Neetel Inside 文芸新都
表紙

短篇集
亡き王女

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プロローグ

「亡き王女のためのパヴァーヌ」
フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが1899年に作曲したピアノ曲、および1910年にラヴェル自身が編曲した管弦楽曲。
ラヴェル初期の傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える。
優雅でラヴェルらしい繊細さを持つ美しい小品であり、晩年、自動車事故で記憶障害を起こしてしまったラヴェルが「この曲はとても素晴らしい。誰が書いた曲だろう」と言ったという逸話もある。
「亡き王女」という題名はフランス語でinfante défunteとなり、韻遊びから命名されている。
ラヴェル自身、この題名は「亡くなった王女の葬送の哀歌」ではなく「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」だとしている。
「深い意味は無い」と。作者自身が、そう公言しているのだ。

とはいえ作者が込めた想いとは別に、捉える人それぞれの想いも存在する。
演者は作曲者の意思を尊重するべきだとは言われているが、では聴く者にとってはどうなのだろうか。
聴く者1人1人が同じような想いを抱くとは限らない。
それこそ「亡くなった王女の葬送の哀歌」として捉えて自分の境遇と重ね合わせる者が居るだろう。
少なくとも私は、初めてこの曲に触れた際、そんな想いでいっぱいであった。



娘が死んだ。
病弱だった妻の命と引き替えに授かった最愛の存在の娘もまた、体が強いとは言いがたかった。
驚くほどあっけなくこの世を去ってしまった。
「大切に育てる」そう墓前に誓ってから六年後のことであった。
新品の学習机に、横のフックに掛かったピカピカのランドセル。机の上にある筆箱の中には削ってから一度も使っていない鉛筆と、四隅のカドが綺麗なままの消しゴムが収まっていた。
「もうすぐ小学校だったんだ」
遺骨をおいた仏壇に手を合わせる男の背中に、父はそんな言葉を投げかけた。
「ああ、そうだな。この鉛筆削りは俺がプレゼントしたやつだ」
静かに立ち上がり、学習机の上にある鉛筆削りを手にとった男はポツリと呟く。
「学校でみんなの前でピアノ弾くんだって、ニコニコしながら練習してたんだ」
「俺も聴いてみたかったな」
「でも、もう、聴けない」
絞りだすようにそう言うと、父は力なくうつむいた。
その様子をやりきれない様子で一瞥した後、男は父に向き直って口を開いた。
「なぁ、宮野。社長じゃなくて、お前の友達だから言うぞ。しばらく休め」
「何言ってんだよ橘。大丈夫だ。明後日には仕事に戻る。井田の原稿に目を通して無いんだ。あいつ、締め切り直前にようやく入稿してきやがってさ」
「じゃあ社長として言う。休め。原稿のチェックから構成、特集記事の作成まで全部俺がやる」
父は少々驚いた様子で顔を上げた。濃く刻まれたクマのせいで、目が落ち窪んでしまっているようにも見える。
そんな顔を悲痛な面持ちで見て、男 ――橘は言葉を続ける。
「皐月さんが亡くなった時から笑顔なんてほんの数回しか見てない。酒も飲んでない。煙草もやめた。服だってろくに買わないからくたびれたスーツのせいで実年齢以上に見える」
父からの反論がないのを確認し、橘は続ける。
「大体ろくに休んでないだろ。幼稚園の行事に出るときに半休を取る程度で夏期休暇も使わない。そりゃ定時に上がっていたが、残った仕事は家で片付けてたのも知ってる。痛々しいんだよ。いい機会だ。一週間、いや、ひと月は休め。有給扱いでいい」
「だ、だけど俺だけそんな」
「溜まりに溜まった有給を消化させるだけだ。葬式の時のお前の様子を見てりゃ、編集部の連中も文句なんて言わんさ」
そう言いながら橘は腕を組む。そのポーズにこれ以上の反論を拒絶する態度を感じ取った父は、声もなく頷いた。
「少し、旅行でもして気晴らししてこいよ。見てるこっちが辛くなるような顔じゃなくなるまでさ」

     

1「面影」

『日本人指揮者 上妻秀一 ベルリン指揮者コンクール銀賞』
『独占インタビュー 若き天才ピアニスト 笹岡千里 単独公演を控えて』
『ボランティアオーケストラ 常磐交響楽団「いろんな人にクラシックの素晴らしさを知ってもらいたい」』

