Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 田舎で過ごす最後の春休みも終わりに差し掛かった三月。引越しももう間近に迫っていたある日の夕方、長谷川は脚立から飛び降りるなり歓声を上げた。
「完成だーっ!」
「おー、やっと完成したのか」
 週末に数時間ずつ、約五ヶ月をかけて長谷川は廃屋の天井に天文図を描いた。それがやっと今日完成したのだと言う事を、俺は長谷川に言われてようやく理解したのだった。長谷川が既に描いた星と星の間に一回り印を小さくして、或いは色を変えてまた新たな星を書き加えていく度、いつ終わるのだろうと不思議に思っていた。しかしそれももう終わりなのだ。見上げると、もう天井には星が描かれていない所などほんの少ししかない。さながら手製のプラネタリウムだ、と感心した。
「しかしこうやって見ると、まぁ、すげぇわ」
「でしょーもっと褒めろー」
 ニヤつきを隠せない長谷川が気味悪くクネクネと体をくねらせているのを横目で見ながら、俺は感想らしい感想が出せずにいた。中学生でこんなの出来るのは凄いだとか、やっぱり長谷川は俺なんかと違うなだとか、思い浮かぶその全ての言葉が相応しくないように思えて何も言えなかったのだ。
「……井手君の転校に間に合って良かったよ」
 少しだけ落ち着きを取り戻した長谷川の言葉に天井から視線を戻すと、長谷川は笑いながら俺を見ていた。プラネタリウムと長谷川の顔とを交互に見ているうちに、ますます何を言えば良いのかがわからなくなる。
 転校の話は、長谷川には一度も直接話していない。教室でクラスメイトと話す声は聞こえるだろうし、担任も来年度から俺がいないと言う事は終業式でクラス全員に伝えていた。それでも俺は直接長谷川に話す事は出来なかったし、終業式の後でクラスの女子に囲まれて質問攻めにあっている時にも、長谷川は席に座ったまま、昼間に見える筈も無い星を見るかのように視線を窓の外に向けていた。結局廃屋の外ではロクに会話もした事が無い。
「あー……なんつーか、ごめん」
「良いよ良いよ、学校じゃ話し辛かったでしょ」
 そう言って手をひらひらさせる様を見て、言い様の無い罪悪感に苛まれた。話そうと思えば両親に知らされた次の日にでも話す事は出来たし、実際学校でも廃屋でも顔を合わせているのだからその機会はいくらでもあった。引っ越してしまえば顔を合わせる事も無くなってしまう事もお互いに知っていて、それでも話す事が出来なかったのは何故なのだろう。それがわかっていたら俺はきっと最初から長谷川を変わったクラスメイトだとしか認識しなかった気がするのもまた変な話だ。
「明後日さ、夜にここ来て天井見上げてみようよ。灯り持ってきてさ」
 きっと本物のプラネタリウムみたいだよ、と、空気を入れ替える様に、努めて明るく長谷川は言った。その流れに乗らないといつまでも湿っぽくなってしまいそうだったから、俺も何とか笑顔を戻して頷いた。お互いに少しずつ無理をして、それでも何とかして良い形でこの廃屋ライフを終わらせたいと思っているのもお互い同じだった。たかだか十四歳に、他にどんなこれ以上のやり方があると言うのか。
 その日は明後日の夜、二人で夜にこっそり家を抜け出して来る約束を交わして別れた。夜が明ければその日はもう出発の予定日で、泣いても笑ってもお別れだ。最後の思い出作り、そんな単語を思い浮かべて嫌になって頭を振った。それでも現実が変わるわけはない。酒や煙草で抗って見せて現実が変わるわけないのだから、チョークで星空を描いたとしても同じ様に変わらない現実がただそこに在る。そして時間の流れに洗われるうちに角が取れて美化された思い出だけを抱えて生きる。
 それが嫌だ、と漠然とではなく明確に思える様になったのは、俺が長谷川と廃屋での時間を共に過ごして一つ成長したと言える点かもしれない。

