Neetel Inside 文芸新都
表紙

お題短篇企画
アッシュ/猫瀬

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 半年ぶりに、姉さんから電話がかかってきた。
 机の上には真っ白な年賀状がたくさん散らかっている。ちょうどいまから書こうと思っていたところだった。毎年、僕は直筆で年賀状を書く。別に書道を習っていたわけでも、ボールペン講座を受けていたわけでもない。字の上手さは普通の方だろう。だけどやっぱり、直筆で書いた方が思いがこもっているような気がするのだ。年賀状を出す相手のほとんどは親戚だとか、中学高校の同級生や恩師だとか滅多に会わない人ばかりなのだから、どうせ書くなら思いがこもってた方がいい。もちろん、その分すごく手間はかかるけれど。
 ひさしぶりの電話を不思議に思いながら、ケータイを手に取る。
「裕二、いま彼女いるの?」
 第一声がそれだったので、僕は思わずため息を漏らした。
「余計な心配しなくていいよ……」
「いるのか、いないのか」
「……いないけど」
「そう、じゃあ年末も暇よね。わたしの家に来なさいよ」
 姉さんの言葉に仕方なく押されて答えたけれど、話の展開が急すぎてうまく掴めない。姉さんは昔からいつもこうだ。要点しか話さないので、姉さんが何を話したいのかという意図をはやく理解しないと話に置いて行かれる。仕事がよくできる男のような頭をしているんだ。
「家にって、急にどうして」
「わたし、倒れちゃったのよ」
 一瞬思考が止まる。倒れる。病気、疲労、事故……。いろんな言葉が思い浮かんだけれど、この声を聞くかぎり、元気そうな姿しか浮かばなかった。
「それ、本当に言ってるの」
「こんな嘘つくわけないでしょ」
「倒れたって、体大丈夫なの」
「それが大丈夫じゃなくてさ、もう長くないみたいなの」
「え、なに言って……」
「あと一年半みたい。そう言われちゃった」
 窓から見あげた空には、笑えるくらい綺麗な満月があった。一度、長いまばたきをしてみたけれど、その景色は何ひとつとして変わってくれなかった。



 姉さんの電話は、冗談なんかじゃなかった。
 仕事が年末の休みに入ると、僕は電車を乗り継いで、姉さんの住んでいる町に向かった。電車で行くことにしたのは、行くのは僕一人ということと、車よりは早く着くだろうという理由でだった。
 名古屋で新幹線を降りて、私鉄の特急に乗り換える。着いた頃にはもう日は落ちていた。外の冷たい空気が肺に流れ込んでくる。
「紗綾ちゃんか」
「はい」
「大きくなったなぁ、全然わからなかった」
「さいごに会ったの、小学生のときですから」
 駅を出ると、紗綾ちゃんが迎えに来てくれていた。
 彼女は笑っている顔がとても可愛かった。もし同い年だったなら、僕はきっと今頃彼女に惚れているだろう。実の姪に対してそんな感想を抱くのは、自分でもどうなんだろうかと自責的に思いもしたが、やはりいくら探しても、彼女のなかに僕の面影は何ひとつとしてなかった。よく考えてみれば、姉さんと僕にだって似ているところがほとんどないのだから、当たり前なのかもしれない。
 僕たちはそれから、姉さんの家へ向かって歩き出した。僕が姉さんの家へ行くのは今回がはじめてのことだった。この町自体にははじめて来たわけじゃないが、道を知っているわけでもない。紗綾ちゃんが来てくれたのは、僕を家まで案内するためだった。
「このデパート、潰れたんだね」
「三光百貨店ですか」
 目の前には大きな建物があった。建物というよりは、廃ビルといった方がいいかもしれない。明かりがひとつも点いていないから、近くに来るまで気がつけなかったほどだ。