橘に無理やり取らされた休暇を、宮野は海外で過ごすことにした。古い友人への報告を兼ねて久しぶりに会おうと考えたのだ。
有給にしろと橘は言ったが、それでは申し訳ないと休職という形にはした。
書店で購入した音楽雑誌をめくりながら、空港のロビーでフライトを待つ。
「すみません。隣、よろしいですか?」
不意に声をかけられた。顔を上げるとスーツに身を包んだ女性が立っていた。肩に掛かる程度の髪で赤いメガネが目立っている。蝶の飾りがついたヘアクリップを、なぜか胸ポケットに挿していた。
「え、ええ。構いませんよ」
体を丸めるように座り直す。周りを見れば、ロビーの席で空いているのは端に座っている自分の隣だけであった。
近寄り難いほど辛気臭い雰囲気なのかと、橘の言ったことを今更ながら自覚する。
「クラシック音楽、お好きなんですか?」
自分の隣に座りながら、女性が話しかけてきた。ずいぶん社交的な人物だなと内心で焦る。
「ええまあ。毎日のように触れています」
「そうなんですか。私も好きなんです。隣り合った2人がどっちともクラシック好きだなんて、すごい偶然ですね」
心底嬉しそうな笑顔を向けられ、宮野は戸惑った。そして、こんな湿っぽい雰囲気のくたびれたオヤジに話しかけるばかりか、こんな屈託のない笑顔を向けるなんて奇特な女性もいるのだなと戸惑う反面感心する。
「そうですね。最近だと、相当確率は低いでしょう」
「お好きな作曲家なんていらっしゃるんですか?」
「私はラヴェルが好きです。月並みですが、ボレロの迫力に圧倒されて、この趣味に目覚めてしまったものですから」
そういった瞬間、女性は大きく目を見開いた。
「まぁ! 私もラヴェルが大好きなんです! こんな偶然ってあるんですね。クラシックが好きで、しかもどっちもラヴェルが好きだなんて!」
子供のような笑顔ではしゃぐ彼女に少々圧倒されてしまう。
「ず、随分感情表現がオーバーでいらっしゃいますね」
矢継ぎ早に飛ぶ彼女の言葉の間に、単純な彼女への感想を放り込んだ。
すると、はっとしたような表情を見せて顔を伏せてしまった。耳が赤くなっているのが見て取れる。
「す、すみません。初対面の方にこんな」
「いえ、構いませんよ」
先程までの勢いもすっかり失せてしまい、恥ずかしそうに俯く様子がなんだか可笑しくなり、宮野は微笑んだ。
しかしすぐに、自分の上がった口角に気づき表情を殺す。
「同じ趣味の方は、あまり近くにいらっしゃらないんですか?」
このまま黙り込まれて居心地が悪くなるのも避けたいと思い、宮野は彼女に話題を投げかける。
「いえ、いないわけではないんですが、仕事関係の人ばかりで。あまり好きな作曲家とか、曲とか、そういうお話もできない方ばかりなんです」
「なるほど。ところで、どちらにお住まいで?」
「フランスです。仕事で久しぶりに日本に戻ってきていたんですが、次はあっちで仕事なのでとんぼ返りです」
「ああ、だからですか」
「何がですか?」
「感情表現がオーバーだなと」
「もう、からかわないでくださいよ」
再度顔を赤くさせてしまう彼女。その様子に、再び笑みがこぼれてしまう。
笑うことなどもうないと思っていた宮野の中に、何か温かいものが広がるのを感じた。
冗談を言いながら笑う。そんなごくありふれたやり取りなんて何時ぶりだろうと、不意に過去を振り返る。
「――皐月」
「え?何かおっしゃいましたか?」
「あ、いえ、何も」
漏れた言葉は、亡き妻の名前だった。娘と接していた時でさえ、心から笑ったことなんてなかったなと、口もとを押さえて考えこむ。
ああそうだ。似ているのだ。この雰囲気が。
感情がそのまま表情に表れて、からかうと顔を真っ赤にして恥ずかしがる様子が特に。
実に6年ぶりの感覚に、何かがこみ上げて来たが、それが何なのか自覚するよりも早く空港内のアナウンスにかき消された。

