Neetel Inside 文芸新都
表紙

為す術も無く生きる
幸福の子ども

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ちょうど小学生になった頃、母が男を作って出て行った。
それきり、母が私の前に姿を現すことは二度と無かった。

幸福の子ども

離婚という言葉は知っていたけれど、自分の家族がそうなるなんて考えたことも無かった。
家が冷たい場所になった気がした。帰ってきても、いつも一人ぼっちだった。
空っぽの部屋では、聞こえないはずの音が聞こえてきた。
父は以前にも増して酒の量が増えた。
それに併せて私に手を上げることも多くなった。
本で頭を殴られたり、前進を脚で締め付けられたりした。
私は泣きながら父が疲れて眠るのを待ち続けるしかなかった。
いつか殺されるのではないか。
横腹を蹴られながら、そんなことを考えていた。
温かい家庭なんて、御伽噺の中にしか存在しないと思った。
周りには頼る人など誰一人いなかった。

一度、アルコール類を全てベランダに隠したことがある。
冷蔵庫の中に酒が無いことに気付いた父はその場で目が充血し、痙攣し出して、見えざる手で引かれるようにコンビニまで走って行った。
その晩、暴力が倍増した。
テーブルに顔を打ちつけ、続いて仰向けの私に座布団を被せて父は何度もダイブをした。
それでも、禁断症状が出た時の父の表情が怖くて、私は父から酒を奪う気力を失った。
結局、それ以降も毎晩父は酒を飲み散らし、私に暴力を振るい続けた。
自分が殺されないためには、父を殺すべきなのかもしれない。
しかも私は先天的に頭痛持ちであり、父の暴力に共鳴するかのように、私の頭痛は発症しだした。暑くないのに、滝のような汗を流した。
痛みなんてこの世から消えてしまえばいいのに、と常に思っていた。
しかし、昼間の父は普通だったので、私は父の心労を減らす為にも、良い子になろうと自分に言い聞かせた。
また父は教育熱心な親として、一部の親や教師から人気を集めていたのも、私に一歩踏み出すのを留まらせていた理由の一つである。
本当は自分が悪いのではないか。例え勘違いであったとしても、自分の父が周りから良く思われているのなら、それで良いのではないか。
良い子でいれば、父も分かってくれるかもしれない。
大切にしてくれるかもしれない。
何せ昼間の父は夜な夜な娘に暴力を振るっている事を全く憶えていないのである。
だから私は同級生の両親たちからは「大人びていて礼儀正しく良い子」としてよく褒められた。
でも、私は本当のところ自分のお父さんとお母さんから褒められたかった。
心には大きな穴が空いたままだった。

とは言え、定期的には私は父の暴力に耐えかねて爆発する。
暴れ回る父といっしょに家具を破壊したり、刃物で父や自分の身体を切りつけたりした。
空しいだけだった。
小さな自殺願望を抱いたところで本当に全てをリセットできるわけじゃなかった。
ストレスで痙攣を起こし、頭痛でのた打ち回った。
切れた皮膚から流れ出る血を見ては現実感が無くなっていくのを感じたが、痛みは少しも和らがなかった。
頭が割れるように痛み、いっそハンマーで私の頭を粉々にしてほしいとさえ思った。

私は昼も夜も褒められることが無かった。
テストで百点を取っても、徒競走で学年一位になっても、自信を持てることは無かった。

昼の父は私を理性的に叱った。
特に叱られることが多かったのが勉強である。
勉強は一日一時間と決められていた。
「勉強にそれ以上やる価値は無い」とのことだった。
その代わり、一時間は集中的に勉強させられる。
父の監視の下、私は全教科の復習やら宿題やらを行う。
書き順を間違えたり、計算が遅くなってくると手を叩かれる。
また、勉強時間が終わるとチェックテストが行われ、答えられないと怒鳴られた。
そんな事だから母親に捨てられるんだ、と罵られた。
また、好き嫌いに関しても父は厳しかった。
マズいものはマズい、という意見を父は認めなかった。
偏食は一つ残らず克服させられた。
だから私は決して給食を残すことは無かった。
同級生は、ちょっと給食に変なものが出るとすぐイヤイヤしてお残しするから、その度私は先生に褒められた。
身近な好き嫌いを克服させるだけでは飽き足らず、父は私に珍味を食べさせた。
野草や、爬虫類や、豚の頭など。
私はその度吐きそうになりながら完食した。
実際数回吐いた。
それでじっとしていると「お前は一生俺に尻を拭かせるつもりか?」と言われ、全ての後始末をやらされた。
また、私は野草で調子を崩し、夜中に目が覚めたことがある。
その時、私は怒りに任せ、父の顔面に嘔吐した。
父は翌朝、私に平手を打った。
素面の父にまで殴られた私は、この世には正義なんか無いと思った。