 嫌だ嫌だと考えていると、全てを投げ捨てて逃避する癖がある。小さい頃、食べられなかった茄子が晩飯のおかずに入っている度にご飯いらないと言って大騒ぎした、と言うエピソードは今でも両親に話の種にされるし、延々とエントリーシートを書いているうちに腱鞘炎になって就職活動その物を放り投げたりもした。自分でも悪い癖だと思っているが未だに治らない。そういう自分が嫌だと考えているうちに、考える事その物が面倒になって投げ捨てるからだ。
 投げ捨てたまま拾い上げる事の無かった思い出は、十年の間にだいぶ時間の流れに洗われて美化されていた。楽しかった場面ばかりを拠り所にして、自分がやらかした場面と言うのはことごとく忘れている。それを思い出すきっかけになったのがあの日々に二人して夢中になっていた天体だと言うのだから皮肉な物だ。
 結局俺は約束の日、その大事な大事な約束をすっぽかして部屋の窓から雲一つ無い夜空を見ていた。どんな顔をして会えば良いかわからなかった、あの時の自分を問い質したらそう答えるだろう。
 まごう事無きクソ野郎だった。
「お兄ちゃん? ボーっとしてどうしたの」
 支度を終えたらしい妹が、干していた掛け布団を抱えたままベランダで立ち尽くす俺を不審に思ったのか声をかけてきた。いつの間にか穏やかな昼下がりだった筈の空色が、少しずつ夕暮れの朱を混ぜ込んで夜を迎えつつある。言い様の無い巨大な焦燥感が突然ボディブローを抉りこんできて、俺は体が芯から疼くのを感じた。
「送っていくの、中止」
「へ?」
 不思議そうな顔をする妹に冷えた布団を押し付けて、俺はジャケットとバイクの鍵をひっ掴んで家を飛び出した。バイクに飛び乗ってエンジンをかけると、慌てた妹がベランダから顔を出して叫んだ。
「どこ行くの!?」
「プラネタリウム!」
 それだけ叫び返してスロットルを一気にひねった。妹の叫び声はあっと言う間にエンジンの唸り声にかき消されて、そのまま俺は半ば前輪を浮かせる勢いで走り出した。体が熱い。手足が震えている。心臓は鼓動を速く打ち過ぎて死んでしまいそうだ。それで死ぬなら死んでしまえ。
 十年前のあの街に行く為には何時間かかる?
 あの廃屋が十年経っても残っているわけがない?
 そもそも長谷川がいるわけないだろう?
「うるせぇクソ野郎!」
 ヘルメットの中でくぐもった叫び声を上げながら、ひたすら速く走る事だけを考えた。今更あの廃屋に行って何になる、そんな馬鹿げた事をして何になる。十年の間に勝手に社会に洗われて、勝手にクールな顔をする様になった自分に腹を立ててもバイクが速く走るわけではない。いつかの夕方、後ろに長谷川を乗せて走ったオンボロの盗難車の方が全然速く走ってくれていた。
 ハナモゲラ座流星群なのだ。
 大事な約束なのだ。
 これを逃したら生きてる間にはチャンスはもう来ないのだ!
 禿げ散らかした学者のオッサンの言う事は正しかった。見る見ないじゃない、嫌でも現実は目に入る。それでも見なければ絶対に後悔する。そして大事なのは何を見るかより誰と見るかだ。
 跳ね飛ばすギリギリで人を避け、数え切れない程の車を無理矢理追い越し、信号を無視して交差点に突っ込んではクラクションの大合奏が背後で聞こえた。それでもアクセルを全開にして、速く、より速く。今日と言う日を逃したらまた死んだ魚の目で無為に過ごすだけの日々が待っているのだから、例え死んだとしてもブレーキをかける理由はどこにも無かった。
 頭で考えるよりも早く本能で高速道路に飛び込んでからは通行人を跳ねる心配が無くなった分、思い出した様に一気に堰を切って押し寄せてくる自責の念が敵だった。いつから長谷川との日々をただの思い出にしようとしていたのだ。大学生か、高校生か、或いは転校した直後からか。情けなくて涙すら流しそうだが、視界が邪魔されるのはマズいと脳がブレーキをかけたのか、涙腺の熱さに反比例して涙は少しも流れない。代わりに何があっても受け入れてやろうと腹を括り、その直後に料金所が目に入った。腹を括った結果、減速しなかったせいでETCのバーを体当たりで吹き飛ばした。料金が正常に払われている事を祈る。
