Neetel Inside 文芸新都
表紙

ニッポニア
刀より団子

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 文久三年(1863年)五月十日、尊皇攘夷派の中心勢力である長州藩はついに攘夷を決行した。長州馬関砲台がアメリカ商船を砲撃、二十三日にはフランス船、二十六日にもオランダ軍艦を砲撃して追い払った。この行為は文久四年(1864年)六月一日からの西洋列強四カ国艦隊の報復攻撃となって跳ね返った。尊皇攘夷の急先鋒であった長州藩はこの戦いで攘夷が無謀であることを学んだが、上中下之介にはまったく関係無い出来事であった。




 このタコ部屋とも今日でおさらばかと思うと、壁のシミさえ愛おしくなる。下之介はまじまじと部屋を眺めながらも、旅支度を整える。
 長屋は細長い建物の内部をいくつか粗壁で仕切っただけの質素なつくりをしている。家財道具はすべて売り払って部屋はがらんとしているが、もとから少なかったからあまり違和感は感じなかった。家具が極端に少ないのは何も下之介にかぎったことではない。江戸の町はその構造上火事が多く、焼け出されてもこの時代に火災保険はまだない。せっかく家具を買い集めても、すぐに火事は起こる。必然的に江戸っ子たちは蓄財をしないようになった。江戸っ子が宵越しの金を持たないのはそういう理由もある。火事で焼かれてはまた立て直す、クラッシュ&ビルドの繰り返し。
 脚絆をしっかり結んで外に出ると、待ち構えていた長屋の連中がわっとはやし立てて下之介の背中を叩いた。荒事が好きな江戸っ子らしい見送り方だ。肩を叩く熊さんにいつでも戻っておいでと言われて、こらえていた涙が零れ落ちる。
「何泣いてやがる。がらにもねぇぞ」
 福郎の嫌味もこれが聞き納めかも知れない。
「これ、もってお行き」
 大家の奥さんが餞別を渡そうとしたので、下之介は固辞する。
「これ以上甘えるわけには。路銀なら十分だから」
「何遠慮してるのかねぇ、この子は。大家は親、店子は子。親子で遠慮なんていらないよ」 そう言うと奥さんは下之介の懐に餞別をねじ込んだ。
 隣の長屋の八っつぁんやまったく知らない野次馬の連中までもが下之介を見送ってくれているのに、その中に川太郎の姿は無い。気になって探すと、奥さん袖の間からこちらをうかがっている川太郎と目があった。
 奥さんに背中を押されて、ようやく川太郎は下之介の前に出る。何が不満なのか最期の抵抗で顔だけはそっぽを向いている。
「なんで、出て行くんだよ」
「京に居る江藤新平に会えば拙僧は故郷へ帰れるのだ」
「すぐじゃなくてもいいだろ。隅田川の花火を見てからでも」
「そうもいかぬ。江藤新平は脱藩浪人だ。いつまでも危険な京に居るとも思えない」
「もういい。おめぇなんてとっとといっちまえ」
 そういうと川太郎はまた奥さんの後に隠れた。早かれ遅かれ別れは来る。長引けば辛くなるだけだ。下之介は決心して背を向けた。振り返らずに歩いていく。その姿が見えなくなるまで川太郎はいつまでもいつまでも見ていた。




 さて、ここで下之介の旅程を追ってもつまらないので、舞台を早々と京へ移そう。
 京の壬生八木邸では局長の芹沢鴨が人相書きを広げて隊士たちに捕殺命令を下している。隊士たちのうち、芹沢の話も聞かずにひとりうつむいている若侍がいる。腹が減りすぎて、畳のシミの一点をみつめることで紛らわしているようだ。
「そこ、聞いておるのか。姓名を名乗れ」
「新垣二郎と申す」
 注意されて細面の顔を上げる。歌舞伎役者の女形のように鼻筋が通り、つぶらな瞳は半月のようなまぶたと長くカールしたまつげに覆い隠されている。二郎は南国の人々特有の褐色の肌や彫りの深い顔のせいでよく夷人と間違われたが、出身は琉球王国なので確かに夷人には違いなかった。



