第二部 『LOSS TIME』


 それは、一本の擦り切れたビデオテープだった。
 引っかき傷のようなノイズが走る中、ひとつの椅子に白衣を着た男が座っている。その顔はやつれ、肌は象のように乾いて灰色がかっていた。目は頭蓋に吸われているように落ち窪み、瞳だけが消滅を拒む熾火のように燃えていた。
 男は、こちらを見ずに、しゃがれた声で語り始めた。
『私がこのざまになったのは、一九九七年の夏に責任があると思う』



 ○


 もう、だいぶ前のことになる。
 私が大学院でくすぶっていた頃、ドラッグでショック症状を起こした女を助けてくれと友人から電話で頼まれたことがあった。私はその夜、教授に頼まれたくだらない資料の作成と専門分野とは髪の毛一本程度しか関わりがないどこぞの博士が雑誌に投稿した英語の論文の翻訳に追われていて、つまり半狂乱になっていた。私はがなり立て続ける携帯電話から耳を離した。女がクスリで死にそうだ? 混ぜ物をしているからそれがよくなかったのかもしれない? そんなことは私の知ったことではなかった。薬学部の連中か、構内で大麻を育てている馬鹿にでも聞けと言いたかった。私の専門が神経学で、それが法学部の彼にとっては魔法と同義のブラックボックスだとしても、科学者は万能ではないし、ましてや私はただの学生に過ぎなかった。私が行ったところで何もできやしない。だが、私はもうそれ以上、履き間違えたソックスのように見るに耐えない文献に一秒だって触れていたくなかった。それに友人のトラブルに興味もあった。なかば野次馬気分で、私は寮を出た。一応、いつか映画で見たように、アドレナリンの注射だけは持参して。



 自転車を飛ばして友人の部屋に行くと、あれだけ騒いだくせに呼び鈴を鳴らしても誰も出てこなかった。蹴破ってやろうかと思ったが、ドアノブを握るとあっさり回った。私は安い木製の扉を肩で押すようにして部屋に入った。
 驚いた。
 何度も遊びに来たことのある六畳一間のその部屋が、一面の赤に染まっていた。昔からスプラッタには怯まない性質の私ですら少し息を呑んだ。柱に付着した血液を指で掬うと、まだ暖かかった。
 一歩進んでみると、友人が壁際にもたれかかって事切れていた。首がほとんどねじ切られていて、そこから血が静かに流れ落ちていた。どうも私にはその首の捻られ方が、人の指によるものに見えたのだが、その時はそんなことはありえないと咄嗟に思った。視界の端に血塗れのライダーグローブが落ちているのが目に入った。それを拾って、そしてその部屋に最初からいた、すやすやと嘘のように眠っている女を見た。女は鼻血を出してはいたが、生きていた。
 それがKとの出会いだった。




