Neetel Inside 文芸新都
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封じ手

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【封じ手】

 心残り、ひとつ。
 長年の将棋仲間だった友が逝った。
 そのことは、千切れかけ、やっとのことで繋がっている綱に、急激に重石を掛けられたように、私には感じられた。
 平均すると、おおよそ、月に一度。朝から晩まで、盤を挟んで向かい合う。それが習慣だった。
 勿論、素人の縁側将棋。その日のうちに勝負がつかないこともザラで、そういう場合には、
「封じ手で」
 などと格好つけて言っていたものだ。言うだけではなく、次の一手をメモ用紙に記し、ポチ袋に入れて互いに一通ずつ保管した。『互いに』なのは立会人がいない手前、書き換えを防ぐ意味からだが、厳密さよりも棋士を気取るという意味合いの方が強く、むしろ、その棋士を気取ることが目的のひとつであったとさえ言えた。
 そんな仲間が、逝った。逝ってしまった。『封じ手』を封じたままで。その遺言にも等しいポチ袋が、確かに、ここに、ある。
 もう、いいかな。
 そう思いながら書いた、なけなしの分与先詳細と数通の詫び状をそれぞれ封筒に入れて、居間の食卓に置いた。
 一息ついて、天井を見上げて。
 ポチ袋を手に居間と繋がる和室へと移動し、携帯を取り出し、画像で保存しておいた盤面を、これが最期と再現する。
 趣味のものとしては、そこそこの、木製で四足のついた将棋盤に。
 いつも通り、友の分の座布団まで用意して。
 しかし、もう、短いけれども永遠に、こちらの待ち時間。
 ポチ袋を、少し細かすぎる恭しさで、駒台に置く。
 友は、どんな手で封じたのだろう。
 盤面を睨み続ける。
 睨み続けても、答はわからない。封の中に答はある。あるのだが。
 幾秒か、幾分か。
 考える。逡巡する。そして。
 盤面以外の視界が滲み、頭が痛くなってまでも、睨み続ける。
 不意に。
「待たせたね」
 盤面から目線を上げ、声がする正面へ目を向けると、そこには変わり果てたが変わらない、むしろ若々しく見えるほどの姿の友がいた。
「幽霊というものはいいな。正座しても足が痺れない」
 そんな、微笑を湛えながら足の辺りを軽く叩く動作をしながらの軽口も、そのままだった。
「茶を淹れてくるよ」
 急に現れた友の姿があまりに自然で、勢い、こちらの言動が間抜けな方面に突き抜けてしまう。
「ああ、お気遣いは、いらない」
 立ち上がりかけた私を制するように、友はそう言い、続ける。
「未練がひとつ、あってね」
 そうか、と私は口に出たのか音にはならなかったのか、微妙な反応のまま友の対面に座り直し、居住まいを正す。
「僕の手番、だったね」
 落ち着いた様子でそう言い、一呼吸おくと、友は将棋盤を左手一本でいとも軽そうに撥ね、ひっくり返した。微笑んだままで。
 反された将棋盤は、友がそれでも傷つかない方向を選んで撥ねたのだろう、畳の上を転々とし、四足をこちらに向けた横倒しで止まった。その様子はスローモーションのようで、弾き飛ばされた駒は、まるで水面に遊ぶ飛沫のように楽しげに見えた。
「……なにを?」
 駒が踊り終わり、そちらを見つめたままの私の口から出た言葉は、憤るでもなく、友の予想外の行動に、情動的な要素はすっかり削げ落ちていた。
 歳を経て、磨り減った理性が安全装置としての用を成さなくなり、行動が子供がえりしたというわけではなさそうではある。が、それにしても真意がつかめずに、私は少々戸惑う。
 もしかすると、その私の表情すら、彼は楽しんでいるのかもしれない。
「これ、一回やってみたかったんだよ。おかげさまで思い残すこともない」
 あまりに無邪気に、そう言う。
 友は、姑息なことをする男ではなかった。
 自らの死を認識してからの児戯であるのか。これをするために、わざわざ化けて出てまでここを訪ねたというのか。
 友のその様子は実に楽し気で、もうこの世の人ではないということすら楽しんでいるのかと思える程なのが、目の細かい紙鑢のように感情に触れる。
「封を開いて見るといい。そこには、何もない。思いつかなかったんだ」
 しかし、それを誤魔化す、更に姑息な嘘を言う男でもなかった。
 だからこそ、長い間の友でいられた。そう思っている。
 らしいと言えば、言い得る。らしくないと言えば、それも言い得る。
 帰る時間を気にしての、やむなくの白紙であったとしても、それを責めるつもりなど毛頭ないのに。
 本当に『最期の未練』としての悪戯で将棋盤を反したのだろうか。
 それとも、封じ手を確認さえしたならば、その意味も量り得るのだろうか。
 そんな、友の真意を測り得ぬままの、釈然としないまま、釈然とさせる気にもなれぬまま、こちらに向いた将棋盤の腹を、ただぼんやりと見るともなしに見ていた。『そういえば将棋盤の腹など、普段、しげしげと見ることなどないよな』などと場違いなことを頭の片隅に意識しながら。
 音受けの四角錐は、確かに盤の腹の中央にありながら意外にもくっきりとした陰影を描き、血溜まりとも呼ばれる窪みは、盤を戻すことに拒絶の意思を誇示しているようにも見えた。
 友の真意がどうあれ、盤は反ったのだ。事故ではなく、明らかに友の意思を以って。そう思ったとたん、不意に私は、封じ手の封を開く気持ちを既に失っていることに気付き、苦笑した。
 『ちょっとだけ不思議なこと』の連続が、あまりに自然なことに思えていた。
 その不自然な自然に私が異を感じる間もなく、友は私に声を掛ける。
「頼みがあるんだ」
 その声は、いつもの軽口を装う風でもあり、どこか譲れない何かを宣言するかのようでもあり。
「この僕の悪ふざけを許してくれるのならば、君はできるだけ時間をかけてこっちに来てくれ」
 わかっているんだぞ、とでもいうような、それでいて、どこか遠くから聞こえるような。
「僕が、本当の次の一手を見つけるまで、こちらに来ようなんて思わないで欲しいんだ」
 見透かされたような気不味さに、ぎこちなく友の顔を見遣る。
 二重に朧掛かった笑顔で友が封じたのは、自らの将棋の手ではなく。
「『待った』も御法度だ」
 既に客が居なくなっていた座布団へ向かいやっとそう呟くと、時計は友が帰り支度を始めるいつもの時間を示していた。

       

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