Neetel Inside 文芸新都
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透明な白の存在意義について
大槻菜々子について(Radio cassée l'intervalle de la vie-et-mort )

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 ■大槻菜々子について




 壊れたラジオという言葉は、考え方によってなくなりそうではないか。
 例えば、壊れたというのはラジオとしての役割を果たせなくなったということで。ラジオが発信する機器である以上、その発信を正しく行えない状態が『壊れた』になる。ではその正しいとはなにか。それは人によって差があると思うが、大方の場合時間が潰せるということ。内容如何を無視すればだが。
 しかし壊れても、音がなる限り、なにかしらで楽しめるのではないだろうか。声が虫食いなら、解読をしたら楽しそうじゃないか。まあ、極論だけど。
 僕の暇つぶしの道具に、こういう事を言う女が居た。
「私は常々こう思うよ。潰せる暇があるのは贅沢だ。私たちは暇な時間なんて持ってはならないんだよ。小説家が白紙を潰すのに喜びを感じるように、暇もそうやってストイックに過ごすべきだよ」
 僕は彼女――大槻菜々子(おおつきななこ)のその言葉はよく覚えていた。
 普通の人間が言えば話を面白くする為の適当、あるいはホラだと思うかもしれないが、彼女はきっと本当にそうやって生きている。僕がラジオと称する彼女は、屋上で今日も、誰も聞いていない演説をぶっていた。


 僕と大槻菜々子は特に友達でもなんでもないけれど、親交を持っている。遊びに行く仲じゃないし、だからと言って沙苗のように体と秘密を共有する仲でもない。じゃあ何を共有しているか。別に何もと言う他ない。
 僕は彼女で暇を潰している。
「お前、大槻のところに行くのはやめといたほうがいいぞ」
 ある日。友人にこう言われたことがあった。友人の、天現寺朔くん。彼はすこし、今時の言葉で言うなら『チャラい』という部類に入る男だろう。しかし、彼はいい人だ。どこまでもいい人だ。友達にしておきたいタイプだと思う。
 金髪の無造作ヘアに眠そうなタレ目。シワだらけのYシャツにネクタイ。ワイルドな印象がある。
 僕は首を傾げて、「どうして?」と尋ねてみた。
「アイツがなんて呼ばれてるか知ってるか? 『教祖』だってよ、『教祖』げろっ」
「彼女が新興宗教を営んでいたとは驚きだ。お近づきになったら、この世の真理でも教えてもらえるかもね」
「いや、そういうんじゃなくてさ。わけのわからない事を屋上でずっと喚き散らしてるのが怪しい宗教家っぽいってことだべ」
「それが面白いんじゃないか。いいアトラクションだよ」
 僕はそれで話を切り上げて、天現寺くんに手を振って教室から出た。
 片手には購買のパン。僕は昼休みにそれを食べながら、ラジオを聞くのが趣味だ。わけのわからない事をくっちゃべる悪趣味なラジオ。
 屋上に出ると、春先の生温かな風が僕の頬を撫でる。どこまでも突き抜けていく青空に、濃い輪郭の白い雲。そして、落下する人間がいない様にと設けられたフェンスの外側。校舎の縁に座る彼女は、雲が観客だと言わんばかりに空へ手を広げ、何か大声でしゃべっていた。
「やあ、大槻さん。聴きにきたよ」
 彼女は振り向く。歳を取った枯れ木の様に痩せた長身。分厚いレンズが入った黒縁の眼鏡に、黒のおかっぱ頭。紺色のブレザーは胸元のリボンも緩いし第二ボタンまで開いているしで、真面目そうに見える割に真面目じゃないという、奇妙なバランスを持っていた。
 彼女は非常に鋭い目つきで僕を睨むと、歯を見せた。笑っているんだろう。決してそうは見えないけれど。
「やあ秋津くん。キミはよほど人生に迷っていると見えるね」
「迷いっぱなしだよ。道路標識もないからね」
 そう言うと僕は、彼女の近くに腰を降ろした。もちろん、フェンスの内側。