 琉球王国は実質的には薩摩藩が二百年に渡って支配し続けたが、表向きは独立国だった。日本、中国、東南アジアのちょうど中間に位置する沖縄本島は、薩摩藩にとって密貿易の中継地として最適だったからである。二郎が琉球から出たいと思いたったのは今から十年前の嘉永六年(1853年)、五つの頃だ。その年の四月十九日に二郎の人生を決定付ける出来事が起こった。黒船来航である。ペリーが浦賀に上陸する、わずか四十三日前のことである。
 琉球王府は日本本土よりはるかに多く外国船を追い払い続けた。薩摩在番と呼ばれる駐屯している薩摩の役人の指示によるものであった。今回も伺いを立てたが、薩摩在番は黒船艦隊に恐れをなし姿を隠して、琉球サイドに折衝をすべて丸投げした。
 ペリーは沖縄本島が地政学上重要であることに気付き、琉球王国を占領することも視野に入れていた。首里城に入城したペリー一行を琉球側は堂々とした態度で歓待したため、ペリーは考えを改め琉球を日本遠征の拠点するに留める。六月九日、日本に向け出向する黒船を浜辺で見ながら、幼い二郎はいつかあの外国船を追って広い天地に飛び出そうと夢見るのだった。本国で南北戦争が始まったため、アメリカ船は日本や琉球王国と条約を結んだ後は再びやって来ることはなかった。日本、沖縄、アメリカの不幸な関係はこのとき決定付けられたのかも知れない。
 十年来の夢を叶える時がやって来た。二郎は薩摩の定期連絡船に密航を企てた。アメリカ船に密航を企てた吉田松陰は失敗して投獄されたそうだから、二郎も捕まれば同じ運命をたどることだろう。結果的には二郎の決死の密航は半分だけ成功した。捕まることはなかったが、船は奄美大島で立ち往生してしまった。二郎は自分の密航がばれたのかと思い、夜の闇にまぎれて船から脱出した。後で分かったことだが立ち往生は台風の通過を待っていただけのことだった。
 船が出港するまでの間、二郎は暇をもてあましていた。趣味の野草摘みをしてみたが、植生が沖縄本島と同じだったのであまり本草学のたしにはならない。しょうがないのでこの島で今人気のある流刑者に相談をしに行くことにした。いくら娯楽が少ないとはいえ島民たちは流刑者に相談することで何が解決するのだろう。話によれば島民が年貢の取立てが苛酷であると訴えると、その流刑者の菊池源吾という男は島役人を懲らしめてくれたのだという。何故ただの流刑者が薩摩の役人を懲らしめることができるのか。二郎は眉唾だと思いつつも菊池源吾の屋敷を訪ねた。菊池源吾は縦にも横にも大きな男だったが、その巨体に似合わず屋敷で寺子屋の真似事などをしていた。
 屋敷は藁葺き屋根の質素なものだったが、島民が野菜などを差し入れているようで特に不自由はしてないようだ。裏から縁側を覗いていると、丁度授業が終わったようで無言でこちらを手招きしている。二郎は応じて縁側から招じ入れられたが、菊池源吾は二郎を穴が開くほど見つめるばかりで一向に何も話さない。二郎も瞳が大きいほうだが菊池源吾のはさらに大きくまるで達磨の目玉のようだ。菊池源吾があまりに口数が少ないから、自然と二郎のほうが船が先に進まないことを打ち明ける。菊池源吾は黙って乗船許可証を差し出した。
「何故今日会ったばかりの私にここまでしてくださるのですか」
 菊池源吾は初めて答える。
「おはんにはどこかほっておけないところがありもす。その人徳を大切にしてくいやせ」
「私などよりも菊池殿のほうがよほど人徳があるように思いますが」
「人は己を写す鏡ば言いもす。おはんがそう思うならばおはんもよほど人徳があるということでごわす」
 さて、二郎は無事に奄美大島から薩摩まで渡航することができた。各地を観光がてら西海道を北上し、そこから山陽道を通って京都まで来たところで路銀が尽きた。口入屋で働き口を探すと、運良く仕事にありつけた。その仕事とは大名行列の随員だった。
 大名行列にも格があり、数十万石の大大名ともなれば随行する人数も多くなった。特に江戸から遠く離れている藩は随員の泊まる宿の手配や、食事代のような消えものも含めれば莫大な金額に上った。津々浦々の宿場町は潤ったが、反対に大名家は衰えていった。
 そもそも参勤交代には、仮想敵国である江戸から遠い外様大名を経済的に困窮させるという意図もあった。外様大名は幕末にどの藩も財政赤字に借金を抱えている状態でジリ貧だった。外的要因だけで国家が滅亡した例はない。確かに引き金を引いたのはペリーだったかも知れないが、江戸幕府の屋台骨はすでに揺らいでいたのだ。以上は余談である。
 各藩主は参勤交代の抜け道として国許から少人数の大名行列を送り出し、江戸に近い宿場町でアルバイトを雇って随員を水増しするということをやっていた。しかし京の口入れ屋に急遽舞い込んだのは外様の雄、薩摩藩からの依頼である。密貿易で経済的に豊かなはずの薩摩が江戸から離れた京で随員を募集したのはそれなりに理由があった。結論から言ってしまえば寺田屋騒動のせいで、大幅な欠員が生じたからだ。
 文久二年(1863年)三月十六日薩摩を出立した島津久光の行列は、千人以上の規模の堂々たる上洛を果たした。清河八郎らの謀略により島津久光は倒幕の尖兵となるため上洛したというデマが流れ、諸藩から多くの草莽の志士が京に押し寄せた。伏見に詰めていた血気にはやる薩摩藩士たちは倒幕の口火を切ろうと画策、暴発を恐れた久光によって上意討ちの命がくだされ、旅籠はたご寺田屋で薩摩藩士が同志相打つ結果となった。これが寺田屋騒動の顛末である。
 どうにも薩摩とは縁があるらしい。二郎は路銀を稼いだ上に江戸も見て回ることができた。ところが懐が温かかったのは一瞬だった。浅草で有り金全部掏られて、文無しになってしまったのだ。悲嘆に暮れていたところでちょうど浪士隊の募集があり、参加した。給料が出るというのに惹かれ浪士隊として京へ上ったのだが、給金は現在の金額にして月に十万円程度。これまで借用していた分の支払いで結局のところカツカツとなって今に至る。
 腹が減りすぎて走馬灯まで見えるようではいよいよ危ない。二郎は懐に手を入れて書付に触れる。この書付は二郎にとって命綱とはいえ、おいそれと使えるものではない。ままよと思い留まって手を引っ込めた。先月はツツジの蜜を吸って空腹を紛らわせた。今月も本草学の知識が役に立ちそうだ。




