Neetel Inside 文芸新都
表紙

お茶飲み時ぬに
I believe you.

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 I believe you.   
 
 
 
 
 ――I believe you.
 暗い映画館のなか、スクリーン上では女が恋人に話しかけていた。
 その女のことをぼくは詳しく知らない。
 画面の上での女は実直で常に前向き、健気でいたいけな――見ている者全ての共感と同情を得ることが出来るような――現実には実在し得ない恋愛ものの主人公で、画面の外での女は、最近、巷で人気沸騰中、多くの人の注目を集めている若手女優ということになっているらしい。彼女が劇場に入る前にそう言っていた。
 隣に座っている彼女の横顔を盗み見れば、彼女は真剣に映画を見ている。
 彼女からの告白で付き合い始めてからしばらく経って、何度目かのデートにこうして映画館に来た。我ながらこういうところが杜撰(ずさん)で良くないんじゃないかと思うけど、見るタイトルは全部彼女任せにしてしまって、今こうして最近、放映となったハリウッドの恋愛ものを見ている。字幕か吹き替えかという問題も、声も演じる者の演技の一部だ、という彼女の意向で字幕の映画を選んだ。ぼく自身にとっては吹き替えも字幕も同じようなものだし、この映画自体、見ても見なくても良いと思っていたから特に異論はなかった。
 とにかく、画面の女はアイ、ビリーヴ、ユウ、と言っていた。
 急な仕事が入った。申し訳ないけど行かなければならない。君が気にかけている同僚のことは心配しなくていいよ。彼女はただのビジネスパートーナーだからね。
 英語でそんな旨を言ってその場を立ち去ろうとする男のスーツの裾をつまみ、引き留めてから相手の目を真っ直ぐに捉えて、一音、一音、確認するように、ゆっくりと、男に念を押すように。
 裏切らないでね(アイ ビリーヴ ユウ)、と。
 確かにそう言ったと思ったのに、画面下の字幕には「信じてる」とある。
 思わず小首を傾げ、おかしいなぁ、と心の中で呟いた。
 再び、隣の彼女のほうを見るも依然として彼女の視線はスクリーンに向けられている。一つの肘掛けを二人で共有していた。彼女の肘とぼくの腕が触れ合う。
 女が本当に男のことを信じていたなら、あんなふうに念を押す必要なんかないはずだ。
 シーンのコンテクストから考えて、本当に画面の女が相手の男のことを信じていたらわざわざ「信じてる」なんて言わない。相手のことを信頼しているなら、わざわざそのことを相手に表明する必要なんてないだろうと思う。
 信じてる、という信用を表す言葉で、その不実を証明してしまっている。
 なんて滑稽(こっけい)で浅ましい話だろうか。
 それだというのに画面上で男のほうは彼女の瞳を見つめて「ああ」と強く頷き、そのまま軽くキスした。さっとキスした後に男はその場から走り去っていく。取り残された女は何時までも走り去る男の背を切なげに見送っていた。それら一連のシーンは、演者の演技で、カメラワークで、照明で、バックミュージックで扇情的に、それでいてわざとらしくない程度に装飾されている。
 どこかで誰かがポップコーンを食べているらしい。油くさい臭いが劇場に漂っていた。
 肘掛けの上で彼女の手がぼくの手に触れた。彼女の手がそっとぼくの手を包む。
 物事の裏ばかりを見ようとして、言葉を額面通りに受け取れなくなってしまったのはいつからだろう?
  ――I believe you.
 映画館の暗闇のなかでスクリーンに投影されているものが、ぼくにとってひどくクサいものに思えた。