 私はKを自分の部屋へと運びこんだ。そして彼女の意識が戻るとすぐに彼女を質問攻めにした。いったいあそこで何があったのか、なぜ友人はあんな風に死んでいたのか、君はどんな混合ドラッグをキメたのか、そしてなぜあんなところにライダーグローブが落ちていたのか。どうしてライダーグローブなんかに拘ったのか、私にも分からない。直感と言ってしまえばそれまでだが、その時の私の脳も何かの拍子で妙な揺れ方をしていたのかもしれない。
 私はいきなりKに殴られた。まったく予想していなかったからか、意識が飛びそうなほど気持ちのいい一発をもらった。鼻血を垂らしながらKを見上げると彼女は言った。
『トイレ』
 トイレなら仕方あるまい、と私は納得して、待った。Kはトイレから出てくると私のベッドシーツで手を拭いながら、世間話でもするように話し始めた。友人とKはたまたま行きつけのドラッグ・バーで出会って意気投合し、そのまま友人の部屋へと向かったのだという。そしてそこで友人がどこからともなく仕入れてきた調合法でブレンドしたドラッグを、一足先にKがキメた。
『あいつ土壇場でビビり出してさ、ひょっとしたらヤバイかも、普通のにしとこうか、なんて言い出して。血みたいな銭出して買ったクスリを混ぜられてからそんなこと言われてもね。面倒くさかったから、あたし先にヤッちゃったんだ。そしたら――』
 Kはシケモクを名残惜しそうに吸った。
『急に今まで感じたことのない、なんていうか、「じわっ」とした感じがアタマの中に広がったの。わかるかな、たとえて言うと、脳の中に他人の血を一滴垂らされたような?』
 わかるよ、と私が言うとKは不満そうに紫煙を吐いた。
『いや、絶対にわからないと思う。あの感じは』
 今では、彼女の言っていた意味がよくわかる。
 彼女は続けた。
『そしたらあたし、血ぃ噴いちゃって。びっくりして手で鼻を押さえたんだけど、そこからぽこぽこと泡まで出てきたのね。そのすぐ後かな、アイツがあんたに電話してたの。あたしはそれ聞きながら、あーこれたぶん死ぬなーって思ってた。そしたらさ、何をトチ狂ったのかアイツ、いきなりあたしの首を絞めてきたのね。たぶん自分の部屋でヤバイ人死にが出るかもと思って、焦ってわけわかんなくなってたんだと思う。クスリで死ぬ前に絞めて殺せば薬物反応は出ないとでも思ったのかな? なかなか悪くない考え方だけど』
 私もKと同意見だった。咄嗟の反応としてはアグレッシブで魅力的だ。ただ、正しくないというだけで。私は先を促した。
『で、首を絞められながら、視界一杯にアイツの顔が広がってさ。あー自分が最後に見るのはこんなしょうもない男の顔なんだって思ったら、カァッと来ちゃって。でも手には力入らないし、そもそも顔中が血やら泡やらでわけわかんなくなってたし、それで、見るでもなしに、床に落ちてたアイツのライダーグローブを見てたら、それが急に浮かんだの。ふわって。ああもうあたし死んだんだな、これは最後の走馬灯の代わりなんだなって思って、じゃあ滅茶苦茶やっちゃえって。あたし、その手袋を動かして、アイツの首を絞め返したの。そしたら』
 パン、とKは手を叩いて、くすくす笑った。
『死んじゃった。……信じる? こんな話。あたし、やっぱりもう駄目なのかな?』
 私はしばらく考えてから答えた。
『君はもう駄目だが、その話は信じよう』
 後で聞いたところによると、Kは私のその答えとその時の目つきで、私も終末的ジャンキーの一人だと思ったという。失礼な話だ。その頃の私はまだ、風邪薬だって滅多に飲んだりしなかったというのに。
 その日から、私とKの交流は始まった。



 どんな用事で会った時も、また何の用事もなくても、私はKにドラッグをやめろとは一度も言わなかった。そんなことを言っても無駄だろう、Kの人生には他に何もなかった。酒と男とドラッグとギャンブル。確かに脳神経学的に見ても脳を直(じか)に揺さぶるそれらよりも多幸的なものを差し出せと言われても私にはどうしようもなかった。愛? そんなものはまやかしだ。雨を歌った詩が、汚水を見上げて紡がれるものでしかないように。


 しばらくの交渉期間を経て、私はKと取引をした。彼女が望むドラッグを私が作ってやる代わりに、彼女は私の研究室の中でドラッグをキメる。その時に私は彼女の頭皮に電極を貼り付け、表面を流れる電流で彼女の脳を調べる。私はあの血みどろの惨死について知りたかったし、彼女はもう市販のドラッグでは満足できなくなっていた。私たちはいい協力関係だった。笑い合いさえした。


 それからの私は、初めて自分がやる『何か』に没頭した。
 空(くう)に浮かんだ手袋で、自分の煙草に火を点ける女の脳が、私の現実を喰らい尽くした。その脳(はこ)を開けて中にある秘密を暴き立てるまで、私はぐっすりと眠ることはできそうもなかった。好奇心という名の狂気が、私の血に流れる身に覚えのない情熱が、それを許してくれなかったから。



