Neetel Inside 文芸新都
表紙

お題短篇企画
どこそこよりAとB/七瀬楓

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 ■A面『完璧に死ぬということ』


 僕が先生と出会ったのは、小学校六年生の夏休みのことだった。
 おばあちゃんの家に遊びに来ていた僕は、蒸し暑さの残る夜の縁側で、怪談話とばかりにおばあちゃんからその人の話を聞いた。
「近所にね、変な人がいるのよ」
 そんな前置きから始まったその話は、怪談としてはいまいちだったけれど、僕の幼い好奇心をくすぐるには余りある物だった。
 いわく、近所に住む若い男。その人は定職にもつかずふらふらしていて、狭い田舎では噂の的になっているとのことで。彼の名前を聞いたが、幼い僕はそこまで記憶していなかった。その頃はまだ、ニートという言葉はなく、彼はプー太郎と呼ばれていたが、僕は人生初の無職という存在に、少しだけウキウキしていた(大人はみんな職につくのが当たり前だと思っていたからだ)。
 幼くも大きな好奇心が胸を揺すぶった。それだけで、僕がその人に会いに行く理由は充分だった。住んでいる場所なんて知らないが、おばあちゃんの近所という言葉からそう遠くはないだろうと推理して、太陽が高く登ってから「探検に行ってくる!」と元気の良さをアピールし、家を飛び出した。
 しかしまあ、子供の短絡的思考がそう上手く行くはずがない。それは今になって、よくわかる。
 なにせ、子供の行動範囲は子供が思っているよりも狭い。その点、田舎はどこからどこまでを近所と呼ぶのか実に不明瞭だ。車に乗っても近所と言ってのける場合があるのだから、実に恐ろしい。
 夏の熱さにたっぷりと汗をかき、舌の根が乾いてきて、犬みたいに下をぶらさげていると、僕の前に、紺色の甚平を羽織った男が現れた。その人の周りだけ空気が冷たくて、やせ細った枯れ木の様で、僕が今まで見てきた大人よりも、どこか余裕があるように思えた。
「どうした僕。参っているように見えたぞ。というより、迷っているようにも見えるな」
「おじさん、だれ?」
「キミこそ。見かけない顔だけど」
「俺いま、この辺に居る、えーっと……。名前、なんて言ったっけなあ……。プー太郎? 探してるんだ!」
「ああ、それは多分、私だろうね」
「おじさんがその、プー太郎か!」
「……あまり言い呼ばれ方ではないねえ。まあ、他人から見たら、そうなのかもしれないが」
「へー、ほー、ふーん」
 僕は男性の周囲を回って、何かは分からないが、とにかくなにかを確かめようとした。観察というものだったのだろうが、しかしながら観察のコツという物を知らなかったので、特に何もわからない。
「……何かな?」
「いや、プー太郎って、何が普通と違うのかなあって」
「さあね。僕が知りたいさ。みんなが僕と、どこが違うのか。――ウチに来るか? 舌なんか出して。喉乾いてるんだろ」
「いいのかおじさん!」
「いいさ。子供に施すのは大人としては当然」
 今から考えると愚かしいことではあるけれど、僕は素直にその人へと着いて行った。
 近所は都会基準でも近所で、おばあちゃんの家から徒歩で五分ほど。よく言ってとても質素で、悪く言ってとても老朽化の進んだ家だった。縁側に畳の間。それから水回りが申し訳程度についた小さな家。僕は見た瞬間に「ボロいなー!」と叫んで、彼の苦笑を買ってしまった。部屋の中で目立つ物と言えば本棚かランドマークタワーのポスターくらいで、むしろランドマークタワー一つで結構なインパクトを出していた。
「まあ、ボロいかもしれないが、ゆっくりしていってくれ」
 それだけ言うと、彼は僕を縁側に座らせ、麦茶を出してくれた。まだ汗もかいておらず、キンキンに冷えた麦茶に氷を入れた物で、その冷たさに楽しくなった。
 先生が縁側に座ると、どこにいたのか。そこかしこの茂みから、あるいは敷地外から、猫達が十匹程度わらわらとやってきた。
「こいつら、おじさんが飼ってんの?」
「いや。私が餌をやって、その代わりに授業を聞いてもらっている、言わば生徒というところだ」
「生徒? 猫が?」
「ああ。人間以外も教育を受ける。これが真の平等という物ではないか。あとはやる気の問題だ。やる気のない人間と猫。そう大差はない」
