Neetel Inside 文芸新都
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 潮の匂いが薄まり、やがて都市特有の無臭になる。町は師走の朝ということもありにぎやかである。ひとりの棒手振ぼてふりが売り口上を叫ぶと、負けじとそこかしこから小気味良い売り文句が聞こえてくる。やはり江戸は活気に満ち溢れている。
 帰ってきた。無意識にそう思うほど、江戸の町はもはや下之介にとって故郷だった。
 さて、近藤という男の手配した帆船で品川宿まで送ってもらった下之介一行は、途中近辺を散策し、「そういや、この辺りの寺はまだ見ておらなんだなあ」と東禅寺へ参拝しようとした。東禅寺がイギリス公使館として使われていることを知らなかったため、警護の寺侍に攘夷浪士と勘違いされる一幕もあったが、疑いも晴れ無事江戸に到着することができた。
 ほんの三年前にはここに住んでいたから、裏路地、小道、みんな覚えていた。何も変わっていない。八丁堀の表通りからちょいと奥の路地に入って、入り組んだ迷路のような小道を抜ける。あいかわらずのうなぎの寝床に薄い壁。木戸をくぐると見覚えのある長屋が見えてきた。
「なんだい。都落ちして、お国に引っ込んだんじゃなかったのか? 」
 一番最初に会ったのがよりにもよって福郎だった。しかし小憎らしい顔も久々に見ると感慨深いと下之介は心の中でつぶやき、ちるーにひと通り紹介した。
「大家の奥さんに挨拶したいんじゃが。」
「また、やっかいになるつもりか、勘弁してくれよ。」
 もう二度と福郎の顔は見たくない。下之介は即座に前言を撤回した。
「奥さんなら、熊さんの部屋に見舞いに行っているぜ。」
「熊さんどっか悪いのか。」
「あの年だからな。せっているのもしょうがねえ。」
「嘘をつくな。あんなに元気だったじゃないか。」
「お前が出て行ってから幾月いくつきかして、急にぶっ倒れたんだよ。」
 下之介は足早に熊さんの部屋の戸口まで歩を進めると、そこで立ち止まった。
 ちるーがいぶかしんで尋ねる。
「どうした。」
 下之介は答えない。
 ちるーは持て余して、着物の袖の匂いを嗅いだり。何か考えごとをしている。
「入らないなら、私用を済ませてくるからな。」
 そうちるーは提案すると、そそくさと表通りに向かっていく。その一部始終を、福郎は品定めでもするかのようにじっと見ていた。
 下之介はいっぺんまぶたを深く閉じ、目を見開いた。
「熊さん入るよ。」
 下之介は努めて平坦な声色で断りながら、いつも通りのしぐさで戸を開いた。草鞋わらじを脱ぎ足の裏を軽くはたく。
「おお、げのちゃんかい。よく帰ってきたね。」
 随分と力のない声だったが紛れもなく熊さんの声だった。
 部屋では大家の奥さんが、布団に横になっている熊さんの額の汗をぬぐっていた。下之介は奥さん目礼すると、隣に座って無言で汗拭きを交代した。
 江戸の世に高齢者の介護施設などという気の利いたものはない。国許くにもとにいれば誰かしら親類縁者が面倒を見るが、江戸のような都市部では身寄りのないものが多い。自然長屋の住人たちがかわるがわる世話をするような不文律が出来上がった。
 熊さんは下之介の顔を見て安心したのか、静かに寝息をたて始めている。
 月日とはなんと残酷なものだろう。三年前の元気はつらつとした老人の姿は見る影もない。下之介の両目からこらえていたものがはらはらとあふれ出した。
「あんた、そんな顔、熊さんの前で決して見せるんじゃないよ。どれだけ熊さんがあんたのこと心配してきたか、知らぬは当人ばかりかい。祝言のひとつでも挙げて孝行したらどうだい。」
「拙僧が嫁をとるとどうして孝行になるんじゃ。」
 大家の奥さんが頭を抱えて少し不機嫌そうに言う。
「そんな鼻水まみれの顔じゃあねえ。湯屋にでも行って旅の垢といっしょに落としてきな。」