小学校も後半になると、私の家庭環境がかなり特殊であることを学んだ。
友達はみんな怒られることも少なく、代わりに沢山褒められていた。
私はそれが羨ましかった。
テストで百点取れなくてもいい。礼儀正しい子になんかなれなくてもいい。
バカでもブスでもいい。
普通の子供になりたかった。
私の家庭事情に興味を持つ同級生もいたけれど、絶対君達のほうが幸せだよ、と言ってやりたかった。
私はそれが喉元まで出かかって、でも堪えながら泣いた。
涙の理由は同級生はおろか先生すら理解出来ていなかったけれど。
修学旅行の風呂は誰もいない時間に一人でこっそり入っていた。
普通の生活を送りたい。

父に、今まで毎晩暴力を振られていた事を告げると、父は自分の行為を改善しようとするでもなく、「自分の身は自分で守れ」と、私を空手教室に通わせた。
人間のクズ。反抗期の友達は、先生や鈍臭い同級生たちのことをそう言ったが、本当の人間のクズとは、私の父のような人間のことを言うのだと思う。
私は耐性が強いから、先生や同級生に対してはさほど気にならなかった。むしろ普通の人間を人間のクズと言ってしまうあたり、みんな子供だなあと思う程度だ。
ここに来て一つ意外だったのは、空手教室で自分がかなり強いと知ったことだった。
遊びじゃない、本気の暴力を毎日味わさせられていたからだ。
空手は楽しかった。人生で初めての喜びだったかもしれない。
同級生の女子や男子はもちろん、三つ上の先輩にも負け知らずだった。
私は最強だった。
家には帰りたくないし、学校は皆つまらない気の遣い合いばかりしていて窮屈だから、私は道場に誰よりも早く来て、誰よりも遅く残った。
大会に出て、賞を取ってくることも一つや二つでは無かった。
師匠には「道場始まって以来の天才」と言われた。

しかし、それ以外の私の生活は、相変わらず黒く塗り潰されていた。
例えば私はプレゼントを貰ったことがない。
父は「お前を立派な大人に育て上げる事が、俺からの只一つにして最大のプレゼントだ」と言われた。
ふざけんなクソジジイ。
私はデパートやおもちゃ屋に一人で行った。
子供が、高いおもちゃをねだっていた。
父親と母親はやれやれといった表情でそれをレジへ持っていった。
私は黙って店を出た。
全部消えてしまえばいい。
お前は父親に殴られたことがあるのか?
お前は母親に捨てられたことがあるのか?
どうなんだよ、どうなんだよ……。
そう思った途端に、頭痛が発症し出した。
その間は、痛みで何も考えられなくなっていた。

また年が明けた。
嫌な気持ちになる。
それは、父の弟が来るからである。
叔父は、妻の一家が総出でのめり込んでいた新興宗教に洗脳され、多額の借金を抱えていた。
その宗教の本部は私の家に近くにあり、新年になるとコミューンに信者たちが全国から集いマスゲームが行われる。
そしてその途中で私達の家にやってきては、父から金をせびるのである。
父は弟に金を渡す。
その金は宗教を通じて闇へ消える。
そのせいで我が家の家計も崩壊寸前であった。
金を貰った後は、二人で酒盛りを始め、私は彼らから暴力を受けた。

偏頭痛は悪化の一途を辿り、さらに不眠の症状も出てきたので、自分の足で病院に通った。
暴力を受けた後、躁状態になって眠れなくなるのだ。
口の周りには大量の吹き出物が発生したが、それより問題は眠れないことにあった。
そこで私は憶える気が湧かないほど長い名前の精神病に掛かっていることを告げられた。
やっぱりそうだ。おかしな環境で私もおかしくなってしまったのだ。
私は一日あたり、計五十錠の薬を一ヶ月分処方された。
普通の人生が送りたかった。
苦い薬を飲みながら、胃が荒れに荒れながら、副作用で嘔吐しながら思った。

