した。

 人類は敵性異星体の侵略を受けている。
 ならば、人類には侵略に対抗する力が必要だ。
 竜騎兵はこれまでの戦役において、絶大な戦果を上げている。
 竜騎兵隊は壮健な男子のみによって構成される。
 故に、人類は諸君らの若い力を必要としている。

 以上、よく考えてくれたまえ。 
 授業の終わりを告げる鐘が鳴り、生徒たちが教室を立ち去る中、級友の一人が着席したまま机の上の教科書に視線を落として黙考していた。僕は教室の扉をくぐりながら、あいつもきっと覚悟を決めたのだろうな、と思った。

 今日も学校の帰りに演習場に寄る。竜騎兵たちは鉄柵の遙か上空で飛行訓練を行なっていた。彼らの駆る漆黒の竜は、機体後部から青色に輝く推進剤の粒子を放ちながら優雅に空を駆ける。夕映えを集めた勇壮な戦士たち。人機一体となって鮮やかな隊列を組むその姿は、思わず見とれてしまうくらい美しかった。
 ぼんやりと眺めていると、不意に背後から声をかけられる。
「何をしているの」
 振り向けば二つ年下の幼馴染、リーナがそこに居た。
「竜を見学してたんだ。それにしても、しばらく会わないうちに痩せたね」
「そうかな、自分じゃよくわからない」
 彼女はお手上げをして首を横に振った。そして続けざまに言う。
「愛しの彼はいた?」
「そんな趣味はないよ」
 僕は嘆息して、一つ提案する。
「なあ、もし君さえよかったらうちに寄っていきなよ」
 彼女が頷いたので僕たちは演習場を後にした。
 自宅に着いてから、僕は戸棚の中からレトルト食品を幾つか選んで加熱した。よく温まったら皿に盛りつけて、パンと一緒に食卓に並べる。やはりお腹を空かせていたのか、リーナはすごい勢いで食べ始めた。
 皿の半分ほどを平らげて、彼女は一度手を休める。
「ねえ、あなたは竜騎兵として戦わないの」
「戦うつもりはない」
「お父さんとお母さんは協力してるのに? 知ってるんだよ。たしか竜の開発に携わってるんでしょ」
「あれはほとんど徴用みたいなものだから。それに、頭脳労働で協力できるのなら僕だってそうしたい」
「なにそれ。どうせ今でも小説ばっかり読んで、機械のことなんてからっきしなんでしょ」
 確かに彼女の言う通りだったが、そんな言い方をしなくてもいいだろう。
「少し黙って食べなよ。親が技術者だから、物資を優遇されているの知っててついてきたんだろ。ここならまともな食事ができるだろうって」
「そんなんじゃ、ない」
「ならばなぜ演習場で志願の話をしなかったんだい。なんとなく僕の立ち位置は理解していたんだろう。機嫌を悪くしたらうちに招かれないとでも考えていたんじゃない?」
「違うわ、断じてそんなことはない。私はそんな打算をするような人間じゃない」
 リーナが徐々に頭に血を登らせているのがよく分かった。それと裏腹に僕の肚では、黒く冷たいものが渦巻き始めていた。同じくして思考も感情も温度を拭い去られ、冷たくなっていく。理性を支配しているという感覚が、どういうわけか僕に妙な優越感を与えた。そうして僕は嘲笑まじりに言い放つ。
「本気で僕が竜騎兵に志願したほうがいいと思ってるの?」
「ええ」
「じゃあ考えてやるから、僕と寝ろよ」
 見る間にリーナの表情が険しくなる。他人が感情的になっている姿は滑稽だ。
「なに、それ。意味がわからないし話にならない。どうしてそんなことがいえるの」
「君が女で僕が男だから」
「馬鹿みたい。ただ戦うのが恐いだけなんでしょ。弱虫の意気地なし。いつまでもそうしてればいいわ。ごちそうさま」
「おい、全部食ってけよ」
 振り返りもせずに肩を怒らせ、彼女は足早に去っていった。僕は食卓に脚をのせ、手にしたスプーンを皿の上に放り投げて舌打ちをした。

