風が吹いている――


 といっても屋外ではない。そこは元々は核シェルターとして造られた場所だった。地平線いっぱいに鋼色をした都市がごつごつしたカーペットのように広がって、天井へと続く空(くう)は常に曇っている。触れたら吸い込まれそうな渦を巻く曇天の中には忘れ物のように稲光が瞬いている。天候制御装置が不可逆の破損に及んでしまった現在、もはやその人工の空が晴れることは永遠にない。仮にシェルターが内側から破壊されたとしても、崩れ落ちてくる土砂と施設の残骸が青空への道を一瞬で塞ぐだろう。


 気が遠くなるような長い年月を、空調設備に吸い込まれては吐き出されてきた澱んだ空気が渦巻く中、一際高い二柱のビルの上に生身で立っている人間が二人いた。一人は男で、もう一人は女だった。どちらも黒いタンクトップを着て、下は都市迷彩の野戦服。米粒ほどの大きさの相手と向かい合い、その指先には霜の張ったアイスピースが一欠片。
 二人のブラックボクサーが、それを口に含んで、噛み砕く。口元で咲いた氷の華が散る前に、二人のちょうど真ん中、騎士が持つような馬上槍に二重螺旋をめぐらせたようなモニュメントに黒雲の中から雷光がひとつ迸った。

 轟音。
 落雷。
 それがゴングだった。

 二匹のモルモットが脱兎のごとく駆け出し、その回る足がふわりと宙に浮き、後の機動をスプレイが根こそぎ引き取った。青い軌跡を曳きながら、眼下の都市が溶けて見えるような加速度で虚空へと飛び出していく。
 グローブホルダーから引き千切られた白と黒の拳が次々とマウント。氷殻に守られた二人のブラックボクサーは示し合わせたかのように馬上槍のモニュメントをめぐって相手と位置を入れ替えた。
 そして、制止。
 言うなら、ゴング直後、お互いの拳を合わせたかのような儀礼だったのだろう。
 弱火のスプレイダッシュで穏やかに二人、時計回りにモニュメントを旋回しながら、様子見のような沈黙を保つ。その周囲を衛星のように白と黒の拳が回る。だが、その白と黒の数には二人の間で違いがあった。
 男のブラックボクサーは白が三つ、黒も三つ。だが女の方は白が四つ。黒が二つ。二人の顔色には驚きのそれは見られない。お互いに、それぞれがマウントする白と黒が違っていても不思議ではないことを知っているのだ。
 そう、ブラックボクシングではゴング直前あるいは直後にマウントする白と黒の拳の数を自分で任意に選ぶことができる。ただし、一度アイスピースを飲んだ後にマウントした白と黒の内訳は実験中は変更不能。もし変えたければアイスピースが完全に脳から抜けるのを待たなければならない。



 炎の白(ひだり)か、雷の黒(みぎ)か――



 二人が、動いた。
 女のボクサーが黒をひとつ走らせた。といってもエレキではなく、軽い牽制程度の素のブロー。だが、それでも人間をかすめればバラバラにできる威力はあったし、ビルのひとつにでも突っ込ませれば易々と貫通してしまう威力はあった。そしてその威力がブラックボクシングにおいての最低攻撃力といってもよかった。
 黒のストレートを、男が白のパイロで牽制。黒はエサを狙っている野良犬のようにその鼻面を弾幕の隙間に突っ込もうとしたが、あえなく撃墜された。爆炎が立ちこめ、氷殻の向こうに守られている男の髪が振動で揺れる。鏡のような目に細胞増殖しているかのような煙が映り込んでいる。


