Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

2「会合」

13時間に及ぶフライトを終え、入国審査を済ませた宮野はグッと背伸びした。
日本で出会った女性はこれから仕事の打ち合わせがあると言い、軽い挨拶の後、荷物受取所で別れた。
「宮野、久しぶりだな」
第一ターミナルビルを出たところで、声をかけられた。
「工藤、会えて嬉しいよ」
工藤と呼んだその男に歩み寄り、握手を交わす。大きなその手が宮野の手をすっぽりと包み込んだ。
「長旅で疲れたろう。タクシーを待たせている。とりあえず僕の家に向かおう」
「ああ、助かるよ」
引いていたトランクを持ち直すと、工藤と並んで駐車場へ向かう。
「話には聞いたが、その、娘のこと、大変だったな」
ほどなく工藤が口を開いた。口調は重く、言葉を選びながらひどく話しづらそうに宮野へ語りかける。
「ああ。電報ありがとうな。香典返しも持ってきてるよ」
自分の表情に影が落ちたことがわかった。
「積もる話もいろいろある。お前の家でゆっくり話そう」
現実から逃れるように強引に話を打ち切ると、工藤は力なく相槌を打って無言で歩みを続ける。
それから言葉をかわすことも無く、パリ市街をタクシーが走る。

30分ほどでタクシーは目的地に到着した。パリの中心部から少し外れた閑静な住宅街にある1軒の家。そこが工藤の家だ。
独身である工藤が1人で住むには広すぎるが、ピアノ教室でもあることを考えれば妥当な広さといえるだろう。
「さて、到着だ。2階の客間を使ってくれ。とりあえず荷物を置いて来いよ。僕はお茶でも淹れるから」
促されるがままに階段を上がり、ドアを開く。掃除が行き届いているのか、人の出入りのない部屋特有のカビ臭さもなく、窓から挿す陽光に暖められた空気が宮野を包んだ。3月のフランスにしては、今日は暖かい。
「ふぅ」
ベッドと小さなデスク。それとクローゼットしか家具のないこじんまりとした部屋だが、居心地の良さに一息ついた。ドアのそばにトランクを置き、上着をコートハンガーに掛ける。
なんとなくクローゼットを開いては見たが、特に何も入ってはいない。
工藤は茶を淹れると言っていた。もう少し時間がかかるだろう。
「少し、荷物を整理しておくか」
そう呟いて、トランクを開ける。どれも少々時代遅れな印象の衣類だ。この6年間ろくに買い足すこともなかったためか、さすがにくたびれている。
「まぁ、こっちに居る間は大丈夫かな」
ヨレヨレのシャツを手にとってクローゼットにしまう。
下着類をクローゼットに収め、上着はハンガーにかけたところで階下で宮野を呼ぶ声がした。
準備ができたようだ。下へ降りると、紅茶のどことなく甘い香りが鼻をくすぐった。
「セイロンティーは好きだったか?」
工藤が慣れた手つきでティーカップに紅茶を注いでいる。
「好きかどうかもわからないよ。お前ほど詳しくないから」
いい年した男同士でするやり取りでもないだろう。と、言葉を続けながら居間のソファに腰掛けた。
カップを手に取り、口に運ぶ。濃厚な味わいと強めの渋味に心が落ち着く。
「今が旬のヌワラエリヤだ。セイロンベースのティーバッグにもよく使われる茶葉だから、飲み慣れた味だろ」
向かいに座った工藤が自慢げに話す。言われれば確かによく飲む紅茶の味に近いものがある。
「味は段違いだけどな。もうこれ趣味の域超えているだろ」
「店でも出そうかな」
まんざらでもない様子で笑う工藤。その中に少し申し訳なさそうな表情を感じ取った宮野は、空港での話を切り出すことにした。
「じゃあ、近況報告といくか」
「大丈夫か?」
「さっきよりはな。まぁ、さっきは俺も大人気なかったよ」
工藤には聞く権利がある。かつてライバルだった男なのだから。
「娘――優奈は、10日前に亡くなったよ。風邪をこじらせて、肺炎でな。あまり体も強くなかったし、そこからは早かったよ」
「最後に会ったのは僕が日本に戻ってきた時だから――4年も前か」
「最初で最後だったな」