『―― フランス シャルル・ド・ゴール国際空港行きの便をご利用のお客様は、只今よりご登場を開始致します ――』

     

2「会合」

13時間に及ぶフライトを終え、入国審査を済ませた宮野はグッと背伸びした。
日本で出会った女性はこれから仕事の打ち合わせがあると言い、軽い挨拶の後、荷物受取所で別れた。
「宮野、久しぶりだな」
第一ターミナルビルを出たところで、声をかけられた。
「工藤、会えて嬉しいよ」
工藤と呼んだその男に歩み寄り、握手を交わす。大きなその手が宮野の手をすっぽりと包み込んだ。
「長旅で疲れたろう。タクシーを待たせている。とりあえず僕の家に向かおう」
「ああ、助かるよ」
引いていたトランクを持ち直すと、工藤と並んで駐車場へ向かう。
「話には聞いたが、その、娘のこと、大変だったな」
ほどなく工藤が口を開いた。口調は重く、言葉を選びながらひどく話しづらそうに宮野へ語りかける。
「ああ。電報ありがとうな。香典返しも持ってきてるよ」
自分の表情に影が落ちたことがわかった。
「積もる話もいろいろある。お前の家でゆっくり話そう」
現実から逃れるように強引に話を打ち切ると、工藤は力なく相槌を打って無言で歩みを続ける。
それから言葉をかわすことも無く、パリ市街をタクシーが走る。

