Neetel Inside 文芸新都
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インドア・スターゲイザー
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「プラネタリウムに行ってみたい」
 廃屋の天井に白いチョークで星印を描きながら、長谷川はもう何度目かわからない台詞を吐いた。脚立を押さえる俺はスカートの中を見ない様に視線を窓の外に向けていたから、その時長谷川がどんな顔をしてそう言っていたのかはわからない。
「何度目だよ、それ」
「そのくらい本物に期待してるって事」
 今日の分の作業を終え、長谷川は脚立の三段目から飛び降りた。ローファーが床を踏み鳴らして埃が舞う。カビ臭い空気が一層澱む。それなのに振り向いた長谷川は酷く楽しそうだった。とても元が病弱少女だとは思えなかった。
 天井を見上げると、白いチョークの星印は全体の三分の一ほどを埋めていた。最初に比べればだいぶ進んだ物だと思う。ただ、この中のどれがどう繋がって星座を形作るのかは天体に疎い俺にはさっぱりわからなかった。つい先日返ってきた期末テストの理科の点数は平均点を結構な度合いで下回っていて、親にもこっぴどくどやされたのだ。
「本物ってさ、この中のどれがなに座だとかも一々教えてくれるんだろ」
「らしいよ」
 凄いよね、と言う長谷川には、きっとそのガイドは必要ないのだろうなと思った。学年でも下から片手で数えられるくらいの学力で、体育はチームに長谷川がいる方が負けるとまで言われ、友達らしい友達もロクにいそうにない長谷川は、天体に関してだけはそこらの理科教師よりも詳しい。本人は宇宙飛行士か天文学者になりたいとよく言うが、その他の適正がお粗末過ぎて無理だと聞く度に思う。
 廃屋の天井に星を描こうと言い出したのは無論、長谷川だ。都会に出るのに電車で二時間、買い物は郊外のショッピングモール、娯楽と言えば郊外のショッピングモール、休日は郊外のショッピングモールが賑わう。当たり前だが近くにプラネタリウムなんて無い。そんなクソ田舎は空気だけは澄んでいて夜は星が胡散臭いくらいに綺麗に見れるから、わざわざプラネタリウムなんかで人工の星空を眺める必要は無いと言う事なのだろう。
「高校生になったら行こう、プラネタリウム」
「別に今から行ったって良いんだよ、外のアレで」
 長谷川は窓の外に見える俺のスクーターを指差した。悪友が駅前からくすねてきた廃車寸前のオンボロスクーターは、お年玉全額と引き換えに俺の移動手段になった。私服を着て堂々と乗っていれば、案外中学生でも呼び止められたりはしないものだ。こういうオンボロなら持ち主も諦めがついて届け出出さないんだぜ、と悪友は心底楽しそうに笑っていたのを覚えている。
「こんなポンコツで何時間走る気だよ」
「プラネタリウムも行きたいけどツーリングもしてみたい」
「無免の上に二ケツとか見つかった時の事考えたくねぇ」
 ケチ、と言って長谷川は脚立を足で小突いた。コキンと言う金属音が廃屋の中に響いた。陽は沈みかけている。今日はこれで終わり、続きはまた来週だ。
「帰るか」
 長谷川が無言で頷くのを確認して、俺達は廃屋を後にした。ネズミが目を覚ましたのか、ごそごそと言う音が聞こえた。今ではもう二人ともその音にも慣れきっていた。

