Neetel Inside 文芸新都
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春を忘れよ、君はたそがれ
#02:「月曜日の朝」

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 蒼ざめた月曜日の朝。
 僕は部室の近くにあるゴミ置き場へ、可燃ゴミ袋とデートをしていた。
 時刻はもうすぐ七時を過ぎる頃であろうか、大学構内はさえずりや猫の喧嘩声程度しか聞こえない。その静謐さたるや、錆びつき苔生した寺社にも匹敵する。さしずめ、僕はその自社の片隅に物憂げに咲く紫陽花と言ったところなのだろうか。そんな詩的な想像力まで書きたてられるほど、至って平和な今日である。
 僕の日常は早朝から始まる。早寝癖のおかげで五時には目を覚まし、ラジオの体操の音色が聞こえる頃には大学へ到着する。人気のないテラスや研究室を横目に、僕は決まって真っ先にあの場所へと向かう。
 教員研究室が入り並ぶ中、廊下の突き当たりには「第七研究室」と嘘の名前を冠する部屋が一つ。
 昨日も一昨日も、その前も、そして明日も開くことになるであろう、その扉に手をかけて引くと、八畳ほどの空間が顔を見せる。備え付けの流し台に加え、冷蔵庫食器棚本棚、中央に木のテーブル、周囲にパイプ椅子が置かれてある以外は、何も施されていない部屋。
 このきわめて無機質な部屋が、僕の所属するサークル「言狩」の部室とされている。
 「言狩」に加入したのは、昨年の四月の事。由季子さんに出遭ったその日、僕はここまで連れてこられた。その時の言葉は、今だに脳裏にこびりついている。
『ここは、生きとし生けるもの全てに、ひいては、言葉に、五感に、自由が与えられる場所。ここで君は、全てを知ることになる』
 僕は恐らく、彼女の言葉を理解することは出来ない。
 なぜならそれは僕が頭脳明晰ではないからだ。
 高慢ちきでへったくれな脳みそを持ちながら、僕は驚くほど博学でない。だからこそ才知に長ける由季子さんに憧れて、「言狩」への入部を決意したに至ったのかもしれない。その辺りは、よく、覚えていない。
 ゴミ置き場に別れを告げて、僕は部室へ戻る。毎週月曜日と木曜日がゴミ捨ての日で、月曜日は僕が捨てる、木曜日は由季子さんが捨てる、と言う決まりになっていた。そして、互いがゴミを捨てる時は、絶対にその様子を見てはいけない。由季子さんはそれを厳守すべき七つ事の一つとしていた。
 部室の扉を開けると、まだ由季子さんは来ていないようだった。
 僕はそっとパイプ椅子に腰かけ、読みかけの小説の栞をつまむ。
 開いた窓からは風がノックもせずに入り込んで、傍にある安楽椅子を揺らしている。そこは由季子さんがいつも、いつの間にか座り込んで、小説片手に僕に問答を掛けてくる場所。いつか僕は、あの椅子に座れば由季子さんに近しい存在になれると思っていた。
 だけど、それは間違い以外の何物でもなかった。
 今僕が読んでいるのは、由季子さんが読み終わった、この部屋にある小説。明治頃の作家が書いたもののようで、僕にも文章を読むことは出来るが、読み取ることは難しかった。それでも、そこに由季子さんの原点があるのなら構わなかった。
 小説は時間と人の価値観を食い潰す虫だ、と由季子さんは言っていた。実際小説を読んでいればあっという間に一日は過ぎてしまう。昨日読んだ小説に感化され、翌日自ずとその主人公と似た行為に及ぶことも、珍しくない。
 同じ喩えをするならば、僕にとっての小説とは、由季子さんなのだろうか。
 そんな馬鹿な想像してる時に限って、あの言葉は飛んでくる。
「やあ、光規。お勤めご苦労」
 由季子さんはいつも、僕にとって都合の悪い瞬間にやって来る。今日は空中をうすぼんやりと見つめて微睡んでいるところを発見されてしまった。 
