Neetel Inside 文芸新都
表紙

ニッポニア
断絶

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「本番5秒前、4、3、2、1、キュー」
 早朝の築地市場に、漁師にも競り負けないプロデューサーの大声が響く。コードをさばく新入りの青年がカメラマンから怒鳴られてている。流行りの長髪にジーンズ、だがあまり似合ってはいない。
 びっしょりと濡れた地面にうコードを握る青年は、いつ感電するか分からずびくびくしている。テレビの仕事と言えば聞こえは良い。しかし青年が夢見たものとは遠くかけ離れていた。夢を壊されたくなければ、テレビの裏側は見ないほうがいい。
 今も土曜日なのに徹夜二日目で仕事をしている。この時代、ブラック企業などという気の利いた言葉はない。ブラック企業という言葉が生まれた後も、テレビ業界にブラック企業はない。業界自体の体質がブラックだからだ。
 青年は徹夜と貧血で意識朦朧。これだけ働いても生活は苦しく、売血ばいけつしてやりくりしていた。1968年に売血ばいけつによる輸血用血液の製造は終了していたはずだが、1974年まで民間血液銀行の預血制度という形で残っている。無償の献血では足りず、需要がある以上、有償採漿ゆうしょうさいけつは続いていた。貧乏人たちは文字通り、自分の身を削っている。
 市場には遠海ものの巨大なマグロから熱帯魚のように彩り豊かな魚たち、果ては不細工な深海魚まで寝そべっている。売り手、買い手が自分たちだけにしか分からない合言葉を交わし、スピーディーに取引が成立していく。
 テレビの取材ということで、いつもよりも魚河岸はいくばくか緊張していた。撮影がほどなく終わり、仲買人たちは息を突く。小売人の親方が休憩中に文庫本を読み出す。東京では魚屋すら勉強している。青年は都会の空気を感じた。
「取れ高OKだから、撤収。次、映画の仕事いくぞ」
「ウチって映画もとってるんですか」
 青年は自分の働いている会社のことを何も知らなかった。この番組制作会社、ハチ・コーポレーションは大手テレビ局の下請けの仕事だけではやっていけず、映画撮影の助っ人もこなしている。
 時は1972年、もはや戦後ではない。GDPは西ドイツを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第2位に。日本は貧乏から脱し、高度経済成長という名の坂を登り切ろうとしている。
 豊かにはなった。が、それは何かと引き換えだった。行方不明者が増加。人間が空気のように消えてしまうから蒸発という。公害問題が露呈するのもこの頃だ。また戦中の軍国少年たちは大人たちのように容易に転向できず、アメリカに唯一対抗できそうな共産主義に飛びついた。
 一方戦後ベビーブームによって生まれた団塊世代にとって、戦争とは過去。お祭り気分で、学生運動に興じていた。たった30年前にアメリカと戦っていたという実感に乏しく、歴史は戦前と戦後で大きく断絶していた。



 寒暖の差の厳しい季節である。去年の今頃は小春日和で暖かかったが、今年はまだ寒の戻りを繰り返していた。空は厚い雲で塞がれ、朝からの小雨は午後も続いている。
 上野の山に映画の撮影クルーが陣取っている。上野公園は隅田川、飛鳥山と並ぶ桜の名所である。林立する桜にはまだ、つぼみすらない。あとひと月もすれば満開となるだろう。
 多くの見物客の中に、大男の姿が目につく。金髪に青い目、恰幅の良い体、誰が見ても外国人だと分かる。チビのプロデューサーと並んで立っているので、より大きく見えた。2人の間に入って、蛇を思わせるシャープな顔立ちの通訳が流暢な英語と日本語を操る。
 青年はカタコトじゃない英語を話す通訳を見て、やはり東京はすごいと感心した。
「ところで、あの外人は誰です」
「なんでお前は社長の顔も知らねえんだよ」
「え、ウチって外資系だったんですか」
「そういうことは入社する前に知っとけ。ウチは外資系企業で社長はアメリカ人のマクガフィン氏。お前、話しかけてみろよ」
 先輩のカメラマンがき付ける。先輩と青年に気づいて愛想を振りまきながらマクガフィン氏が近づく。社長よりかはまだ話しかけやすい通訳に、青年は思い切って話しかけてみた。
「こんにちは。英語ペラペラですね」
 通訳は目を細めてひと睨みすると、火のついたように怒り出した。
「黄色いサルめ。お前らといっしょにするな。私はアメリカ人だ」
 見かけは日本人にしか見えないが違った。日系二世か何かだろうか。どうやら日本語お上手ですねと褒めるべきだったようだ。それにしてもそこまで怒ることはないだろう。
 マクガフィン氏も驚いた様子で、肩を怒らせる通訳を下がらせた。青年は今日も怒られてばかりだ。