 黒煙が晴れた。
 そして、来た。


 お返しにしては多すぎるほどの火球(ジャブ)の群れ――
 男は素直に逃げた。ダウンスプレイで下方へ回避。氷殻の上を冗談じみた量のパイロが飛び去っていった。男の黒の1番が巻き添えを食らって粉々に吹っ飛んだ。舌打ちをしてグローブホルダーから黒の4番を千切ってマウント。ビルの森に女のパイロ群が突っ込んで連鎖爆発が立て続くのを背中で確かめ、スプレイ。女の背後に回る軌道に乗る。が、向こうだって考えることは同じ。自分で撃ったパイロを追うような軌道で女がスプレイ。お互いを食い合う蛇のように、あるいは背面への攻撃力を持たない戦闘機のように、二人は周回軌道へと再び乗る。牽制の白(ひだり)の差し合いが続くが、どちらも見事なスプレイさばきで簡単には当たらない。
 立ち上がりとしては、この実験(ファイト)は穏やかな方だった。いきなりシフトやエレキをブッ放すやつもいる中、この男女のボクサーはしたたかなファイター同士だった。熟練しているというべきか、あるいはマニュアル通りというべきか。少なくともニュービーやパトロンに見せる映像を選ぶとしたら打ってつけなカードではある。


 見(ケン)――
 そして、動く。


 周回軌道から、男が外れた。
 それまでの中火なスプレイから一転して、一気に強火、直角に近い急転進で女から距離を取る。それまでみずからの周囲を円周軌道に乗せていた拳をぎゅっと引き寄せて、固めた。
 スタイルを取ったのだ。
 ボクシングにもオーソドックス、デトロイト、ピーカブー、サウスポー、あるいはガードなど様々な構えがある。それはそれぞれ一つの利点のためにもう一つの不利を背負うようなもので、要は「何を犠牲にして何を得るか」という思想の肉体言語。ピーカブースタイルなどは脇腹がガラ空きだし、左を遮断機のように下ろすデトロイトスタイルは接近戦に持ち込まれると思ったように左を撃てなくなる。
 ブラックボクシングおける『スタイル』とは、白と黒の拳の配置と軌道のことを指す。
 男が取ったのは、『ダイヤモンド』と呼ばれるタイプのスタイル。自分の氷殻を中心に、拳とひし形に配置する。あるいは自分の前後に二つの三角形を作ったと言った方がわかりやすいかもしれない。前の三角形の頂点には黒を配置し、残った二点には白を置く。うしろの三角形の頂点は逆に白を置き、脇を安い黒に固めさせる。
 このスタイルは白と黒を3-3でマウントするブラックボクサーの基本スタイルと言っていい。利点は前後方どちらもバランスのよい配置で、反転させただけでスタイルを簡単にスイッチできることだ。どんな時も黒と白をコンビネーションさせることができる――補充の利かない白が潰されなければ、だが。
 スタイルを取った以上、攻めにかかる意思があるということ。こちらには作戦があり、お前を潰そうと考えていて、そしてその準備はもうできている――その意思表示こそが、スタイル。
 女も、それに倣って単純軌道の輪から拳を寄せた。ただし、スタイルは『ダイヤモンド』ではない。『ダブルホーン』と呼ばれる型で、自分の前方に黒を二つ、けものの角のように配置し、残った四つの白はみずからの氷殻を守るようにぴたりと護衛につけさせる型。値段の安い黒をとにかく特攻させて本体は白の弾幕の中でガードを固めるというW4B2タイプのボクサーの常套手段。あまりのバランスのよさにW3B3を取る価値はないとまで言わしめた万能スタイルだ。その代わり、黒の消耗が烈しく、またエレキを撃とうとしても射出候補が限られて読まれやすく、一発逆転には向かない。また、ダブルホーンに限ったことではないが、W4B2は白を多くマウントしているために一度潰されると取り返しが利かず、ずるずると押し切られることも多い。
 もっとも、それを補って余りある魅力は、さきほどの火球のラッシュが見せた通りだ。
 スタイルを取った二人が、空中で睨みあう。