中学に上がったところで空手を辞め、代わりにサッカー部に入部した。
空手での評判が知れ渡っていた部内で、私は先輩のイビリの格好の標的になった。
私は同期先輩含め誰よりも早く朝練に参加しなければならないので、朝六時からグラウンドの整備をしていた。
同期は先輩の言いなりであり、私が一番に到着していないと彼女らにリークされる。
全員殺す。
心の中で呟きながら、泥まみれのユニホームの洗濯を行う。
実力で見返してやる、と練習に打ち込めばますます先輩の反感を買うし、逆に手を抜けば監督や父に怒鳴られた。

ある日監督に呼び出された。
「お前、先輩から酷い目に遭わされてないか?」
「そんなことないです」
「そうか、ならいいが……」
クソ、無能め……。

私はよく男子生徒に告白されたが毎回断っていた。
別に硬派ぶっていたわけではない。
彼氏というのは基本的に一人しか作れない訳で、だから当然全員と付き合えるわけがない。
普通の事である。

と思っていたが、そうとも限らないようだ。
よく告白されるという、顔が決して美しいとは言えない友達の話を詳しく聞いたら、告白してくるのは学校の男ではなく、ネットの男らしい。
実際その中の複数と付き合っているそうだ。
私は家にパソコンが無かったので別の友達の家に泊まった時に見せてもらった。
動画サイトに「JC2です」という動画をアップしていた。
その動画ではJC2が約十五分間に渡り、機械のお化けのように目を見開いていた。
こんなのと付き合いたいなんてネットの人間って単純にレベル低いなーと考えながら、私は夜のランニングに出掛けた。
身体を鍛え続けていないと父に撲殺されてしまう。

ある日の放課後、上履きに画鋲を入れられた。
犯人は察しが着く。この前のJC2だ。
ネットの男の話を聞いて、ああいうことは止めた方が良いという趣旨のアドバイスをしたら、突っ撥ねられたのだ。
JC2をお昼ご飯に誘い、「JC2ちゃんが親友だよ」って言ったらすぐに画鋲が入らなくなった。

私はサッカー部のキャプテンになった。要するに、監督からの怒られ役である。
「一回戦負けしたらお前の髪の毛バリカンで剃るからな」
見事に負けた。私は頭皮を丸出しにさせられた。
OG連合の先輩たちからは、今年の部員は外れだと罵られた。

敢えてウィッグは買わなかった。
JC2を始め、ありとあらゆる人間から不潔な物を見る視線を浴びた。
汚物扱いと腫れ物扱いを交互にされる日々を送った。
ああ、私は不幸だ。
普通に平穏に生きていたいのに、私は何故いつもこうして極端な所に行ってしまうのだろう。
男はいいな。坊主になっても笑われるだけだから。

しかしそんな中でも私に告白してきた男がいたので付き合うことにした。
その男は、女は外見じゃなくて中身だと言っていた。
彼はゲームセンターに行きたがった。
音楽ゲームを好んで行っていた。
ゲームをやった事は今までの人生で一度も無いが、彼が誇りを持ってやっているのを見て、私は彼を超えたいと思った。
火が点いた。
なけなしの小遣いでゲームセンターに通った。
私は家で父とゲームの話をしたら、めちゃめちゃ怒られた。
「そんなクソみたいな事に時間使ってたらクズになるぞ」
父曰く、ゲーム・テレビ・携帯電話は人間をバカにする三種の神器だそうだ。
その内携帯電話は与えられていたがインターネットが使えない設定になっていた。
それでもゲーセンに通っていたら、父が家から付いてくるようになってきた。
「そこまでやりたいのならそれだけの理由があるんだろう?」
父は私がゲームをしているところを後ろから覗きこんだ。
失敗すると怒られた。気を抜くと蹴られた。
「携帯貸せ」
「は? なんで」
彼氏にメールを送りつけられた。
『一週間後に私と勝負しろ。私に勝てたら×××××してやる』
「何やってくれてんだよ!」
「それぐらいの真剣さで出来ないような事はするな」
音楽ゲームは腕しか使わない。つまり脚が空いているのでそこにルームランナーを置かれた。
これでダブルトレーニングが出来るらしいと。
私は父からのプレッシャーに耐え、揺れから来る吐き気に耐え、周囲の奇異なモノを見る視線に耐えた。
時々躓いてコケた。
その度私は緊張の糸が切れてボロボロ涙を零していた。

