Neetel Inside 文芸新都
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ニッポニア
再起

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 慶応元年九月(1865年新暦10月)幕府は倒幕の機運を完全に断ち切るために、二度目の長州征伐の準備を着々と進めていた。対する長州藩も座して死を待つようなことはせず、秘密裏に薩摩藩と会合を重ね、過去の軋轢を乗り越えて薩長の間に同盟結ばせるべく蠢動していた。



 下之介はのんびりと薄もやごしの景色を眺めていた。遠くの山々は水墨画のようにさびしげで、家から漏れる灯火はにじませた水彩絵の具のように淡い光を広げている。下之介が佐賀に来てから、早いもので二年の月日が流れていた。最近は母からそろそろ身を固めるように催促され辟易している。まさか、ちるーが男装した女とばれたんじゃないかと疑ったほうが良いかもしれない。こうしてのんびりしてる間にも日々世界は動いている。こんなことをしていて良いのかと常に思い続けていたが、自問の答えも出ぬまま今日も日が暮れていく。ゆうげの平和な匂いがそんな疑問もかき消していく。今も日本のどこかではこの国のために血を流している人がいるというのに。
 母とちるーが箱膳を持っていそいそと台所と居間を往復する。いつもの夕方の風景だ。下之介もきまぐれに箱膳を運ぶのを手伝う。これからもこの家で暮らすのだからと、下之介はたまにしか親孝行していない。
「御免。」
 外から地鳴りのように突然、大声で呼ばれる。父の下之丞が応対に門前に出ると、そこには陣笠をかぶった横目付よこめつけ(藩士を監視する役職)と鉢巻にたすき掛けして尻はしょった姿の捕方とりかた数名が立ち並んでいた。
「何事ですか。」
「近隣の者から、見知らぬ男が住み着いているという密告があった。屋敷の中を改めさせてもらう。」
 捕方とりかたが下之介の目の前になだれ込み、六尺棒で殴りつけた。ほほから火がでるように熱くなり、景色がくるくる回る。体勢が崩れたところを、別の捕方とりかたが後ろから羽交はがめにする。乱暴はやめてとすがりつく母を振り払い、捕方とりかたたちはやたらめったら殴りつける。
 下之介の意識は妙にはっきりしている。まるで殴られている自分自身を客観視しているようだ。あまりの痛みに壊れてしまわないようにする心の働きかもしれない。
 下之丞は横目付よこめつけに下之介が息子であることと佐賀に入国した経緯をくだんの推薦状を見せながら説明したが、江藤新平なる人物は脱藩の罪人だからその推薦状は無効であると一蹴された。
 ちるーのほうへ目を向けると殺気走って柄に手をかけ、今にも刀を抜き放とうとしていた。いけない。
「拙僧が上中下之丞の息子というのはまったくの偽り。ただの食い詰めた無宿人よ。他の者は拙僧に騙されていただけだ。手出し無用。」
 ちるーの声が遠くに聞こえる。何を言っているのか、もう聞こえない。
 六尺棒の雨あられが止む。ぐったりした下之介を後ろでに縛り、捕り方が引きずっていった。後に残された両親はしばらく呆然としていた。
 我に返った母親は土足で踏み荒らされた畳を雑巾で拭き始める。何度拭いても涙がこぼれ落ち、畳に染みを作った。



 腫れ上がって熱を持ったほほをしっとりとした手が擦っている。誰かが軟膏を塗ってくれているようだが、まぶたが重くて目が開けられない。まぶたを押し上げようと右腕を上げると肘が固定されていて動かない。唯一動かせる左手でむりやりまぶたをこじあけると、目の前にちるーの顔があった。下之介を膝枕で介抱していたのはちるーだった。
「起きたか。良かったな、切り捨てられずにすんで。お前が長崎街道の脇に放逐されただけなんだ、ご両親のほうはお咎めなしだろうな。」
 日はまだ上っていないが明るく、腰丈ほどあるすすきの茂った原っぱの中にいることに気づく。
「何をしている。」
「今塗っているのは紫雲膏だ。外傷、やけど、凍傷、打撲、痔や脱肛、水虫なんかにも効く、かの華岡青洲先生が考案された漢方薬だ。ゴマ油に当帰、紫根、黄蝋、豚脂などが入っている。右腕は折れていたから、添え木を……」
「そうじゃない。何でついてきたんだ。」
「好きでついてきたわけじゃない。妖刀をお前が持ったままだったから。」
 下之介は腰帯から妖刀を鞘ぐるみ引き抜き、差し出した。
「二年も待たせて悪かったな。」
 固く結んだちるーのこぶしがわなわなと振るえている。今までの信念をあっさりとひるがえした下之介に対する怒りがこみ上げているのだろう。
「やはりお前は嘘吐きだ。死んだ人との約束だなんだと、偉そうな事を言っておきながら何も成していないじゃないか。」
「もう、どうでもいい。」
 顔を紅潮させたちるーが刀の柄に手をかける。
「未練はない。斬ってくれ。」
「今のお前にゃ斬る価値もない。」
 ちるーは心底失望したのか、無表情な顔を背けて、そのまま一度も振り返らずに去っていった。



 草の間から日差しが漏れる。下之介は伏したまま、起き上がらない。赤とんぼが鼻先に止まる。
 頭にこびり付いたちるーの言葉が、下之介を責めたてる。下之介は自分の不幸を呪っていたが、路傍で屍を晒している名もなき志士たちよりは、まだましなほうじゃないのか。たった二年だったが、家族で過ごす時間があったのだから。妖刀を託した清河は親孝行できたんだろうか。息の白さに驚いてとんぼが飛び立つ。
 せめて遺言だけは叶えてやらなきゃな。そう思い立って、妖刀を杖に立ち上がる。街道を見渡して思案する。東西に延びる長い直線は、西へ進めば長崎、東に進めば小倉に行き着くだろう。
 日の出を拝んでいた下之介はその中にかげを見つける。それは次第に大きくなって近づいて、人の形をしていることに気づく。見覚えのある男装のシルエット。たった半刻の間の別れだったがひどく懐かしい。逆光で表情が見えないがいったいどんな顔して戻ってきたのやら。下之介はどんな憎まれ口を叩いてやろうかと考えたが、まずは礼を言おうと思い直した。
 ちるーの影が下之介の足元に届く。
「かたじけない。」
「ば、馬鹿。別にお前のために帰ってきたわけじゃないぞ。通行手形がなくて関所が通れなくてだな……」
 朝焼けのせいか、ちるーほほも朱を帯びている。
「分った、分った。では、長崎のほうへ行くか。海に関所はないからな。」
 二人はまた歩き始めた。


 

       

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