第一部 『WORLD END』



「なあ、黒鉄、おまえどうしてまだ起きている?」
 このジジィなんてこと言いやがる、と黒鉄鋼(くろがね はがね)は思った。どうして起きているって? それが日本スーパーフェザー級チャンピオンと9R打ち合って、2回のダウンを取られながらもニュートラルコーナーに帰ってきたボクサーに言うことか?
「会長、そんなひどいこと言われたら俺泣いちゃうんだけど」
「黒鉄、おまえ分かってないらしいな」
 白石会長はタオルで鋼の右まぶたから流れる血を拭いながら言った。
「いいか、おまえはもう二回ダウンを取られている。しかもインファイトで突っ込もうとしたところを王者のクロスカウンターで、だ。最初は4R、そしていま9Rでもう一度もらった。おまえはダウンし、そして立ち上がった。わかるか?」
「わからん」
「おまえは、倒れていなければならないパンチをもらったんだ。現代ボクシングの常識において、おまえは、KO負けしていなければならない。わしは、タオルを投げる必要すらないと思った。それぐらいすごいパンチだったんだ」
 白石会長は、鋼の目を覗き込んだ。
「棄権しよう」
 鋼は笑った。
「いやだ」
「そんなことはわしだって同じだ。だが、絶対に、精密検査を受けた方がいい」
「この、いま、スポットライトの向こうで俺のファイトに熱狂してくれてる客を置いてか」
「死ぬよりマシだ」
「死ぬより……」
「おまえは充分、よくやったんだ」
 白石会長は鋼の肩をがっしり掴んで、その身体の中のガッツごと揺さぶろうとした。
「わかるか? おまえが闘っているのは王座防衛回数七度の誰もが認めるチャンピオン、この試合でおまえを下せばベルトを返上して世界へ挑む男だ。おまえはその王者相手に9R打ち合った。この場にいる誰もがわかっている、おまえは強いと。たとえ負けても次のある男だと。王者が世界へ行った後、空位になった王座をめぐる決定戦におまえは必ず出るだろう。そうしてそこでベルトを獲るのは間違いなくおまえだ。だが、ここで死ねばそれも叶わん」
 会長の言っていることは、正しい。確かにもうさっきのダウンからこっち、現実感が希薄でいつ意識がぶち切れてもおかしくない。次にジャブでも脳天にもらえば失神するだろう。最悪、そのまま戻って来れない可能性もある。状況は、すでにそれぐらいギリギリのところにあった。
 だが、鋼は思う。正しいことと、俺がやることは、べつだ。
 会長の手に半端に握られていたマウスピースをぱくりと噛んだ。
「黒鉄」
 阻もうとする老体をロープへ押しのけて、鋼は椅子から立ち上がった。向かいのコーナーでは王者がすでに立ち上がり、こっちを見ている。綺麗な目をしていた。
「黒鉄、おまえ」
 白石会長が、もう止められないと知りつつも、それでも最後に言葉を吐いた。
「もう死んでいるんじゃないだろうな?」
 もう死んでいる。俺が?
 鋼は振り返った。自分を育ててくれた恩師に、目で語る。
 それごと確かめてくるよ、会長。そして証明してやる。この島国で誰が一番強いのか。死人が王者になれるのか。
 確かめてくる――
 スポットライトに満ちたキャンバスに鋼は足を踏み出した。視界の端にちらちらするレフェリーに消えてもらいたくてしょうがない。
 ゴングが鳴って、レフェリーが手を振り、最後のラウンドが始まった。
 鋼は前に出た。突撃だ。毎日毎日殴るよりも走ったのではないかと思いたくなるほどのロードワーク、その果てに作ったこの両足でキャンバスをぶち抜くほどの猛ダッシュ。この10Rでまだそれほどの余力があるとはさすがに想像してはいないだろう、だが見てろ。これがこの俺、黒鉄鋼の一撃必倒、この長かったタイトルマッチのフィニッシュブローになるパンチだ。
 鍛えに鍛えた拳が描くその軌道の名前は左のスマッシュ。上下左右ではなく斜め下から打ち上げる拳。ボクサーは予期できないパンチに弱い。スマッシュの使い手はそう多くはない、この試合ではすでに二度使っているがたったそれだけでモーションを盗まれてたまるか。このダッシュとこのスマッシュでベルトはもらった。
 瞬間、時間が融解した。
 ゆっくりと流れる世界で鋼は確かに見た。
 自分の左が空を切るのと、
 少しだけずれた鏡合わせのように自分の腕の内側に沿って打ち下ろされてくる黒いグローブ。チョッピングライトに似ているがむしろねじりこみの急降下フックに近い。それがわかったところで今更もうどうしようもない。
 拳が迫る。
 拳しか見えない――