一週間で私は最高レベルまで辿り着いた。
運動神経なら負けない。
私は彼氏をボコボコに打ち負かした。
満足したので私はゲームを辞めた。
プライドをバキバキに折られた彼氏は私の元から去って行った。

ちょうど同じ頃、叔父が夜逃げした。
それを知らせてくれたのは玄関にやってきた暴力団の組員であった。
叔父の御布施の為、父は借金を背負わされた。

家計は火の車で、マンション生活を維持できなくなった私達一家は、結局家を引き払い、家賃二万のアパートに引っ越すことになった。
家から冷蔵庫とエアコンとこたつが消えた。
携帯も解約することになった。
あるのは錆びた蛇口とハエの巣だけ。
トイレと風呂は共同である。
いよいよ落ちるところまで落ちた気分だ。
私は塾に通えず、父の指導の下で公立高校を目指す事になった。
私は地域で最もレベルの高い高校に行きたかったが、公立高校しか受験できないという経済事情の為、A判定が取れていない学校には受験させないというルールを敷かれた。

時は冬である。夜は零度を切ることもあり、ひたすら震えていた。
空手をやっていた頃、ゲーセンに通っていた頃、そんな呑気だった頃が懐かしくて、教科書に涙を垂らしながら夜遅くまで勉強した。
引っ越した当初は何度も四十度を超える熱を伴う風邪を引いたものだったが、すぐに人より丈夫な身体になった。
父はこの惨状においても酒を買い続け夜毎暴れた。よく周辺住民と喧嘩になった。
しかしそのせいで家のドアに変な張り紙を貼られるようになった。
私は喧嘩の現場に立ち会った事はない。父が酒に手を伸ばしたところで勉強を止め、眠るからだ。今ではどんなにうるさくても眠れる。騒音や振動でいちいち起きていたらきりが無い。
ちなみにその頃には私は父より強くなっていたので父が私に手を上げる事は無くなった。

最終模試の第一志望の判定はBだった。
私は父の言い付けを守って第二志望の高校へ入学した。

高校二年の時私は恋をした。
学年一、いや学校一センスのいい男に。
学校一センスのいい男がタメで良かった。
他の学年を見渡しても、彼以上の男はいない。
これが先輩だったら、ありきたりでクサい少女漫画になってしまう。

父にそんな話をしたら、「明日告れよ」と言った。
「女は大好きな人と一緒にいるのが一番幸せだって卑弥呼が言ってたぞ」
「アイツそんな事言ってんの?」
次の日の夜、父は私に告白したかどうか聞いてきた。
「会えなかった」
「会えないなら探すんだよ。お前の思いはそんなモンか。クソだな」
私は家から追い出された。
すると、私の家の目の前に、これから探しに行くはずだった彼がいた。
「え、なんで、なんで? どうしたの?」
「俺さ、お前の事が好きで好きでしょうがないみたいなんだよ。俺と付き合ってくれないかな……?」
「……うん」

彼との日々は幸福に満ちていた。
「え、今までそんな殴られてたりしてたの? うっわー辛っ、俺なら死んでるかも」
「そういう経験無かった?」
「というか俺は親に怒られた事無いしね。やりたくない事はやらない。やりたい事だけやる。それでなんとかなるっていうか、俺は今までそうやってきたしこれからもそうするつもり」
「よくそれでうちの高校入れたね」
「家庭教師がいたからだよ。この人が面白くてさー」
彼は金持ちだった。
私に服やら何やらを教えて買ってくれた。
「プレゼントするのって楽しいんだよ」
父は私の派手な恰好を見て激怒するかと思いきや賞賛した。
「女は男にプレゼントさせてナンボだからな」なんだこの女性差別クソ野郎は。
彼はとことん勉強が嫌いで、試験前でもずっと遊んでいた。結局進学できなくて学校を辞めてしまい、そのままモデルになった。まあ彼なら上手くやるだろう。
彼は私という彼女がいることを公言していた。私と遊ぶ為に、と仕事は控えめにしていた。
「入ってくる仕事全部引き受けてたら一睡も出来なくなるよ。大体俺は仕事する為に生きてるわけじゃねえし」