 目的地へのルートを足りない脳味噌で必死に考え、体当たりの衝撃でふらつく車体を立て直しながら、俺は高速道路を最高速度で飛ばし続けた。空の色はもう黒一色になっていて、走り続けるにつれて少しずつ見える星の数が増えていった。

 廃屋のボロボロになったドアを半ば蹴飛ばす様にして開けると、長谷川は驚いて俯いていた顔を上げた。十年前そのままの姿で俺を待っていた長谷川は、いきなり飛び込んできたフラフラの不審者を若干怯えすら見える眼で見ていた。弱りきった肺で枯れそうな息を吐いている俺は、すぐには話し出す事が出来ない。呼吸が苦しくて仕方ないのだ。
「……誰?」
「井手」
 短く答えるのが精一杯だった。色々な物を中途半端なまま置き去りにした俺は、重荷が無くなったと言わんばかりに身長ばかり伸びた。そんな物なんの意味も無いのだ。脚立を抑えながらチョークを走らせる姿を見守って、盗難車で退屈な田舎の街を走っていた十四歳の俺に比べれば、見てくればかり取り繕うとする今の俺は酷く格好悪いだろう。長谷川がわからないのも無理はなかった。
「えーと、背、伸びた?」
 一昨日そんなだったっけ、と困惑を隠せていない様子の長谷川に覚束ない足取りで近付こうとしたが、酷使した体が疲労の限界で崩れ落ちた。うつぶせに倒れこんで荒い息を吐く俺を細い手が揺さぶる。廃屋の床は十年前と同じように埃まみれでカビ臭かった。
「え、ちょっと、大丈夫?」
「平気、長谷川、灯り」
 テンプレートな外国人のカタコトの様に喋る俺にどこまでも困惑を深めていく長谷川だったが、しばらくしてガサゴソと鞄を漁り始める。ランタンと一緒にステンレスの水筒を取り出して、中身を注いで俺に差し出した。なんとか上半身を起こし、受け取って口に含むと温かさと共に全身に僅かに活力が戻っていく気がした。砂漠のど真ん中でオアシスを見つけた放浪者はきっとこんな感覚だったに違いない。
「ほうじ茶だけど」
「サンキュ、楽になった」
 もう外はとっくに陽が沈んで月明かりだけだ。廃屋の中まで充分な光は届いていない。ランタンのスイッチを入れると、懐中電灯よりも優しいほんのりとした灯りが二人を照らした。暖房器具などあるわけもない廃屋の中も光のおかげで少しだけ暖かみを増した気がする。それでようやく長谷川は笑った。十年前と何も変わらない、十四歳そのままの懐かしい笑みだった。
「なんでそんな死にそうになってるの」
「飛ばしてきたから。だいぶ遅刻したけど」
 平気平気、私もさっき来たとこ。そう言って長谷川はまた笑ったが、本当だとは到底思えなかった。時計や携帯電話は全部家に忘れてきてしまっている。今が何時なのかもわからなかったが、今こうして会えているのだからそれで良いと開き直る事にした。
 いつまでも倒れ伏したままじゃ格好がつかないと思い、体を起こしてなんとか胡座を組む。ランタンを挟んで向かいに座る長谷川と目を合わせて、二人で示し合わせたかの様なタイミングで同時に天井を見上げた。
 色とりどりのチョークで描かれた天文図は、夜中に光で照らしながら見ると本物のプラネタリウムよりも余程綺麗だった。光は弱い上にチョークで描いたから薄くて見辛いし、そもそも本物のプラネタリウムとは仕組みからして全然違うのだけれども。それでも俺が今までに見たどんな星空よりも綺麗だった。本物より偽物を選んだとしても、その偽物こそが価値のある物と言う事もあると思う。
「オリオン座くらいはわかる?」
 名前だけは知っていたが、実際どんな形かはわからなかったので首を横に振った。苦笑いを浮かべた長谷川は、指先で星座線をなぞる様に示しながら一つ一つ星座を解説し始めた。正直説明されても殆ど理解出来なかったが、細く長く白い指先がゆっくりと図形を描く、その動きを見ているだけでも満足だった。
「冬の大三角形の星の名前はわかる? ヒントはカタカナ」
「サイン、コサイン、タンジェント」
