Neetel Inside 文芸新都
表紙

ニッポニア
旭日はまた昇る

見開き   最大化      

 ちるーは知恵者の先見の明に驚いた。蘭方医緒方洪庵の言っていた通り戦が起こったのである。
 薩摩藩と長州藩を主体とする新政府軍は将軍職の辞職程度で徳川慶喜よしのぶを許さず、慶応四年一月三日(1868年1月27日)鳥羽伏見の戦いが始まった。幕府軍は終始優勢に戦っていたが、同月六日午後二時、皇族の仁和寺宮にんなじみやが出馬し錦旗が翻ると状況が一変する。錦の御旗が水戸黄門の印籠のような役割を果たしたか一概には言えないが、少なくともたった一人の人物には効果絶大だった。
 専制政治の最たる欠点とは、どんなに優れた人物が独裁者となっても、人間である以上完璧ではないということだろう。尊王攘夷思想の総本山水戸藩の藩主水戸斉昭なりあきの実子であった徳川慶喜よしのぶは、朝敵として歴史に名を刻むことを恐れ、同日午後十時、数人の幕府軍幹部とともに大阪城を脱出した。
 戦場に置き去りにされた幕府軍は各地で敗れ、新徴組を率いていた佐々木只三郎も戦死。新選組を率いて戦った近藤勇は狙撃され重傷となった。
 江戸に逃げ帰った徳川慶喜よしのぶは上野寛永寺に引きこもり、勝海舟に丸投げする。幕府側の代表である勝海舟と新政府側の代表である西郷隆盛の会談によって江戸は無血開城した。
 徳川幕府のなんともあっけない幕切れだったが、下之介とちるーは江戸の人々が戦に巻き込まれなかったことに素直に喜んだ。江戸で唯一戦闘のあった上野寛永寺も、土壇場で新政府についた肥前佐賀藩のアームストロング砲と長州藩の天才軍師大村益次郎の手によって、幕府残党の彰義隊は一日で新政府軍に鎮圧された。
 幕府残党と新政府の戦いは以後東北に舞台を移していったが、新しい生活に四苦八苦していた二人にとっては遠い国の出来事だった。



 北海道で初めて体験した冬はとても厳しく、村人たちの手助けがなければ冬を越すことはできなかっただろう。特に南国育ちのちるーは再び冬が巡ってきて、欝々とした毎日をすごしている。今日も昨日から降り積もったせいで本堂の雪下ろしをしていた。下之介は一年で村人たちと打ち解け、若い衆が雪かきを手伝ってくれるようになった。本堂の屋根は二人で雪を掻くには広すぎるため、とても助かっている。
「いいか、ちるー。上から順に掻いていくぞ。軒に立って雪に巻き込まれないようにな。」
 これも村人たちの受け売りである。そのほか雪国で生きていく知恵を村人たちは教えてくれた。
 村人たちも分け隔てなく接する下之介に心を開き、何かあればまず下之介に相談するようになった。この日も一人の村人が息せき切って駆け込んできた。「住職。大変だ。黒船だ。沖から8隻も黒船が。」
 下之介は驚いて軒に乗り出す。上から崩れた雪に巻き込まれ落ちた。
「あんた。無事か。」
 ちるーがはしごで降りて下之介を助け起こす。地面に積もっていた雪がクッションになり、下之介は無事だった。
 明治元年十月二十一日(1868年12月4日)8隻の軍艦が鷲ノ木沖に現れた。上陸したのは夷人ではなく、榎本艦隊の先遣隊である土方歳三が率いる約3000名の幕府残党だった。
 自分を追ってきたのだと思った下之介は戦慄し、寝込む始末。下之介の代わりにちるーが土方と本堂で会見することとなった。
 


