Neetel Inside 文芸新都
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ほころぶ

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【ほころぶ】

 先日、母校である小学校が取り壊しになるとの知らせが届いた。ついては、卒業時に埋めたタイムカプセルを既に掘り出してあるので受け取りに来て欲しい、と。
 もっと正確に言うならば、大学に進学し親元を離れた私に、母がそういう知らせがあったと連絡をくれた、ということになる。
 知らせを受け取った私はといえば、少子化の波はここまで及んでいるのかという妙な感慨とともに、良い想い出も悪い想い出もあるわけでもない、思い入れのないただの『母校』というやつを久し振りに訪ねてみるのも悪くないかなと思い、春休みを利用し、こうして実家に戻ってきている。
「それじゃちょっと行ってくるね」
 と、玄関で靴を履きながら返答を期待せずに口にする。
 右の爪先を二回、そして左の爪先を二回、そして、更に一回。もう一度だけ右の爪先を一回、コンクリ床に軽く当てて靴の中での足の位置を修正し、玄関マットに置いてあったカバンを手に取る。
「気をつけていってらっしゃい」
 その定型句が妙に懐かしく感じられた。定型句ではあるものの、幼い頃に通いなれた通学路に今更何を気をつけるというのかと突っ込みを入れたくなったのは、たぶんこの、ほど良く寒さが残った春の陽気のせいだということにしておく。
 もしかすると、出掛けに『行ってくるね』なんて私が言ったのも、母からするとどこか懐かしい感覚だったのかもしれない、と私は軽く苦笑しつつ外へ出る。
 母とは、そう仲が悪いわけではないが、常にある一定の距離を保っていて、そこから踏み込むということを避けるように暮らしてきた。あの時点から。
 あの時点。

         *

 たしか、私が小学校にあがる年の春。あの日、スーツ姿の人が、訪ねてきた。
 父に比べてかなりこざっぱりとした、頭が良さそうな人。あまり『大人の男の人』を知らない子供心にも、そう思った。
 物腰は柔らかく、だけど落ち着いていて、まるで慣れた部屋の掃除をするかのように、母の深刻そうな言葉と表情にも着実に話題を進めていく。私は、そんな客人の姿を部屋の外から興味なさそうに、だけど非常に興味深く盗み見ていた。
 やがて話題は一段落したのか、母が、
「お茶、淹れ直してまいりますね」
 と、席を立った。
 その時、その客人は私を見て微笑んだ。その優しそうな微笑に、
「なんのお話をしているの?」
 反射的に私はそう問いかけていた。もしかすると、私は母の深刻そうな表情に何かを感じていたのかもしれない。
「君と、そして君のお母さんが幸せになれるように、話をしにきているんだよ」
 簡単な言葉で、だけどそれまでと変わらずに物腰柔らかく、その人は答えた。
「そっかー。ありがとうございます」
 その時の私には、『幸せ』というものも何の話をしているのかもわからなかったが、その人は信用できそうに私には思えた。
「ちゃんとお礼が言えるんだね。えらいね」
 その人はそう言って、改めて私に向かって微笑みかけた。それに対して私は
「えへへ」
 と笑う。
「あら、先生すいません。まだお話があるからあっち行っててね」
 母は戻ってくるなりそう言い、客人に茶と桜色の丸い茶菓子を出す。
 あの茶菓子は『たかいおみせ』のだ!
 正確な店名は知らない。でも『よそいき』という、なんか近寄りがたい雰囲気があることは記憶にあった。
「お気遣いいただきすいません」
 客人はそう言い、茶碗を持ち上げ、そうして、茶菓子に心奪われる私に目を移し動作を止める。
「お嬢ちゃん、お菓子食べたいのかい?」
 柔らかい問いかけ。しかし、その語尾にかぶさるように母が、
「だから『あっちいってて』って言ったじゃないの」
 と、私の手を、おそらく軽く叩いた。だけどそれは母の想定よりも強く当たったらしく、母は更に語気を強め、
「早く行きなさい」
 と、私と目が合わないように俯いたまま、そう言った。
 私は半ば放心したまま立ち上がり、のろのろと台所へと逃げ込んだ。
「本当にすいません」
「いいえ、可愛らしい素直なお嬢さんですね」
 狭い家ではそんな会話もここまで聞こえてきて。
 そんな音を聴きながら、冷蔵庫に寄りかかるように体育座りをして膝を抱え込んで。
 そして、顔を膝にうずめて。