 目を覚ますと昼だった。休日の午後、穏やかな日差しが腹立たしい。廻る世界は今日も歓喜と希望に満ち溢れ、死んだ魚の目で日々を過ごす人間は活き活きとしている人間の餌として今日と言う日を過ごす。そういう人間もいずれは死んだ魚の目になるのだ、夢に見た過去の自分の如く。腫れぼったい目を擦りながらリビングに降りると、妹が昼のニュースを見ながらズルズル音を立ててラーメンを啜っていた。
『あと数日に迫った観測史上有数の巨大流星群、ハナモゲラ座流星群ですが……』
「なんだその名前」
 流れたニュースにボソリとツッコミを入れるとスープを飲み干していた妹は肩をビクリと震わせ、ドンブリをテーブルに置いて振り返った。
「いつから起きてたのお兄ちゃん」
「今」
 その食い方やめろよみっともないぞ、と言って冷蔵庫を開けると、食料は何も残っていなかった。外じゃちゃんと食べてるし、と返事をする妹が汁まで飲み干していたラーメンが家に残された最後の食料だったらしい。育ち盛りだから仕方ないのかもしれないが、華の女子高生だなんて単語がまやかしに過ぎないと言うのはこの妹を見ていると痛感する。
「見に行くのか、これ」
「当たり前じゃん」
 妹は高校では名前ばかりの天文部に所属しているのだと言う。と言っても高校生が真夜中に学校に集まって真面目に天体観測をする様なわけもなく、今でもニュースの占いコーナーに出てくる十二星座がどこにどんな形であるのか言えるかどうかも危うい。夜の学校と言うちょっとしたファンタジーに酔っ払っているだけなのかもしれないが、それを妹が楽しんでいるのなら俺は何も言う気にはならない。高校生なんて留年しない程度に好きなだけ遊べば良いのだと、一応は真面目に学校に行っていた筈なのに現在無職の穀潰しな俺は思う。
「またバイクで送ってってよ。夜道に女子高生が一人とか危ないし」
 誰もお前なんて襲わねーよと言いたかったがやめた。交通費と言う名目で後でガソリン代を徴収すれば良い。バイトに部活にで肝心な学業の疎かな妹は、無職の俺より遥かに羽振りが良い。収入の有無はかくも覆し難く世知辛い物だ。
「いつも思うんだけどさ、こんな都会で星なんて見れんのかよ」
 煙草を吸いながら東京の汚い夜空を眺める度、昔住んでいた田舎の澄んだ夜空と比較しては汚いナァと溜め息をつく。その溜め息と一緒に吐き出した煙草の煙で視界は一層濁る。プラネタリウムが禁煙なのも頷ける。
 東京に越して来てからは、休日の娯楽を求めて郊外のショッピングモールに足を運ぶ事も無くなった。電車に十分も乗れば大抵の物は揃っていて、その中には勿論プラネタリウムも含まれる。初めて足を踏み入れたプラネタリウムは想像していたよりも全然ちゃちい物で、こんな物に憧れていたのかと昔を思い出して落胆した記憶がある。東京には何でもあるが、結局俺はこっちにやってきて十年、何も見つける事は無かった。
「昔住んでたあの街に比べたら全然だけどさー、なんて言うかイベント? みたいな」
「クリスマスとかバレンタインみたいなもんか、ハナモゲラ座流星群」
「そうそうそんな感じ」
 何を見るかより誰と見るか。そんな感じなのだろう。
 クリスマスの聖ニコラウスやバレンタインの聖ウァレンティヌスと共に、ハナモゲラ座の名付け主も日本の若者の生態を知ったらさぞかし驚くに違いない。
 何を見るかより誰と見るか。俺も最初にプラネタリウムに足を踏み入れた時、隣に長谷川がいたらまた違った感想を持ったのだろうか。連絡先もわからなくなった今となっては、考えても無意味な事だけれども。

「帰るか」
 長谷川が無言で頷くのを確認して、俺達は廃屋を後にした。ネズミが目を覚ましたのか、ごそごそと言う音が聞こえた。今ではもう二人ともその音にも慣れきっていた。
 廃車寸前のスクーターにエンジンをかけるにはコツがいる。窃盗車に鍵なんてある筈も無いので、剥き出しの配線を強く捻る。プスンプスンと情けない音を立てるスクーターと格闘してる間、長谷川は先に帰るでもなく横でそれを眺めている。カップラーメンが出来上がるほどの時間をかけてようやくエンジンを動かした時、長谷川は退屈そうに頭の上で腕を組んでいた。暗い廃屋の中ではよく見えなかった長谷川の顔を傾いていく太陽が照らす。不覚にも心臓が不穏な動きを見せた。悟られたくないと思って顔を逸らした。
「……ツーリングは無理だけどさ」
 不意に口をついて出た言葉は、自分でも続く言葉を考えていない物だった。視界の隅に長谷川が小首を傾げる様子が映る。折角かかったエンジンを止めたくないと思い、そそくさとスクーターに跨りアクセルをふかした。
「その、家の近くまで乗せてくくらいなら」
 どこに目をやれば良いのかわからなくて、弱々しく振動するスクーターのミラーの角度を調節する振りをして誤魔化した。
「充分」
 それだけ言って長谷川は俺の後ろに跨った。ポンコツで老いぼれな窃盗車は喘ぎ苦しむ様な排気音を出す。途中でエンストしたりしなければ良いけど、と情けない心配が脳裏を掠めた。
 ゆっくりと走り出したスクーターは、走り始めてからも普段より更に遅いスピードしか出なかった。自転車とさして変わらない程度のスピードではとてもツーリングとは言えないかもしれない。元よりツーリングのつもりではないのだけれども。
 ドラマやマンガで見るバイクの二人乗りの様にがっしりしがみ付いて来るわけでもなく、自転車の様に横向きに気楽に腰掛けるわけでもなく、長谷川は腰に手を添えるだけで黙っていた。俺が感じている妙な緊張感を長谷川は感じているのだろうか。ただ単に添えられているだけの手が、姿も見えない声も聞こえないその時の長谷川の全てだった。ジャージ越しの腰骨に触れている細く長い指の感触に、生まれて初めてと言えるくらいのもどかしいと言う感覚を覚える。いくらスロットルを開けても速く走らないスクーターに似ていた。
 それでも前に進んでいる限りゴールと言うのは来るもので、しばらくして長谷川の家の近くまで来ると、ここで良いよと後ろから声が聞こえた。聞こえないフリをしてこのまま走り続けたらどうか、そんな思いつきを振り払って俺はスクーターを路肩に停めた。
 じゃまた学校で、と言って手を振って帰っていく長谷川に手を振り返して、俺は反対方向にある自宅に向けて出発した。帰り道の途中でスクーターがポスンと情けない音を立て、そのまま廃車寸前がただの廃車になったのはまた別の話だ。