「たしか閉店したのはわたしが中一のときだったから、四年前です」
「じゃあ、四年間もこのままなのか」
「そうですね」
 買い取るところもなければ、取り壊すのにもお金がかかるからだろうか。だけどなにもそのままにしておくこともないんじゃないか。看板だってそのままだ。町の玄関口ともいえる駅前。こんな目立つような場所に建っているのに、まるでこの町を象徴するかのように空虚感だけを誇示している。
「来たことあったんですね、この町」
「はじめて来たと思ってた?」
「はい」
「まあ、高校生のときに一度来ただけだから、はじめてみたいなものなんだけどね」
「遠足とかで、ですか」
「いや、自転車旅行。一人旅で」
「いいなあ、そういうの」
 紗綾ちゃんはくるっと振り返ると、そのまま後ろ歩きで歩き始めた。
「女の子じゃなかなかそういうのできないか。かわいい子には旅をさせろ、とか言うけど」
「まず絶対お母さんが許してくれない」
「だろうね」
 僕たちは声を合わせて笑う。
 僕はこの町が好きだ。はじめてこの町に来たのは、高校一年生の夏休みだった。つまり、あれからもう十七年も経ってしまったというわけだ。それはちょうど紗綾ちゃんの年と同じだけの時間で、僕もこの町も、変わるには十分な時間だった。
 姉さんはどうしてこの町に住もうと思ったのだろうか。仕事なら別にここじゃなくたって姉さんならみつけられたはずだ。僕が自転車旅行でここに来た話を、姉さんにした覚えはない。もしかしたら写真くらいなら見せていたかもしれないが、たとえそのことを姉さんが覚えていたとしても、住もうとまでは思わせないだろう。
「姉さんは――元気?」
 お母さんは、と言い直そうとしたけれど、途中でやめた。
「食欲だけはありますよ。でもさいきんちょっと痩せたかな」
「そうなんだ。姉さんらしい」
 紗綾ちゃんはまだ、姉さんの病気のことを知らない。姉さんがまだ言ってないのだ。倒れたのは疲れのせいと言ってあるらしい。余命宣告されたことを伝えているのはまだ僕だけというのだから驚く。
 普通は実娘に真っ先に言うもんじゃないのか。何年も会ってない弟の僕が先だなんて。だけど、それも姉さんなりの考えがあってのことなのかもしれない。
 父さんと母さんにも、もちろん連絡はしていないらしい。姉さんは大学卒業してすぐ父さんたちの反対を押し切って結婚したけれど、その相手には、紗綾ちゃんが生まれてすぐに逃げられてしまった。
 その後、実家に帰ってきた姉さんは父さんたちと大喧嘩して、姉さんが「一人で育てる」と言って出て行った以来、お互い一切連絡を取らなくなった。何か大事な要件があるときは、いつも僕を間に介してだ。きっと今回もそのうち僕が伝えることになるんだろうなあ。
「お母さんって昔、どんな人だったんですか」
「昔?」
「わたし、そういうの全然聞いたことないんです」
 そりゃそうだろう。親戚と会う機会もほとんどないだろうし、ここは姉さんが育った町でもないから知り合いとばったり会うなんてこともない。僕が紗綾ちゃんとこうやって会うのも、実に八年ぶりのことだった。
 僕は昔を思い出しながら、姉さんの話をした。それは昔見た古い映画を思い出す作業に似ていた。紗綾ちゃんは時々質問をいれながら、僕の話を興味津々に聞いた。だけど、どこからか、紗綾ちゃんの質問がいままでのものと変わった。
「叔父さんは、お母さんのことどう思ってますか」
「どうって?」
「馬鹿、だと思いますか」
 その言葉は、やたら僕の胸にぐさりと刺さった。
 紗綾ちゃんが、どういう思いでその言葉を紡いだのか、僕には到底はかれない。けれど、ここでうろたえるわけにもいかなかった。こういう人がどきりとするような質問をするところは、正直姉さんとそっくりだ。