 一触即発――
 動いたのは、同時。


 男が前方の白二つからパイロの連打。だがその行く末を見届ける前にスプレイで緊急離脱した。そしてまるで示し合わせたかのように、男が寸前までいた空間を女のパイロが怒涛のごとく過ぎ去っていき、遥か下方の無人の都市で大爆発を巻き起こす。
 男の方のブラックボクサーにはわかっていたのだ。白(ひだり)の差し合いでは勝てないと。それは単純明快、数字の差だ。男は白三つ、女は四つ。もっともスタイルの関係で女は自分の背後にある一手以外の三手からパイロを撃っているわけだが、男の方も一つ背中へ放っているので二つで応戦しなければならない。
 新人ボクサーなら、ここで背後の白を前方へ回して火力を上げようとしたかもしれない。だが、おそらくそうした方がこの実験の敗者になっていただろう。それも一撃で。
 ブラックボクシングでは、予想外の攻撃、見えない角度から氷殻への攻撃が一番効くのだ。そしてその見えない角度はおおよそどこからが一番多いか。
 背後である。
 もし背後のガードを疎かにすれば、それがどちらが取った行動にせよ相手は必ずシフトキネシスで相手の背後を取る。あとはキスショットにしろ引き寄せたありったけの黒(みぎ)をぶち込むにしろご自由にどうぞだ。
 それだけで喰らった相手はクラッシュしてしまうこともありえるし、もし生き残っても一撃必倒寸前でその後の長い実験を闘わなくてはならなくなる。趨勢は決する。
 だから、背後から拳を回すわけにはいかない。自分で選んだスタイルを守り続けること――それが遠回りなようでいて、勝利へ続く長い道なのだとブラックボクサーは知っているのだ。


「――――!!」


 男のボクサーの顔に脂汗が浮いている。また一つ、二つと黒を撃墜されて、マウントし直す。安い黒を消耗しているのは女の方でも同じだが、向こうは少しずつ確実に氷殻へのパイロを当ててきている。アイスを震わせる小爆発は少しずつ、男を守る障壁に亀裂を走らせ始めていた。
 男が、少しうつろになってきた表情を苦悶で無理やり引きつらせて、スプレイを下方へ向けて撃った。ただでさえ低空に沈みこんできていた戦闘空域がさらに下がる。
 ぼっ、と空気を押しのける音を残して、男の氷殻が『ビルの森』の中へと消えた。
 素人の一般人がそれを見たら、有効な回避だと思ったかもしれない。ビルの森の中は入り組んでいるし、視界が悪い。体勢を整えるにはうってつけだと。だが、もしプロボクサーの誰かでもその光景を見ていたら、見抜いたろう。ビルの森へ逃げ込むのは不利だと。狭く、スプレイを存分に使えず、そして上空からは狙い撃ちされやすい。見晴らしのいい上空にいる方が不利に見えるが障害物がないためスプレイを心おきなく使えるし、高低の差を活かして真上からストレートかつ広範囲の爆撃がパイロで撃てる。森側は狭苦しいビルの隙間を縫って相手への攻撃ルートを探しつつ、なおかつ相手の空爆から逃げ続けなければならない。シフトを使えば簡単に脱出できるが、それは上空側も読んでいて死角への警戒を怠るはずがない。そもそも期待値の低い一手に貴重なシフト/エレキの弾を一つ要している時点で戦術としては二流もいいとこ。
 ボクシング風に言えば、ビルの森は『コーナー』だ。上手く使えば戦況をひっくり返せるかもしれないが、そのまま相手の猛攻に押し潰されてしまうことも少なくない――
 その考えが聞こえていたかのように、女のボクサーが少し緩めたスタイルから、白の猛烈な大爆撃を直下の都市へと敢行し始めた。化学的にやればどれほどの火薬が必要だったか想像もできない大爆発にシェルター内の都市がひとたまりもなく崩壊していく。都市側からも反撃のパイロが撃ちあがるが、女のボクサーはやはり何もない上空を機敏に動き回って相手の攻撃をさばいてしまう。そして反撃位置から逆算したおおまかな相手の潜伏位置へとますます烈しい火の雨を降り注ぐ――
 氷殻の中、女の横顔に、朱色の弧が引かれる。
 この時、女の方からはわかっていなかったろうが、空爆の余波でビルの森に潜んでいる男の白はすでに二つ潰されていた。この時点でほぼ勝敗は決している。単純な拳の数で言っても四対六だし、もっと緻密な勝率計算で言えば九割方、女の勝利に終わるはずだった。
 瞬間、


