Neetel Inside 文芸新都
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 長い間人のいなかった机に座る生徒が戻ってきたのは、中学二年目の二学期からだった。それまでは掃除の時の余計な手間を増やすだけだった空き机には、夏休み明けには長谷川と言う女子が座っていてクラス一同驚いたものだ。長い間病気がちで療養生活が長かった長谷川は、当初は病気が完治してやっと普通の学校生活が送れるのだと喜んでいた記憶があるが、一年半の間名前だけしか知らなかったクラスメイトがすんなり馴染めるほど女子のグループ関係は単純な物ではなく、療養中にはロクに勉強もしなかったらしい上に鈍臭い彼女が徐々にクラスで浮き始めるのも無理はなかった事だと思う。かくいう俺も学校ではたまに遠巻きに見遣って、なにやら難しい天体の本を教科書で隠して読んでいる姿を確認する程度だった。
 最初に会話を交わしたのもやはり廃屋での事だった。部活をサボって悪友連中と一通り些細な悪事をした後、アルコールの回った頭で一人自転車を走らせている時。前を通りかかった廃屋から、何やら物音がしたのだ。
 冷静に思い返してみると、廃屋から物音が聞こえても何か面白い事があるかもしれないと結びつけるのはあまりよろしい判断ではない。寝床を探すホームレスかシンナーを吸うチンピラが良いとこだろう。ただその時の俺は慣れない飲酒の高揚感と、貧乏カップルがファックに勤しんでいるのかもしれないなどと言う馬鹿げた妄想に起因する性的好奇心とが相俟って、自転車を停めて中に足を踏み入れたのだ。そして中にいたのはホームレスでもヤク中でも裸の男女でもなく、話した事の無いクラスメイトだったと言うわけだ。
「何してんの」
 不審に思ったままにそう声をかけると、ガタガタと脚立を動かすのに苦労していた長谷川は俺に気付き驚いた顔をした。
「いつからそこにいたの」
「今」
 埃っぽい空気は妙に緊迫していた。長谷川はどう見てもいきなり現れた俺を怪しんでいるし、俺からすれば廃屋で脚立を使って遊ぶ女子中学生の方が怪しい。お互い何を言えば良いのかわからないまま会話の空気を作ってしまったものだから、空気が停滞して動かない。そうしているうちにゆっくりと陽は傾き、窓から差し込む光が俺の顔を照らした。
「赤い」
 は? と思わず聞き返してから、まともな言葉になっていないと思った。理不尽な先輩が後輩を威圧する時の様な口調だった。案の定長谷川は気を悪くしたのか、声を荒げて言葉を継いだ。
「顔が赤い!」
「あ、いや、酒飲んだから」
 そう返した俺の言葉が戸惑いを含んだ物だったからなのか、長谷川の眉根は少し穏やかな形になった。距離を置いて、しかしこちらの顔を観察する様に視線を動かさない。そして俺は軽々しく飲酒の事実を打ち明けて良かったのだろうかと若干の後悔をしていた。
「クラス同じだったよね、名前なんだっけ」
「井手だけど」
「誕生日は?」
「十一月十一日」
 井手なのにさそり座じゃん、と長谷川が言ってからまたしばらく沈黙が続き、ようやく俺は井手と射手座をかけた長谷川のジョークだと言う事を理解したのだった。酷くわかりにくかった。こんな事ばかり言ってるならそりゃ女子の間でも浮くわな、と酔いの残った頭で思っていた。口にしなかっただけマシだ。そしてそれは正解だった。長谷川が勝手に会話を再開してくれたのだ。
「井手君、力仕事慣れてる?」
「そりゃまぁ女子よりは」
 部活で鍛えてるから、とは付け加えなかった。サボってばかりで幽霊部員の俺にそれを言う権利は無いし、そもそも事実ではない。張って格好良いと思う見栄でも無いし相手でもない。
「ちょっと脚立運んでくれない?」
「なんで俺が」
「お酒飲んだんでしょ、バラすよ」
 それはマズい。日頃からろくでもない事ばかりしているから教師に怒られるのは慣れっこだが、それで芋づる式に友人を巻き込んで仲間内での立場が悪くなるのは困る。渋々物が散乱して動き辛い中で錆だらけの脚立を運び出しながら、俺は飲酒の事実を軽々しく打ち明けた事を後悔していた。友達がいない割には積極的に話すんだな、と言う失礼極まりない感想も同時に抱いていたが、こういう変な積極性のせいで友達が出来ていないのかもしれないとも思った。
「で、脚立で何すんの」
「星座を描く」
 それだけ答えて長谷川は脚立に足をかけた。飲酒野郎に加えて覗き魔と評価を下されるのは不愉快だと懸念したが、スカートの中身なんてまるで気にしてない様子で長谷川は軽やかに脚立を登る。夏に比べて段々と日が短くなっていく秋の夕暮れは、もうしばらくすれば夜に変わってしまうだろう。そうすれば本物の星空がいくらでも見れるだろうに、と不思議に感じた。
 天文キチガイ。クラスメイトの誰かが陰でそう長谷川を形容して笑っているのを聞いた事がある。星空が好きなのは結構だが、授業中くらいは授業に集中するように。教師がそう注意しているのも何度か見た。けれど、ようやく天井に手を伸ばす手段を手に入れた長谷川は心底楽しそうだった。制服のポケットからサランラップに包んだ白いチョークを取り出し、鼻歌すら歌いながら天井に星印を描き始める。それは俺には真似できない楽しさの様な気がして、ほんの一瞬、少しだけ長谷川が羨ましく思えた。
 自分たちにとって残された娯楽なんて、ちょっとでも早くこの環境から逃げ出したくて背伸びをしてみるくらいしかない。酒を飲んで煙草を吸って、それらが本当に旨いと思ってる奴なんて、俺が普段一緒にいる十四歳の中には誰一人いないと確信出来る。それでも戦場の兵が身を守る為に銃を掲げる様に、自分たちは精一杯の抵抗の意思を示して缶チューハイを掲げているのだ。それなのに、長谷川は本当に楽しそうに行動する。今チョークを走らせているこの瞬間が本当に楽しくて仕方が無い、そんな顔をして酒を飲んだ事が俺にはあっただろうか。
 見惚れているうちに天井にはいくつもの星印が描かれていたが、それが何座かはわからなかった。時計は無かったが、日が沈んでだいぶ経つ。そんな時間になってから、ようやく長谷川は脚立を降りて体を伸ばした。ご丁寧に長谷川の鞄の中には替えのチョークやら懐中電灯やらが入っていて、作業中にしばしば長谷川はそれを取ってと俺に指示を飛ばした。不思議と苦ではなかったが、長谷川の持つチョークが学校からくすねて来た物だと後で知って呆れた。飲酒に比べれば些細かもしれないけど、お前もやる事やってんじゃねぇか、と。
「今日の分はこれで終わり、ありがとね井手君」
 制服についたチョークの白を手で払いながら長谷川は笑った。また例の笑顔だ。照れ臭くなって視線を逸らしたくなったが、俺がそうする前にそそくさと鞄を手にして廃屋を出ようとする。
「長谷川!」
 呼び止めたのは半ば脊髄反射だ。何事かと驚いた様子で長谷川が振り返る。疲れてはいたが、充足感のある顔だった。何を言うかも考えずに呼び止めたけれど、きっと俺はその顔を見るのを一回きりで終わらせたくなかったのだ。
「次、いつここに来る?」
 そんな感じで、俺と長谷川の廃屋ライフが始まった。

