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第五話「告白する静かな痩せた老人」

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 老人は竹刀を振っている。一心不乱に振っている。
 古めかしい剣道道場の中には、彼以外誰もいなかった。それもそのはずで、もう時刻は深夜二時過ぎなのだ。
 驚くべきなのは、こんな夜遅くに老人が竹刀を振っていることでは無く、彼が今の時刻を深夜ではなく早朝だと思っているところである。早朝の自主トレというわけだ。
 日の出の遅い冬の夜だった。いや、朝だった。まだ空には月がはっきりと見える。ちょうど満月で、とても美しかった。
 老人は佐藤源左衛門と言った。平成の夜にはかなり珍しい名前である。彼はこの名前が気に入っていた。
 それにしても、源左衛門は先程から少しも休まない。かれこれ2時間近くになるだろうか。素振りにしても、あまりにも時間が長すぎる。
 実は彼の目的は素振りをすることではないのだ。素振りは単なる手段であり、本当の目的は精神統一だった。そのために素振りをしている。
 では彼はなぜ精神統一をしているのだろうか。早朝から剣道の試合でもあるというのだろうか。
  違う。彼はこのあと訪れるであろう人生の一大事に向けて、一世一代の覚悟で素振りをしているのだ。
 
 突然ではあるが、この源左衛門老人、未婚である。妻に先立たれたとか、そう言ったことではなく、生まれてから一度も結婚したことが無いのだ。
 これまで一心不乱に剣道に打ち込んできた。比較的剣道を始めた年齢は遅かったが、それでも不断の努力でこうして道場を経営するまでになったのである。
 だから、だからなのだ。女子にうつつを抜かしている暇など一瞬だって無かったのだ。
 源左衛門自身も、そんな青春を過ごしたことを後悔はしていなかった。
 しかし、そんな彼に春が訪れたのは一昨年の事だった。
 道場に入門してきた初老の女性。名前は小百合といった。なんでも夫に先立たれて、張り合いがなくなったから剣道をはじめようと思ったらしい。
 源左衛門は彼女を一目見た時から、自分の中にこれまで感じたことのないものが生まれたことに気がついていた。
 しかしそれを意識すると決まりが悪いような、恥ずかしいような、なんとも言えない気分になるので、できるだけ考えないようにしていたのだった。
 小百合が道場に通うようになって、数カ月がたった時のことである。道場の外の木陰に腰を下ろして、自前の弁当を食べていた源左衛門のところへ小百合が歩み寄ってきた。そうして、先生、と言って声をかけた。
「美味しそうなお弁当を召し上がっていますね。奥様の手作りですか」
「いや、自分でこしらえたんだ。貧相な弁当で恥ずかしいな」
「あら、先生独身でいらっしゃったんですね。いえ、自分で自分の食べるものをお作りになるのは素晴らしいことですよ」
「長い間独り身だから、料理は好きなんだがね。どうも腕前のほうがついてこないよ」
「あら、とても素敵なお弁当だと思いますわよ。一見質素ですけど、とても体にいいものばかりの、実質本位の献立ですわ」
「そうかな。ありがとう。年だからね、一応体にも気を使っているんだよ」
「まだまだお若いですわよ。こうやって体に気を使われているからなんですね」
「そこまでのものじゃないよ。剣士としては、食事も精神的な鍛錬の一つなだけさ」
「あら格好良い。『武士は清貧をもって高楊枝』ってやつですね」
「ごちゃごちゃになってるよ。『武士は清貧をもって尊しとなす』、だろう」
「あらいやだ。国語はあまり得意じゃないんです」
 そう言ってはにかんで笑った小百合に、源左衛門は雷に打たれたようになった。
 自分はこの人に好意を抱いている。文字通り電撃的にそう感じてしまった。
 それからは日々大きくなる自分自身の気持ちに戸惑う毎日だった。何しろどうしたら良いのかまったくわからないのだ。
 幸いお互い独身である。思いを伝えることになんの不都合もない。しかしこの年になって初めて事におよぶ源左衛門には、あまりにも大きな障壁だった。
 毎晩小百合のことを思ってしまう。眠れない夜もあった。彼女は俺のことをどう思っているのだろうか。憎からず思ってくれているのだろうか。そんな考えばかりが巡った。
 そんなある日、源左衛門は友人に相談をした。何か思いを伝える良い方法はないか、ということだ。
 その友人は、いよいよお前にもそんな相手ができたか、と喜んでくれた。そうしてから、彼にとっておきの告白の仕方を教えてくれたのである。
 源左衛門はその方法をとても粋だと思った。そうしていよいよ決心を固めたのである。
 