「新選組副長、土方歳三と申す。」
「鷲ノ木寺住職の代理のちるーと申します。」
「ご住職はいかがなされた。」
「雪かきで屋根から落ちまして、寝込んでおります。」
「それはご自愛ください。」
 阿弥陀如来像の後ろから寝間着姿の下之介がこわごわと覗いている。男装をしていないせいか、かつての部下新垣二郎であるちるーに土方はまったく気づいていないようだ。寺の境内を橋頭保にするため貸してほしいと言う。
 寺院や神社は古来より城の代わりとして拠点となることがしばしばあった。日光東照宮を徳川家康が建てたのも、江戸が落ちた場合に拠点とするために建てられたものであり、江戸無血開城のおりに幕府残党が実際にそういう使い方をしている。
 土方が鷲ノ木寺を拠点にしようとしたのは必然だったが、その住職が下之介であったのはまったくの偶然だった。
 しかし、下之介は天命と受け取った。天が土方を罰しようとしているのだと。ちるーもきっと同じ考えで、土方の要求を蹴ってくれるものと思っていた。
「お受けいたしましょう。ごゆるりとおくつろぎください。」
 ちるーは快諾してしまった。
「待たれよ。神様仏様が許してもこの上中下之介が許しはしない。」
 仏像のほうから声がした。黙っていられなくなり下之介が仏像の影からしゃしゃり出る。
「ご住職、体はもう良いのか。」
 土方は下之介の名前を聞き、顔を見てもまだ思い出さないようだ。
ちるー、なぜ受けた。お前だって追い詰められ苦しい思いをしたじゃろうが。」
「私には古巣の新選組の苦境をほっておくことはできない。私が苦境のときに新選組は私を拾ってくれたんだ。あんたにとっての清河八郎と同じだ。」
 清河は下之介を初めて侍として遇し、故郷へ帰る手助けをしてくれた恩人である。それだけではない。朝方に店を開けてくれた京の居酒屋、棲む場所と仕事の面倒まで見てくれた大家の奥さん、長屋に溶け込めるようによく話しかけてくれた熊さん、式場を設営してくれた大工の八っつぁん、たどたどしくも高砂を謡ってくれた川太郎、同心であるのに見逃してくれた福郎。神足歩行術の竹川竹斎、だんごっ鼻の伊藤俊輔、まんじゅう屋の近藤長次郎、桜島丸の船上で会った縮れ毛の男、江藤新平、大隈八太郎。店でかくまってくれた琴、菊屋与兵衛、丁稚でっちの少女、助清。名も告げなかった旅人、緒方洪庵、鷲ノ木の村人たち。そして、命の恩人であるちるー
 激動の幕末の世に下之介がしぶとく生き残ってこれたのは、人々の親切心のおかげだった。
「お前さんの気持ちも分かる。お前さんの気持ちも分かるが……」
 下之介は言葉を詰まらせた。土方はまだ下之介のことを思い出さず、飲み込めない顔をしている。下之介は怒りを爆発させて続けた。
「……拙僧は土方を許せぬ。この男はたった二年前のことも思い出せない。斬った相手のこと、斬ろうとした相手のことなどいちいち覚えてはいないというわけだ。」
 土方はそれでも思い出せず、ただただ額を畳につけた。下之介はだまって本堂を出た。追いすがるちるーがあやまる。
「勝手に快諾しようとしてすまなかった。」
「いや、土方の申し出は受けよう。」
「え。」
「あの男、土下座までしおった。変われば変わるものだ。見ていて哀れに思えてな。」
「変わったのはあんたのほうさ。」
「確かに二年前とは逆に、今度は土方が追い詰められる番だからな。」
「そうじゃない。あんたが成長したから、相手を許す余裕が持てたんだ、きっと。」
 土方たちは一泊したあと、非戦闘員だけを本堂に残してすぐに七飯町方面に向かって進軍した。それ以後土方とは会っていない。最後まで下之介のことを思い出すことがないままに。