「全然違うんじゃねえ?」
「どっちもあくびをするさ」
 俺はよくわからなかった。とりあえず、この男性が、教職的な物なのかと察し、「先生か」と独り言くらいのトーンで呟いた。すると彼は、「そう呼ばれるのは久しぶりだ」と照れくさそうに笑い、頬を掻いた。
 男性は、猫に向かって、「今日は夏目漱石のこころについて、教えてやろう」と優しそうに微笑み、立ち上がり本棚から文庫本を取り出してきた。
 そして開いて、ページを捲りながら、「人ってのはわけのわからないもんだ」と言い、「この本から学べるところは、人間なんて何世紀経っても変わりゃしないってことだな」そう笑った。苦笑というよりは嘲笑うような。お前らはまだそんなところに居るのかとバカにするような。教師は見せるべきではないような顔。
「わけがわからないのに、変わらないってことはわかるのか?」
「授業中に質問が返ってくるのも久しぶりだ」今度は嬉しそうだった。「ああ、俺も人間だ。そもそも、未だに明治――って、わかるか?」頷く僕。「そうか。賢いな。明治に書かれた物が、人間の共感を得ている時点で、人間なんて変わりゃしないのさ」
「ふーん」
「難しい話をしたか。いや、だがいつか習う。夏目漱石は基本中の基本だ。太宰、芥川に続く、メジャー文学だからな」
「小説なんて、俺の学校じゃ頭のいい辻本ってやつしか読んでねえぞ」
「なあに、それは頭がいいから読んでるんじゃない。ちょっとだけ早熟だから読むタイミングが早かっただけだ」
「そうなのか? でも俺、一生小説なんて読まない気がするなあ。漫画のが楽しいもん」
「まあ個人の自由だが、これだけは断言するぞ。坊や。人間は一生で一冊だけ、一生忘れられない本ができるものだ」
「そうかなあ」
「ああ。どういう経緯かは知らないけどな。……さて、授業の続きだ。お前らには『吾輩は猫である』の方がよかったかもしれないが、なに。その内やるさ。お前らの大先輩だからな」
 そう言うと、彼はあらすじを話し始めた。
 幼い僕の拙い理解度でも、『私』という男と『K』という男。この二人が『お嬢さん』という女性を取り合ったという事。そして、私が先にお嬢さんを口説き落とし、『K』は自殺した。ということまで理解できた。もちろんそこに至るまで、少しばかり話の腰を折りすぎてしまったのだが。
「なんだよ、その『K』ってやつ。ちょっと可哀想だけど、何も死ぬことないじゃんよー」
 僕の不満そうな声を理解したのか、それとも単純に餌をよこせということだったのかはわからないが、猫達は「にゃー」と僕に続くみたいにして鳴き始めた。
「ははっ。そうだね。死ぬことはなかった。逃げるとか、新たな恋を探すとか、そういう事もできたんだ。――けど、それはしなかった」
「なんで?」
「個人的な意見だが、あてつけだろうね」
「あてつけ?」
「あー……。そうだな、たとえばキミがお母さんに怒られたとしよう。そして、晩御飯は抜きだと怒られる。するとお母さんは、『あー美味しい美味しい。今日のステーキは最高だわー』なんていやみったらしく笑いながら、キミの前で厚いお肉を噛みちぎる。こうすると、相手は嫌な気持ちになるだろ? こういう感じさ」
「へー。なんかわかった!」
「これと同じさ。『K』は自分が死ぬことで、呪いをかけたんだ。もしくは、彼は自分の道、信念というものを大事にしていたからね。ダラダラと『お嬢さん』への未練を引きずりながら生きていく自分が嫌だったのかもしれないね。事実、『私』は苦しんでいたよ。最後には、乃木大将の殉職をきっかけに自ら命を断った」
 その時の先生の顔は、今でも印象に残っている。悲しそうに目を細め、どこか遠くを、ここではないどこかを見ているような。
「この頃は命というものが軽視されていたからね。戦争の所為で、至るところで命が散っていた所為かな。――キミは、そんな男になっちゃだめだよ。嫌な事があっても逃げるなってことじゃない。嫌な事があっても、逃げ方を考えるんだ」
 先生はそう言って、僕の頭を撫でてくれた。
 さらに、猫一匹一匹の頭を順番に撫でていく。僕はその当時、先生の言ったことなんてほとんど理解していなかった。だからこそ、彼が猫に授業を行なっているのを見ながら、『世の中っていうのは面白い大人がいるんだな』程度にしか思っていなかったのだ。