「由季子さん、いつからそこにいたんですか」と僕は問う。
「今来たばかりに決まっているじゃないか」と由季子さんは答える。
 由季子さんはいつも通り安楽椅子に座り、白のトートバッグからハードカバーの本を取り出して、適当なページを読み始める。
 小説など、由季子さんにとっては自らの主張を媒介するものの一つに過ぎないと言っていた。形そのものは決して問わない。小説、漫画、音楽、教科書は当然として、もしかしたら由季子さんが今左手にぶらぶらと下げている缶コーヒーでさえも、単なる媒体であると認識しているのかもしれない。
 それを見透かしていたかのように、ふとこちらを見た由季子さんが、口を開く。
「光規、私は人間が好きだ。レコードが好きだ。その共通点は、何だと思う」
「……ぐるぐると、廻っている、ですか」
「地球とレコードであれば正解かもしれないが、残念ながら不正解だ」
 由季子さんは一口コーヒーを飲み、テーブルの上に置く。
「私の正解を言おう。それは、人間という形あってこその人間の魂であるからだ。レコードと言う形あってこそのジャズミュージックであるからだ」
 呆けた顔の僕をよそに、由季子さんは悠々と述べる。
「この缶コーヒーも同じようなもので、この銘柄、温度、名前があるからこそ、中身の想像も非常に容易い。例えば何かをきっかけに、異なる中身が、同じ缶の中に入ってしまったら、光規はどう思う」
「とても混乱します。同じ見た目なのに、同じ味だから」
「その通り。それと同じさ。もし自分と同じ見た目の人間であるにもかかわらず、中身が全く違う人間がいたとするならば、その人間と言う形の価値は失われてしまう。だが、現実はそうではない。人間の形をしたものの中に、犬の魂が宿ることはない」
 ぐいっとコーヒーを嚥下し、由季子さんは薄ら笑う。
「レコードの中に、音楽以外が宿ることはない。缶コーヒーの中に、コーヒー以外が宿ることはない。なぜなら私たちはそれらを信頼しているからだ」
「信頼、ですか?」
「信頼だ。例えば貨幣。君は買い物をするとき、何の躊躇いもなく貨幣を差し出すだろう。それはつまり、貨幣に対して全幅の信頼を置いているということだ」
 僕は、由季子さんの言っていることを上手く理解することが出来なかった。
 貨幣に、信頼を、置く。
「元来、目に見えないものに対して、信頼に耐えうる身体を与えるのは至極当然の事だ。音楽であればレコード、金銭的価値であれば貨幣と言う風に、人間は目に見えないものにそれを授受するための身体を付与してきた。素晴らしいことだと、思わないか」
 つまり、中身が分からないものに対して、それを表すパッケージのようなものを与えて、それを共通の持ち物とすることで、信頼を置くようにする、ということなのだろうか。
「外装ありきの、その中身。人間もレコードもその点では何ら変わらない」
 由季子さんが缶コーヒーを指ではじくと、くわん、と甲高い音がした。
「人間が音楽であるとするなら、その人間の持つ性格と言うのは正しく音楽のジャンルとなる。ロック、ブルース、ジャズ、メタル……音楽に様々な個性があるように、人間にも数えきれないほどの個性が存在する。私はそれに、興味がある。そして私は、それを追求したいと思っている。そして、光規。君はそれに関与する可能性を持っている」
 つらつらと持論を展開して行く、由季子さん。
 彼女の姿は朝日と交わって、少し眩しかった。
 ただ、僕がそれよりも気になっていることと言えば、由季子さんの視線が僕の背後に向いているということであって、そしてそれはどう足掻いても尋ねられそうになかったので、僕は微笑みを浮かべて、由季子さんの言葉と朝の光に身を委ねることにした。
 象牙質な、月曜日の朝は過ぎていく。
 
 
 

       

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