「変な話かもしれないけど、僕にとって姉さんはずっと憧れだったんだ」
「憧れ……」
「歳が離れてたっていうのもあるかもしれないけど、勉強もできるし、人から頼られる人気者だったし、そのせいで比べられることもよくあったけどね」
「そう、ですか……」
「紗綾ちゃんは、姉さんのこと馬鹿だと思ってるの?」
「いいえ、そんな……」
「じゃあ、そんな質問しちゃ駄目だ」
「……はい」
 紗綾ちゃんは顔をマフラーに沈めると、それっきり会話は途切れてしまった。少し説教っぽく言いすぎてしまっただろうか。
 彼女とは何年も顔を合わせていなかったし、お互い顔もよく覚えていないような状態だったから、正直二人っきりで会うのは少し不安だったけれど、思った以上に話をすることができたような気がする。
 紗綾ちゃんは国公立の大学を狙っているらしい。僕は感心するしかなかった。僕が高校二年の時は、大学受験なんてまだ漠然としか意識していなかった。今日も図書館で勉強してきた帰りに、駅に寄ってくれたらしい。
「寒いけど、まだ雪は降らないんだね」
「降るのは、いつも年を越してからです」
「そうなんだ」
「あっ……」
「ん、どうしたの」
「アッシュ」
 僕は聞きなれない言葉に首をかしげる。すると紗綾ちゃんはいきなり小走りで駆けだしたので、僕は置いてけぼりにされた。薄茶色のマフラーから飛び出た紗綾ちゃんの黒い髪が、左右にゆれるのをみつめる。彼女は八メートルほど先で、その場にしゃがみこんだ。
「どうしたの」
 僕も小走りで追いつくと、道の端でかがんだ紗綾ちゃんの胸には、いつのまにか白い猫が抱きかかえられていた。白い猫は少し嫌がるように「なー」と一声鳴いたが、特に抵抗もせず、彼女の腕のなかで落ち着いている。首元をよく見ると、赤い首輪が見えた。
「飼ってる猫?」
「そうです。散歩の帰りだったみたい」
「こんな寒いのによく散歩なんてするね」
「少し前まで野良だったから。なんか家よりも外歩いてる方が落ち着くみたいで」
「そうなんだ」
 僕は猫を撫でようと手を伸ばしたけれど、途中でやめた。別に動物が嫌いなわけではない。むしろ猫は好きだ。だけど猫にも二種類の猫がいる。撫でると怒ると猫と、そうでない猫だ。
「たぶん、大丈夫だと思いますよ。元野良ですけど、人に慣れてるから」
 彼女がそう言うので、もう一度手を伸ばす。頭を撫でると、白い猫は嫌そうな鳴き声を出しながらも両目を閉じた。
「アッシュっていうんです」
「名前?」
「はい。英語で“灰”っていう意味の。タバコとか、火山の」
「灰?」
 僕はもう一度猫を見たけれど、やっぱり猫は白色だった。
「変な名前ですよね」
「どうして“灰”なの」
「わたしは最初シロって呼んでたんですけど、友達でこの子をクロって呼ぶ人がいて」
「シロはわかるけど……」
「この子、尻尾だけ黒色なんです」
 紗綾ちゃんがアッシュを地面に下ろすと、アッシュは黒いタイツを履いた紗綾ちゃんの足に擦り寄った。尻尾を見てみると、たしかにきれいにお尻から先の部分だけが黒色だった。
「その友達は“この猫をこの猫たらしめているのはこの特徴的な黒い尻尾なのだから、クロなんだ”とか言ってて」
「理屈っぽいね。哲学みたいだ」
「そうなんです、理屈っぽくて」
 紗綾ちゃんにいつのまにか笑顔が戻っていた。おそらく紗綾ちゃんが言ってる“その友達”とは、男の子なんだろうなと思った。だからと言って茶化すようなことはしないけれど。
「その理屈もわかるけれどね。でも、この猫は完全な白でも黒でもないから、シロという名前もクロという名前もおかしいかな」
「うう、叔父さんも理屈っぽいですね」
「そう?」