 ぐわしゃあっ……


 鋼の顔面に王者の拳が突き刺さった。衝撃でブーツがキャンバスを滑る。喉仏をさらすほどのけぞりながら倒れる。見上げるスポットライトが教えてくれる、自分がいま撃ち負かされたことを。モーションが盗まれていた。鋼は笑った。やっぱ強いや、チャンピオン。
 大の字に倒れた。これで負けたら気持ちのいい負けっぷりだと自分でも思った。レフェリーカウントは聞こえない。衝撃で耳をやられたか。いやそれどころか脳ごとイッたかもしれない。パンチをもらった時に確かに鋼は聞いた。自分の中の何かが切り替わる『ぱキッ』という音を。あれが死神の拍手じゃなかったといったい誰に言えるんだ?
 死ぬならリングの上がいいな、と後輩にこぼした自分の声がどこかから聞こえた。よかったな、お望みどおりの最期だぜ。最高じゃないか、この国の言葉を喋るやつの中で一番強い一三〇ポンドの肉体相手と三〇分近くパンチのやり取りをしたんだ。こんな死に方、ちょっとなかなかできないぜ? だが待て、もっと難しいことがあるな。それは、
 いまここで、立ち上がることだ。
 鋼は、立ち上がった。
 グローブを構え、両足でキャンバスを踏みしめた。自分でも何がなんだかわからない。立てるはずがない。ニュートラルコーナーでガッツポーズをしていた王者の顔色が変わっていた。鋼は笑ってみせた。どうだ、俺もちょっとはやるだろう。
 そして、レフェリーが鋼の両目を確かめて、リング中央から退いた瞬間、黒鉄鋼の世界は崩壊した。
 音はとっくのとうに消えていた。人をぎっしり詰め込んだホールのけものくさい臭いも、もうしない。口の中のマウスピースはどこかへ消えて、それどころか舌も歯もなくなっていた。空洞だ。鋼は空洞になった。最後に視界がやられて真っ暗になった。とうとう気絶したか、と自身でも思った。だが違った。
 闇の中に、グローブとブーツとトランクスだけが浮かび上がっている。見覚えがある。王者のやつだ。この三〇分間、俺をぶちのめし続けた男のグローブとブーツとトランクスだ。それがなぜ、闇の中に浮いているんだろう。いったい、王者はどこにいったんだ?
 浮いているといえば、こっちもそうだ。見覚えのある位置に代えの効かない愛用のグローブがあったが、そこから伸びているはずの腕がない。きっと見下ろせばブーツも空っぽで、内側の茶色い染みさえ見えるのだろうし、トランクスの中に穿いたファウルカップは、まだ自分に役目があるのだと勘違いしているに決まっている。
 どうなっちまったんだ、俺は。
 いきなり、黒い拳が飛んできた。うおっ、と声を出したつもりだったが、聞こえなかった。あわてて避けた。野郎、と思う。拳だけになってもやるってのか。いいぜ、それならこっちだっておんなじだ。よくよく考えれば、こんな闇の中でも拳があればボクシングはできる。
 両手足の感覚だけはいつもと変わらなかった。ダッシュして、ボディのありそうなところに拳を叩きこむ。同時に王者の拳を自分のボディがあったところにもらった。相撃ちだ。
 光が弾けた。
 殴ったところを砕けた雪のような輝きが散って、一瞬、グラスファイバーのように透明な人間のかたちが見えた。なるほどパンチ当てれば相手が見えるということか。鋼は思った。見えてるうちに連打にもちこませてもらうぜ。さすがに動く首から上は不可視じゃちょっと当てにくい。こっちもひとつもらった脇腹が光って痛むが、いまはそれどころじゃない。
 だが、王者のブーツはバックステップを取って距離をとった。アウトボクサーで鳴らした王者のこと、しかも二度のダウンを取ってもはや判定上では絶対に負けはしないのだからハイリスクのインファイトになど持ち込ませはしてくれないだろう。そんなこと四回戦のグリーンボーイだって知ってる戦略だ。何も間違っていない。だがボクシングは、人間を殴り倒すスポーツだ。俺はけものの流儀でやる。
 王者は左のストッピングジャブで距離と防御を固め、そしてあわよくば右のストレートでワンツーパンチを狙って来るだろう。それを掻い潜って拳を叩き込まなければこちらに勝ち目はない。あと何秒残っているのか知らないが、せいぜい三十秒といったところだろう。はっきり言ってストッピングジャブで牽制してるだけでも王者は勝てる。決して突っ込んできてはくれない。
 それさえわかれば充分だ。
 ブーツにガッツを注ぎ込む。あとちょっとだけ持ってくれ。一瞬でいい、俺に時間を貸してくれ。
 ボクサーの拳は見えるよりも速く飛んでくる。だからそれを掻い潜るには、それより速く突っ込むしかない。何もかも読み切って、何もかも賭け切って、突っ込む以外に道はない。
 ぴく、と拳を動かすふりをした。
 次の瞬間にはもうダッシュ、カウンターでもらえば左のジャブでも自分は死ぬだろう。

 ぶわっ

 不可視の髪が総毛立つ感覚。拳の動きに釣られた王者の左が鋼の頭上を吹っ飛んでいった。
 掻い潜った。
 拳の感じを確かめる。渾身の力を込めるのは一瞬だ。撃ち込む瞬間だけでいい。全身の筋肉の繋がりを感じる。自分の中に無駄なものが何一つとしてない。練りに練ったエネルギーが右に凝縮される。いまの鋼は一発の拳に過ぎなかった。他には何もなかった。
 外すなよ。
 笑って、鋼は、利き腕のスマッシュを発射した。
 光が、弾けた。


 わああああああ――――
 わああああああ――――
 わああああああ――――


 ああ。
 雨が降ってる――……