 映画館から出るとぼくたちを眩しい外の光が迎えた。突然の光度の変化に目を細める。
「とりあえず喫茶店でも行って休憩しようか」
「うん」
 映画館のすぐ側にある喫茶店を指差して彼女に提案した。喫茶店までの短い道のりを彼女と並んで歩く。彼女の隣を車が走り抜けていった。彼女はいつもぼくの右側を歩いた。車道側の彼女が気になるが彼女はぼくに右側を譲ってはくれないだろう。
 丁度、付き合い始めたばかりの頃、彼女と車道側の取り合いになったことがある。
 お互い無言で相手の右へ右へと移っていく。無言の攻防の末に彼女はこう口を開いた。
――わたし、誰かと歩くときは右側じゃないと落ち着かないの。
それじゃあ、きみが車道側に。
 ――車道側? そんなこと気にしないよ。
 でも、とぼくが言いよどむ。
 ――車道側を男が歩くのが男の矜持(きょうじ)、なんて思ってるならそういうのいいから。そんなのは矜持なんかじゃない。エゴだよ、男のエゴ。
そうなのか。
 ――そう。男に車道側歩いてもらわなくたって大丈夫だから。男に守られなくたって自分の身くらい自分で守れる。女はそんなに弱くないよ。
彼女ははっきりとそう言っていた。それが彼女のポリシーらしかった。
それ以来、彼女はいつもぼくの右側にいる。それが車道側でも、そうじゃなくても。
 また彼女の隣を車両が駆けていく。今現在、傍から見たらぼくは彼女に車道側を歩かせている彼氏になってしまうが、それはぼく側の事情であって彼女の意志を邪険にするようなことはしたくなかった。
「どうしたの?」
 車道側の彼女を気にしていたら彼女がぼくの視線に気づいて見上げてきた。背が高くない彼女がぼくの顔を見ようとしたら、自然とぼくを見上げる形になる。
「ううん、なんでもない」
 こんなにも小さいのに、彼女は強い女性(ひと)だなと思った。
 彼女の隣をまた車が駆けていった。