「わたしたちもそう思って、間をとって灰色にしようってことにしたんです。でもグレイっていう名前もおかしいから、灰だけの意味でアッシュ」
「なるほど。アッシュか」
 紗綾ちゃんが再びアッシュを抱えると、僕たちは姉さんの待つ家へ向かって歩き出した。



   *



 ひさしぶりに会った裕二は、相変わらず元気そうだった。
 元気そうというよりは、前会った時と全然変わってない印象だ。もう彼も三十歳を越えたおっさんのはずなのに、雰囲気はまるで新入社員のようだった。わたしは何だか自分だけが老けたみたいな気がして、少しむっとする。
「いいなあ、こたつあるんだ」
 裕二がコートを脱ぎながら暢気にそんなことを言う。
 普通はひさしぶりに会ったんだから挨拶のひとつでもするもんじゃないの。けれど、そんなことをされたら堅苦しいだけかもしれない。裕二なりに考えて接してくれているのだろうか。そんなわけないか。
「みかんもあるわよ」
 わたしもなんとなく、昔のように接してみる。
「こたつにみかんに猫、か。なんかこれぞ田舎って感じだ」
「なんか悪意感じるんだけど」
「悪意なんてないって。むしろ褒めてるよ」
「そう。なに、アッシュも帰ってきたの?」
 裕二が猫のことを知ってるなんて変だなと思ったら、後ろから入ってきた紗綾がアッシュを胸に抱えていた。相変わらず不機嫌そうな顔してる。
「うん、ちょうど歩いてたから拾ってきた」
「紗綾、ちゃんとアッシュの足拭いた?」
「うん、拭いた拭いた」
 紗綾の腕から下ろされたアッシュは、そのままのそりのそりとわたしの方に向かって歩いてきた。膝の上にでも乗りにくるのだろうかと思ったけれど、アッシュはそのままこたつのなかに潜り込んでいった。寒いなら外なんて出歩かなきゃいいのに、何がしたいんだろう。もしかして寒暖の差を楽しんでいるのだろうか。
「裕二、お土産は」
「なに、お土産って」
「ないの?」
「ないけど」
「ひどい弟ね。姉をいたわる気持ちがないとは」
「東京のお土産ってなんかあるか」
「東京ばな奈とか」
「そんなのでいいのか」
 裕二もこたつに入る。紗綾はそのまま台所に向かった。今日は鍋をする予定だ。
 元々我が家では鍋料理なんてほとんどしなかったけれど、今年の秋の終わりに二人用のミニ鍋を近くのスーパーで買ってからは、頻繁にするようになった。鍋は簡単にできて、あったかくて、おいしい。だけど三人だと逆に今度はミニ鍋では小さいだろうから、焼き魚なども用意してある。
 わたしが倒れてから、料理はすべて紗綾がつくるようになった。倒れる以前から、わたしが台所に立つのは週にせいぜい一、二回程度のことだったので、紗綾も別に負担が増えたとは思っていないらしい。
 自慢できることなのかどうかわからないけれど、紗綾はわたしよりも料理がうまい。元々わたしはそんなに料理が得意でもなかったので、料理で紗綾に教えたことはほとんどないと言ってもいい。それなのに、いつのまにか紗綾にとって料理は半ば趣味のようなものになっていて、いまではつくること自体が楽しいらしい。
 どうしてこうもわたしとは違うのだろうか。料理だけじゃない。身長だって中三の頃にわたしを抜かした。それはあの人に似たのかもしれないけれど、胸までわたしより大きいのは納得がいかない。
「紗綾ちゃんがつくったの? これ全部」
 夕食が始まってすぐ、裕二が驚いた様子で言った。
「はい」
「うまいね。料理なんて誰に教えてもらったの?」
 裕二はわたしが料理得意でないのを知っているからか、そんな質問を平気でした。普通、娘が料理上手だったら、教えたのは母親だろうに。
「わたしが教えたとは考えないわけ?」
「姉さんが教えたの?」