「人生に確かな道なんてないよ。あるのは明かされた道だけだ。世の中には大人っていう便利なものがいるからね。世代という差はあれど、大抵の場合は大人の言う通りにしておけば、まあ最悪にはならないだろう。しかし、そこに自分は居るか?」
 始まった。僕は少しだけわくわくしながら、耳を彼女へと傾ける。
 そして、焼きそばパンの風を開き、かじる。味の善し悪しはわからない。まあ食べ物なんて最低限の味があり、栄養価があれば、それでオーケー。高級食材だのは贅沢というより無駄すぎて、存在する理由がわからない。本当に味がわかっていて食べる人間は、どれだけ居るんだろうか。
「私は他人という物が嫌いだ。助けあいましょう支えあいましょう。反吐が出る。私以外、この世はみんな汚物だ。クソまみれなんだよ」
 出た。『世界は私以外クソまみれ理論』
「みんな期待している。何か起きないかと。しかしね、人生というのは起こり得ることしか起きない。ポーカーの手札と同じだね。ハンドはハンドでしかない。何かを起こすにはドローというステップを踏む様に、アクションを起こすしかない。何も得ずに何かできるなんておこがましいじゃないか。キミはどうだい。秋津くん」
「うん? 僕は別に。目の前にあることで精一杯だよ」
 そもそも、僕の人生に何が起きるというのだろう。
 というか、僕の人生とは具体的に何を指すのだろう。
「大槻さん。キミは人生について、どう考えているんだ」
「目で見て耳で聞いて肌で感じ、舌で味わい匂いを嗅ぐ。そうして蓄積された記憶の固まりが人生だ。つまり、死ぬ一秒前まで人生なんだよ」
「キミにしては平和的意見だ」
「私がみんなクソまみれだと言っているのは、こんな簡単な事も気づいていないからなんだよ。みんなが何か起こると思っている。ただ待ってるだけだ。漫然と目的意識もなく。革命だ! 革命の意識が必要だ! みんなクソったれ共だ! 怠惰電波に侵されている!! 行動と努力を侮っているのだ!!」
 熱がこもってきた。
 おそらくは校庭まで響いているだろう。彼女の言う、革命の言葉は。
 きっと届かない。変化を望む人間はあまりいない。それも、彼女が言う、怠惰電波の影響なのだろうか。
「きっとどんどん、みんなが気づかない内に、呼吸するのさえめんどくさくなっていって死んでしまうんだとさえ思うよ。私は人間なんて死に絶えても構わないと思うけどね。この電波を放っている、宇宙人。あるいは別の何かに対抗するのに、一人では力不足なんだよ。私も少しばかり気づくのが遅かった。もっと早く気づいていれば、皆が変化を面倒臭がる前に怠惰電波の撲滅に動けたのに。私の足元にいる、クソッタレ共和国の人民共が、そんな簡単なことにも気づかないから!」
 僕には彼女の方が、何か違う電波を受信している様に見える。それこそ、ラジオのように。
 彼女は気づいているのだろうか。僕がどういう意図で、彼女の話を聴いているのか。
 彼女が嫌う、無為な暇つぶしだということを、彼女は知っているのだろうか。それを知っていても、こうして嬉しそうに話すのか。
 だとすれば、それは彼女の哲学の否定になりうるのではなかろうか。
 そう思うと、彼女も弱い人間の一人なんだとわかる。
 僕という精神は、彼女に少しの憐憫を感じていた。
「キミに訊いてみたい事があるんだけど」僕は、その事を訊こうと思っていた。
 けれど、口にした瞬間、彼女のリアクションが恐ろしいものであったらどうしようという気持ちが、現実味を帯びて立ち上がってきたのだった。
「なんだい?」
「……キミは、いつ怠惰電波ってのに気づいたんだい?」
 だから僕は、途中で質問を変えた。
 これではいつもの相槌となにも変わっちゃいない。が、それはそれでいい。いつもどおりじゃないのは、僕の水面下だけの出来事。
「最初から」
 即答した彼女の言う、「最初」がいつかすぐにわからず、僕は少しの間、彼女に間抜けな顔を見せていた。しかしすぐに、取り繕うみたいに「生まれた時からってこと?」
「性格には物心ついた時から。私はね、人生がそう長くないことを本能的に知っていた」