 それから。僕は家に帰って、なんとなく母さん達にはその事は話さないまま、地元に帰ることになった。そして、先生から教わった夏目漱石の本をきっかけに、読書へとのめり込むことになる。
 外で遊ぶのが大好きだった僕は、だんだんと外に出なくなって、性格もおとなしくなり、そのまま高校一年生に成長した。小学校六年生以来田舎には帰っていなかったが、祖父の法事がある為、田舎へ帰ることになり、バタバタを済ませた短い自由時間。虚ろな記憶を頼りに先生の自宅へと向かった。
 だが、そこで見たのは、あの時よりもさらにくたびれ、人気の無くなった空き家だけだった。表札は取り外され、野良猫のたまり場になったそこは、僕にとって信じられない光景だった。まだ悠々自適に、猫相手に授業しているのだと、思っていたのに。
「なんで……」
 ぽつりと呟く俺に、擦り寄ってくる猫が一匹。
 さすがに若い子猫で、あの時一緒に授業を受けた子ではなかった。俺は頭を撫でてやり、ぼんやりと家を見る。
「そこの家の人、つい最近自殺したわよ」
 後ろから、知らない人の声が聞こえて、振り返る。
 おそらくは近所の人だろう。中年のおばさん。
「じ、自殺……? なんで!?」
「知らないわよ。ついこの間、突然ね。定職につかないわ、猫に話しかけるわ、危ない人でねえ。この間いきなり、ここで首吊りよ。身内がいないらしくて、結局近くの共同墓地に入ったみたいだけど」
「そ、そうですか」
「なに、あなた知り合い?」
「いや……」
「あらそう」
 おばさんは興味を無くしたようで、離れていった。
 僕はというと、先生と自分の関係がわからなくって、あの一日しか会っていないのだから悲しむべきなのかどうかもわからず、途方に暮れていた。
 しかしすぐに、取り残された時間を取り返そうと、縁側から家に入った。靴を脱ごうか迷ったのだが、埃やらなにやらで汚かったので、そのまま入ることに。
 そうして、きょろきょろと辺りを見回す。飾り気のない部屋で、目立つ物と言えば本棚くらい。そういえばあの時、先生は『こころ』をこの中から取り出していた。すぐに本棚を調べ、『こころ』を見つけ、取り出す。
 封筒が、挟まっていた。
 取り出し、開いた。