 十四日後、下之介は京の河原町の茶店で煎茶を飲んでいた。道中観光もせずに急いで上京したのだが時既に遅く、江藤新平は佐賀藩に向かって出立した後だった。落ち込んでいても腹は減る。頼んでおいた御手洗《みたらし》団子一皿をつぶれた饅頭のような顔の看板娘が運んできた。
 団子を一串手に取ると思いがけず視線を感じた。団子を食べている人間がそんなに珍しいのか、葛湯を呑みながらこちらをうかがっている若侍がいる。役者のような美男子だが、下之介にそっちの趣味はない。ただ睨まれながらは食べづらいから、声をかけてみた。
「何か拙僧に御用ですかな」
 若侍が答える前に腹の虫が返事をした。下之介から団子をもらいながら若侍は訳を話し始めた。琉球を出てから江戸で掏りに遭うまでのやたら長い身の上話を聞かされたが、とどのつまり葛湯一杯でねばっていたらしい。
 新しい客が入ってきて緋毛氈を敷いた床机に座った。この男もたいそうな美剣士で下之介を睨んでいる。下之介はまたかと思って団子の皿を持って立ち上がると、美剣士の方から声をかけてきた。
「お手前の藩名、姓名を名乗られよ」
下之介は相手が最近京で結成された浪士組だと悟り、正直に答えた。
「佐賀藩士、上中下之介」
「ははははは。もう少しましな変名偽名はなかったの」
「いや、本名だが。」
「二郎、こいつ人相書きの男だ。逃すな」
 美剣士はいつのまにか音もさせずに刀を構えている。二郎と呼ばれた若侍のほうも刀を抜きつつ下之介の後に回り込み退路を断つ。下之介は突っ立ったまま硬直して動けない。他の客は遠巻きに見物している。
「手向かいいたせば斬る。屯所にご同行願いましょう」
「何かの間違いでは。拙僧には身に覚えがありませぬ」
「その腰の物が証拠」
 下之介は清河には感謝していたが、死の間際に随分とやっかいなものを押し付けられたようだ。命をかけてまで守る価値がこの刀にあるだろうか。命を取るべきか刀を取るべきか。下之介は神妙に刀を抜いた。
「両方取ろう。おい、そこのあんた」
「沖田だ」
「沖田さんとやら。拙僧のような坊主くずれを相手に二人がかりとは、武士道にもとる。そうは思わんか」
「一理ある。ではどちらの相手をするか選べ」
 下之介は迷わず二郎を指差した。これで斬られることはない。なにせ二郎には貸しがある。貧すれば鈍するとはよく言ったものだ。
 二郎は刀をまっすぐに天高く掲げて、大上段に構えた。 
「待て。団子は。恩を仇で返すのか」
 二郎は振りかぶった刀を一瞬止めて躊躇した。
「団子は貴様の墓前に供えてやる」
 容赦なく振り下ろされた刀に下之介が横一文字に合わせた刀が激突する。

       

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