 映画館から少し行って喫茶店に入る。古めかしい扉を開くとドアベルの心地良い音色が鼓膜を揺らした。いつも映画帰りの人々と共にあった喫茶店には古い映画ポスターが沢山貼ってあり、店内を見まわせば若き頃のオードリー・ヘプバーンがぼくに笑いかけていた。
 彼女と二人で適当なテーブルに着く。しばらくしてぼくらの注文が決まる絶妙なタイミングでウエイトレスがオーダーを取りにきた。
「ブレンド一つ」
「わたしはアメリカンで」
 控えめな態度でオーダーをとってウエイトレスは颯爽(さっそう)と去っていく。
「ああ、なんか疲れた。映画館でずっと座ってると終わったあとに、腰がギシギシいうんだよね」
「映画を観ると、決まって目が疲れるんだけどそれはぼくだけかな?」
 ああ、わかると二人で言いあった。お互いに共感を得られると自然に盛り上がる。
「それで今日見たのはどうだった?」
 彼女はテーブル脇に据え置かれているペーパーナプキンを一枚抜き取って、ぼくに聞いた。ぼくは今日の映画を見る前に手に入れていた情報誌を出しながら答える。
「評論家の指摘通りの、インパクトもない、つまらない映画だったよ」
 おもむろにテーブルの向かい側で彼女はさっき抜き取ったナプキンを折りたたみ始めた。彼女の手にあるそれはもとの二分の一の大きさになっている。
「それに見てよ、この宣伝文句」
 ぼくは映画情報誌の一ページを指差す。
 ――ありのままの自分を認めてあげたい、認められたい。若者の等身大の愛を描いたラブストーリー。
 開いたページにはそんなコピーが書かれていた。
「『ありのままの』とか、『等身大の』とか、そういうフレーズって出した途端に安っぽくなるよね」
 そういうと、目の前で彼女は目線を手先に落としたまま深く溜息をついた。手元のナプキンはもとの四分の一の大きさになろうとしている。
「まただ。男はすぐに否定から入る」
「でも、実際にぼくはそう思ったんだ」
 ぼくが丁度、弁明したときにウエイトレスが「おまたせしました」とコーヒーを運んできた。トレーからコーヒーが二つテーブルへと置かれる。彼女の前にはアメリカン、ぼくの前にはブレンドが。
 コーヒーはブラック派なのでぼくは何もいれない。飲む前に一度、香りを楽しんでそのままカップを口へと運んだ。目の前の彼女はスプーンでカップを掻き廻しながら、ミルクピッチャーからコーヒーへとミルクを垂らす。液面ではミルクが円を作る軌跡を描いていた。コーヒーは段々と茶に染まっていき、彼女はそこに角砂糖を二つ、落とした。
「特に、あの信じてる、は酷かった。男が女のところを立ち去って行くシーン。本当に信じてる人はわざわざ信じてるなんて言わないよ。あそこの台詞は裏切らないでね、に変えたほうが良いと思うね」
 ぼくは自分の論理(ロジック)に自信があった。だからこそ自分の意見を彼女に披露したのだが、彼女の言葉はつれなかった。
「あのね。なんでもかんでも斜に構えて物を見てたら人生つまらないよ? そんな物の見方ばかりしてたら君だってつまらない人間になっちゃうんだから」
 いかにも怒ってますよ、というふうな芝居がかった表情で彼女は僕を指差す。
 冗談めかして言った彼女の言葉のなかで、つまらない人間、という一言が不意打ち気味にぼくの心に刺さって、やけに耳に残った。確かにぼくは物事を穿った目線で見てしまうし、理屈っぽくてまず否定的に物を考えてしまう――つまらない人間かもしれない。更に考えれば、どうして彼女がそんなつまらない人間であるぼくと付き合っているのかが分からなかった。
 ――好き。私と付き合ってください。
 彼女から不意にそう言われてから流れでこうして付き合うことになったが、彼女がぼくのどこを気に入ってくれているのか、未だにはっきりとぼくには分からない。
 コーヒーカップをソーサーに戻して、彼女はまた手元の紙ナプキンに視線を落とす。それは彼女の手によってもとの八分の一の大きさになろうとしていた。
「素直に騙されていたほうが良いときだってあるんだよ。遊園地に行ってわざわざ舞台裏を見ようとする人がいる? 映画だって遊園地だって、言っちゃえばみんな現実逃避をしに、楽しみに行くんでしょ? みんな見ないようにしてる裏側に文句を言っちゃうのは野暮ってもんだよ」
 それにしたって確かに今日の映画は酷かったと思うけどね、と付け加えて彼女はまた視線を手元のナプキンに落とす。
 終始、軽い口調で彼女は諭すように言ったが、その一言、一言がぼくの心に迫るものがあった。純粋に彼女の言う通りだと思った。斜に構えて、物事の裏側を見てその真理を知った気になっているぼくなんかより、ずっと達観した大人な意見を彼女は手いたずらしながら片手間に言ってのける。自分と彼女の精神の成熟の差をひどく思い知らされた。
「君は、大人だね」
 図らずも思ったことが口から零れた。彼女は手にあるナプキンをさらに小さく折りたたもうとしているところだった。幾重にも折りたたまれたナプキンは厚くなりすぎてもうこれ以上、小さくならない。
「ん? いきなりどうしたの?」
 これ以上小さく折りたたむことを諦めた彼女は、丸くなった紙ナプキンをテーブルの上に転がして、小さく笑いながら顔を上げてぼくのほう見た。
「いや、なんでもない」
「そう」
 まっすぐぼくを見つめる瞳に動揺して思わずお茶を濁す。ミルクと砂糖を入れて甘くしたコーヒーを啜る彼女は精神的に成熟していた。そんな聡明な彼女にぼくはひとつ、聞いてみたかった。
 ――どうして彼女はぼくと付き合っているんだろう?
 大人な彼女を前にしてこれ以上、強がるだとか、大人ぶる気がもうさらさらなくなってしまっていた僕は、良い機会だからここは一度素直になって、彼女に思い切って聞いてみることにした。
「ねぇ、あのさ」
「なに?」
 ぼくの呼びかけに彼女の瞳がこちらへとまっすぐに向けられる。
「どうして君はぼくと付き合っているの?」
 どぎまぎしながら彼女に聞いた。ぼくの質問を受けて、彼女はテーブルの上に転がっている丸くなったナプキンを拾い上げながら、くすりと笑った。
「確かに君は素直じゃなくてひねくれもので偏屈だけど、それ以外にそれよりもっと良いところがあるかもしれないでしょ?」
 そう言いながら彼女は手の上で転がしていたナプキンをつまんで、それを見ながら、
「少なくとも私は」
 と一息ためて、ふっと笑ってから丸まったナプキンをぼくに向かって軽く投げる。
「そう――信じてる」
 唖然としている僕の額にナプキンがこつん、と当たった。
 ――本当に信じてる人はわざわざ信じてるなんて言わないよ。
 自分が少し前に言った言葉を思い出しながら僕は苦笑いするしかなかった。
「きみは、ずるいな」
 そう言って彼女を見ると、目の前の彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見ている。
 ほろ苦いブレンドコーヒーの香りがあたりに漂っていた。
 ――I believe you.

       

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Neetsha