 幕府残党が負けた五稜郭の戦いが終わってほどなくして、下之介は風のうわさで聞いた。土方は最期に自分の小姓(身の回りの世話をする役職の少年)を逃がして戦死したらしい。
 冬の暗い閉塞感は残っているものの、見えないところで春への助走は始まっていた。雪の下ではフキノトウや麦が芽吹き、鳥たちは卵を温め始めている。
 嵐が過ぎ去さったのを知った村人たちは鷲ノ木寺に詰めかけた。
「幕府の連中に寺を貸すなんて、とんでもないことをしてくれた。」
「今度こそ官軍ににらまれる。」
「生臭坊主が。おめかけさんにたぶらかされたんじゃないのか。」
 村人たちは下之介とちるーの関係を誤解し、ちるーが土方の申し出を受けたことがいびつに伝わってしまったようだ。
 下之介は口々に罵声をあびせられながらも、なるべく正直に話した。鶴が元新選組であることだけはぼかし、幕府残党にくみしたのは「官軍を楽に勝たせ、苦も無く太平の世がくれば、人は得たものの尊さを忘れてしまう。苦労して手に入れてこそ、重みも増す。」ともっともらしいことを言った。
「今日のところは帰ってくれ。」
 村人たちは思い思いの顔で引き取っていく。何とか場を収めた下之介はちるーのことだけが気掛かりだった。村人たちの声は奥にいたちるーにも聞こえたはずだ。
 ところが当のちるーはけろりとした顔で普段と変わりないので、まったく油断していた。普段通り夕飯を食べ、普段通り風呂に入り、普段通り床についた。
 早朝、下之介は衣擦きぬずれの音で目が覚めた。ちるーの布団はすでにたたまれていて、玄関から旅装を整える音がする。
 下之介が慌てて玄関に向かうとちるーが出るところだった。
「どこへ行く。」
 下之介の声は震えていた。
「琉球。」
 ちるーの目は赤い。寝ずに一晩考えてのことだろう。
「帰るというのか。村人たちにはちゃんと説いた。お前さんが気をもむことはない。」
「別に、ここが寒すぎるから出ていくだけさ。帰れる故郷があることのありがたみをいやというほど味わったからな。」
「すまぬ。拙僧がはっきりしないせいじゃな。もうめかけなんて呼ばせぬ。拙僧の本当の嫁になれ。」
「私の決心を鈍らせて困らせないでくれ。もう、決めたことなんだ。」
 そう言ってちるーは悲しく笑った。
 下之介が見送るためにちるーを伴って歩くと、どこで聞きつけたのか村人たちが集まってきた。
「昨日から考え続けて、ようやくわかった。わしらが間違っとった。」
「官軍怖さのあまりちるーさんにもひどいこと言ってしまった。ほんにすまなんだ。」
「おねげえだ。わしらを見捨てんでくれ。」
 一人で発つ予定だったちるーは、思わぬ見送りを受けた。ちるーは山道に入る前に村人と別かれたが、下之介と別れを惜しんだ。一里すぎ二里すぎ、とうとう下之介は函館港までついて来てしまった。
 意を決し鶴は琉球行きの蒸気船に乗った。汽笛がなり、函館の町が遠ざかっていく。鶴は下之介の姿を探したが、見つけることができなかった。もはや駒ヶ岳しか分からなくなるほど遠ざかったところで、船内で下之介の姿を見つけた。
「最後までわけの分からぬ男だ。なぜ船に乗っている。」
「これが最後の旅じゃ。とやかく言うな。」



 西洋文明は何もかも変えてしまった。今江戸の町では、洋服を着て靴を履くもの、牛肉を食べるものも珍しくない。蒸気船の出現は旅の期間をうんと縮め、世間は狭くなった。
 蒸気船は江戸をすぎ、大阪をすぎ、一日で壇ノ浦に差し掛かった。夜更けに下之介は客室の寝床からはい出す。甲板に上がると夜風が冷たく、身震いする。
 海を眺めた。海はまだ暗い。星の光だけが海面に写っている。星の海を船は進む。
 下之介は決心がつかずにいた。海を見ながら思案していると、思い出すのはちるーのことばかりだ。そういや、この海だ。ちるーが無茶をして、馬ごと船に飛び乗ったのは。思えば二人の旅はここから始まったんだ。
「何をしているんだ。」
 当人から急に声をかけられ、下之介は驚いて振り返る。鶴が心配顔をして見ていた。
「実は見送りは口実で、ちと野暮用があってな。」
「何だよ、こっちはついでなのか。」
 下之介は船端に乗り出し、引き抜いた刀を壇ノ浦にかざす。
「どうするつもりだ。」
「元の場所に返す。」
 そういうと下之介は刀を沖に向かって投げ込んだ。刀は小さな水柱を上げ、見る間に沈んでいった。
「いいのか。史学にとっても重要なものなのだろう。」
「これでいい。まだ日本人が手にするには早かったようだ。」
 下之介は片方の懸念に決着をつけた。もう片方にも決着をつけねばならない。だが、どうしても決心がつかず、このまま琉球までついていこうかとも思った。次の停泊地の長崎で降りなければ、もう引き返せない。
 そんな気持ちをんでか、ちるーが諭す。
「あんたは古い約束をみごと果たしたのだから、新しい約束も果たさなくてはならない。今度は生きた人間との約束だ。鷲ノ木の村人たちはあんたを必要としている。」
 海が赤く輝き始めた。もう夜が明けている。
 下之介はこれから見知らぬ土地で生きていかねばならない。日本という国も苦しみながらも生まれ変わることができたのだ。きっと下之介にもできるはずだ。

       

表紙
Tweet

Neetsha