  ■


 これを読んでいる誰かへ。

 死ぬことを決めたのに大したきっかけはない。強いて言えば、もう誰の心にも私はいないだろうと思ったからだ。自殺すると必ず他人の心に影響を与えてしまうものであり、それは私にとってあまりにも美しくない。だから、やんわりと消えていこうと思った。人に迷惑をかけないように死ぬというのは、覚悟と時間がいる。人に忘れ去られる覚悟と、それを行うだけの時間。私は誰の心からも消えたかった。
 私が死んだということを誰にも知られず、誰の心にも残らず、本当の意味で死にたかった。
 そもそも死にたいと思ったのは、なんてことのない、ちょっとした気の迷いみたいな物で。人間嫌いだった私が、教師になってしまったことがそもそも人生の間違いだった。それでも、せっかくの職だし、頑張っていた。そうする内に、同僚の教師と恋人になり、努力というのは報われるのだなと感涙したのだが、しかしまあ、世の中っていうのはそう甘くもないもので、私は唯一の友に裏切られた。寝取られたのだ。
 それからというもの、私は人間が何か雑菌の固まりのようにしか見えなくなった。愛していても、同じだけ愛してくれるとは限らないし、親友だと思っていた男は私が彼女と交際していたことは知っていたはずだ。しかし、彼らは裏切った。
 そして、それにショックを抱いている自分というのもイヤだった。
 私はもう、自分が人間であるということも、人間と関わるということも嫌だった。
 だから、私を知っている人間のいない場所へ行く事にした。そうして、人から忘れ去られ、そろそろいいだろうという頃合いで死ぬことにしたのだ。
 本当は『こころ』の下くらいの長さで書いてみようかと思ったが、誰に読まれるかもわからない。そんな文章は虚しいだけだ。こうしている間にも、いまさらながら、誰の心にも残っていないという自分が少しだけ、寂しく思える。
 けれどそれは望んだことであり、少しだけ高揚感もあった。私が望んで、こうなったのだ。
 けれども、そんな中で、私の中には、一人だけこの遺書を読んでいそうな少年が思い浮かんでいる。
 もし知ったら悲しむのかもしれないし、このまま知らないで生きて欲しいとも思える。
 これを読んで、辛い思いをさせてしまうかもしれない。だったら書かなければいい。あの頃のキミなら、きっとそう答えると思う。けれど、人間というのはわからないもので、書かなければいいと私でも思うのに、書きたいのだ。キミに覚えておいてほしいと、そう思ってしまっている。
 私が望んだ物と少し違っているが、できれば読んでいないということを祈る。
 私の望みは、完全なる死だから。


  ■


 僕は読み終えて、少し嫌な気分になった。
 先生も自分勝手だ。僕にいろいろ押し付けて、挙句勝手に一人で死ぬなんて。せめて、もう一度だけ会いたかった。――いや、きっと何回会っても言ってしまう言葉だ。
 自殺と自然な死が違うのは、きっとこういうことだ。死に対する心の準備は、周りの人間もしなくてはならない。無理に死期を早めるのは歪みを生む。
 先生。僕はきっと、あなたみたいにはなりません。完全なる死なんて望みません。
 だから、僕もあなたをずっと覚えています。そうして、あなたをできるだけ長くこの世界に留めておく。
 反面教師のあなたが、どれだかバカだったのかを教えるために。