 彼女は空を眺める。そして、スカートのポケットから、折りたたまれたケータイ大の箱を取り出す。それは、煙草だった。『Vague electrique』どこの言葉でどういう意味かもわからないが、彼女はそれを一本取り出し、加え、ジッポで火を点けた。その動作は非常に様になっていて、ここ何ヶ月というレベルで吸い始めたのではないだろうことだけはわかった。
「ふー……っ」
 紫煙を空へと吐き出す。そして、空へ溶けていくそれをじっと眺めながら、煙草を咥えたまま呟く。
「私は美しく死にたい」
 それは、彼女から最も縁遠い言葉に聞こえた。『死』それを彼女が望んでいる。なぜ? 思考に至るまでのプロセスが、理解できない。それは僕が考えるまでもなく、これから彼女が教えてくれる。
「きっとこれから、私は、ただ生きていく。知っている。未来を予知する力などなくても、想像する力がある。私の想像力が告げている。私はきっと美しくは生きられない。凡百の河原の石みたいなクソッタレ共と同じように、私の瞳は暗く落ちる」
 彼女の煙草の匂いが、僕の鼻を刺激した。何か、甘ったるい香り。あまり好きじゃないが、我慢できないほどじゃない。
「だからこそ、私は美しく死にたい。そして美しい死とは美しい生にある。だから私は、足掻くことにした。美しく死ぬために」
 そこには、彼女の意思を感じた。今まで聞いたどの言葉より、信念が詰まっていた。
「……見なよ、秋津くん」
 彼女は自分の膝を指さす。真っ白な膝小僧だった。怪我もしたことがないと言わんばかりに、処女雪のような白さ。なめらかに伸びる細い足は、屋上の外――つまりは地上に向かってぶら下がっていた。
「私は今、生と死の境に座っているんだ。これはなかなか気分がいい。私は今選択権を得ているんだ。生きるか、死ぬか」
 何がおかしいのか、彼女はその性格やだらしのない見た目とは裏腹に、きゃらきゃらと可愛らしい声で笑った。煙草を咥えながらというのが、妙にアンバランスで、彼女という存在にバランスを求める事がおかしいのだと悟るには、充分な光景だった。
「キミは、生きてるの楽しいか?」
 彼女は楽しそうに笑っていた。キミはどうなんだい? と訊く気にならなかった。
「さあね。考えたこともないよ」
「今考えてみなよ。人生を思い返して、楽しい事が多かったら楽しい。つまらないことのほうが多かったらつまらない。それだけだ」
 しばし、僕は僕の人生について考えてみた。
 あまり有意義とは言えなかったが、それでも本気に近い程度に力を出して考えてみた。
「……わからないよ」
 そう絞りだすのが、精一杯だった。
 僕は、僕の精神にしては珍しく。動揺しているみたいだ。
 彼女は、僕の目を見た。分厚い眼鏡の奥で、鋭い目つきをより尖らせて。
「そうか」
 夕立のような唐突さで、彼女は呟く。
 なんだか心の中を覗きこまれた様な時間だった。
「……魚って、綺麗だな」
 彼女の言葉は、いつでも唐突だった。
「何が?」
「動物ほど血生臭くもなく、昆虫ほど奇怪でもなく、人間ほど汚くない。輝く体で海を行くあの様は、鳥なんかでなく、魚が空を飛べばよかったと思うほどだ」
 想像してみた。
 真っ白な雲と、真っ青な空を背景に、地上へ影を落とす魚。
 なるほど、確かに綺麗だ。神秘的と言ってもいいし、僕も鳥よりそっちの方が好きだ。
「それに、魚っていうのは、あの無垢な眼だ」
「眼? 眼なら、犬猫だって純真じゃあ」
「ダメだ。あいつらには媚びがある。熱がある。体温がある。それは無粋だ」
 ふぅん。僕は相槌を打つ。興味のない、餅つきの捏ねる役みたいな、お決まりの動作。
「私は哺乳類が嫌いだ。人間もさ……腹の中にクソを抱えてるからね」
 なんと返していいかわからなかった。
 否定もできないし、肯定もできない。その時、ちょうど僕はパンを食べ終わった。そうなればここに居る理由はない。立ち上がると、僕はズボンの上から尻を軽く叩いて、「僕はそろそろ行くよ」
 肩越しに首だけ振り返り、僕を見る彼女。
「そうか――あ、待て秋津くん」
「うん?」
「キミは、人間原理を知っているか?」
「……宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測することができないからっていう、あれ?」