 *

 あまりよく眠れない日々が続いて、今朝は日の出前に散歩をすることにした。
 興味本位だったけれど、町外れで浮浪者に声をかけられ、齧りかけのパンと煙草を交換した。彼は安物のマッチもおまけにくれた。
 しばらく歩いて、朝露に濡れる鮮やかな緑の丘に立つ。丘はなだらかに傾斜しながら生活区の裾までのびのびと広がっている。空は特別な瞬間に特有の、いわく言いがたい色相を帯びていた。淡い色だけれど、完璧に不透明というか、繊細な見かけとは裏腹に強い意志を秘めていそうな空だった。
 肌に当たると少し冷たく感じられる秋の風が吹いていた。僕は手で覆いをしながらマッチに火をつけ、煙草を吸ってみた。恐る恐る息を深く吸いこむと、喉を刺す痛みが走り、情けなく咽てしまった。僕は涙で霞む切れぎれの雲間に、赤く尾を引いて光る流星を見つけ、綺麗だな、と思った。だがそれも一瞬のことで、すぐに戦慄が全身を巡り、悪寒が背筋から這い上がってくる。
 最初一つと見えた流星は、徐々に大きさと速度と数を増やし、こちら目掛けて降ってきた。
 間違いない、奴らが来る。
 足が竦んで動けなくなる前にとにかく走れと、脳裡で声なき声が叫ぶ。目の覚めるような空襲警報が鳴り響き、僕はがむしゃらに駆けだす。
 どこに隠れる。こんな町外れじゃ人工物は見当たらない。隔離シェルターも遠い。
 僕は無我夢中で川にかかる小さな石橋の下に潜り込んだ。足首から先を冷たい流水が強く掴んでくる。でも他に逃げこむ場所なんてない。息を押し殺して石のアーチに潜み、僕はそこで本物の戦闘を見た。
 空から降ってきた敵を迎え撃つために、竜騎兵が虚空に真っ直ぐな軌跡を残して飛んでくる。太陽を背に負い、流線型の高速巡航形態でやってくる機体。よほど広い範囲で戦っているのか、このあたりは戦略的に重要ではないのか、彼はたった一機でこの宙域に飛び込む。そしてすぐさま戦闘機動形態に可変した。戦闘態勢の竜は操縦者の姿勢を起こし、フットペダルだけで加減速・方向転換が可能になる。自由になった戦士の両手は、火器をとり回して敵を焼く。
 僕は戦う姿から目が離せなかった。彼は勇猛果敢に宇宙人の操る機械を撃ち落としている。たった一人で。地上部隊は一体何をやってるんだ。
 その竜騎兵は間違いなく凄腕の戦士だったけれど、とにかく敵の数が多かった。突然彼は竜を高速巡航形態に切り替え、機首を上に向けてまっしぐらに上昇を始める。追撃する敵機の群れ。彼は背後から放たれる数多の砲撃を、捻りを駆使した不規則な螺旋運動で回避する。速度は彼のほうが上だ。どんどん突き放す。
 そして彼我のあいだに充分に距離が開くと、急激に切り返し。後方から蟻の行列みたいに追いすがる敵機向けて、竜の口から一筋の閃光が放たれる。
 最大出力だろうか、光の矢の眩しさに思わず目を細める。
 光が収まると竜騎兵の放った必殺の一撃で、かなりの敵機が駆逐されていた。
 その後、彼は敵を上手く引きつけながら戦い、徐々に数を減らしていった。日がすっかり登る頃には、野原のそこかしこに炎上する大小のスクラップと黒煙が漂っていた。そして得体のしれないものが焦げる匂いと。
 僕は戦闘が落ち着いたのを見計らって、陸に上がった。土の上に腰を下ろしてポケットの中を探ると、歪んだ煙草が出てきた。火をつけて、もう一度吸ってみる。さっきよりは随分ましだったけれど、やはり咽てしまう。だけど必死に我慢して、僕は煙草を口に咥えたまま町へ向けて歩き出す。砲撃の音はもうどこかへ消え失せていた。
 町で誰かに、とにかく誰かと会わなければ。