 やがて客人が帰り、母は洗いものを始める。私は膝を抱えたまま、そのままで。
 そして、食器がぶつかる音と水道音が止んで。
「……ごめんね」
 母が、とても聞こえるように言ったとは思えない音量で、ぼそっとそう一言。
 そして、ことんと爪先の前に小皿が置かれて、母が立ち去る。
 目を開けると、置かれた小皿の上には先程の客人が残しておいてくれたらしい茶菓子。
 だけど私は、その気遣いに応える気には、どうしてもなれなくて、結局、その茶菓子には手をのばすことはなかった。

 思えば、当時の母は疲れ果てていたのだと思う。必死に縋りついた一縷の希望があの客人だったのだと思う。その一縷の希望への気遣いも、やっとのことだったのかもしれない。ただ『お行儀が悪い』だけで叱られたとは思えなかった当時の私。巡り合わせ。
 今になって思い起こすときちんとそれはわかるのだし、当時だって母の様子が違うことなどで気付いていてもおかしくはなかったとは思うのだけれど。
 だけれども、そしてなんとはなしにではあるのだけれど、その日から母との距離が広がり始めたような気がして。

 そしてその日から、父は一度もこの家へ帰ってくることはなかった。外でも一度も会っていない。
 後に知ったことだが、父が愛人を作って出て行ったのではなく、最初から母が愛人と呼ばれる立場だったというのが本当のところで。幸い、それが口慰みの噂にされるほど小さな町ではなかったので、私と母は比較的ありきたりなシングルマザーとその子供の一組でしかなかった。