 くしくもちるーの用事というのも風呂だった。常に男装していたちるーは風呂ひとつとっても不自由している。今回も午前中の客が少ない隙に女湯へと入っていった。
 刀掛けに愛刀を置き、するすると帯を解く。なぜ女湯に刀掛けがあるのか不思議だったが、自分のような男装の者のためだろうと、あまり深くも考えず早合点していた。
 まげをほどき、脱いだ着物を几帳面に畳んで、柳行李やなぎこうりの中に入れる。鶴は風呂桶とぬか袋を手に洗い場に入った。
 湯気がたちこめ、天井から滴るしずくの音しかしない。
 ちるーは掛け湯してからぬか袋で体を洗い始めた。長旅で疲れきった体がきりきりと痛む。丹念に髪をすすいで、湯船に浸かる。貸切のように風呂を独り占めして良い気分だったが、あまりゆっくりもしていられない。
 男装して外に出るときに人に見つかったらやっかいだ。ちるーはすぐに湯殿から出た。
 手ぬぐいで上から髪、顔、首、腕、乳房と順にふいていく。
 そのときのれんを分け入って来た男と目が合った。無防備な姿を見られたちるーは生娘のように(生娘なのだが)甲高く叫んだ。
「十手持ちを呼ぶよ。」
「俺がその十手持ちの同心よ。なんで女湯に刀掛けがあるか知らねえみてえだな。女湯に人がいない朝方に入り、男湯の盗み聞きをする同心のためよ。」
 聞いた声だった。よく見ると先ほど会ったばかりの男だ。
「たしか福郎といったか。」
「そう、同心の福郎。下之介の野郎、臭え臭えと思って、長年張ってきたが、とうとうやりやがった。手前てめえらが幕府転覆を企む極悪人であることはとっくに割れてんだよ。」
 福郎は啖呵を切り、指笛を吹いた。さらにちるーが逃げ出せぬよう着物を奪い取った。
 これも妖刀のせいなのか。刀一振りのために町奉行までが動いているのか。
 騒ぎを聞いて女湯に飛び込んできた新たな闖入者と目が合い、再びちるーは叫んだ。
「下之介、なんでここに!! 」
「やい、福郎。とうとうやりやがったな。堂々とノゾキとはふてえ野郎だ。」
 福郎から隠すように両手を広げ、下之介が遮った。
「俺は同心だ。ノゾキというなら手前てめえのほうだ。」
「出てけ。」
 小さな手ぬぐいで裸体を必死に隠しながら、ちるーは下之介の後頭部に風呂桶を投げつける。
「あいたっ。拙僧はお前を助けに来たんだって。」
 下之介が振り返った。
「いいから、ふたりとも出てけ。」
 ちるーの剣幕に押されて、下之介と福郎はしぶしぶ女湯から出て行った。なんとも締まらない。


 外に出るとすでに湯屋は大勢の捕方とりかたに包囲されていた。福郎が味方を呼んでいたようだ。大捕物でも始まるのかと娯楽に飢えた江戸っ子たちもちらほら野次馬している。
 女湯から下之介のただひとりの味方も駆けつけた。ちるーは番頭の婆にでも借りたのか梅茶の矢絣やがすりを着ている。女物の着物にむりやり刀を差した珍妙な格好だ。
 ついに人を斬ることになるのか。下之介は観念して刀に手をかけた。
 抜けない。
 体がいうことを聞かないというわけではない。引き抜こうとすると一寸ばかりのところで何かに引っかかる。力まかせに何度も抜こうと試すが、派手な金属音が鳴るばかり。
「何やってる、早く抜け。遊んでいる場合か。」
 刀を構えながら鶴がまくし立てる。捕方とりかたたちはじりじりと間を詰めて、今にも飛び掛らんとしている。
 刀は貝のようにかたくなに引きこもっている。焦れば焦るほど思うように刀は抜けず、だんだん抜き方が分らなくなってくる。
 追い詰められた下之介は何がなんだか分らなくなって、寄せる捕方とりかたに一喝した。
「黒船だ、大砲だというこのご時世に、たかが刀一振りで右往左往。拙僧のような小者を大勢で追い回して、武士の誉れはどこへやら。」
 わずかだが捕方とりかたが浮き足立つ。逃げるならば今をおいて他にはない。下之介は強引に鶴の手を掴むと、真正面に向かってなだれ込んだ。数を頼んだ捕方とりかたたちは、まさか逆撃をこうむるとは思っておらず、あっけにとられるばかりだった。
「逃がすな。」
 遅れて到着した別の同心が捕方とりかたに檄を飛ばす。冷静さを取り戻した捕方とりかたたちが下之介たちに追いすがって殺到する。
 もはやこれまで。下之介の心は潰れかかっていた。足が前に出ない。
 いったいどこまで逃げればいい。自分を受け入れてくれる場所はどこにもないのではないか。
 下之介の上体が後ろにゆっくりと傾いていく。体に力が入らない。
 誰かが手を引っ張っている。ちるーだ。ちるーはまだ諦めていない。しかし目の前には福郎の率いる別働隊が回り込んでいた。
 助けの手は思わぬところから差し伸べられた。
「すまねえ。俺の勘違いだったようだ。この男のことはよく知っている。幕府転覆などと大それたことができる奴じゃない。」
 福郎が同僚に説明しはじめた。手配書に書かれていたのは男ふたり組みであり、片割れが女だから下之介たちは違うと証言したのだ。


 同僚は福郎の言を信じ、捕方とりかたたちは命令を受けるとあっさりと引いていった。野次馬たちもいずこかに散っていって後に残されたのは、下之介、ちるー、そして福郎だけだった。
「お前さんいい奴だったんだねえ。」
「勘違いするなよ。俺はあの長屋さえ平穏ならばいいんだ。あまり長くは持たねえから、すぐにでも出て行け。」

       

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