 流星群当日。テレビでも新聞でもインターネットでも散々凄い凄いと煽られていたからか、夜のハナモゲラ座流星群を前にして世間は心なしか浮かれたお祭りムードだった。それは我が家も例外ではなく、当日になって準備を始める妹のせいであれがないこれがないと大騒ぎだ。一人で勝手に混乱しているのかよくわからない物まで鞄に放り込んでいるようで、天文の知識が無い俺でも天体観測に虫眼鏡が必要無い事くらいはわかる。
「御札は持ったか?」
「御札? あー無いから買いに行かないと」
「無いなら塩でも良いんじゃないか」
「待ってお兄ちゃん、それ何に使うの」
「夜の学校と言ったらなんか出るに決まってるだろ」
 少し茶々を入れただけなのに顔面に携帯電話が飛んできた。まだ通話途中だったらしいのに投げつけられたそれからは、部活仲間らしき女子高生の驚いた声が聞こえてくる。通話相手にはこちらの方が余程ホラーに違いない。
「あ、今日送ってってくれるんだよね」
 投げつけた携帯電話の回収がてらに確認をされたので頷いておく。バイクの後ろに妹を乗せて十分ほど走る、それだけでガソリン代の出るちょろいバイトだった。かつては無免許で廃車寸前のスクーターに乗っていた俺も、今ではちゃんと普通二輪免許を持って自分でバイトして買ったバイクに乗っている。エンストした時にも堂々と業者を呼べる。もう道端に盗難車を乗り捨てて歩いて帰る事も無いのだ。
「七時くらいに出るから、ちゃんと準備しといてね」
「随分集まるの早くないか」
 この数日間テレビで見ない日が無かったからか、俺もいつの間にかハナモゲラ座流星群の事は覚えてしまっていた。降り始めるのは午後十一時、そこから数時間に渡り流れ星は見え続け、見込みでは一時間あたり二千個を余裕で越えると言う。おまけに今夜の天気は全国的に快晴らしい。
「そりゃまぁ、色々準備したりご飯食べたり……」
「遊んでるうちに流星群終わってました、とかやめろよな」
 そんなんあるわけないじゃん、と言った妹はそのまま俺の愚痴を電話口の友人に話しながら自分の部屋へと戻っていった。友人が持ち物の確認をしてあげているのかは定かではないが、ひとまず我が家が平穏を取り戻したので良しとする。両親がもう少しおしとやかに教育出来なかったものだろうか。春休みの真っ只中な昼下がり、家にいるのは妹と年中休みな俺だけだった。
 ニートはニートなりに家事をする。そろそろ布団をしまってしまおうとベランダに出ると、なるほど昼下がりの今から既に雲は少しも見えなかった。田舎に比べて東京は星が見えにくいとは言え、この分なら多少は流星群の見え具合にも期待出来そうだった。どうせガソリン代を徴収するのだし、妹を送るついでに軽くバイクを走らせて夜風に当たるのも悪くない。
 長谷川とは結局ツーリングにもプラネタリウムにも行けていない。田舎の不便な生活に耐えかねた両親にとっていきなりの父の栄転、東京への転勤は渡りに船だったのかもしれないが、その分俺は色々な物を中途半端なまま置き忘れていく事になった。それを恨む気持ちは無いが、もしあのままあの田舎に残っていたらどうなっていたのかな、と「良い思い出」のパラレルストーリーを思い描いた事は一度や二度ではない。
 楽しんだ時間は、いくら後から思い出しても瞬間瞬間の劣化コピーでしか無い。
 ずっと自分自身で噛み締めている事だ。呼吸をして栄養を摂取しながら日々を無為に生きる俺は、本当に生きてるのだろうか。今を楽しめずに劣化コピーに縋る俺は、酒や煙草で背伸びをする事しか知らなかったあの時よりも更につまらない毎日を送っているのではないか。白いチョークは無いし、あっても何を描けば良いのかわからない。

       

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