 ■B面『田舎は幽霊とゴキブリが出やすいのは基本』


「あいつら、もうヤッたのかな?」
 磯村は煙草を吹かしながら、そのあいつらが居る部屋の方を見ながら呟いた。遠藤は「あの調子だと、まだなんじゃねえの?」と呟いて、彼も磯村を真似る様に煙草に火を点けた。
 遠藤と磯村は、あいつら――広永と宮前――のカップルと、遠藤の実家付近にある民宿に泊まりに来ていた。大学も夏休みに入り、旅行に行こうという話になり、グループの四人で来たわけだが。
「あの調子だと、手を握ってるかもわかんねえな」
「さすがに手くらいは握ってんだろー。あいつら付き合いだして二年くらいだろ? おいおい。エロゲーヒロインだったら孕んでるどころの騒ぎじゃねえだろ」
 磯村の言葉に、遠藤は頷いた。
「そうだな……エロゲーだったらそろそろ違うことしてみよっか、とか言ってちょっと一般じゃしないようなキツイプレイに入るところだな。野外とか」
「あーわりい。俺、蟲と陵辱しかやらねえんだよ」
「お前それでも人間か!?」
 ネジ曲がった性癖を持つ男、磯村。
 遠藤は呆れ、部屋の窓を開けながら「おめえの性癖なんて聞いてねえんだよ。あと、俺はイチャラブ派だ。覚えとけ」と言い、窓の外を眺める。
「なにがイチャラブ派だよ。お前ヤンデレ好きじゃん。生粋のドMじゃん。さすがの俺も引くわ。包丁持ちだされても構わないとか、どこの世紀末だよ」
「お前よりマシだ馬鹿野郎! いいだろうが! 女の子に一番似合うアクセサリーは包丁あるいは光物なんだよ!」
「ないわー」
「無くねえよ! てめえいつも言おうと思ってたんだが……あ?」
「ん? どうした?」
「広永と宮前がどっか行くみたいなんだよ」
「マジで? ――や、野外プレイ!? もうそこまで大人の怪談登ってたのか!?」
「見に行くか」
「まったく興味ないが……。しかたねえな」
 遠藤と磯村は立ち上がり、互いに顔を向かい合わせ、ゲスく笑いあった。