『ハナモゲラ座流星群ね、これ凄いですよ。百年前にこれが来てたら間違いなく地球滅亡と勘違いされるくらい大量の星が見えます。半端ないです。見えるなんてもんじゃないです、嫌でも目に入ります。見ないと絶対後悔します』
 全米が泣く映画の宣伝文句みたいだと思った。天文の専門家らしい禿げ散らかしたオッサンが唾を飛ばしまくって喋る様子に、特集番組の司会一同は揃ってドン引きしている。興奮して顔を真っ赤にして喋る専門家は、こんな流星群は生きてるうちに二度と来ない、と言う旨を繰り返し強調した。ついに一人で感極まって専門家が泣き出した所で妹がチャンネルを変えた。
「ハナモゲラ座流星群がどう凄いか説明して」
「わかんない」
 不良天文部はあっけらかんとそう返してきたが、元々期待はしていなかった。俺も妹も恐らくテレビの視聴者も「なんかすっげぇ流星群が来るらしいからお祭り騒ぎ」と言う漠然としたイメージしか持っていない。それでも人が死んだ話やら政治家のイザコザの話を延々見させられるよりかはマシだった。人が死んで政治が死んで挙句には動物園で飼ってるパンダまで死ぬこの国のニュースだったが、それならいっそ星が燃え尽きて死ぬニュースの方が爽快感がある気がする。
「お兄ちゃんもどこかに見に行ったりしないの? 凄いらしいじゃん」
「別にベランダで煙草吸いながら見てれば充分だわ」
「勿体無いナァ」
 お前と違って一緒に見る人がいませんので、と言いかけてやめた。人の事情に首を突っ込みたがるような所ばかりはまさに華の女子高生だからだ。
 今でも天体に関する話題を目にすると、かつてのセンチメンタルな感情が呼び起こされる。結局俺と長谷川は甘ったるいラブロマンスやしょっぱい涙の別れの世界に足を踏み入れる事はなく、ただただ週末に廃屋で待ち合わせて時間を過ごすだけの仲を貫いた。連絡も取っていないから、その後にお互いどんな道を進んだかは知らないし知らせていないし知らせる術も無い。それで良かったのだと思う。他の場所に出掛ける事も無ければ学校で会話する事もなく、ただ廃屋だけを繋がりにして構築した世界は、現実とのギャップで虚しくはなれども今は良い思い出だ。
 ただ、相変わらず天体には疎い。七つ下の妹が高校に入って天文部を選んだと聞いた時には多少なりとも驚いたが、まぁ話を聞く限り長谷川のような天文馬鹿はどこにでもいるようなわけもない。長谷川の奇行に付き合ってはいたが、それは別に星が好きだったからでもない。
 長谷川なら間違いなくハナモゲラ座流星群に狂喜乱舞しているだろうと思った。記憶の中のままの中学二年生の長谷川が先ほどの専門家の様に熱っぽくハナモゲラ座流星群の凄さを解説している、そんな様子を一人で勝手に思い浮かべて小さく笑った。
「なに、どうしたのいきなり笑って。気持ち悪っ」
 そう言って細めた目で俺を見る妹だったが、そんな妹でも今の楽しい時間を少しでも多く経験して欲しいと思った。楽しんだ時間は、いくら後から思い出しても瞬間瞬間の劣化コピーでしか無いと、俺はずっと思っている。

       

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