「違うけど」
「だろうね」
「ムカつく。というか、紗綾もなんで笑ってるの」
「いや、本当に兄弟なんだなって思って」
「なに言ってるの、当たり前じゃない」
 わたしがそう言っても、紗綾は笑い続けた。そんなにおかしなことなのだろうか。わたしにはくすくすと笑い続ける紗綾の方が不思議だった。
 たしかに、わたしたちは兄弟としては比較的仲がいい方なのだろう。普通、お互い三十を過ぎた兄弟なんてものはもっと冷めているものだ。
 わたしと裕二は、きっと昔のまま時間が止まっているのだ。お互い大人になってから、特に二十代の間はほとんど関わってこなかったから、そのまま時間だけが経ってしまった。そうなったのは、間違いなくわたしがあんな早くに結婚したせいだろう。
「わたしも兄弟欲しいな」
「無茶言わないでよね」



 裕二と二人っきりで話をすることになったのは、夜遅くになってからだった。
 紗綾は寝たわけではないが、自分の部屋にいる。おそらく勉強をしているのだろう。毎晩、寝る前に机に向かうのは紗綾の日課だが、今日はいつもに比べて随分と早い。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
 こたつで向かい合わせ。居間にはテレビの音だけが流れていた。裕二はいろんな芋焼酎を飲み比べている。芋焼酎は、わたしが企業カウンセラーとしてお世話になっている会社の人からもらったものだった。その会社では年に何度か九州へ社員旅行に行っていて、そのお土産として芋焼酎を毎回もらう。けれど、わたしはあまり飲む方じゃないから、家には開けてないままの芋焼酎の瓶が何本かある。
「何気にあんたがお酒飲んでるところ、はじめて見るかも」
「そうだっけ」
「強いの?」
「毎日飲んでたら嫌でも強くなったよ」
「サラリーマンねえ」
「サラリーマンだよ」
「わたしも飲もうかな」
「飲んで大丈夫なの」
「少しだけならね。でも、やっぱり今日はやめとくわ」
 わたし自身、ときどき忘れてしまうけれど、わたしの体はもうそんなに長く持たない。ただ、こうやって家のなかで暮らす限りはなんともないし、病院も治療を一度受けただけですぐ退院することができた。いまだにどこか、病気のことを信じ切れてないのはたしかだ。
 けれど、わたしの病気が完全に治ることは絶対にない。ゆっくりと、ゆっくりとわたしの体を蝕んでいく。きっといつかこんな生活にも限界が来る。
「どうして教えてあげないんだよ」
「紗綾のこと?」
 裕二は無言でグラスを口に運ぶ。
「わたし、一年半って言われたとき、ショックだったのはもちろんなんだけど、同時に一年半でよかったって思ったんだよね。だって一年以上あれば、高校卒業までは生きてられるわけだし」
「でも、そのうち入院もしないといけないだろ」
「ちゃんとわかってる。でも、あの子見てるとね、受験勉強の負担にさせたくないなって思うの」
「そうかもしんないけどさ……」
「もしかしてあんた、わたしがさいしょにあんたに伝えたの怒ってるの?」
 裕二はまた無言でグラスを口に運んだ。
「怒ってるというか、理由がよくわからない」
「それはあんたが弟だからよ」
「それだけ?」
「それだけ。わたしがいまさらお父さんに頼るとでも思ってる?」
 さすがにお父さんも、実の娘があと余命一年半と知れば、態度を変えてわたしのことを心配してくれるかもしれない。もう一回、ちゃんと話ができるかもしれない。でも、ここまで来たらもう意地だった。死ぬまで貫きたい意地だった。
「姉さんはいちおうこの道のプロだよな」
「そうよ。いちおうね」