 カップル二人は民宿を出ると、近くの森に向かった。暗く蒸し暑く、蚊にもしこたま刺されそうな夜で、汗とか土の匂いとか葉っぱの青臭い匂いとかが合わさって、そこそこ不快な夜だった。
 遠藤と磯村は、カップルが向かい合い、もじもじと話をしている場所から五メートルほど離れた茂みの中に隠れてその動向を窺う。
「おいおい……ありゃあまだキスもしてねえくらいなんじゃねえの?」
 と、妙に鋭い眼光の磯村は、顎を摩りながら呟いた。
「マジで……? 俺彼女なんかできたらすぐだよすぐ」
「そう言ってるやつほどそうでもねえんだよなあ」
「確かに……。俺彼女できたことねえもんな……」
「俺はあるよ」磯村のドヤ顔。イラッときたのか、遠藤はその頬を叩いた。
「ちっきしょうなんで俺の周りリア充ばっかなんだよ世界滅びたらいいのに。もしくはみんな俺と同じくらい幸せになればいいのに」
「やめろやめろ。お前と同じレベルになったらそれはもう不幸だ」
「磯村お前ホントいつか殺すからな」
「はいはいわかった。んなことより、今はあいつらがどこまでこの場で行くかだ。旅行と夏だぞ。開放的になるだろ。開放的になる要素がコンボ作ってるんだから、そりゃあもうねっとりイクだろ」
「そうかあ? 二年あったんだぞ? こんな機会あっただろ」
「バーカ。これだから二次元しか相手にしたことない男は」
「ちっきしょう。ぐうの音も出ねえ」
「二人っきりで夜の森来て、あんな顔真っ赤にするやつらが一線超えてるわけねえだろ」
「なーるほどねえ」
「あのー」
 二人の間に、まったく聞き覚えのない声が聞こえた。
 顔を見合わせる二人。視界の端に、なにか白いものが見えて、振り返る。
 そこに居たのは、やたらと青白い顔で、ステレオタイプの幽霊が巻いている三角頭巾を巻いている上、着ている物も死に装束と気合が入っている二人と同い年程度の男性だった。
「あ? 誰。覗きの人?」
 磯村の訝しむような目線に、遠藤は「バカだな。こんな格好して覗くかよ。こりゃ、あれだろ。肝試しだろ。肝試しコースなのかここ?」
「いや、まあ、確かによく肝試しでは使われますが……」
「なんだそうか。わりいな。でもちょっと待ってくれよ。こっからがいいとこなんだよ」
 磯村はその死に装束の男の肩を叩いて、いい笑顔を見せた。
「なあ磯村ー」
「んだよ遠藤。お前もこのハリキリ・ボーイ説得しろよ。夏満喫するのはいいけど、他のやつの満喫邪魔すんなって」
「いやさあ、この人のハリキリっぷりもバカにできねえぞ。見ろよこの人の足首から下」
「ああ?」
 磯村が男の足首に目を向ける。そこには、足がなかった。
「あ、ない。え、なに、本物?」
「ええ、まあ……。なんで怖がってくれないんですかねえ……」
「タイミング逃したよなあ遠藤」
「ああ。お前幽霊アピール下手だわー」
「なんすか幽霊アピールって! 幽霊歴そこそこですけど聞いたことないですよ!」
「それに幽霊なんてなあ。俺ら散々エロゲーで攻略したから今更怖くねえわ」
 酷く納得していなさそうな幽霊は放って、二人は再び茂みから顔を出した。
 しかしカップル達は相変わらず悶々としているようで、まったく状況は進展してなかった。
「ちょっと困るんスよー怖がってもらわないとー。バイト代出ねえんですよー」
 二人の肩を掴む幽霊。が、そんな幽霊を邪魔そうに睨み返す二人。
「なに、幽霊って怖がらせてバイト代もらうの?」
 と、若干そういう話が好きな遠藤の方が食いつく。おい相手すんな、と言いたげな磯村の視線は無視。
「ええ、まあ。しかも歩合制なんすよ……。でもなーんか、最近俺みたいな普通の人間霊じゃ怖がってもらえなくて……」
「あー、最近ホラー映画とか豊富だもんな。昔の人より確実に手強いだろうな」
「みたいなんすよ……。ほんと、商売上がったりですよ。そろそろ転職考えようかなあ」
「幽霊業界も大変なんだなあ」
「いやもう、ほんとに」
 どうやら幽霊は、遠藤なら話を聞いてくれそうだと思ったのだろう。遠藤に向き直った。
「……おい、幽霊」
 が、そこで次に口を開いたのは、磯村だった。
「要するに、怖がらせる人材がいるんだろ? だったらあそこにちょうどいい物件があるぜ」
 と、磯村は茂みの向こうにいる二人を指差した。
「はあ? お前、この幽霊をあいつらに差し向ける気かよ」
 もちろん、心配そうに口をはさむ遠藤だが、それとは反対に磯村の顔は余裕そのものだった。
「怖がらせて急接近。吊り橋効果ってやつだよ。付き合ってるやつに効果あるのかは知らねえけど……。いいんじゃねえ? こっちの人はバイト代入るし、向こうは一線を越えられる。一石二鳥だろ」
「なるほどねえ……。ま、悪くはなさそうだけど。こっちの幽霊さんがやるかどうか」
「やります!」
「よく言ったあ!」
 絶対面白がってるだけだよなあ、と額を抑えて溜息を吐く遠藤。
 幽霊は磯村と握手すると、すくりと立ち上がり、カップルに向かって走り始めた。
「うーらーめーしーやー!!」
 今時それかよ。っていうか声力強いわ。
 遠藤と磯村の思考はそんな風にシンクロした。
 どんどんカップルに向かっていく幽霊。そして目の前まで行くと、自らの体を大きく見せる為か、両手を挙げてふしゃーとか言っていた。猫かよ、と呟く遠藤。
「いやああああああああッ!!」
 しかし、女の方、宮前の強力な蹴りが、幽霊の股間に直撃したのだった。
「んっほおおおおおおおおおおおッ!?」
「あ、やっべ。宮前空手やってんの言い忘れた」と、どうでもよさそうに呟く磯村。
「幽霊も、股間はいてえんだな」
 逃げていくカップル達を見て、遠藤と磯村は頷いた。
「……帰るか」
「そうだな。俺も金玉犠牲にしたくねえや」
 二人は再び頷くと、踵を返して逃げるように走り去った。
 その最中、後ろから「転職しよう……」と切ない声が聞こえたきたので、二人は就活がんばろうと誓ったのだった。

       

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