Neetel Inside 文芸新都
表紙

ニッポニア
下駄はカラコロ

見開き   最大化      

 慶応二年旧暦六月七日(1866年7月18日)、長州藩の四方からついに幕府軍が押し寄せて来た。いわゆる第二次長州征伐の勃発である。関門海峡の対岸あたるため根城となった小倉城、幕府海軍と伊予松山藩によって占領された大島、彦根藩が主力の芸州口(山口広島間の県境)、石州口(山口島根間の県境)の拠点の浜田城などが主戦場となった。これに呼応した散発的な戦闘も全国各地で繰り広げられたが、いずれも小規模であるためここでは列挙しない。




 追手の役人は巧妙に二人を追い詰めていった。包囲網を少しづつ狭め、新撰組の活動する京へと誘導した。下之介たちは関所も越えることができず、京の洛外に追いやられていった。
 日は落ちているはずなのにうだるような暑さは続いた。汗で張り付いた襟口を開いて、空気を送り込む。じっとりた温風がますます体を重くする。花咲く合歓ねむの木、百日紅さるすべり。桐の枝には青い実がついている。まっすぐ行けば森を抜けられると信じながら、奥へ奥へと入り込んでいく。
 小さな木の根に蹴躓けつまづき、ちるーがつんのめる。
吃驚はっさあきさみよー。」
「またお国言葉が出たな。して、吃驚はっさなんたらはどういう意味なんじゃ。」
「もう良いだろう。」
「そう言わず教えてくれ。」
「しつこいな。ねちねち、ねちねちと。」
 弱みがある鶴は下之介の好奇心を満たすまで、琉球の島言葉をひととおり講義した。ちなみに「吃驚はっさあきさみよー」とは「びっくりした」とか「驚いた」といった意味である。
 ちるーは今朝の迂闊うかつな発言を悔いた。




 さかのぼること12時間前。二人は遠く関所を望みながら思案していた。
「どこかにかくまってもらう当てはないのか。」
「ないこともない。」
 下之介は以前京で世話になった呉服屋、菊屋与兵衛を思い出した。与兵衛の娘の琴や丁稚でっち奉公をやめたがっていた少女は元気にやっているだろうか。ふいに助清の顔が思い浮かぶ。
「だめだな。」
 自分が攘夷志士でないことを助清に打ち明けていた。あのやり手の番頭のことだから、すでに下之介の正体は皆に知れ渡っていることだろう。
「なあ、そもそも律儀に関所を通らずとも良いのではないか? 」
「関所ってのはな、津(川の港、渡し場のこと)や峠のように必ず通る処にあるから関所になる。」
「峠を通らずとも山中を迂回すれば良いじゃないか。」
 ちるーはすぐに対案を出した。
「森を抜けるのか。それは危うい。」
「追手よりはマシだ。山歩きならば私に任せておけ。」




 これが今に至る経緯である。
 ちるーの山歩きへの自信は琉球で培われたものである。当然本州の山の知識があろうはずもない。山に入ってからすでに14時間が経過し、二人は軽口を叩き合う余裕すらなくなっていた。
 空には半月と無数の星。どこまで歩いても景色は緑一色で、同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。足が上がらなくなり、それをかばうように歩いたせいで、今度は股関節がきりきりと痛み出す。喉の渇き、空腹感、慢性的なダルさ。
 それでも二人は歩き続けた。一度止まれば、一歩も歩けなくなると分っていたから。
 すさまじい地響きが足に伝わる。近い。ちるーかんざしを引き抜いて身構えている。幻聴ではない。
「追手か? 逃げよう。」
「そんな力は最早もはや残っていない。行き倒れになるよりは、ここで潔く迎え撃とう。」
 男装もしていないのにちるーはえらく男前なことを言った。
「それでは犬死じゃ。逃げよう。」
「お前は逃げてばかりだな。新撰組だったら切腹ものだぞ。」
「何? 新撰組のお歴々はだれも逃げたことがないのか。」
 ちるーは当然という顔でほこる。
「士道に後退の二字はない。」
「それでは新撰組はいつか負けるぞ。それは歩だけで将棋を指すようなものじゃ。」
 口論している間に三人の無頼漢が取り囲んでいた。追っ手にしては少なすぎるし、身なりが汚い。大男が手に持った松明で下之介と鶴の顔を交互に照らす。三人の中ではまだ小奇麗なほうの男がこちらが聞きたかったことを尋ねる。
「何者だ。」
「琉球国士族、新垣ちるー。」
 馬鹿正直にちるーが名乗りを上げたので、下之介もしぶしぶ名乗る。
「今は出奔しているが元肥前佐賀ご家中、上中下之介だ。貴様らこそ何者だ。」
「我らは筑波勢。」
 下之介は天狗党と言いかけて言葉を飲み込んだ。天狗党とは筑波山で挙兵した彼らが、天狗のように傲慢に振舞ったことからついた蔑称だったからだ。
「筑波勢にまだ生き残りがいたとは。なぜこんな獣道を? 」
「それはお互い様だ。我らは藩からも幕府からも追われる身。天下の表通りを大手を振って歩けるはずもない。」
 彼らもまた、追い詰められた者たちなのである。下之介と筑波勢は同じ境遇に置かれていることもあり意気投合した。天狗党の三人に道案内してもらい、無事に下山し、洛中にたどり着くことができた。