 ブラックボクシングという名称をいつ思いついたのか、正確には記憶していない。科学者たちには総スカンにされてしまいそうで恐縮だが、私は価値あるもの以外を記録するつもりは毛頭ない。名などどうでもいいのだ。気に入らなければ変えてくれ。重要なのはそれの本質であり装いではない。だが、私の思惑はともかく、ブラックボクシングという名称はKにとっては気に入るものだったらしい。「あたしはボクサーだ」などと言って握りも引き手もなっていないジャブを白衣の背中に喰らい続けて辟易したこの私が言うのだから間違いはない。



 大学院の研究室にある豊富な機材を無断借用して、私は自分の実験を進めた。調べてみると、やはり私の思った通り、Kの脳は、覚醒剤や幻覚剤などのある種のドラッグを摂取した時に脳の一部を烈しく発火させた。発火というのは、実際に燃えているわけではなく、そこの部分のニューロンが反応したという意味だ。
 それは前頭野にある言語を司るブローカ野と、側頭葉にあるウェルニッケ野だった。
 どちらも言語を司っている部位だ。ブローカ野は言葉を書いたり読んだりする能力を、ウェルニッケ野は言葉そのものを理解する上で働く神経群だ。二つは弓状の神経群を通じて接続しあっており、ブラックボックスをノックしている時、その二点が猛烈に発火した。私の予想では、発火するとしたら肉体を動かす運動野ではなかろうかと思っていたのだが、違ったわけだ。彼女は、脳が言葉を操る時に使う神経群を用いて、私の友人を死に至らしめたのだ。
 私はより彼女の脳を揺さぶることができるドラッグを作り求めた。誰にも頼らなかった。自分の手だけでやりたかった。私はあらゆる文献を漁った。薬理学や栄養学、生化学に果ては魔術や錬金術の本まで読破して、使えそうな記述とアイディアはすべて投入した。この時期が私の人生にとって最高潮の時代だったと言える。
 楽しかった。



 彼女の異能は、多岐に渡った。手袋を浮かしたあのサイコキネシス以外でも彼女の脳のブラックボックスは様々な能力を発現した。
 火炎、電気、風力、氷結、瞬間移動。
 だが、それらにはいくつか制限があることがわかった。まず彼女の念動力は手の形をした、中が空洞になっているものにしか反応しない。簡単に言えば手袋だ。彼女は手袋しか動かせなかった。投薬する幻覚剤を変えてみても――その頃にはもうそれはただの幻覚剤とは呼べない混合薬になっていた――ルールに綻びは見られなかった。これに関しては仮説の粋を出ないが私には自論がある。ブローカ野にはミラーニューロンと呼ばれる神経細胞群があり、そこは目で見たものを『模倣』する機能を有している、脳の中の鏡と呼ばれる領域だ。模倣というものは真似と違って、その目的や指向を理解していないと出来ない。階段を登っている人間を見て、その場で足踏みをし始めるものはいないだろう。きちんと階段を登っている人間の『意思』や『目的』を理解して模倣しているはずだ。階段を登るということを理解していなければ、人間はたとえ目で見た行動をトレースできても、その場で足踏みをして転んでしまう。
 模倣、という言葉を理解に置き換えてもいいかもしれない。そうした方がわかりやすいだろう。そして理解していなければできない、人間の動作はもう一つある。不随意筋にはできない仕事だ。
 それは身振り手振りといった、身体を使ったジェスチャーだ。
 諸君も人と喋っている時にジェスチャーでわかりやすく図や関係を補足することがあるだろう。手で自分が見たものの大きさや形を表したり、ものの動く流れを示したり。ああいった動きも自分が語る内容を理解していなければできないし、またそれを見てその意図を汲むのもまた相手側の理解がなければ通じ合わない。言わば肉体を用いて話す言語――ボディランゲージだ。べつに不思議な話じゃないだろう、どこの国へいったって挨拶する時には手を挙げたり、お別れの時には手を振ったりするだろう。それと似たようなものだ。
 あんな風に説明がてら手を動かしている時に脳のどこが発火するか知っているだろうか? それは運動野ではなく、言語野なのだ。
 つまり、Kに発現した手袋を動かす超能力は一種の『言葉』として出力されたものではないのだろうか? だから、言語的な『手』という媒体にしか反応しない。できないのだ。
 他にも、わかったルールはいくつかあった。発火能力は左手から、電撃能力は右手からしか発動できないことなどもルールのひとつのようだった。Kはよく左手袋に命じて煙草に火を点けさせていてはくすくす笑っていた。私は彼女をただの実験道具としか見ていなかった。だが、そうして楽しそうにしている彼女をわざわざ不快にさせたいとも思わなかった。