 父にとっては最初から『帰ってくる家』ではなかった、というだけの話。本当にそれだけ。
 でも、私は未だに『幸せ』が何かというのをとらえられずにいる。

         *

 少し風が吹いて。
 同級生が屯していた角の煙草屋兼駄菓子屋は、白いデブ猫もばあちゃんも亡くなって、酒類を扱わないコンビニに建て替わった。
 踏切向こうの古書店は、手伝いをしていた看板娘が他県に嫁いだのを機に廃業し、今は月極の駐車場になっている。
 変わらず営業を続けている店の看板も、剥げたり色褪せたり壊れてたり。逆に違和感を覚えるくらいに新しかったり。
 そんな、母校へ向かう道。
 子供の頃は小さいながら一歩一歩がそれなりに楽しかったけど、今では広がった歩幅が重く感じてしかたがない。
 そう。歩幅は広がったはずなのだけれど、それが却って『してはいけないこと』の数を無闇に増やしているように感じられる。道端のタンポポに駆け寄ることも雲にかかる虹を発見して立ち止まることも制限され、好む好まざるを考える暇さえ与えられずに目的地も知らせれぬまま歩み続けることを強要されているみたいな、そんな。
 ためいきのでるような。
 そんな時間が流れたのだな、と。
 だけど、やっぱり広がった歩幅は通い慣れた通学路の所要時間を減らす。
 久し振りに見た母校は、それでもやっぱり母校で、既に子供達の姿がないことさえ『ただ春休みだから』と言えばそれで納得させられてしまいそうなくらいに、そのまま母校だった。
 開け放たれた生徒用玄関をくぐると、正面の壁に赤い右矢印と『タイムカプセルの御用の方』と書いてあるお座成りなものが一枚、それと『土足でどうぞ』という投げやりなものが一枚、貼り紙されていた。
 廃校か。その投げやりな貼り紙に妙に納得しながらも、かつてうるさいほどに土足厳禁と言われた場所にそのまま入ることに、どこか聖域を侵すかのような背徳感がよぎる。
 仕方ないのだけれどね。そういうものなのだろうけどね。
 ごめんなさい。
 心の中で手を合わせながら、今まで歩いてきた靴のままで校内に一歩、踏み入れる。
 歩き出してすぐ。二枚の貼り紙のある壁の並びにある部屋に差し掛かる。
 その部屋のドアのすぐ内側では、私より少しだけ年齢が上な感じの女性がパイプ椅子に座って文庫本を読んでいた。女性は私に気付き、顔と声の表情を明るく作り、
「おつかれさまでーす。お名前が確認できるものの提示お願いしまーす」
 と、読みさしの本をパイプ椅子の座面に置き、立ち上がる。
「あ、はい」
 この件で私に届けられた葉書をカバンから慌ててとりだし、その女性に手渡す。
「おあずかりしまーす」
 学生時代にはファストフード店でバイトしていたかのように馴れた感じのやり取りをして、女性は脇の机の上に置かれた名簿をめくり、名前の確認作業を始める。
 っていうか。
 机、ちっちゃい!
 おそらく、近場にあったものを流用したのだろう、そして、ここの生徒たちが歴代使ってきたであろう、机。使用前に拭いたらしく埃は見当たらないが、残された落書きや削られた穴は子供の無邪気さの記録であるような気がする。
 私は当時、何を考えていたんだろう。タイムカプセルに何を入れたんだろう。正直に言うと、よく思い出せない。ただ、学校の創立何周年だかの記念行事で、子供の立場としては『浮かれた大人の事情に流れ作業の中のひとつとして付き合った』という、それ以上でもそれ以下でもない出来事ととらえていたような気がする。
「はい、おまたせしましたー。こちらの封筒です。お名前ご確認くださーい」
 と、流れ作業的なにこやかさで私に封筒を手渡す。
「どうも」
 受け取り、封筒に書かれた私の名前を確認、封を開ける。
 ひょっこり覗いた千円札。
 封筒の名前を改めて確認する。うん、私。
 思い出した。
 特に目標も希望も持てなかった私。おとなしいと言えば聞こえはいいけど、どこか醒めていた可愛げのない私。
 親戚付き合いがほぼ皆無だった家に育った私は、お年玉なんてくれる人がいるわけでもなく、精一杯のお小遣いを封筒に入れたんだった。
 書き記して残せる夢もなく。無責任に将来を描くことも躊躇って。封筒に入れるものなんて、そのくらいしか思いつかなかったんだ。
 ああ、そうだった。そういう子供だったんだ、私は。
 バイトもしている今とその頃では千円の重みも意味も違っているけれども。
 成長してないな。変わってないな。
 私は私の私自身への感想に苦笑する。
「あのー、そちらで間違いなかったでしょうか」 
 受付の女性が怪訝な表情で私にそう問いかけ、私は我に返る。
 私はどのくらいの時間、固まっていたのだろう。
 この時間、私しか受け取りに来ている人の姿はなく、誰かを待たせているわけではないが、なんとなく申し訳なく感じる。
「あ、すいません、あってます、これです。ありがとうございます」
 封筒から千円札を出さないまま、カバンのサイドポケットに入れる。それを確認し、女性は私に最初に渡した葉書を、
「こちらお返ししまーす」
 と、手渡す。葉書の宛名、私の名前のところには大きく『済』と判が押されていた。
「おつかれさまでしたー」
 その営業スマイルに圧されるように教室を出て、そのまま玄関へと向かう。
 一歩進むたび、なんだか可笑しさがこみ上げてくる。
 私は結局、私かあ。なるほどね。うん、可笑しい。可笑しくて、ちょっと涙が滲んできた。
 今、タイムカプセルに何か入れなきゃならないとしたら、私は何を入れたらいいんだろう。そして、それを開けた時に、自分自身のことを心から笑うことはできるだろうか。
 生徒用玄関を一歩出て。空を見上げたら鳥が二羽、仲良さそうに戯れ翔んでいて。
 少し眩しくて手を翳したら、デジャヴにも似た花の香を感じて。
 うん。この自分からの卒業祝いは、この封筒のまま取っておこう。
 そして、『たかいおみせ』で、あの茶菓子をふたつ、買って帰ろう。
 それを食べながら、久し振りに母と色々話をしよう。
 せーのっ。
 誰に聞かせるでもなくそう言って木漏れ日の下に出たその一歩は、なんだか春風が後押ししてくれているような気がした。

       

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Neetsha