 *

 あの大規模な戦闘から数日して、僕は学長に呼び出された。
 戦火の影響で校舎はめちゃくちゃになっていた。だから学長室はどこか息苦しい威厳を感じさせるかつての空間ではなく、寄せ集めの資材で作られた小さな部屋だった。学長はどこか疲れている様子だったが、束の間真剣な表情を作った。そして手短かに要件だけ伝え、去っていいといった。
 あの日、ヴィルが、戦傷を負ったらしい。
 僕は学長に礼を言い、部屋を出る。そのまま教室には戻らず、すぐに学校を抜けだした。
 花でも買って病院に行こうとしたけれど、そんなものはどこにも売ってなかった。今は誰もが花に構う暇なんてないのだろう。
 僕は鞄一つだけ引っ提げて病院へ向かい、彼の居る病室へ通してもらった。
 扉を開くと、広い部屋の中に簡易式の寝台が所狭しと並べられていた。そこは健常者よりも負傷者のほうが圧倒的に多い、異質な空間だった。あちこちでうめき声が上がっていた。切羽詰まった看護婦が足早に動き回っていた。
 病室の端にヴィルの姿を認め、彼のもとに歩み寄る。ヴィルは幾重にも包帯を巻かれ、締めつけられてなんだか小さく見えた。彼になんと声をかければいいのか分からなかった。横たわる彼の左肩から先は、乱暴に扱われたソフビ人形のように欠けていた。
「やあ、見舞いに来てくれたんだね」
 と、彼の方から言ってくれる。それでも僕には掛ける言葉が思い浮かばなかった。
 ヴィルは顔をちょっと傾け、左肩を少し動かし、少しだけ困惑したような表情を見せた。そして苦笑いしながら右手で髪を掻きあげた。
「左腕、失くしてしまったよ。見ての通りにね」
 まだだんまりを続ける。
「でも後悔はしていないんだよ。僕は存分に戦った」
 ふと、微かなものが脳裏をよぎり、彼の虚勢と欺瞞の影を言葉の端から引き出せまいかと考えながら、僕は「本当に、後悔してないのかい」と問い質した。
「ああ、本当だ」
「そうか。それならいい」
 外を見ようとヴィルから視線を外したが、窓は少し遠かった。灰色の建物と、切り取られた空がうつりこんでいるだけだった。彼は失った左腕以外には、大した怪我を負っていないらしい。大多数の怪我人と違って、表情に快活さが残っていた。
「だけど、一つだけ君に伝えたいことがあるんだ。流石に最初から最後まで全部は語れないけれど、僕がこの腕を失った瞬間に何が起こったか、それを聞いてほしい」
「聞かせてくれ」
 ああ、と重くつぶやいてヴィルは話し始める。
「例えば小説の登場人物でね、タフな男がいるとするよ。そいつは物語の中ですごく活躍するんだけれど、重要な場面で銃弾を受けてしまう。彼は叫び声を上げて痛がる。すごく痛がるけれど、何か守るべきものだとか、信念のために、傷ついた身に鞭打って行動を起こそうとする。僕も正直心のどこかで、強い意志さえ持っていれば、血を流しながらでも人は戦えると考えていたんだ。多分君もそうだろう。だけど現実は全然別物だったんだよ。あの日、耳をつんざく警報とともに僕たちは緊急出撃した。空の中で敵は多く、僕達の戦力は微小だった。力の限り戦ったけれども僕は引き際を誤り、奴らの砲撃を身に受けてしまった。敵が放ってくるのは瞬時に肉体を焼いて溶かす高温の熱線だ。傷口を焼かれたおかげで、失血死は免れたけれど、その痛みは言い表わしようがない。僕はあの瞬間に罪の存在を嗅ぎとったように思う。罪が内包する深淵、地獄の下層で燃え盛る永遠の業火。僕は生きながらにして一度死に、責め苦とされる炎によって焼かれた。だがそれは一瞬の出来事だった。僕は否応なく現実世界に呼び戻され、肉体の許す以上の叫びを上げた。僕という存在が分解され、原始的で純粋な痛感それのみに還元されたみたいだった。強くあろうとした意志は、激痛という暴風に翻弄される一掬いの露にすぎなかった。僕は何も考えられず、ただ肉の発する生理的な電気信号の結果として、絶叫という行為だけが残った。そして気を失い、意識レベルの低下を感知した竜が自動操縦で僕を基地に運んでくれたんだ」
 ヴィルは語り終えるとじっと僕の目を見つめた。
「それを聞かせてどうしようってんだい」
「さあ。強いて言うなら、友人として、より真実に近いことを語ることが務めだと思ったから」
 僕はただ彼に、ありがとうと礼をして病院を後にした。