 下之介はちるーと口裏を合わせて、天狗党の三人の定宿に泊めてもらえることになった。
「あんたらもいればこの義挙も成功するかも知れんな。」
 天狗党はすっかり下之介たちを攘夷志士と信じ込んでいた。
「義挙? 」
「今、長州藩が負ければ尊王攘夷の火は消えちまう。だから我ら尊王攘夷の総本山である水戸の家中が助太刀しようというわけだ。」
 天狗党はそのほとんどが小浜藩で処刑されていたが、処刑を免れて拘禁されている者がいた。この天狗党の生き残りたちは時流を尊皇攘夷に引き戻して、拘禁されている同志を救おうという腹なのである。
 鴨川沿いを下っていく。京の町は似たような家屋が建ち並んでいるとは言え、見覚えのある路地が続く。店の前まで来て、ようやく下之介は気付いた。
「まずいぞ。ここは以前拙僧が世話になった菊屋だ。」
「なんだ。顔なじみならば、なおのこと良いじゃないか。」
「天狗党の三人組に拙僧たちが攘夷志士でないことが知れたらどうなることか。」
 下之介はひそひそとちるーに話した。
「そうなってから出て行けばいい。私はもう一歩も動かんぞ。」
 確かに下之介もへとへとで、せめて一晩だけでも世話になろうと腹を据えた。
 菊屋で冷たくあしらわれることを覚悟したが、一行は意外な歓待を受けた。どういうわけか、番頭は下之介の正体を明かしていないらしい。
「上中様、お待ち申しておりました。今宵は当家の離れにご滞在ください。」
 箱入り娘の琴が直々に宿として改装された離れに案内する。下之介が三和土たたき(玄関や土間のような床が板張りでない、土でかためられた場所)で穴の開いた草鞋わらじをぬぐと、琴が持ってきたたらいで足を洗ってくれた。ふいに琴とちるーの目が合う。
「上中様、そちらの方は。」
 下之介はちるーをどう紹介すべきか迷った。今までに考えたこともなかったからだ。下之介にとってちるーとは何なのだろう。
「うむ、何と言ったら良いか。かたきだったり、弟子だったりしたが、今は嫁におさまっておる。」
 カランコロンと音がする。琴が持っていた何かを落としたようだ。
「そうどすか。」
 何か怖いものでも見たように、琴は後ずさりする。元々白い肌が、透き通るように見る見る血の気が引いていく。琴はその場から逃げるように去って行った。
「この人は……。」
 ちるーは初対面であったが琴の気持ちが分るような気がした。だから追いもしなかった下之介に無性に腹が立った。
 下之介は琴の落としていったものをそっと拾い上げる。それは、かかとのところに下り藤の焼印が入った下駄だった。




 翌朝下之介が起きると、天狗党の三人組は消えていた。お膳を運んできた丁稚でっちの少女に聞くと、すでに朝食も済ませたそうで、何やら主人の与兵衛に談判しているらしい。
 下之介はさして気にせず、うれしそうに白米をほおばった。
「久々の白い飯じゃ。朝から焼き魚とは豪勢じゃな。この魚はなんじゃ。」
「キハダどす。京は海がありませんので、干物どすけど。」
「いや、うまいから一向にかまわぬ。」
「私が焼いたんどす。」
 丁稚でっちの少女が嬉しそうに言った。
「ふん。稚児ちご好み(ロリコン)か。」
 ちるーは昨日の怒りがまだ冷めていないようだ。
 そのとき母屋おもやのほうから言い争うような喧騒が聞こえてきた。丁稚でっちの少女が心配顔をして、離れを出ようとするのを、下之介が引き止める。
「お前さんはここにいなさい。どれ、拙僧が見てこよう。」
 そう言いながら朝食もそこそこに離れを出た。ちるーもその後を追う。