「上野寛永寺は1868年、上野戦争の舞台となりました。西郷像のある、ここ山王台は彰義隊の砲台が築かれた最大の激戦地です。西郷隆盛率いる新政府軍によって、たてこもる彰義隊は1日で壊滅しました。それを記念して30年後に建てられたのがこの西郷像です。関東大震災のおりには焼け出されて散り散りになった家族によって、自分の所在や尋ね人の貼り紙を何枚も貼り付けられ、伝言板の代わりになったと言われています」
 ツアーのガイドが長い説明を終え、お待ちかねの自由行動の時間になった。初春らしい暖色の服でめかしこんだ友人同士の女2人連れが、近くで映画の撮影をしているのをめざとく見つける。見に行こうということになり、2人は西郷像より50メートルほど奥の林まで歩いて行った。
 2階建てほどのやぐらが組まれ、照明係として青年とカメラマンとが上に登って上野公園の空撮をしている。
 この時代にはまだドローンはないし、ヘリやセスナを1台チャーターするのもバカにならない。結果、テレビ映画の世界では危険な方法も行われた。
 そして、当然事故も起こる。
「事件があった日の重要なシーンなんだ。カメラのゲインを下げてもっと暗くしてくれ」
 監督が注文を付けるためにやぐらに登った時だった。留め金のねじが一ヶ所だけ外れている。補強材がずれ、荷重が一点に集中。土台がゆっくりと変形し、やがて限界を迎える。やぐらがきしみ、音を立てて一気に倒壊した。巻き込まれた3名は無事だろうか。
 見物していた女2人連れの内、ウェーブがかった赤毛の南国美人が、いてもたってもいられずに事故現場に入っていった。
 危ないからと撮影スタッフが止めるのも聞かず、「看護学校の学生です。応急処置ぐらいはできます」と押し通る。
 最も重傷を負った青年を助け起こすと、首の骨が折れていることに気づいた。
 首を動かさないように手で支えたが、学生ではこれ以上どうすることもできない。
 せめて意識を失わないように声をかけ続けるぐらいしかなかった。
「あの、名前。お名前はなんて言うんですか」
 息も絶え絶えに青年は答える。
「……カミナカ……タカシ」



 上中高は高卒で道南の村を飛び出した。何もかもが嫌になったからだ。
 父は鷲ノ木寺の住職だったが大酒のみで、高の6歳のときに早世。鷲ノ木寺では誰を跡取りにするかで揉めた。高弟のひとりが跡取りに決定したが、母は納得していない。長男を住職にしようと寺院を新たに建て、小さな村は長男派と高弟派に二分された。友人からも、お前らの家族のせいで村はめちゃくちゃだといまだに言われる。
 高は一時も村にいたくはなかった。どうせならば誰もいない遠くがいい。札幌あたりでは、うっかり知人に出くわしかねない。東京へ行こう。
 この時代の若者たちは誰しも、東京には何かがあると信じていた。もしかしたら時代が下ってもそれは変わらないかも知れない。
 高の話を聞いていた南国美人の女学生は話が続かなくなり困っていた。
「君の……名前は……」
「あっ、美砂です。奥間美砂」
 美砂はつい高の話に引き込まれて、自分の名前すら名乗っていないことに気づいた。
 しかし、これで話すことは見つかった。美砂は自分のことを話し始めた。
 美砂は看護学校に入るため、沖縄から単身上京。曾祖母の若かりしころに内地で大活躍したという武勇伝をよくを聞いていたので、自分もいつか行ってみたいと子供のころから思っていた。美砂が東京に出る前に曾祖母は亡くなり、賛成してくれる味方はもはやいない。やはり美砂も家出同然で飛び出した。
 美砂の子供のころに、曾祖母の健在だったことにまず驚いた。高が曾祖母が何歳で亡くなられたのか尋ねるとよわい111歳の大往生だと言うので、また驚く。沖縄の人は長生きというが、それでも111歳まで生きた人はまれだろう。
「本当かどうか分からないけど、黒船を見たことがあるなんて語って」
 歴史は断絶などしていなかった。幕末も、戦中も、連綿と続いている。
 美砂の友人の呼んでいた救急車が到着すると、安心して高はフッと気を失った。

       

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