 わたしは心理カウンセラーとして生計を立ててきた。学校、企業、病院……。いろんな場所で、いろんな人を見てきた。そのなかには、余命宣告をされた末期がん患者などもいた。さすがに自分のこととなると、他人を診るようにはいかないけれど、それでもわたしは専門家として、誰よりもこの余命宣告を上手に使ってやる、そんな自信がある。
「姉さんの好きなようにやればいいよ。なんかあったら、いつでも手伝うから」
 そう言った裕二の姿は、いままでで一番大人に見えた。いや、たしかに裕二は大人だ。お酒だって飲む。だからこそわたしは裕二に余命のことをさいしょに伝えた。自分が一番頼れる大人として。家族として。
「やっぱりわたしも飲もうかな」
「これが一番飲みやすいよ」
 裕二が焼酎を注いでくれる。その手はなんだか大きかった。



   *



 お母さんは昔からずっと早起きだ。
 早起きというよりかは、睡眠時間が極端に短いと言った方がいい。いわゆるショートスリーパーというやつだ。四時間半ほど眠ってしまえば、自然に目が覚めるらしい。それで昼間にうっかり居眠りすることもない。その睡眠のリズムは、倒れてからも変わることがなかった。
 まだ少し寝ぼけながらも、わたしはこたつに入る。中に入っていたアッシュを少し蹴ってしまったけれど、気にしない。テレビではしきりに今日が大晦日であることを伝えていた。
「叔父さんは?」
「もう出かけたわよ。なんか昼まで散歩してくるって」
「え?」
 信じられない。
 お母さんたちは昨日、遅くまでお酒を飲んでいたはずだ。わたしは別に盗み聞きしていたわけじゃないけれど、昨晩はなんだかよく眠れなかったので、遅くまで居間の明かりが点いていたことを知っている。
 睡眠が短いのは兄弟揃ってのことなのだろうか。じゃあ、なんでわたしにはショートスリーパーの気質がないのだろう。なんだか納得がいかない。
「お母さん、なんか食べた?」
「食べたよ」
「食べたの?」
 昨日の残りは何もないはずだ。我慢し切れずに何かつくったのだろうか。まだ朝の七時半だっていうのに。
「裕二がね、お雑煮つくってくれたのよ」
「叔父さんが?」
「鍋に入ってるわよ」
 わたしは台所に向かう。
 たしかにお餅は余分に買っておいたし、お雑煮もそのうちつくろうと思っていたから材料は揃っていたはずだ。
 鍋を開けるとまだあったかさの残っているお雑煮がたしかにつくってあった。お餅もすでに入っている。その他にもかまぼこや薄く切ったにんじん、大根。どうやら味噌は使わなかったようだ。すまし汁だろうか。
「これって、お母さんの地方のつくり方?」
「そうね。懐かしい味だったわ」
 軽く火であたためて、わたしも食べてみる。
 はじめて食べるすまし汁のお雑煮は、驚くくらいおいしかった。



「雪、降ってるな」
 さいしょに気づいたのは、尾山くんだった。
 わたしはなんとなく寒くなってきたことは肌で感じていたけれど、勉強に集中していたせいか、外の変化に気がつけなかった。窓の外ではたしかに雪が降っていた。図書館の駐車場にある車のボンネットには、少し雪が積もっている。どうやら、いま降り始めたばかりというわけでもないようだ。
「嘘……」
 わたしはその時きっと、ものすごく嫌そうな表情を浮かべていたのだろう。わたしの顔を見ると、尾山くんはくすっと笑った。
「こんくらいなら傘なくても大丈夫だって」
「そうだろうけど」
 わたしが心配していたのは、外を散歩している叔父さんのことだった。けれど、それをわざわざ説明するのも面倒だったから、黙っておくことにした。
「もしあれなら、早めに帰るか」
「いや、それはいいよ。せっかく来たんだし昼までいる。いまいいところだし」
「いいところ?」
「勉強が」
「いつもと一緒じゃん。参考書見ながらノートに英文書いて……」