 パッと頭に浮かんだカタカナ三つの組み合わせをとりあえず口にしてみたが、どう考えても間違っている。ツボにハマったのか手を叩いて腹を抱えて長谷川は笑い続け、しばらくした後目尻に笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながらまた説明を始めた。本物のプラネタリウムではこんな風なやり取りは出来ないだろう。
 説明を聞き続けていると、夜空には俺が知っているよりも遥かに多くの星座がぎちぎちと詰まっている事を知った。よくよく目を凝らさなければ見えない様な小さな点でさえ図形の一角を為している。その一つ一つに名前があると言う事も知った。星の世界も思ったより窮屈なのだろうか。
 一つ、気になっている事があった。
「なぁ長谷川、ハナモゲラ座ってどれかわかる?」
「ハナモゲラ座?」
 まるで初めて聞くかのような反応だった。そんな反応が返ってきた事が意外で、思わず顔を見合わせる。
「今夜、ハナモゲラ座流星群って言うめちゃくちゃ凄い流星群が降るらしいんだけど」
「何それ初めて聞いた」
「十一時から降り始めて、一時間に二千個とか」
「それじゃ流星群じゃなくて流星嵐だよ。適当な事言って私の事試してない?」
 長谷川は悪戯っぽい目で俺を見る。けれどあれだけ大々的に世間が騒いでた本当の事なのだ。首を傾げていると、ランタンの明りが少しずつ弱々しくなっていった。やばい電池忘れてた、と長谷川が慌てた声を出す。そうして慌てたところで替えの電池があるわけもなく、ほどなくして手持ちの唯一の光源はふっと力尽きた。あちゃーと言う呟きと共に二人して項垂れる。窓から差し込む月明かりはこれから降り始める流星群に遠慮しているかのように弱々しく、どんな顔をしているのかもわからない。
「ごめんね、ちゃんと準備してなくて」
「違う、長谷川のせいじゃない」
「本当はどういう顔で会えば良いかもわからなかった。ランタンと水筒準備するだけでいっぱいいっぱいだったんだよ」
 それでもこうしてここに来たじゃないか、俺はそれすら出来ずに逃げ出したんだぞ。そんな言葉が喉まで出掛かって、けれど割れそうな喉はそれを言う事を拒否した。代わりに首を力の限り横に振ったけれど、この暗闇じゃそれが見えてるかどうかもわからない。
「本当にごめん、最後なのに」
 最後なのに。最後なのに。最後なのに……。
 鼓膜にこびりついて残響していくその言葉が、もう一歩も動く事が出来ないくらいに疲れきっていた体に最後の爆薬を仕掛けた。あとはそれに火をつけるだけで良かった。
「最後じゃない」
 暗闇の中では輪郭しか見えない脚立。部屋の隅に寄せて置いてあったそれは、ずっと抑え続けていたから目を瞑っていても登れる。体に鞭を打ってゆっくり立ち上がると、よろめく体と裏腹に視界はしっかりとブレずに世界を見ている。真っ暗闇の中で横に座る長谷川を見下ろすと、言いたい事は今度は勝手に腹の底から勢い良く飛び出した。
「最後じゃない!」
 そして俺は脚立に向かって思い切り駆け出した。一歩、二歩、三歩。理想的な助走と共に飛び上がると振り上げた左足がしっかりと脚立を踏みしめて、勢いをそのままに俺は駆け上がり、全力で上へと飛び上がる。そのまま重心を回転させると、あとは体が勝手にボロボロの廃屋の天井へと足を伸ばした。
 サマーソルトキック。
 飛び込んできたロシアのレスラーを蹴り返すアメリカ軍人が如く、俺は廃屋の天井を蹴り飛ばした。腐った木材と俺の足が激しくぶつかり、それをへし折る確かな手応えと共に骨が折れる嫌な感触がした。初めて俺は体が成長した事をありがたく感じた。当たり前だが着地には失敗して背中を強く打ち、肺の空気が全て叩き出されて呼吸が出来ず呻く。廃屋全体がミシミシと嫌な音を立てていた。
「何やってんの!」
 駆け寄ってきた長谷川に肩を貸してもらい、廃屋の外へと脱出する。ほどなくして廃屋は盛大な音を立てて崩れ、もはや家の形を為していない残骸の前で俺と長谷川は立ち尽くしていた。折れた左足が騒がしく痛覚を刺激する。ランタンも水筒も、五ヶ月かけて作り上げた天文図もみな下敷きになってぐちゃぐちゃだ。