30分ほどでタクシーは目的地に到着した。パリの中心部から少し外れた閑静な住宅街にある1軒の家。そこが工藤の家だ。
独身である工藤が1人で住むには広すぎるが、ピアノ教室でもあることを考えれば妥当な広さといえるだろう。
「さて、到着だ。2階の客間を使ってくれ。とりあえず荷物を置いて来いよ。僕はお茶でも淹れるから」
促されるがままに階段を上がり、ドアを開く。掃除が行き届いているのか、人の出入りのない部屋特有のカビ臭さもなく、窓から挿す陽光に暖められた空気が宮野を包んだ。3月のフランスにしては、今日は暖かい。
「ふぅ」
ベッドと小さなデスク。それとクローゼットしか家具のないこじんまりとした部屋だが、居心地の良さに一息ついた。ドアのそばにトランクを置き、上着をコートハンガーに掛ける。
なんとなくクローゼットを開いては見たが、特に何も入ってはいない。
工藤は茶を淹れると言っていた。もう少し時間がかかるだろう。
「少し、荷物を整理しておくか」
そう呟いて、トランクを開ける。どれも少々時代遅れな印象の衣類だ。この6年間ろくに買い足すこともなかったためか、さすがにくたびれている。
「まぁ、こっちに居る間は大丈夫かな」
ヨレヨレのシャツを手にとってクローゼットにしまう。
下着類をクローゼットに収め、上着はハンガーにかけたところで階下で宮野を呼ぶ声がした。
準備ができたようだ。下へ降りると、紅茶のどことなく甘い香りが鼻をくすぐった。
「セイロンティーは好きだったか?」
工藤が慣れた手つきでティーカップに紅茶を注いでいる。
「好きかどうかもわからないよ。お前ほど詳しくないから」
いい年した男同士でするやり取りでもないだろう。と、言葉を続けながら居間のソファに腰掛けた。
カップを手に取り、口に運ぶ。濃厚な味わいと強めの渋味に心が落ち着く。
「今が旬のヌワラエリヤだ。セイロンベースのティーバッグにもよく使われる茶葉だから、飲み慣れた味だろ」
向かいに座った工藤が自慢げに話す。言われれば確かによく飲む紅茶の味に近いものがある。
「味は段違いだけどな。もうこれ趣味の域超えているだろ」
「店でも出そうかな」
まんざらでもない様子で笑う工藤。その中に少し申し訳なさそうな表情を感じ取った宮野は、空港での話を切り出すことにした。
「じゃあ、近況報告といくか」
「大丈夫か?」
「さっきよりはな。まぁ、さっきは俺も大人気なかったよ」
工藤には聞く権利がある。かつてライバルだった男なのだから。
「娘――優奈は、10日前に亡くなったよ。風邪をこじらせて、肺炎でな。あまり体も強くなかったし、そこからは早かったよ」
「最後に会ったのは僕が日本に戻ってきた時だから――4年も前か」
「最初で最後だったな」
「って、四十九日とかはいいのか? 会いに来てくれたのは嬉しいけど、それが終わってからにするべきだったじゃ」
「そうするべきなんだろうけどな。辛いんだ。家にいるのが。不謹慎だなんだと非難される行いかもしれないがな。遺骨のことでも心配か? 実家に預けてきたよ。お袋が毎日手を合わせてくれているさ」
「宮野、お前――」
「だから言ってるだろ。辛いんだよ。仏壇に手を合わせるのも、優奈の遺影を見るのも、隣にある皐月の写真を見るのも。――少し、離れていたいんだ」
自分がここまで脆い人間だったとは思っていなかった。今だけは現実から逃げていないと自分まで死んでしまいそうだと。言い訳のように続け、うなだれる宮野の姿は、工藤から見ても苦しそうであった。
納得のいっていないような表情の工藤だったが、僅かなこのやりとりで憔悴してしまった宮野の様子を見てこれ以上の追求をやめた。
「あまり僕があれこれ言うことじゃなかったな。すまない」
「そんなことない。お前の言うことももっともだよ」
「そう言ってもらえると助かる。――ところで宮野、明後日は何か予定あるか?」
少し強引だなと思いつつも、宮野は工藤の言葉に反応したように顔を上げる。
「いや、特にはないが」
「僕の教え子がついに単独コンサートを開くんだ。チケットを二枚もらっている。良ければ一緒に行こう」
「もしかして、笹岡千里か?」
「お、さすがクラシック雑誌編集長。注目株のコンサート情報はいつも頭に入っているようだね」
自分の教え子のことを知っていることが嬉しいのか、この日一番の笑顔を見せる工藤。
「来る前に雑誌でも読んだしな。かなり注目されてる若手だけど、まさかお前のところの教え子だとはな。灯台下暗しってやつか。取材申し込んどけばよかったよ」
「知らなくても無理は無いさ。ここのことは公表しないように言ってるから」
「どうしてまた。生徒を増やすチャンスだろうに」
「ここの生徒は僕が才能を見ぬいた原石たちだ。みんなをピアニストとして大成させる義務が僕にはある。1人1人丁寧に教えていきたいから、今がちょうどいいんだ」
「お眼鏡にかなわない生徒は要りませんってことか?」
言って、少々意地悪い言い方だったなと思った。冗談も下手になってしまったと、様子を伺うように工藤の顔を見上げる。
「違う違う。嫌な言い方するなよな。これ以上増えたら僕の手が回らない。完璧なレッスンが出来ないってことだ。そんなの、今いる生徒にも入ってくれた生徒にも失礼だろう」
「相変わらず誠実だな」
少し安心して、素直な感想を口にする。
「宮野こそ、相変わらず人を試すようなことを言う」
思わず笑みが漏れたのに気づき、ごまかすように顔を伏せる。出立前の空港でのやり取りの時もそう思ったが、6年の間自分はどんな表情をしていたのかわからなくなる。
「ようやく笑ったか」
安堵の色すら伺える工藤の声色に、宮野は一種の恥ずかしさを覚えた。
「俺は、笑ったらいけないんだ」
「なんでだ。優奈ちゃんが亡くなったばかりだからか。この世の不幸をすべて背負ったような顔してるよりずっといいだろ」
「そうあるべきだ」
「空気を読むっていうやつか。こっちの暮らしが長いからよくわからない感覚だ」
少々呆れたように肩をすくめ、工藤はティーカップを手に取る。
「で、明後日は大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だ。付き合うよ」
「午前中はレッスンがあるから、そのあと昼食でも食べてから向かおう」
明後日の予定を決めていく中で、ふと宮野はあることに気づいた。
「ところで、明日は暇あるか?」
「明日? 明日は丸一日休みだけど」
「よかった。服を買うのに付き合ってもらえないかなと思ってな」
「構わないが、どうして? 服なら持ってきてるだろ」
「教え子の晴れ舞台に来た恩師が連れてきた人間が、ヨレヨレのスーツを来たオヤジじゃカッコつかないだろ」
少し照れくさそうに言う宮野に、工藤は声を上げて笑った。

       

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Neetsha