 私は常に考えるのをやめなかった。いつかKが言った通りに、私こそ病人だったのかもしれない。
 なぜ、脳の反応ごときが体外にある物質にまで影響を与えるのか? いったいそこにはどんな物理法則があるのか?
 私が最初に立てた仮説はこうだ。まず幻覚剤を投与された脳の中のブラックボックスがオープンになる。そして開かれた箱はまず共感覚能力(テレパシー)を外部へと出力した一種の励起状態になり、周囲の人間の脳と接続(シンパシー)する。そしてテレパシーによって通じ合った多数の人間は、ブラックボクサーが見ている『幻覚』を共有する。手袋が浮いた、とブラックボクサーがその脳の中の鏡に映せばそれがそっくり周囲の人間にも転写され、それは脳の中でのみ通じる真実となる。手袋は何の変わりもなく床に『ある』のに、我々にはそれがわからない。浮かんだように見え、そしてブラックボクサーが念じた通りにその手袋に首を絞められたものがいれば、その通りに首が絞まるのだ。私は、この初期段階の仮説を信じていた。だが、それは一つの実験によって否定された。
 私はKがブラックボクシングに耽っている映像を『大学で撮った映画だ』と詐称して親戚の女の子に見せてみた。その子は目を白黒させて言った、『すごい、本当に手袋が浮かんでいるみたい!』と。
 本当に手袋が浮かんでいるのでなければ、そんなセリフは出てこない。
 なぜならそこにはKはおらず、私も調合ドラッグを飲んでいなかったのだから。もちろんその子もだ。私は悩んだ。Kとの接触によって私にもテレパシー能力が目覚めたのか? だが私には手袋を浮かしたりその手でライターを点けたりなんていうことはできないままだ。ではブラックボックス能力が発動した場合、超広範囲に渡ってその感覚は共通のものになるのか? それならば、もうその『幻想』は『現実』と何も違わない。私たちがどうやっても認識できない『現実』にいったいどんな価値があるというのか?
 私はまたこの難問に苦しめられることになった。脳と外界、たかだか頭蓋ひとつを挟んだだけのその距離が私にはどうしても理屈で埋めることができなかった。脳は筋肉ではない。痛みさえ感じないようにできている。なのになぜ現実世界へ干渉できるのか?
 私は証明こそできなかったが、今ではこう思っている。
 つまり、『世界』にも『意識』があるのだ、と。ブラックボックス能力によって解放されたテレパシー能力はまず誰よりも先に『世界』と接続し、その神経群に発生した『幻想』を注ぎ込む。そして世界という『脳』はブラックボクサーの『脳』によって騙され、改変されている――
 私が興奮してこの話を聞かせると、Kは笑い転げて椅子から落ちた。そばにあった鏡を見ると、私は耳まで真っ赤になっていた。
 だが、たかが赤っ恥ぐらいで自説を下がらせる私ではない。