 ハ、ハハハ、ハハハハハハ。笑い出した長谷川は数秒前まで屋根だったトタン板の上に仰向けになり、一層大きく笑った。足が痛くて立ってられず、俺もそれに倣って隣に仰向けになった。雲一つ無い夜空には本物の星がそれこそ天文学的な数だけ並んでいて、かろうじてオリオン座と冬の大三角形だけは見つける事が出来た。
「病院のベッドで寝てるとね、する事って全然無かったの。テレビはつまんないし、本を読んでも疲れちゃって」
 ひとしきり笑った後、長谷川は話し出した。五ヶ月の成果を台無しにした事を怒っている様子は無かった。俺はただただ長谷川の話に集中しようとした。痛みは依然として激しかったが、空気を読んだのか少しだけ落ち着いてくれていた。
「クラスメイトがお見舞いに来ても共通の話題とか無いから凄く気まずくって。病院じゃゲームも出来ないし」
「で、星ならみんな見れるかな、と?」
「そうそう。窓際のベッドにしてください、ってお願いした」
 星に詳しいクラスメイトなんて一人もいなかったけどね、と言って長谷川は少しだけ寂しそうに笑った。俺も結局最後までその「星に詳しいクラスメイト」では無かったから、生まれた若干の後悔を悟られない様に噛み潰した。
「もう一人ならずっと一人のまんまで良いやって意固地になってたら、あの日酔っ払いが乱入してきたんだよ」
「チョーク盗んだ長谷川もどうかと思ったけどな」
 小さく小突かれた。痛くはなかったが、それとは別に内臓の、特に心臓の辺りが一瞬大きく跳ねた。
「それでも、ただの暇潰しだった筈の事が急に楽しく思えてきたの」
 それを聞いてハッとする。あの日に酒を飲もうと誘ってきたのも、数多の軽犯罪を股に掛ける悪友だった。退屈な日常へのささやかな抵抗だと思っていた酒と煙草とバイク泥棒が、今こうしてこの瞬間に繋がっている。出来すぎた偶然だと小さく笑ってから、心の中で引越しの時にもしなかった感謝の言葉をありったけ送った。
「だから今、本物を眺めて初めて楽しいって思ってる」
 何を見るかより誰と見るか。いつもこの楽しさを感じているのなら、妹はまごう事なき天文部だった。どんなプラネタリウムよりも大きなドームに瞳を映写機にして、それで横に誰かがいてくれるのならばこんなに楽しい物も無い。冷たい夜風が吹き付けて、暖を求めると自然と手は重なった。十一時はもう過ぎたのだろうか。
 すっと、小さく夜空に流れ星の線が見えた。
 それを皮切りに、まるで花火かシャワーの様に次々と星が流れては消える。一時間に二千個どころか、夜空一杯に絶え間なく流れる星が一時間も続けば、きっと万は流れているに違いない。目の前の光景に圧巻されながら、何を話せば良いのか、言葉を懸命に振り絞った。
「本当は今日、俺は『最後』が嫌で逃げ出してたんだ」
 笑うでもなく意味を問い返すでもなく、うん、と長谷川は小さく頷いた。ずっとサボっていた涙腺が今更になって仕事を思い出して、流星群の白い光の束が滲んで帯になる。
「俺、またこっち来るよ」
「うん」
「ツーリング行こう。今度はパクったスクーターじゃなくてちゃんとしたの乗って」
「うん」
「プラネタリウムも一度行こう。思ってたより凄くちゃちいけど、きっと二人なら楽しい」
「うん」
 言葉を継ぐにつれて、声は掠れて震えていった。鼻水をすすり上げると冷たい空気が喉に刺さる。それでも手だけは暖かかった。
「これだけ星が降るなら、願い事も叶えたい放題だよ」
 冗談めかして長谷川が言う、その声も震えて聞こえたのは気のせいだろうか。もしそうなら、申し訳ないが俺が今まで生きていた中で一番嬉しい事だった。
「来てくれてありがとう」
 そう長谷川が言ったのを最後に聞いて、俺はゆっくりと意識の限界を迎えた。