「尾山くんは黙って本読んでて」
「ちょうどいま読み終わったんだよ」
「じゃあ新しいの取ってきたら」
 明日から図書館は、来年の一月五日まで正月休みに入る。大晦日まで開いている図書館は、たぶん全国的にも珍しいだろう。大晦日でも、図書館に来ている人はわたしたち以外にもいた。といっても、先週までに比べるとやっぱり人は少ない。高校生で来ているのは、わたしと尾山くんだけかもしれない。
 尾山くんは相変わらず文庫本ばかり読みあさっている。窓際の長机にわたしと向い合って座る。それは冬休みに入ってからも毎日のように続く光景だった。わたしは勉強をするために来ているけれど、尾山くんは「あったかいから来てる」とこの前言っていた。まるでこたつにもぐりこむ猫みたいな発想だ。
「そういえば、尾山くん、ロダーリって読んだことある?」
「ロダーリ……」
「海外の……イタリアだったかな。児童文学の短篇とか書いてる作家」
「いや、おれは基本的に日本の小説しか読んでないからなぁ」
 わたしはその尾山くんの言葉に妙に納得してしまった。
 そういえばそうだ。いままで気づかなかったというか、意識はしていなかったけれど、尾山くんの読んでる本はいつも日本人作家のものばかりだった。たしか一ヶ月前は太宰治ばかり読んでいて、わたしの知ってる太宰治のイメージと尾山くんのイメージがひどく不似合いだったのを覚えている。
 今日は梶井基次郎という人の本を読んでいた。わたしはその作家のことをまったく知らなかった。尾山くんは「桜の樹の下には死体が埋まってるって言い出した人だよ」と教えてくれたけれど、やっぱりぴんとは来なかった。
「で、そのロダーリがどうしたの」
「知らないなら別にいいよ」
「なんだよ、それ。気になるからいまから探してこようかな」
 わたしたちがいつも窓際の席に座るのは、人があまりいないからだった。窓際に人があまりに寄らないのは、駐車場から丸見えだということと、あと寒いからだと思う。だから、ここでなら少しだけ話をしてても大丈夫だったりする。
 尾山くんとよくしゃべるようになったのは、尾山くんがサッカー部をやめてからのことだ。彼がサッカー部をやめた理由は、うまく説明しにくい。怪我といえば怪我なのだけれど、別に足などを骨折したというわけではない。
 端的に言うと、彼はサッカーの試合中に二度、記憶を失った。
 ボールを空中で競り合い、その際に頭部を強く接触して、まるでマンガのように前三日間の記憶をきれいさっぱり忘れてしまった。それが二度。計六日の記憶を尾山くんは失った。
 一度目の時は精密検査もしたが、特に記憶障害以外の異常は見られなかったのでそのままサッカーを続けたけれど、さすがに二度目が起きると、顧問の先生や医者も「これ以上サッカーを続けるのはやめた方がいい」という判断をした。どうやら尾山くんの脳は、他の人よりも記憶を失いやすい脳らしい。大学病院や大きな病院でも検査をしたらしいけれど、詳しい原因はよくわからないらしい。なぜ忘れるのが三日なのかも。
「ロダーリを探しに行ったんじゃなかったっけ」
 戻ってきた尾山くんの手には、ロダーリではなくて別の文庫本があった。
「いや、そうなんだけど、隣にこれがあってこっちの方がおもしろそうだったから」
 尾山くんが持っていたのは『純粋理性批判』だった。名前だけは聞いたことある。ドイツの哲学者、カントの本だ。
「なんかこれ読んでたら格好良くないか」
「そうだね、似合ってると思うよ。尾山くんは理屈っぽいから」
「どういう意味だ、それ」
 わたしが笑うと、尾山くんは不思議そうな顔をした。わたしは何だか、それが余計におもしろかった。