一方こちらの私生活としては、大きな変化は無く、友達から相談されることが多かった。
「今日もママと喧嘩した……マジむかつく……」
私は神妙な面持ちで聞いた。人に強い思いをぶつけられた時どういう態度を取ればいいのかは中学時代までで学びきった。私は大抵の高校生、いや大抵の人よりは辛い経験を味わってきたつもりだ。それが報われることは無いのだけれど。
「バイトの店長に告られちゃった。どうしようかな」
おいおい、コンビニの店長なんて社会的には全然下だぞ。しかもどうせ汚いオヤジだろ? このクラスの男どもの方がまだマシ。まあ貴方がそれで良ければいいんじゃない。という趣旨のアドバイスをしたりなんかして。

成績については、一学年に三百人くらいいる中で、上位五十位ほどの位置をキープした。
勉強は相変わらず一日一時間だけ行った。
高校ではダンス部に入っていた。
うってかわって平和だった。

しかし漸く生活が安定してきた頃、体育館裏に呼び出された。
また告白されるのかと思ったら、そこには彼氏のクラスメイトが何人もいて、こっちを見て笑っていた。
嫌な予感がして、逃げようとしたが、振り返るとさらに数人いて、私は結局捕まった。

クソ、私の人生こんな事ばっかりだ。
処女は血が出るらしいが、私からは出なかったことで、私はこれまで何度か叔父に強姦されていたことを悟った。
更に最悪な事に、私は妊娠した。
父に相談した。
「中絶はするな。産めよ」
「妊娠したままじゃ学校に通えないじゃん!」
「お前には勉強の才能が無い。学校は辞めろ」
いくら学費がタダであろうと、高校に通わせるには色々金が掛かるらしい。私は退学させられた。
という訳で私は中卒である。
仲の良かった友達と無理矢理別れさせられた。
父に言ったら「そうやって泣けるだけの友達がいたのか」と言われた。
私は更に泣いた。
父、叔父、私をレイプした男、彼らのうち誰かがいなければ、私が学校を辞める事は無かったのに……。
私は迷っていたが、とうとう中絶費用を集めることができないまま五ヶ月を迎え、産むしかなくなった。

それを彼氏に打ち明けたところ、レイプについては触れずに、「俺は父親になる気は無い」と言われ、振られた。
メールアドレスを変えられ、電話は着拒され、音信不通になった。
彼はすぐ新しい彼女を作り、引き続き彼女を大事にするキャラクターとして芸能界を渡って行った。
その彼女が入れ替わっていることを世間は知らない。
悪い噂は事務所が上手に工作したので、私は初めからいない存在となった。
私は精神的な拠り所を失ったショックと、つわりによりホルモンバランスが崩れた事で、一日に十回以上吐く生活が続いた。
どんなに歯を磨いても、酸の臭いが鼻の奥に残った。

孤独だ。
友達は私の事を忘れてしまったのか。
レイプされた噂が学校で広まってまた私は腫れ物になってしまったか。
自宅の硬い布団で一日中天井を見上げている私を見て、父はきっと私を不憫に思ったのだろう。
なんとかしてやる、という心遣いの結果、私は精神病院に入院することになった。
不可抗力で居場所をコロコロ変えさせられるのには慣れっこだった。
今の環境よりはマシだろうと入院するまでは思っていた。

そこには話の通じる相手がほとんどいなかった。
優しい口調で話し掛けてきたオバサンに渡された栄養ドリンクを飲んだら、その中身は毒薬で、私は口から紫色の液体を撒き散らした。
「キャハハハハハ」
周りは皆高笑いしていた。
けれどどうってことはない。
自分の身は自分で守れ。
その単純原則は、私が十五年間守り続けてきたルールと幸いにも一致している。
それからは、醜い婆の楽しみのために新人イビリを受けたり、「私達親友だよね!? ね!?」と言ってきた目つきのヤバい少女の裏切りにあったり、仕切りたがり屋に理不尽な要求をされたりするたびに、サッカー部仕込みの大声で怒鳴り、その勢いでそのまま吐いた。
ゲロ女と言う渾名を付けられたとはいえ、私に歯向かう人間はほとんどいなくなった。