「それだ。じゃあ、『我思う、故に我あり』は?」
「デカルトのかい?」
「そうだ。観測、そして思考。我思う、故に我ありというのは要するに、世界すべてが偽であろうと、それを観測している自分と、そうして疑問を抱いている自分は疑い様のない本物である。つまり自分を自分で否定できないという言葉になる――が、我思う故に我ありというのは決定的矛盾がある」
「――それは?」
「我を思ってから我があってはダメなんだ。我思う前に、我を我たらしめる何かが存在している。――これはデカルトも気づいていたようで、故には正しくないと思っていたらしいがね」
「それと人間原理の、何が関係しているのかな」
「人間原理ってのは、要するに、『物体は存在を観測されて、初めて物体として確率する』って意味だよ。我思う故に我ありの本当の答えは、『我という自我は、観測されて初めて我足りえる』ってことじゃないかと、私は思っている」
「――じゃあ、もし、もしだよ? 二人の人間がいる。AとBだ。AはBを知っていても、BはAを知らない。Aという自我が――存在がないってことになるのかい?」
「そうさ。人は自分の認識を越えた事を経験することはない。認識から離れた以上、AはBの世界に存在し得ないことになる――いや、正確には……存在していても影響を与える事がないのだから、BにAの存在を確かめる事に意味が無い。その質問を観測に基づいて発することができないからね」
 僕は溜息を吐いた。
 そして、「ああ」と、先ほどの溜息と同じ様に、意味のない声を出した。
 大槻さんに、「さよなら」と告げて、僕は屋上から出た。薄暗い階段に戻ってくると、突然、大槻さんの真上に広がる突き抜けるような青空を思い出した。手に取れそうなほどの濃密な青。どこまでも青。きっと暖かな青。
 そして、煙草の甘ったるい香り。溶けていく紫煙。空を泳ぐ魚。
 短い間に、幻想を体験したような気分だった。ランチと共に幻想を。なるほど、幻想だけにロマンチックな響きだ。

     

 昼休みは屋上へ。
 これは僕の日課。決まり事だ。大槻さんと会えるのは昼休みだけ。特別彼女に会いたいわけではないし、理由は思いつかないけど、そうしていた。
 屋上のフェンスを乗り越え、生と死の際に座り、意味のわからないことをしゃべる彼女。
 今日も同じようにしながら、雲に向かって喋っていた。
「私はタイムマシンなんてもの、絶対に生まれないと思っている。そもそも時間という概念事態が間違っているからだ。人間がわかりやすいよう、時間という言葉でくくっているだけだ。これと同じ様に神なんてものもいない。偶然の結果で私たちはここにこうしているだけだ。神という言葉も時間と同じ。人間がわかりやすく、偶然という言葉を神に置き換えただけだ」
 僕はいつもと同じ様に、彼女の近くに座って、焼きそばパンをかじった。
「やあ秋津くん。今日も来たか」
「やあ大槻さん。来たよ」
「タイムマシンというのは子供の戯言だと思わないかい?」
「珍しいことを言うね。いや、空想の産物だとは思うけど、タイムマシンがあればいいと思っている人は少なくないと思うよ」
「私は納得しないな。技術として確立したとしても、タイムマシンは絶対にいらない。答えを知っている人生なんてつまらないとかそんな陳腐な事じゃない。時間に縛られているというが、時間なんてそもそも人間が創りだした物で、ただただ時の経過を言語化した結果、それに人間が勝手に縛られたというだけのことだ。ただ空の明るさが変わっただけだ。生活の基準として便利だったから、それが一般化しただけのことだ」
 確かに、大槻さんは時間を戻したいっと言うタイプじゃない。それだけはよくわかる。
 彼女は煙草を取り出し、咥える。だが火は点けない。ゆっくりと先端を上下させながら、つまらなさそうに校庭を見ている。
「一秒は人それぞれ違う。相対性理論でも時間の不確かさは言及されている。辛い時と楽しい時は時間が経過する感覚が違うそうだな。時間なんていうのは、人間の頭の中にしかない。ならば、自分の思考とその外にある世界は何が違う?」
「思考と違って、世界は思い通りにならない」