 * 

 あれから演習場に通うのをやめた。そのかわりに、寄り道することが多くなった。未だ瓦礫と災禍の傷跡残る町ではなく、生きている自然の中へ。戦闘のおりに世話になった例の石橋がある地点からさらに下流の、自宅にほど近い水門がいまのお気に入りだ。
 水は昨日と同じように今日も流れる。堰で流されずにとどまっている浮木が、その濡れた表面に黄昏の色を集めているのを眺めると、とても心が落ち着く。
 しばらくそこで風と水流の静かな音を聞いていると、道の向こうを歩いているリーナの姿が目にとまった。
 彼女もすぐこちらに気づき、横道から近づいてきた。
 リーナは何も言わず僕の傍に並び立った。僕は視線を川面に向けて投げかけていたが、目にはほとんど何も写っていない。とりとめもない思考の殻の中に意識を潜ませていたから。だから彼女が初めに何かを言ったとき、聞き返さねばならなかった。
「ヴィルに会ってきたの」
「そうなんだ」
 不意に昔のことを思い出す。幼い頃には三人でよく遊んだものだ。夏の真っ盛りには、この川で魚を釣ったんだっけ。
「彼、この間の戦いで左腕を」
「知ってるよ。僕も見舞いに行ったから」
 負傷し、白い包帯に包まれてすっかり縮んでしまったヴィル。先日、彼女に言われた言葉が今一度胸に突き刺さる。
 弱虫の意気地なし。
 でもどうしてみんな戦えるんだ。僕は男だけど彼の気持ちは分からない。それとも僕は世界でたった一人の弱虫で、意気地のない臆病者なんだろうか。でも、そんな僕にだってあの場でリーナに伝えきれなかった考えはある。
「ヴィルはどうして竜騎兵になったんだろう」
 彼は本の栞にメッセージを書いて僕に託してくれたけれど、結局そこから真意は掴めなかった。
「君は、何かを伝えられたかい」
「私ね、彼が志願する前の夜に呼び出されて、恋人同士になったの」
 それは初耳だった。だけど仕方のない事なんだ。なにせ三人の距離は随分と遠ざかっていたのだから。
「でもね、私、ヴィルも好きだけれど、あなたのことも好きなの。本当よ。いつのまにか二人が大きくなっても、私は物心ついた頃の気持ちをずっと抱えたままだった。そして私も少しづつ大きくなってる。同い年の男の子に言い寄られたこともあったけれど、そんなの全然目に入らなかった。お伽話のようだけれどね、三人で死ぬまでずっと仲良く暮らせればいいと思ってた。でも宇宙人のせいで、あなた達と一緒にいる時間はめっきり少なくなって、私のことなんか忘れちゃってるんじゃないかってすごく不安だった。だから、この前のことは本当に悪く思ってるの。優しくしてもらいたかったのに、期待が外れたから、つい乱暴なことを言ってしまって」
「いいよ、僕も悪かった。でもなぜ、僕に志願することを薦めたんだ。死ぬかもしれないっていうのに」
「あのね、男の子って結局はそういうものじゃないのかな。いつもどこか戦いたがっている節があるというか。だから、ヴィルに覚悟を話されたとき、彼を理解して、立派に送り出してあげようと思ったの。そしてあなたもまた、いつか戦いに出るんじゃないかって」
 違うんだ、それこそが僕の感じている痛みの元なんだ。苦々しい思いで手すりを握る。
「僕には戦う理由がない。それなのになぜ命を賭して戦わなくちゃいけないんだ、何を考えているのかわからない宇宙人どもと。こんなことを話せば君も世間の人たちも、僕をエゴイストだといって笑うかもしれない。でも僕は僕自身が一番大切なんだよ。それは悪いことなのかい。他人や、この世界それ自体に、自分の命ほどの価値を見いだせないんだ」
「分からない。でも覚悟というのは、そうやって自分を天秤にかけることじゃないのは分かるよ」
 彼女とのあいだに短い沈黙が降りてくる。物憂げに野鳥が鳴いた。
「こっちを見て」
 リーナはそう言うと素早い動作で僕の両頬に触れた。そして小娘として歳相応のキスを僕に与えた。
「何をするんだ」
「キスよ」
「どうして」
「だって世界はこんなにも素晴らしいもの。あなたたちがいるだけで。理屈じゃないの」
 だめだよリーナ。僕はその理屈でもって納得したいんだ。考えることを止めちゃだめだ。
 僕は彼女の頭の鈍さにほとほと嫌気が差した。でも彼女を責めるのはよそう、なんたってまだ子供だから。そういう自分自身も子供じみてるのは分かる。でも僕はどうすればいいのか分からなかった。