「って、四十九日とかはいいのか? 会いに来てくれたのは嬉しいけど、それが終わってからにするべきだったじゃ」
「そうするべきなんだろうけどな。辛いんだ。家にいるのが。不謹慎だなんだと非難される行いかもしれないがな。遺骨のことでも心配か? 実家に預けてきたよ。お袋が毎日手を合わせてくれているさ」
「宮野、お前――」
「だから言ってるだろ。辛いんだよ。仏壇に手を合わせるのも、優奈の遺影を見るのも、隣にある皐月の写真を見るのも。――少し、離れていたいんだ」
自分がここまで脆い人間だったとは思っていなかった。今だけは現実から逃げていないと自分まで死んでしまいそうだと。言い訳のように続け、うなだれる宮野の姿は、工藤から見ても苦しそうであった。
納得のいっていないような表情の工藤だったが、僅かなこのやりとりで憔悴してしまった宮野の様子を見てこれ以上の追求をやめた。
「あまり僕があれこれ言うことじゃなかったな。すまない」
「そんなことない。お前の言うことももっともだよ」
「そう言ってもらえると助かる。――ところで宮野、明後日は何か予定あるか?」
少し強引だなと思いつつも、宮野は工藤の言葉に反応したように顔を上げる。
「いや、特にはないが」
「僕の教え子がついに単独コンサートを開くんだ。チケットを二枚もらっている。良ければ一緒に行こう」
「もしかして、笹岡千里か?」
「お、さすがクラシック雑誌編集長。注目株のコンサート情報はいつも頭に入っているようだね」
自分の教え子のことを知っていることが嬉しいのか、この日一番の笑顔を見せる工藤。
「来る前に雑誌でも読んだしな。かなり注目されてる若手だけど、まさかお前のところの教え子だとはな。灯台下暗しってやつか。取材申し込んどけばよかったよ」
「知らなくても無理は無いさ。ここのことは公表しないように言ってるから」
「どうしてまた。生徒を増やすチャンスだろうに」
「ここの生徒は僕が才能を見ぬいた原石たちだ。みんなをピアニストとして大成させる義務が僕にはある。1人1人丁寧に教えていきたいから、今がちょうどいいんだ」
「お眼鏡にかなわない生徒は要りませんってことか?」
言って、少々意地悪い言い方だったなと思った。冗談も下手になってしまったと、様子を伺うように工藤の顔を見上げる。
「違う違う。嫌な言い方するなよな。これ以上増えたら僕の手が回らない。完璧なレッスンが出来ないってことだ。そんなの、今いる生徒にも入ってくれた生徒にも失礼だろう」
「相変わらず誠実だな」
少し安心して、素直な感想を口にする。
「宮野こそ、相変わらず人を試すようなことを言う」
思わず笑みが漏れたのに気づき、ごまかすように顔を伏せる。出立前の空港でのやり取りの時もそう思ったが、6年の間自分はどんな表情をしていたのかわからなくなる。
「ようやく笑ったか」
安堵の色すら伺える工藤の声色に、宮野は一種の恥ずかしさを覚えた。
「俺は、笑ったらいけないんだ」
「なんでだ。優奈ちゃんが亡くなったばかりだからか。この世の不幸をすべて背負ったような顔してるよりずっといいだろ」
「そうあるべきだ」
「空気を読むっていうやつか。こっちの暮らしが長いからよくわからない感覚だ」
少々呆れたように肩をすくめ、工藤はティーカップを手に取る。
「で、明後日は大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だ。付き合うよ」
「午前中はレッスンがあるから、そのあと昼食でも食べてから向かおう」
明後日の予定を決めていく中で、ふと宮野はあることに気づいた。
「ところで、明日は暇あるか?」
「明日? 明日は丸一日休みだけど」
「よかった。服を買うのに付き合ってもらえないかなと思ってな」
「構わないが、どうして? 服なら持ってきてるだろ」
「教え子の晴れ舞台に来た恩師が連れてきた人間が、ヨレヨレのスーツを来たオヤジじゃカッコつかないだろ」
少し照れくさそうに言う宮野に、工藤は声を上げて笑った。

       

表紙
Tweet

Neetsha