「じゃあ世界ってなんだい? キミは何を指して『世界』と言っている?」
「僕の視界に入る物。目の前に居る人。それらの総称」
「ああ、その認識で間違っていない。だがな、キミは一つ思い違いをしているよ。キミの前に居る人間にも世界がある。キミが言っている様に、『視界に入る物、目の前に居る人』が世界だとするなら、誰も居ない場所で、物だけなら、世界と思考の統一性が取れる。人の認識にはズレがあるからね。目の前に居る人間も、世界を思い通りに動かそうとしている。けれど、それは互いのズレがある。人はたくさん居るから、ちょっとずつその認識のズレが大きくなって、世界が漠然とした概念化したような錯覚に囚われているだけだよ」
 いつの間にか、僕は彼女の話に飲み込まれていた。
 論理というほどはっきりとしてはいない。けれど、何故か絶大なる説得力を帯び、僕の世界を侵食する。
「世界は――人間の認識で成り立っている。人間原理。『我思う、故に我あり』観測こそ存在の証。しかし観測されることを拒めば、世界は自由になる」
 僕は、少し無理をして、半分以上残っていた焼きそばパンを頬張った。喉に引っかかって苦しかったけれど、その苦しさが今、この状況にリアリティを持たせてくれた。僕は僕を保つことに成功した。
「そう考えると、恋愛という物も意味がわからない。ただでさえ世界は認識のズレを重ねて手に負えない物となっているのに、その世界を重ねようというのだから。性欲の詩的表現というのも頷ける。さすが、文豪は言う事が違うな」
「キミは人を好きになったことはないの?」
「ああ。ない。人は等しく人だ。私はただ見るだけ。少なくとも、怠惰電波と、世界がクソまみれだという事に気づいていない人間は愚かだ。愚か者を好きになるのは愚か者だけだ。美しく死ぬのに他人は邪魔なだけだからね」
「その美しさっていうのは、観測されなくてもいいのかい」
「私が観測している。そして、私の死と共に、その美しさは消える。泡の様に。それがいいとは思わないかい? 美しさは誰か、他の人間の観測を伴った瞬間、美しくなくなってしまうかもしれない。誰かが無粋な横槍を入れてくるかもしれない。『死は美しい物じゃない』なんて、私の死を徒労に帰すかもしれない。そんなことは許されない。認識のズレがある人間に、等しく美しさを求める美術という学問は、私みたいな人間には理解しがたい。美しさなんて所詮、独り善がりだ。大衆の理解を求めた瞬間、その価値は無くなる。求めず着いてくる物だ」
 僕は空を見た。雲が流れていく。
 一羽のカラスがどこかへ飛んでいく。
 彼女もそれを眺めていた。
「見なよ、秋津くん。魚が空を飛んでいったよ」
「え……? 今のは、カラスだろう。翼もあったし、黒かった」
「いや、私には魚に見えた」
「確かにそれは素晴らしいかもしれないけど、事実は――」
「キミが見た物が事実だと、なぜ言い切れる?」
「いや、えっと――」証明? どうやってするんだ? 確かに僕は鳥を見た。けれど、今この場に二人しかいない以上、僕達の世界の価値は同一のはずだ。互いに視界を共有できるならまだしも、どうやって僕が見たのは鳥であり、それが本当に鳥であったかの証明ができるのか。
「仮に、仮にだ。私の認識では『鳥』という言葉が『魚』という意味を持っていた場合、あるいは逆に、『魚』という言葉が『鳥』という意味を持っている場合、この会話は成立することになる。が、これは知識だ。知識は同一だ。そのような事は起こり得ない」
「まあ、だと思う……」
「世界なんて儚い物だろう。目を閉じれば簡単に世界は『外見』を失う。耳を塞げば『音』を失う。死ねばそれらすべては一瞬で闇へと堕ちる。世界はどこにある? ここにある」
 彼女は自分のこめかみに人差し指をつけた。なんだか、銃をこめかみに突き立てているようだ。
「これが世界の限界だよ。言語による限界。意思疎通の限界。我々人間の限界……。勝手な事を言っているじゃないか。勝手に私の――人である以上、この体を持っている以上越えられない限界がある。『限界状況』というやつだ」
 人が人である以上逃れられない物の総称(死、罪悪感、逃走など)。