 目が覚めるとベッドに寝ていた。消毒液の匂いが鼻につき、カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。左足はギプスが巻かれて吊るされていて、黒のマジックでデカデカと「心配かけんなクソ兄貴」と書いてあった。妹の筆跡だった。
「ご気分はどうですか」
 やる気の無さそうなオッサンがやってきて、白衣とバッジと聴診器でそのオッサンが医者だと理解する。まだ思考はちゃんと働いていないようだった。フレームの歪んだ眼鏡の位置を直しながら、医者は昼の暖かな空気が眠気を誘うと言わんばかりに欠伸をした。
「ここどこっすか」
「病院です。バイクで事故って運ばれたの覚えてませんか」
「いや全く」
 医者はポリポリと頭を掻き、俺がバイクでカーブを曲がりきれず盛大に吹き飛んだ事、数日間いびきをかいて熟睡していた事、その割に怪我は大した事が無い事などを告げた。左足は痛むかと聞かれたが、痛み止めの点滴のおかげなのか特に痛みはしなかった。
「いやーだいぶ無茶したみたいですね。バイクとか道の真ん中で爆発四散してたらしいですよ」
「マジすか」
 最高速度でETCをぶち破った事を思い出し、今頃家に連絡がいっているかもしれないと考えると憂鬱な気分になる。慌てて病室に駆けつけた家族は、いびきをかく俺を見て呆れると共に怒り心頭だったようだ。ギプスに残された妹の落書きがその片鱗なのだと考えると見るのが怖い。
「退院したらまた乗れますよね?」
「それは問題ないですけど、あんだけ派手にやらかしてまた乗るんですか」
「ツーリングに行きたいんです」
 医者は心底呆れた様子で溜め息を吐いた。俺の顔とギプスの巻かれた左足とを交互に見遣り、言葉が見つからない様子だった。医者だからと言っても馬鹿につける薬が無いのは当たり前だろう。自分でも甚だバカな事を言っているものだと思っていた。
「左足の骨折と全身打撲で済んだのは奇跡ですよ本当」
「奇跡っすか……」
 奇跡。あの夜の長谷川との事は、未だにハッキリしない脳味噌でも鮮明に覚えている。しかし俺は途中で事故って運ばれたのだと言う。一体どういう事だと言うのだろうかと考え始めると難しい事を考えるのが嫌になってきて、結局は俺が覚えてるならそれで良いやと思考停止に至った。クソ野郎ここに極まれり、だった。
「ハナモゲラ座流星群、見ました?」
「あーそういえばあの夜でしたね。凄かったですよ。流れた数が予報よりゼロが一つ多かったらしくて」
「ハナモゲラ座ってどこにあるんでしょうね?」
「さぁ? そういうのは星に詳しい知り合いにでも聞いた方が早いんじゃないでしょうか」
 会話が面倒になったのか、適当な返事をした後に医者は去って行った。残された俺はやる事もなく、カーテンを開けて窓の外を眺めていた。昼間に見える筈も無い星を眺めようとしても、やっぱり見える筈も無かった。夜になったら星を見てみようと思う。オリオン座と冬の大三角形はもう見つけられるだろう。

 退院した後、家族の反対を押し切って二台目のバイクを買った。ツーリングの約束は期限を設定していないから、なるべく早いうちに行きたかったのだ。長い事労働から離れているだらけ切った体にバイトは苦痛だったが、それはそれで目的に向けて生きていると言う実感が無かったわけではない。
 久し振りに跨ったバイクに乗って、向かう先は既に決まっていた。今度は最高速度で焦って走る事も無い。料金所をぶっち切る事も、カーブで無理な曲がり方をして事故を起こす事も無い。時間をかけてゆっくりと、何を話すかを考えながら目的地へ向かおうと思う。いないならいないで良い。思い出を後ろに乗せて走るだけでも、きっともうそれを劣化コピーだと思う事は無い様な気がしたからだ。
 季節が流れるのは早い。少しずつ暖かくなっていく夜の空気を肌で感じながら、俺はキーを差し込み、ヘルメットを被った。

 初夏、満天の星である。

       

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Neetsha