 そうして、そんな日々が一年も続いただろうか。
 そういう日が来るのは私にはとっくにわかっていた。
 Kが、死んだ。
 私がいつものように研究室の扉を開けると、彼女が『手術台』と呼んでいた寝台にKが座っていた。俯いたままぴくりともしなかった。私が手を差し伸べて頬に添えると、まだ暖かい鼻血が私の手に染みついた。手首から、まるで私のもののように滴り落ちる血液の澄みきった音を、私はしばらく聞いていた。彼女の手元には、私の知らない注射器と、私の興味を惹かない安物のドラッグの粉末があった。
 私がこのざまになった馴れ初めは、これで全部だ。


 ○



 そこまで語り終えて、男はようやくこちらを見る。
『そして私は、Kが死んでからも研究を続けた。たったひとりで』
 白衣のポケットに手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。映像の中で、それは何かの爪のように見えたけれど、目を凝らせば透明な外殻に覆われた、赤茶色の液体だということがわかったかもしれない。白衣の男はチラチラ輝くそれをかざして、目を細めた。
『綺麗だろ?』
 その眼差しは、海岸で貝殻を見つけた少年のように澄んでいた。


『ブラックボックスの励起剤だ。名前はアイスピース、と決めた。氷の破片にしては服用しすぎるといくらかちょっと寿命が縮んでしまうが、そんなことは大したことではあるまい。いまの私の有様を見て、この代謝機能のほとんどを失った身体を見て諸君は思うかもしれない。ああ――哀れだ、と』


 言って、アイスピースを握り締め、
『だが、たかが私が一匹死ぬからといって、私のこの研究成果をドラッグ扱いするのはやめてもらいたい。これは断じてドラッグなどではない。脳を揺さぶりこそすれ、これには快楽を惹起する力もなければ、依存性も、脳機能の低下もない。ただ寿命が縮まるだけだ。それ以外にも副作用があるにはあるが、決してそれは快楽には繋がらない。繰り返すぞ、これはドラッグなんかじゃない。Kを殺したあのくだらん安物と同じにされては、この研究成果が可哀想だ』
 掌を開き、軽く汗をかいたそれを、男は口に含んだ。まっすぐ前を見て、噛み砕く。
 ぱキィッ
 男の口元で、砕けた氷の小さな花が咲いた。男の目の光彩が、内側から精巧な万華鏡を当てたようにその色彩を変えた。
 元からあったかどうかもわからない正気の気配が、消える。
 男は目を瞠ったまま、また白衣のポケットに手を突っ込んだ。ちゃらり、と音をさせて、そこから銀色のリングが現れた。小巨人のキーホルダーのようにも見えるそれには、鍵の代わりにグローブが引っかかっていた。ボクシンググローブとは違う、五指がきちんと分かれたエナメル質の手袋。右手は黒、左手は白。それがそれぞれ三つ、合計六つ。
 白衣の男がリングを振ると、ちゃりんとグローブが外れて宙を舞った。
 ひらひらと落ちていくはずの手袋が、止まる。
 男が呟くように言った。
『ブラックボックス……』
 夢見言のようなその呟きで、六つのグローブが膨らみと硬さを持った。
『映像処理をしているように見えるかね? そうではない、とわざわざ言うのも億劫だな。べつに私は信じて欲しいわけじゃない。信じたくなければそうするがいい。私は止めはしない、結局のところ、真実は私の中にあればいい』
 男の周囲をグローブたちが周回軌道を取り始めた。恒星を取り巻く衛星のように、ひゅんひゅんと。
『ここまで習熟するのに、だいぶ生命(いのち)を使った』
 男は嬉しそうに言った。続ける。
『Kが生きていた頃は、脳のブラックボックスをそれほど揺さぶれなかったからか、「手」は左右ひとつずつしか作れなかった。だが私のアイスピースなら六つまで作ることが可能だ。左右あわせて六つまで。白と黒の数は均等に3-3でなくてもいい――だが、六つとも左、あるいは右といった風なマウントの仕方はできない。同じ側の手は五つまでだ。一度に同側の手を六つマウントしようとすると、脳の中で七つ目をマウントしようとした時と同じ反応が起こる。つまり、オーバーロードだ。それがどれほど苦しいかは、初めて酒を飲みすぎた時のことでも思い返してくれ。恐らくこれが脳の限界ということなのだろう――いまのところは』
 男は足を組んで、顎に自分の拳を当てる。
『私はとうとう捕まえたのだ、脳の中の幽霊を。この私の未来とKの生命を犠牲にして。さっきも言ったが、私はもうすぐ死ぬ。そうでもなければこんなビデオを残したりはしない。たとえ悪魔と取引してでも、この研究だけは自分の手でやり遂げたかったが、それはもう叶わない。だからといってこの研究成果を、私の心臓の破片を、ただ風と塵にするつもりもない。だから私は、この研究成果を公開することにする。ただし』
 と、男は言った。
『私の研究を継ぐに相応しい数人の人間にだけ、だ。面識があるものもいる。論文を読んだことしかないものもいる。国籍も様々だ。諸君のことだ。私は諸君にこのアイスピースの精製式を引き渡す。――きっと驚くだろうな。その精製式の構成物は諸君らに馴染み深いものばかりだからだ。少なくとも科学者にとっては。だがまァ、元祖麻酔のエーテルだって、最初はパーティの時に使われる娯楽品でしかなかったのだから、不思議なことは何もない。今までそれらを重ね合わせた者がいなかった。それだけのことだ』
 白衣の男は、立ち上がった。
『胸を張っていい。諸君は私が選りすぐりにすぐった学問世界の人非人だ。恐らくこの研究を悪用しようとするものもいるだろう。恐れおののき国家に保護を求めるものもあるだろう。好きにするがいい。好きにすることこそが、科学発達の絶対条件だ。だが忠告するのなら、諸君、誰よりも先に「答え」へ辿り着きたまえ。それが他者を圧するたったひとつのアドバンテージになるだろう』
 男は画面から消えた。
『諸君らにはもう一つのビデオテープを贈ろう。各ブラックボックス能力について一つずつ私が実演してみせる映像だ。ここは手狭なので、実験室へ移動して、また録画を始めよう。では、それまで――』
 だが、映像はそこで終わらなかった。
 沈黙が流れる。回っているビデオカメラのスイッチに指をかけながらも、まだ何か言うべきことがあるのではないかと逡巡するような、そんな沈黙が。
 誰もいなくなった部屋、空っぽになった椅子だけが残ったそこに、男の声だけが降る。
『確かに今は、私のアイスピースは生命を喰らい尽くす怪物だ。それは言い逃れのできない事実だ。だが、私は信じている。いつの日か、これが己の心臓の破片などでなく、本当に心の欠片となって、誰もが気兼ねせず自由にそれを飲み、すばらしい力のとりことなって、新しい世界へと飛び抜けてくれることを。私は信じている。たとえ私が、もう、どう足掻いてもその新世界へは辿り着けなくても――私が斃れても、誰かが後を継ぎ、私が焦がれた夢(マスターピース)を掴み取ってくれることを』


 そこまで言って、男は笑った。
「私は、わがままだ」
 そこで、テープは終わっている。


 彼、……枕木猟輔に関する情報は彼の趣味嗜好からその思想に及ぶまで第一級のアクセスコードがなければ閲覧できない。
 たとえそれが誰であろうとも。
 たとえそれが実の娘であろうとも。

 後に起こることを考えれば、それは充分、呪いのビデオと呼べる代物だったのかもしれない。




 それは、一本の擦り切れたビデオテープだった。

 それは、世界で最初のピースメイカーの物語。
 それは、世界で最初のブラックボクサーの物語――


 ○


 現在では、枕木猟輔が撮影したもう一本のテープは現存していない。その代わりに後の特異研同士による実験(ファイト)のビデオが撮影され、ブラックボクサーにはそちらを視聴させることになっている。そして、そのビデオを見ることができるのはブラックボクサーだけではなく――
 黒鉄鋼が枕木涼虎に話した推測は、当たらずとも遠からずといったところだった。