 意思疎通は言葉によってしか果たせない。体系化した言語パターンによってしか。
「幼き言葉しか知らない者は、幼き思考しか出来ないものだ。言語を知る事は人間を知ること。文化から言語が生まれ、人間を知ることになる」
 どこからこの電波を受信しているか知らないけれど、今日も彼女は饒舌だった。
 さすが、僕がラジオと呼ぶだけはある。話題には困らないらしい。
「まあ、死から逃れられないのはしょうがない。永遠に生きても楽しいことなんてなにもない。永遠に生きる事が辛い事くらいは、みんな知っている。しかし不老不死に夢を持てない世の中ってのも、考えてみればクソまみれな気がするけれど」
 まあ、確かに。
 昔の権力者はみなこぞって不老不死を求めたらしいのに。今じゃ誰もが長く生きたいとは思っても永遠は嫌だという。昔の権力者の想像力の糸が短かったというのもあるかもしれないが、今の世の中で、永遠と毎日同じ様な事を繰り返すのは、頭が狂いそうになる。狂ったらもう、目も当てられない。死ぬこともできず、周りの人間の厄介になるということで、牢か何かに閉じ込められるのだろう。そうして永遠に暗闇で生きていく。想像しただけで背筋が鉄格子みたいに冷える。
 そこで、彼女はやっと煙草に火を点けた。紫煙が空に溶け、彼女はそれをじっと、死んだ魚みたいな目で見つめていた。甘ったるい香りが周囲を包む。僕にとってはあまり心地よくない香りだ。
「キミって、なんで煙草吸ってるの? 未成年だろう? ――不良みたいに、考えなしに吸うとは考えにくい」
「『喫煙とは緩慢な自殺である』誰が言ったか知らないが、いい言葉じゃないか。その通りだね。百害あって一利なし。みんなが言うね。けど、煙草から害が無くなって、吸えば吸うほど健康になりますなんて言われると、吸いたいかい? 私はそう思わない。健康に悪いからこそ吸っている。まあ、あれだ。環境に優しいスーパーカーがダサいのと同じこと。煙草が害しかないと知りながらみんな吸っているのは、無意識化で死への欲求があるからなんだろう。――嗜好品が自殺の道具だなんて、なんだか皮肉の効いたジョークみたいで、面白いじゃないか」
 きゃらきゃらと、風鈴みたいな声で笑う。どこかへ消えたバランス。
「キミは自殺とか嫌いなタイプだと思ってた」
「好きでもないが嫌いでもない。しようとは思わないがね。でも、だからこそいいんじゃないか……。死を意識せず死に近寄る事ができる。まるで携帯電話のようだね。死への直通ダイヤルだ。――けど、別にそれだけが死の原因というわけじゃないからね。事故、病気、殺人、戦争。世界には死が満ちている。それなのに煙草だけ取り上げるのは、どうにも大局的じゃあないだろう? ――死ぬにもお金がかかるさ、三途の川の渡り賃。医療費、自殺後は遺族が何かしらの損害賠償をされるかもね。地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったものだ」
 その後も、彼女は笑っていた。
 壊れたみたいに笑っていた。
 最初から壊れていたようなものだけれど。
「――じゃあ、僕はそろそろ行こうかな」
「そうか。今日も楽しかったよ、秋津くん」
 僕は立ち上がり、ズボンの汚れを叩き落とす。
 彼女は僕との会話を楽しいと思っていたのか。なんだか、意外だ。
 僕の体に、彼女の煙草の甘ったるい匂いが絡みつく。
 なんとなく、空を見上げた。抜けるような青空に、濃い輪郭と抜群の存在感を持ち合わせた大きな白い雲。そして、飛んでいく一匹の魚。
 ――魚?
 僕は目を疑った。
 そして、翼が無いことと、黒くないことを確認して、あれが魚であると観測した。
 煙草を吹かし、なにが楽しいのかわからないが笑っている大槻さんを見て、僕は声をかけようとして、やめた。そのままおとなしく、屋上を出た。
『世界が今、重なったのかい?』
 バカらしい。そう思ったけれど、否定できるだけの証拠が僕の中に無い。世界が崩れていく。硝子のように、甲高い音を立てて。

       

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Neetsha