精神病院は入院代が高いらしく、結局一ヶ月で退院することになった。
そしてそのまま産婦人科へ移った。
結局私は男の子を産んだ。
私の可愛い息子ちゃん。
やっべー超脳汁出てきた。
こんな快感、息子の父には絶対教えない。
教えたくても誰だか分からないけどね。
普通の妊婦の何倍も苦しんだ分、私は普通の母親の何倍も息子を愛せる気がする。
少なくとも、私の母親の一億倍は。

私は十八歳にして、借金取りのコネで高級風俗店に入った。
私には子供を育てるという重大な動機があるのだ。
社長や芸能人やヤクザや小説家などが客としてやってきた。
しかし、男たちは何故か私とプレイをしようとしなかった。
私と話すと落ち着くそうだった。それで満足できるらしい。
月の収入は百万を超え、貯金も一千万に届きそうだった。
アパートからマンションに引っ越す事もできた。
私は店長に一ヶ月休みを貰い、世界一周旅行へ出かけた。
店長も私に更なる成長を期待してくれているのだろう。
自分という人間が世界で通用するかどうか気になっていたのだ。

結局風俗店は一年働いて辞めた。

風俗時代の友達に勝手にアイドルオーディションに応募されて、新設されるアイドルグループのメンバーになった。
特にアイドルになりたいという気持ちは無かった。そもそも家にテレビが無かったのでアイドルの事を何も知らないのである。
しかし、そろそろ仕事でもしようかと思っていた時期と重なったこともあり、引き受けることにした。
私は十九歳、最年長だったのでリーダーになった。

高校時代の彼氏とテレビ局で再会したとき、彼がどこか居心地の悪そうな顔をしていたのは少し嬉しかった。
アイドルグループが乱立する中、私が所属するグループはまずまず成功していた。
そのまま駆け上がって行くかと思った矢先、メンバーの一人が男とホテルに入っていく所を撮られた。
恋愛禁止、恋愛したら連帯責任でグループ解散で全員クビ、芸能界引退というルールだった。
他のメンバーは泣きながらグループ継続を乞うていたが私はそこまでアイドルにしがみつきたいとも思わなかったので辞めた。

私は真っ当な社会人になるため、仕事探しをしてみた。
いくつか会社の面接を受けた。
「高校を中退していますね? 何故ですか?」
「親戚の借金を父が肩代わりして、私も働かなければならなかったんです」
なるほど、という声と共に書記の社員たちが一斉に何かメモをした。
「それから今まで何をやっていたんですか?」
「仕事をしながら、○○というグループで芸能事務所に所属していました」
「何それ?」
「アイドルグループです」
「聞いたことある?」
「いや、無いね~」
「ほら、あいついるだろ。アイドルオタクの。あいつなら知ってるんじゃないか?」
「ちょっと呼んでみますか」
芸能事務所の方に喰い付かれ、その前にしていた仕事が何であるか聞かれなかったのはラッキーだった。
「うわ、本物だ! ファンでした、サイン下さい!」
「どうぞ」
ほー、と感心したような顔を見せた先輩社員が質問を続けた。
「やっぱりアイドルは、最初は売れないんだよね。そこからどうやってテレビに出れるようになるのかな?」
私は結局その会社から落とされた。

三月のある日、海へドライブに行った。
免許はアイドル時代に番組の企画で取った。

ほとんど誰もいない。
波の音が無ければ、人の息遣いさえ聞こえてきそうな静寂の中。

女子高生が海に叫んでいた。
「家庭教師なんて信じた私がバカだったよ! なんで私ばっかりが酷い目に遭わなきゃいけないの!?」

それを聞いた私は続けて叫んだ。

「あ? 重度の頭痛持ちで母親に捨てられ父親に殴られ頭のおかしい親戚に借金背負わされ家を引き払って鬱になってレイプされて妊娠して高校辞めさせられ風俗に堕ちてそれから職転々としてるシングルマザーの私の気持ちがお前に分かるのかよ。甘えんてじゃねえよ」

それを聞いた女子高生は黙って走り去っていったが、それを遠目で見ていた男子大学生が返すように海に叫んだ。

「もうさ、命の危険に晒された事が無くて、男で、家が貧乏じゃなくて、親に暴力を受けることが無くて、問題を抱えた親戚がいなくて、持病が無くて、精神病んでなくて、四年制大学通ってる独身をいじめるのは止めようよ。彼らだって辛いんだよ……」

互いの目線は夜空の彼方に向いており、交わることは無かった。

fin



       

表紙

パンフレット 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha