Neetel Inside ニートノベル
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 天城玄一郎はクルマについて考えていた。クルマ、というのは玄一郎たちの世代にとっては成功の象徴だった。最初はボロでもいい、まずはクルマを買うことだ。大学生か、社会人になってからか、とにかく一台手に入れて、所有していない層から抜け出る。一層出たら後は少しずつ積み重ねていけばいい。一年経つごとに昇給し、昇格し、そしてクルマのランクも上げていく。玄一郎たちの世代にとって生きる、とはそういうことだった。成功していくこと。自分が間違っていなかったのだという証明を、休みの度に水で洗ってワックスをかけてやること。それが生きるということだった。
 だが玄一郎は最近思う。――どんなクルマにも価値はある、と。いや、べつにいま乗っている他人のクルマが自分のそれより三ランクは高級であることを羨んでいるわけではなく、本当に心からそう思っていた。玄一郎を取り巻く富裕層の人間たちが聞けば鼻で笑うだろう。それは弱者の論理だ、と。自分の中の『欲しい』を誤魔化すために、弱者はそれを欲しくないと思い込もうとする。それは仕事に生きるなどと吐(ぬ)かしてペットの犬に話しかける醜女の四十路と何も変わらないのだと。たとえば今、玄一郎の隣に座って真夜中の都心が瞬く光を浴びながら自分が今年何台の新車を買うつもりかを高らかに語るこのクルマの持ち主などは、絶対にそう言う。というか、日頃から言っていた。
「聞いていますか、天城さん。僕にはあなたが心ここにあらずに見えるのですが」
「聞いてるよ」
 そうですか、とクルマの持ち主――山口は頷いて、また自分の自慢話を始めた。その話には節操とか、遠慮とか、そういったものは欠片もない。玄一郎がクルマに詳しくないことを知っているのに(そう、知っているのに!)、コアでニッチなカーデザインの裏話などを平気で語り続けるその神経を一度根こそぎ切り取って天日干しにしてみたいと思う。案外すべてのシナプスが脳から切除されても生きているかもしれない。自分のことさえ考えていればいいのだから、それぐらいはできそうだ。
「天城さんも、クルマは年に三度は変えた方がいいですよ。できれば四度がいいですね、四季に合わせることができますから。四季の度に新車のシートに腰をうずめるあの感覚――自分がやってきたことが正しかったのだと感じられる一瞬ですよ。そしてこれからも、頑張っていこうという気持ちが湧き起こるんだ」
「昔のクルマはどうするんだ」
 と、今まで何十回と繰り返した同じ質問を、なかば喧嘩を売るつもりで吹っかけると、山口はニコニコして答えた。
「もちろん車庫にしまっておきます。そのための駐車場を自宅の地下に持つのは我々富裕層――社会の歯車の代表者としての当然のたしなみですからね。天城さん、クルマですよクルマ。人類の歴史は掘り起こせばグダグダと死に損ないのごとく長々と続いていますが、クルマの歴史はまだ若い。この素晴らしい文化的なアイテムと幸運にも巡り合えた奇跡をどうして堪能しないんですか?」
「私は、今の自分のクルマに人並みの愛着を持っている。それでいいんだ」
「そんなもの!」山口は鼻で笑った。彼は自分にそぐわない意見はすべて迷妄愚鈍の類だと思っているクチの人間だった。
「天城さん、それは違う。それは向上心を失っている証拠ですよ。人間の身体が新陳代謝を繰り返すように、心だってそうしなければ生きていけはしないんだ。多少食欲がなくたって朝ごはんを食べなければキチンとした生活は送れないでしょう? 無理をしてでも贅沢というものはするべきなんです。でないとすぐに」
 顎をくいっと振って、窓の向こうに広がる街を示し、
「あの連中と同じになってしまいますよ。社会の最下層で生きるクズどもにね」
 玄一郎は身体の奥で何かが燃えるのを感じていた。これでも正義感はある方だ――同じ人間をそんな風に卑下する山口を弾劾してやりたかった。だが、仮にいま玄一郎が真摯な口調で諭してもなだめても、山口は醒めた薄笑いを浮かべてこう言うだけだろう。――でも、あなただって助けないんでしょう、彼らを? そうだ、と言うしかない。だがそれは、玄一郎が稼いだ金をそのまま自分の製薬会社の運営資金に回しているからだ。国内で三指に入り世界でもトップ10にランクされる大企業のボスになっても、玄一郎はほとんど自転車操業でやっていた。それでもカネが、世間から見れば有り余っていることは否定しないが、山口のような人種と同じにされるのは嫌だった。言葉には、出せなかったけれど。
「まったくなんで生きているんだろうなあ、あいつら!」
 山口は混ぜ物をこそぎ落とした純金のシガーレットケースから煙草を取り出して深々と吸った。玄一郎が去年まで肺を悪くしていたのを山口も知っているはずである。ある意味で、徹底した男だった。
「僕だったら耐えられないな。欲しいクルマも買えずにカタログ眺める人生なんて――ふん、連中はやれカネがない、やれ運がない、というけど僕から言わせてもらえば甘えてるだけだな。子供なんだな――」
 そう言って、どこかの高級ホテルのマッチで気障ったらしく煙草を点け、深々と吸う山口の経歴は幼稚園から大学までエスカレーター、そしてその後は親の会社の重要ポストに本来の階級手順を五段は飛ばして収まったというもの。若い頃は煙草銭にも困った玄一郎からすれば、殴ってやりたいようなボンボンだった。その耳には富の象徴のような純エメラルドのピアスが嵌め込まれている。
「天城さん、いいディーラーならいつでも紹介しますし、なんなら僕が天城さんにふさわしい運命のクルマを見繕ってあげてもいいんです。忘れないでくださいね、いつでも遠慮なく、頼ってください!」
「わかった、わかったよ」
「わかってくれましたか――」
 話の接ぎ穂が途切れて。
 山口は少しウインドウを開けて、副流煙を街へと流しながら、そのセリフをとうとう言った。
「そういえば、息子さんはお元気ですか?」
 最高級ブランド『リベラーノ』のスーツの上に乗っていた玄一郎の拳が『めきいっ』と音を立てて鳴った。目を血走らせて、意味のない笑みを浮かべている山口を見る。
 そこまでか?
 そこまで馬鹿じゃないと駄目なのか?
 山口、おまえはわかっているはずだよな?
 俺の息子がくだらんクルマに憧れて交通事故を起こし(それはもう事故というよりは『犯罪』そのものだった)、人を二人殺し、他にも一人の重傷者を出したことを? ニュースで見たよな? 面と向かって話もしたよな? それでもなのか?


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 おまえはさっきまで俺の目の前でクルマの話をしただけでは飽き足らず、

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 舌の根も乾かぬうちに俺の息子について喋るのか?


 そう、どんなクルマにも価値はある。
 みずから他人を轢き殺そうとしないだけ、どこかの誰かのせがれよりかはいくらか上等なのだから――
 玄一郎は、血を吐くような苦しみに耐えて、沈黙を保った。だが山口は黙らなかった。
「僕にはわかるなあ、燎くんの気持ち。若い頃って、ほら、『一番』に憧れるものだから。だんだん大人になるとね、二番手三番手、まあそれでもトップ集団にいるだけでもタイヘンなことなんだなってわかるんだけど――まだ十七歳でしたっけ? いいなあ、若いなあ。僕も二十年前に戻りたい。天城さん、まだ燎くんをご自宅に?」
「軟禁している。外に出すわけにはいかないだろう、あんな事件を起こして」
「ま、しばらくはそうでしょうね。でも、もう一年近く経つんでしょう? 記事だって三ヶ月を目処にすっぱり切ってその後の取材もトピック掲載もなしって取り決めでお金、マスコミに支払ったんだし、そしたらもう時効だと思うなあ」
「山口くん、君は法学部出身ではなかったかな」
「え? そうですけど。いまそれ関係あります? だって可哀想ですよ。一番になりたかっただけじゃないですか。いま流行りの引きこもりとかニートなんかよりずっと高等で文化的な動機ですよ。それも殺すつもりはなかったんでしょう?」
 殺すつもりはなかった?
 まだ宵も更け切らない都心の道を二四〇キロでぶっ飛ばしておきながら?
「許して受け入れてあげるのが、親の務めだと思うけどなあ。いや、天城さんを責めてるわけじゃないんですよ? でもなあ、僕はどうも納得がいかないなあ。優しさってなんなんだろうなあ」
「山口くん」
「はい、なんでしょう」
「まだ、目的地には、着かない、のかね」
 山口が馬鹿で助かった。
 玄一郎は、子供のように頬杖を窓枠について、外を眺めていた。その目に今にもあふれ出しそうな涙が満ちていることに山口は最後まで気づかなかった。
 腕時計を見て、
「もうすぐですよ。ああ、楽しみだ。年甲斐もなく胸がドキドキしてますよ。僕もまだまだ子供だなあ」
「…………」
「きっと無趣味な天城さんも気に入りますよ。なにせ『あれ』を見られるのはごくごく一部の素性が確かな大物だけですから。僕や天城さんのような、ね。参加するだけでも箔がつきますよ。僕なんかあっちこっちから紹介してくれビデオ回してくれってもう散々ですよ。裏の件だから上流階級の中でも下っ端じゃ無理なんだよっていつも教えてやるんですけどね――天城さん? 聞いてますか天城さん。また寝たフリなんてしちゃって。駄目ですよ天城さん。もうすぐ着きますから、話したいことはまだまだ沢山残ってるんですから――」



「天城さん、着きましたよ」
 タヌキ寝入りのはずがいつの間にか本当に寝入ってしまっていたらしい。玄一郎は焦点の合わない目を何度もこすって喝を入れ、クルマから自分で降りた。
「ああっ! 駄目ですよ天城さん、運転手がドアを開けてくれますから。勝手に降りるなんて貧乏人みたいな――」
「いい」
 もうまともな文章を与えてやることすら億劫だ。仕事の関係上、この山口とは切っても切れない縁がある。玄一郎にとって山口を切ることは社員一千人のクビを切るのと同じだったし、それは向こうも同じだった。もっとも山口にとって心配なのは自社の社員のことなどでなく、クルマの買い替えが年四度から二度に落ちることだったのだろうが。そういうわけでこの気が合わない五十男と三十男の二人組はお互いに銃口を向け合っているがために、かえってあけっぴろげに交友していられるのだった。
 今夜呼び出しを受けたのも、山口の気まぐれだった。どうせまたセレブ向けの見世物にでも玄一郎を同伴させて話し相手にさせるつもりだろう、高級娼婦による本番アリのミュージカルとか、LSDをキメたピアニストの演奏とか。山口はこちらの仕事の納期のことなどまるで考えていない。自分の遊びたい時が誘い時、それでどうしてこの国の頂上近くまで登り詰められたのか玄一郎には理解しかねる。あるいは、もうこの国そのものが山口でも手が届くほどに落ちぶれているのか。
 今夜の見世物は、果たしてどんな悪趣味か。
 クルマから降りた玄一郎が見上げる高層ビルは、深夜零時の闇を無視して煌々と輝いている。
 運転手にぞんざいな態度でクルマを駐車場へ回すよう言いつけた山口が、子犬のような馴れ馴れしさで近寄ってきた。
「さ、いきましょう天城さん。こちらです」
 エントランスに入って、山口は慣れた態度で受付嬢に何かのカードを手渡し、それをカードリーダーで読み取った顔に傷のある受付嬢は笑顔でそれを返した。中央のエレベーターからどうぞ、と背後を指し示す。
 玄一郎は嬉々として歩を進める山口の背中に言った。
「いまの子、銃器を携帯していたようだが」
 セレブにもなると女性の脇に妙な膨らみがあるかないかくらいは気配で分かる。
「つまり、それほど重大でリスキーなイベントってことですよ」
 どうだか、と玄一郎は顔をしかめた。
 二人はやってきたエレベーターのケージに乗り込んだ。玄一郎が「閉」ボタンを押す前にドアが閉まり、ケージが上昇し始めた。脈拍よりも少し早く増えていくエレベーターの階数表示を見上げながら、玄一郎が言う。
「そろそろ教えてくれないか。今夜はいったい何の催しなんだ? 明日も仕事があるんだ、あまり年寄りに無茶はさせないでくれよ」
「大丈夫ですよ。この間みたいにスピードを食材に組み込んだ三ツ星レストランが待っていたりはしませんから」
「あれか。五十男にスピードを食べさせるなんて君は一体何を考えていたんだ。死ぬかと思ったぞ」
「バイアグラみたいなものかと思って」
 死ねばいいのに、と玄一郎は思った。
 山口はふむ、と顎に手を添え、
「ま、強いて言うなら映画鑑賞、ですかね」
「まさか」と玄一郎は顔を青くした。
「スナッフビデオ、じゃないだろうな」
 山口は笑った。
「どうですかね」
 ゆっくりと上昇が止まって、エレベーターのドアが開いた。その向こうはロビーになっている。観音開きの扉が開けっ放しになっていたが、その向こうはよく見えない。ほかに部屋はなかった。二人はケージから降りた。照明が絞られているために、お互いの顔もよく見えなかった。
「早くいきましょう。もう始まる時間です」
 うっかりすれば手まで引きかねない山口に連れられて、玄一郎は開かれた扉の向こうに足を踏み入れた。
 映画館のようだな、と玄一郎が思ったのも無理はない。そこは講演ホールのようになっていて、入り口から下へ向ってローマのコロッセオのように段々になっていた。席はほとんど埋まっている。
「こっちこっち」
 山口が座り、玄一郎もその隣に腰を下ろした。
「本当に映画なのか?」
「しっ、黙って」
 ステージの上で、なにやら人が動く気配がしていた。パッと照明が灯る。部分的に闇から切り取られたそこに、青年が立っていた。その背後にはスクリーンの幕が下ろされている。教師が使うような壇上にはノートパソコンがあり、彼はそれのキーを叩いていたが突然点いた照明にびっくりして顔を上げていた。まるで学生か何かのようだ。白衣を着ている。サラリとした髪は金色に染められ、顔には近未来的なフレームのないミラーグラスをかけていた。脇の暗がりに何か早口で言っていたが、聞き取れなかった。
 こほん、と咳払いして、金髪の青年が白衣の襟元に手をやった。おそらくマイクにスイッチを入れたのだろう。両手を広げて、話し始める。
「今夜はお忙しいところをこうしてお集まりしていただき、誠にありがとうございます。えー、今日はご新規さんが多いとのことですので、久しぶりに分厚い方のパンフレットを配っております。もう間もなくお手元に届くと思いますのでいましばらくお待ちください……」
 狙ったように、通路側から回されたパンフレットが玄一郎の手元に来た。薄暗い照明でわかりにくかったが、それは真っ黒で、クルマの教習本くらいの分厚さがあった。
 表紙には、金字で、
 BLACX BOXING
 ――とある。
(ブラック・ボクシング……)
「天城さん、前の椅子の背中のところにライトがありますよ」
 点けますか、とも聞かずに山口がそれを点灯させた。玄一郎は一応、礼を言ってそのパンフレットをめくった。助かったと思った。これでもうとにかく、今夜の悪趣味が何にしろ、山口の下らない焦らしには付き合わなくて済む。
 玄一郎は昔から速読が得意だった。だからその分厚いパンフをほんの二、三分で把握してしまった。そして、たった二、三分で十数年分の衝撃を受けた。
 思わず笑ってしまった。
「冗談だろ?」
「それが冗談ではないんですって」
「ありえない……私をからかっているに決まってる」
 山口は不思議そうな顔で答えた。
「そんなことして、何が楽しいんですか?」
 玄一郎は、――言い返せなかった。
 信じられない、というまなざしでまだ何も映っていないスクリーンを見下ろす。
 壇上の青年は「あれ、あれ?」と戸惑いながらノートパソコンをいじっていたが、やがてスクリーンに映像がパッと浮かんだ。だが、ほっとした風に肩を撫で下ろす青年のことはもう玄一郎の心のどこにも映っていなかった。
 するすると動き出した映像が、そのすべてを掻っ攫っていったからだ。



       

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