 尾山くんのことをどう思ってるのかと訊かれると、わたしは明確な答えを返すことができない。同じ図書館の常連で、尾山くんは時々おもしろかった本の話をわたしにしてくれて、わたしは時々尾山くんに勉強を教えてあげる。それだけの関係といえば、それだけだ。
 まだ親しくなって三ヶ月だからという言い訳は、いい加減無理があるなと思えてきた。図書館に行けば尾山くんに会える。心のどこかでそう思っているわたしがいる。



「コート貸そうか」
 昼過ぎになって、図書館を出ると尾山くんがそう言ってきた。
 尾山くんも今日は早めに帰らないといけないらしい。なんでも年末年始はいろんなところから親戚が尾山くんの家に集まるらしい。わざわざ図書館に来たのも、今日は「あったかいから」だけではなく、家にいたら手伝いばかりされるから逃げてきたらしい。
「コート?」
「なんかその格好寒そうだし」
 さすがに雪が降るとは思っていなかった。あれから一時間くらい経ったけれど、相変わらず雪はふわふわと降っていた。積もりそうにはないけれど、すぐに止みそうでもない。
「そしたら、尾山くんが寒いよ?」
「俺は大丈夫だよ」
「じゃあ、途中まで借りようかな」
 坂を下りきるまでは同じ道だ。そのあと、わたしは川側に、尾山くんは海側に曲がる。そこまでは、同じ道。
 尾山くんは結局、ロダーリを借りた。『純粋理性批判』は小難しいうえに七巻まであるからという理由で諦めたらしい。
「これ、おもしろいのか?」
 尾山くんの手には、借りたロダーリの『猫とともに去りぬ』があった。わたしはたしかにこの本を昔、読んだことがある。けれど、どういう話があったかと訊かれると、うまく思い出せなかった。
「よく覚えてない」
「なんだよ、それ」
 尾山くんにコートを返して、いつもの交差点で別れる。今度会うのは図書館の正月休みが終わったあとかなと思っていたけれど、尾山くんが一緒に初詣に行こうと誘ってくれた。わたしはうん、と頷いた。だから明日も、尾山くんと会える。
 一人になった帰り道の途中で、思わぬ人と会った。
 叔父さんだ。
 わたしがいつも渡る橋の上に叔父さんがいた。欄干に両肘を乗せて、川面ながめていた。よく見ると、欄干の上にはアッシュも乗っていた。
「叔父さん」
 近くまで来て、声をかける。すぐに気づいてくれた。
「まだ散歩してたんですか」
「そうなんだけど、途中で道がわからなくなって。ちょうどアッシュをみつけたから後を付いて行ってたんだけど、全然帰る様子なくて」
 わたしはそれを聞いて、こらえきれずに笑ってしまった。
 だっておかしい。道がわからないのに一人で散歩に出かけて迷って、猫に付いて行ってさらに迷っていたのだ。でも、アッシュに付いて行ったおかげで、この橋でわたしと会えたのかもしれない。
「一緒に帰りましょうか」
「いやあ、助かった」
「わたし、嘘つきましたね」
「嘘?」
 欄干の上のアッシュを抱きかかえる。アッシュは「なー」と、不機嫌そうな鳴き声をあげる。もしかしたら迎えに来るのが遅い、と怒っているのかもしれない。わたしはタクシーじゃないのに。
「雪、降りました」
「ああ、そうだね。降ってるね」
「お雑煮、おいしかったです」
「ああ、食べてくれたんだ。紗綾ちゃんに言われると嬉しいな」
「料理、誰に教えてもらったんですか」
「こう見えても一人暮らしが長くてね」
 はあ、と吐いた息も、雪と混じるように白色だった。マフラーにはまだ、尾山くんのにおいが残っている。わたしたちはそのまま、お母さんの待つ家へ向かって歩き出した。



       

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