 話は冒頭に戻る。日曜の早朝から、源左衛門が素振りをしているシーンだ。
 この道場では冬の日曜日には、早朝の寒稽古を行なっていた。そうして生真面目な小百合はその寒稽古に一番乗りでやってくることを、源左衛門は知っていた。
 前々からふたりきりになれる時間はここしかないと目をつけていたのである。
 いかにも個人的な訓練でござい、といったような顔で素振りをしながら、心中では小百合が来るのを今か今かと待ち構えていた。
 そうして、源左衛門の疲労が足に来始めた頃、ようやく小百合が現れた。まだ夜明けまでは少し時間のある、4時半くらいのことだった。
「あら、先生おはようございます。今日はずいぶんお早いんですのね」
「あ、ああ、おはよう。いやなに、ふと素振りがしたくなってな」
「そうなんですか。自己鍛錬、素晴らしいですわね。私も見習わせていただきます」
 そう言って小百合は、準備運動もそこそこに練習を始めた。竹刀を持たずに、いわゆる型の練習をするようだ。
 そんな小百合を横目で見ながら、源左衛門は心穏やかでなかった。
 今だ、今言え。いや、また練習を始めてしまった。あ、また休憩しているぞ、あ、でも今度は俺が素振りを始めてしまったし……。
 そんなことを繰り返しているうちに、みるみるうちに時間が過ぎていった。気がつけばそろそろ他の門下生が来てもおかしくない時間になりつつあった。
 源左衛門は必死で自分を奮いたたせる。
 行け、行くんだ源左衛門。これまでに勝負から逃亡したことがあったか。いやないだろう。老いた桜の狂い咲きと笑わば笑え。いくつであろうと、この気持には一切の偽りなし……。
 小百合がふと練習の手を止める。ちょうど源左衛門も素振りの一組を終えたところだった。
 今しかないと、源左衛門は思った。思ったその時には、もう体が動いていた。
「さ、小百合さん」
「あら、なんですか先生。小百合さんだなんて、呼んで下すったことあったかしら」
「えーとですね、その、なんだ」
「どうされたんですか、先生、ずいぶん顔色がお悪いみたい」
 源左衛門の頭の中は大恐慌だった。
 自分が何をしているのかもわからない、そんな大嵐。そんな嵐の中で、ただ一点小百合の笑顔だけが源左衛門の頭の中にあった。
 この日のために何千回、何万回と予行演習した一言が、ようやく彼の口から出る。
「つ、月が綺麗ですね」
 天窓からは格子ごしに、満月が覗いていた。
「……」
 小百合はぽかんとした表情で源左衛門を見た。
 おそらく小百合が返答するまでの間はわずか数瞬だったのだろう。しかし源左衛門にしてみればそれは果てしなく長く感じられた。
 そうしていよいよ小百合が口を開く。
「本当ですか」
「ほ、本当だ。前からずっと思っていた……」
 源左衛門は固く目を閉じてそう言った。そうしてしばらくしてから、目を開いて小百合を見た。
 そこには小百合の輝かしい笑顔があった。一瞬夜が明けたのかと錯覚したほどだ。
「嬉しいですわ。私も思ってましたの」
 源左衛門は天上の楽園へと昇った気持ちになった。
 これが愛情というものなのか。これが、これが。
 至上の快楽を享受する源左衛門の足に、しかし地獄の門番の手がかかった。
「最近ずっと突きの練習をしていましたから、そう言っていただけてとても嬉しいです。自分でも少しはうまくなったと思っていましたもので……」

 こうして源左衛門の初めての告白は静かに終わった。
 国語が苦手と言っていた小百合になぜこんな告白をしたのか、それもまた不思議ではある。
 
 だが一番不思議なのは、この後二人が末永く幸せに暮らしたことなのだ。

       

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