 爆炎の中から男がチラリとその姿を見せた。飛びかかってくるわけでもなく、ただ現れた、という雰囲気だった。女は悩まず考えず、ガードに回していた黒の二つのうち一つを男めがけて突っ込ませた。白を全弾投入してもまず勝ち切れるだろうが、何も鉄壁の布陣を壊すこともない。安い黒の一つを牽制で振って、それで終わればよし、駄目ならパイロの雨をまた降らす――それだけのこと。


 さあ。
 素のブローでももはや砕けるぐらいにヒビ割れているその氷殻に、とどめの一撃を――


 だが、撃てなかった。
 男の黒が、女の黒をがっしりと掴んでいた。ルール違反ではない。だが、意図不明な行動だった。黒を掴まれたからなんだというのか? 黒などチェスでいえばポーンのようなもの、取られていくらの捨て駒なのだ。たかがワンブローを的確にキャッチしたからといってそれがなんだと――
 そして。
 男の取った行動は、女の予想を超えていた。
 握手するように絡み合った黒二つ、その周囲に原子から引き千切られた電子の見えない粒がはじけ飛び、イオンが焼けるにおいが立ち込めて、男は相手の黒を掴んだ拳でエレキをぶっ放した。
 ほとんど瞬間移動じみた超加速だった。手袋の口を冗談みたいな推進力のノズルに仕立て上げた拳が、都市めがけて突っ込んでいった。男もその後を追う。
 そして、女のボクサーの氷殻が背骨も折れそうな吸引力と共に急降下した。めまぐるしく回転する視界の中で女は何が自分の身に起こったのかわかっていなかったろう。
 ブラックボクサーとマウントした拳の間には、射程距離がある。おおよそ一八〇メートルほど。それを超えてハンドキネシスを飛ばすことはできない。
 逆に言えば。
 ブラックボクサーがマウントした拳を一八〇メートルを超えて引っ張れば、本体ごと引っ張れるということでもある。
 おまけにエレキの推進力ならお釣りが出るほど充分形。


「――――――ッ!!!!」


 女が悲鳴を上げたかどうかはわからない。
 常軌を逸したジェットコースターのようなスピードで、女を覆った氷殻はビルを三つ斜めにぶち抜いて路面をしたたかに四〇〇メートル以上も削り取り、蒸気の白煙を上げてようやくなんとか制止した。女はよろよろと立ち上がった。その周囲に、やはり女に引っ張られて落ちてきた四つの白と一つの黒が隕石のように路上に激突、アスファルトに悪魔の爪痕のような傷を残してめり込んだ。
 しゅうしゅうと空気の焦げるにおい。ふらつく足元。かすむ視界。
 そして、もう待ったはない。状況は王手に入っていた。
 女の氷殻を真横から、見知らぬ誰かの白(ひだり)がパイロの無制限連射(フルオート)でぶっ飛ばした。情け容赦のないラッシュだった。凄まじい轟音の中、眼前で分裂的に増えていく爆発から女は、まだ混乱の抜け切っていないアタマでなんとかスプレイをかけて離脱。自分の拳を衛星軌道に乗せて回収し、とにかくその場から、敵の火の手から逃げようと手近にあった路地に逃げ込んだ。
 そして見た。
 狭いビルとビルの隙間、見慣れた「止まれ」のすぐ上に、見知らぬ誰かの黒(みぎ)がふよふよと浮かんでいるのを。
 ひくっ、と引きつる女の口元など知らぬげに。
 黒が『めきり』と拳を形作る。
 ――女がシフトキネシスを発動するよりも、その黒手の方がぶっちぎりで速かった。











 刃金色の都市の中、稲妻の落ちる音がした。