 *

 優しい言葉なんて一つもいらなかった。それはただ望むだけでよかった。
 やわらかな月の光が窓辺から差し込む夜、僕は彼女と寝た。彼女は初めてだったけれど、行為が終わるとどうやら満たされた気分になっているようだった。彼女に合わせてゆっくりと結びついたので、汗はほとんどかかなかった。身体全体が寝入り端のように、有るか無きかの温もりをたたえていた。
 仰向けになってじっとしていると、何を考えているの、と枕元で彼女が囁く。
「竜騎兵のこと」
「私のことは」
「少しだけ」
「せっかくこんなにも良い夜なんだから、もっと私のことも考えてほしいな」
 リーナは手を猫のように丸めて僕の胸にすがり、微かに震えながら顔をうずめた。僕は闇に浮かぶ自室の壁を眺めながら彼女の髪に触れ、慈愛の心をこめてゆっくりと頭を撫でた。
「君はヴィルの女じゃないのか」
「二人のもの、だって。そして二人は私のもの」
「貰った覚えはないし、くれてやった覚えもない」
「私と寝たのに?」
「安易に男と寝る女は嫌いだよ」
 胸の中で彼女はくすくすと笑う。
「ひどいことを言う人。でも今日は許してあげる。……ねえ、私、恐い」
「何が」
「宇宙人が。だからずっと考えないようにしてたの。多分どうにかなるだろうと思って。どこか遠い国で英雄が現れてね、悪い宇宙人を全部やっつけて、めでたしめでたし。そんな未来を想像してた。私たちが滅ぼされるわけがないと、心のどこかで思ってた。でもヴィルは、ヴィルは片腕を失くしちゃった。あなたも消えちゃうの?」
 彼女は息をつまらせながら、か細い声で語る。僕はそうだね、と相槌をひとつ入れる。
「何も考えないようにして、無為にその日その日を送っていくのってすごく簡単。それはたとえば満たされた水瓶があったとして、その中に垂らされる薄く透明な一滴の水に自分を近づけていくことなの。すごく透明度が高くて、何一つ抵抗しないままその大きな水の中に溶け込んでいけられると、とても楽。誰かのために自分自身の在り方をそのものをぶつけていく必要もないの。でも水瓶の中に、一滴の熱い血が垂らされたらどうなる。想像してみて。あなたは多分その熱い血みたいなものなんでしょう。だからあなたの生きた瞬間は、とても苦しかったものだと思う。世界の中でどんどん薄まって奪われて、自分がどこかへ消えてしまいそうな不安をずっと抱えて」
「やめてくれ」
「やめない。私も、精一杯頭を絞って考える。そして他のだれでもない私だけの気持ちに、誠実に向きあってみようと思う。ねえ、無責任に聞こえるかもしれないけれど、言わせて。竜騎兵になんかならないで。このまま緩やかに世界が終わりを迎えてもいい、その瞬間まで三人で仲良くしていようよ。空には危険がたくさんあるんだよ。そんな所には行かないで、行っちゃだめだよ」
 なんて都合のいいやつだろうと思った。僕はどうしようもなくみじめだった。無二の親友は勇敢に戦って五体不満足になったというのに、僕は年下の女の子に戦わないでいいと慰められ、赦されている。
 現実の認識から逃れようとすると、横になっているというのに心地の悪い酩酊感や、めまいが襲ってきた。
 僕は無理矢理に身体を起こし、何も言わずにリーナに覆いかぶさって、悪辣な欲望を叩きつけた。少女の肉体は苦痛に捩れ、僕から逃れようとし、口からは強く張られた弦を爪弾くような音が漏れた。
 行為の真っ最中は熱病に冒されたように何も考えずにすんだが、ひとたび終われば、世界は以前にもまして最悪な場所だった。未来はわけの分からない宇宙人のせいで真っ暗だし、何よりもただ自分への嫌悪感で潰れてしまいそうだった。
 目を瞑れば赤黒い印象の嘔吐感が現れ、脳髄の中心へ収斂していった。僕ははっきりとその印象を双眸で汲みとった。
 とめどもなく全身に寒気が走り、目につく物、手にとる物、全てを破壊しつくしたい気分になった。そうして両脚がちぎれるくらいに外を走り回って、巨大な――天地を束ねるほどの巨大な壁に――全力でぶつかり、粉々に砕けてしまいたかった。
 そうした思いが僕の昂った胸のうちから、熱い吐息として虚空に吐き出された。みぞおちのあたりがしめつけられて、苦しさのあまり、息だけしかできなかった。
 傍らでリーナがいくら嘆こうが喚こうが、僕は一つの内燃機関となって規則正しく激しい呼吸をし続けた。呼吸に集中しなければ、本当に窒息死してしまいそうだったから。

 *

 最悪の世界を壊してしまうためには、自分が死ぬか、原因を殺してしまうしかないのか。
 僕は朝のとても早い時間に再びヴィルの病室を訪れ、彼が眠っているあいだに例の本を返した。栞は抜き取って、胸ポケットに納めてある。
 そしてその足で、演習場へと向かった。
 僕は金網の前に立ち、手に入れたばかりの煙草の箱から、真っ直ぐな煙草を取り出して火をつけた。もう、深く吸い込んだってむせ返ることはない。
 その時、土埃を巻き上げながら一陣の旋風が演習場を駆け抜け、たなびいていた白煙を一瞬で連れ去った。僕は吸い殻を地に投げ捨てて踏みにじり、背の低い草叢に反吐を吐きつけた。
 そして僕は歩き出すのだ。


(了)

       

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Neetsha