 千両箱を両手に抱え、天狗党の大男がわめき散らす。
「この金は軍資金として徴発してやる。」
「どうか、ご勘弁を。それを失っては、手前どもは生きてゆけませぬ。」
 大男の足にすがり付く与兵衛を蹴飛ばして、天狗たちは出て行こうとする。
「これが志士のすることどすか。恥を知りなさい。」
 与兵衛を助け起こし、琴は言い放った。天狗党の頭領とおぼしき男が足を止め、振り返る。取り乱し、逆上して琴につかみかかる。
「町娘風情が武士に説教垂れるか。無礼討ちにしてくれる。」
 刀が振り下ろされる。琴は固く目をつぶった。刀同士がぶつかる鋭い音。琴は片目を開ける。目の前に頼りない背中があった。下之介が刀を抜いて天狗の頭領と鍔迫り合いをしている。
 他の天狗二人が加勢しようとするのを後から入ってきたちるーがけん制する。
「これはどういうことじゃ。」
 下之介は大喝した。
「それはこちらの言葉。邪魔だて致すな。」
「お前らのしていることは盗賊と変わらぬ。」
 水戸藩は最も早く攘夷運動を始めた藩である。それに加え藩内の抗争のため人材が枯渇していた。目的を見失い、国を守るためとうそぶいて、庶民から私財を搾り取る。
「大義の前では小さきこと。」
 下之介が押し負け跳ね飛ばされる。
「小さきことだと。追い詰められれば何をしても良いというのか。恩を仇で返しても。」
 ちるーが下之介の後を引き取り、頭領に組み付いた。ところが下之介は刀を納め背を向けた。
「どうやら拙僧では適わぬようだ。」
「大言壮語したわりに逃げるのか。」
 天狗たちが嘲笑する。
「上中様、三年前に忠告を聞かなかった私どもが愚かでした。ですが琴は、娘だけはお助けください。」
 下之介は与兵衛に背を向けたまま、店先から母屋おもやを出た。店の隅で震えていた助清がひょっこり顔を出し、与兵衛に声をかける。
「旦那、無理ですよ。あの上中下之助という男は実は攘夷志士でも何でもないんです。ろくな男じゃありませんて。」




「確かに、何度愛想を尽かしたことか分らぬ。だが、あいつはどんなに追い詰められようとも、こやつらのように外道なことはしなかった。あいつはきっと戻ってくる。」
 ちるーは天狗の頭領を押し返した。しかし多勢に無勢。ちるーは囲まれ、大男に腕をつかまれた。
 外から下駄の音が近づいてくる。合戦の勝鬨かちどきのような大音声だいおんしょうまで聞こえてくる。
「新撰組の方々、この上中下之助隠れもせぬぞ。」
 下之助が新撰組に追われながらこちらに向かってくる。カラコロと特徴的な音をさせながら下之助が店先に飛び込む。
「筑波勢のお三方、どうぞ存分に大義をお通しくだされ。」
「何を、何を言っている。」
 天狗たちは色をなす。
「新撰組を巻き込んでやったわ。死なばもろともじゃ。」
「やはり同志のもとに逃げ込んだぞ。まとめて片付けろ。」
 一気呵成いっきかせいに新撰組が店先になだれ込む。下之助はちるーの手をひいて、そっと勝手口から出て行った。
「これだけめちゃくちゃにして、とんずらするつもりか。」
「あとは新撰組に任せる。あいつらのしつこさは折り紙付きだからな。」
 新撰組から見れば下之介たちも追うべき相手なのである。急いでここを離れなくてはならない。
 裏路地を行く下之介は何も段差のないところで蹴躓けつまづいた。さすがにお国言葉は出なかった。鶴が舌打ちする。
「いつまで下駄を履いているんだ。走りにくいだろう。」
「もうしばし、このままでいさせてくれ。」
 下駄の音が寂しく響いた。

       

表紙
Tweet

Neetsha