Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 炸裂弾のような白(ひだり)だった。
 氷殻をノックする細胞分裂じみた爆発の衝撃が脳にまで伝わる。イオンチャンネルをぶち抜いて伝達した活動電位/インパルスが苦痛と恐怖の結晶を造り出し、発汗と動悸を促進する。氷殻に亀裂が入っていくのを視覚が掬い取ってその情報がまた焦燥と嫌悪に繋がっていく。割れた。スプレイダッシュで後方へ逃げ延びながら氷殻の第一層を再展開。お試し期間/モラトリアムを終えたブラック・ボクシングでは第一層など鼻血が出るくらい簡単に割れる。爆煙から足掻くように脱出。黒い幕が晴れるとそこにはやはり剣崎八洲の白(ひだり)があった。
 四度目のスパーリングだった。
 痛むアタマを左手でさすり、黒鉄鋼は片目で相手を見上げた。
 八洲は相変わらず、氷殻を張った自分の周囲に黒(みぎ)をひとつ衛星(ガード)にしてぐるぐる回し、その軌道とちょうどバッテンを組む形/ラインで半径を広げた白を五つ周回させながら、鋼鉄の都市を睥睨している。W5B1の高火力と鉄壁の防御力を誇るスタイル・『キングダム』は依然として瓦解する気配すら見せずに、もうラウンド2だった。それでも今まではラウンド1でKOされていたことを思えば、鋼は充分戦果を挙げているとも言える。少なくとも真っ向から白の差し合いを挑んで八洲と自分の間にある圧倒的なブラックボクシング技術の差を露呈するだけの内容の練習はもうしていない。
 小刻みなスプレイダッシュを連続してかけ、回転する五つの白から不規則に降り注ぐパイロをかわしていく。背中で幾柱ものビルが倒壊していく轟音と振動を聞きながら、檻の目のような白を掻い潜るルートを探す。鋼は思った。
 無理そう。
『諦めるの早っ!』
 脳内で少女の声がツッコミを入れてくる。
『だってあいつ手加減してくれないし』と鋼。
『コドモかおのれはっ! ……それに手加減なんてされたら火が出るくらい怒るくせにぃ』
 鋼は笑った。
 よくわかっていらっしゃる。
『とにかくクロガネくん、白を多くマウントするW5B1とかW4B2は遠距離から黒を湯水のように使って各個撃破を狙っていくのがセオリーだから、そんなに自分から近づこうとしなくていいよ』
 それは確かにその通りなのだ。補充の利かない白はひとつ潰せばそれだけで値千金のリターンがある。ゆえに長期戦で白をチクチクと潰して相手を丸裸にさえすれば、新米の鋼でも先輩の八洲を真正面から撃ち砕くことは可能だ。
 だが、ここでもやはり、
『黒(みぎ)がな』
 鋼はぼやいた。
 相変わらず引き攣るような違和感が黒に絡みついていた。まるで知らない誰かがぴったりと黒の拳にまとわりついて、鋼が望まぬ方向へ拳を引っ張っているようなまどろっこしさ。ある程度、黒を至近距離に置いておけばいくらか緩和されるのだが、そうすればするほど戦闘空域が近くなり鋼自身の被弾率も跳ね上がる。
『でも、それだけじゃないでしょ。また懲りずにキスショット狙ってるでしょ。ルイお姉さんはあんまりオススメしないなー。いくらダメージが第三層のアイスに達したらこっちで自動転送(サルベージ)するって言っても、その前に三層ごとクロガネくんが砕かれちゃったら助けてあげられないからね? あたし《死ぬ》のはあんまり感じたくないなあ』
『死にたくないのは俺もだよ。……あ、やべっ』
 八洲がダッシュをかけてきた。それに伴い護衛の白が周囲に網目のような炎の弾幕を張った。瞬間的にガードした黒が二つ撃墜。鋼は目をすがめ、状況を全体像から掴もうとする――弾幕のところどころに狙いどころに見える隙間がチラついているが恐らく陽動だろう。とはいえその中に本物の隙が紛れている可能性もあるにはあるが、鋼にはその区別がつかない。撃ち込めばカウンターを喰らい、逃げればますます攻め込まれる。ビルの森はもうすぐ足下まで迫っていた。だが望むところだ。接近戦で黒の精度を上げつつ白を潰す。そのセオリーそのものに異論はない。
 身を捻って左手でホルダーから黒の手袋を二個千切りとって空にばら撒き充填(マウント)する。六つの拳を自分の前方に扇状のフォームで並べる。
 スタイル・『リベリオン』。
 後方へのガードを捨てた攻撃特化の構え。徹底的に自分を守る『キングダム』とは正反対のスタイルだ。だが真逆なのはナックルのポジションだけではない。その内容もだ。
 鋼の手札(カード)は、独創的かつ捨て鉢気味なW1B5。
『白が一個だけなんて、無茶だと思うけどなあ』
『いいんだよこれで。さァ――いくぜいくぜいくぜいくぜいくぜいくぜいくぜ?』
 子供の落書きのような軌道でスプレイダッシュ、弾幕の中へと身を投じ、ありったけの黒を八洲の白めがけて飛ばした。拳たちはまだ鋼を信じきれないとでも言いたげにハッキリとしない動きを見せたがそれでも前へは飛んでいく。ほとんどパイロと相殺されながら鋼はどんどん黒を補填していく。嵩んだ負けに溺れたギャンブラーのようにほとんど手を止めずに黒を注ぎ込む。
 特攻の末に、いくつかの黒が白に肉薄した。鋼は迷わない、スプレイダッシュで自分から相手の火弾に突っ込んでまで距離を詰めた。虚空に浮かぶ拳にまとわりついた不協和の糸が少しだけ解ける。ほんの、ほんの少しだけ。
 それで充分。
 もっとも八洲の白に近かった黒の双拳を重ねた。八洲の黒が支援に向っているが危急の白を助けに来るには一秒ほどかかるだろう。遅すぎる。
 喰らえ。
 タイミングを誤魔化した双拳が左右に分かれて噛み合うようなシザース・フックを繰り出す。どちらか一発でいい、芯に捉えれば向こうの白は死ぬ。その自信がある。
 そして、珍しいことに、あるいは鋼がそれだけ接近していたのか、二つの拳は狙った通りに噛み合って、八洲の白を左右から八つ裂きにしてみせた。手袋の断片が虚空に舞い、役目を遂げた黒の拳が歓喜の滑走に入り、鋼の口元にうっすら笑みが浮かびかけた時、衝撃が来た。
 真上から来た。
 脳天にハンマーで杭を撃ち込まれたような気分だった。鋼の意識が一瞬飛んだ。我に返った時にはもうビルの森に顔面から突っ込んでいった。居住用のそれの床を十二層まとめてぶち抜いて地面に激突した時にはもう、そこには瓦礫しかなかった。
 ルイの呼ぶ声がする。
 答えてやれる余裕がない。
 その余裕がどこへ向かっていたかというと八洲の取ったアクションに注がれていた。頭上からの強打。間違いなくシフトキネシスからのキスショットだろう。W5B1は黒の数が少ない。そのためエレキを使わずともパイロのみで試合を有利に進めていくことができ、他のラインナップよりもシフトに自由が利く。くそ。
 その場でスプレイを三六〇度全方位にぶっ放して周囲に立ち込めていた砂塵を払いのけた。視界が晴れる。そして見た。
 嘘みたいな数で、天から降り注ぐ火の粉の雨。
 世界の終わりのような、その光景を。
 鋼は一瞬で決断した。本体に釣られて墜落していた黒五つを掘り起こしてガードに回し、雀の涙ほどの抵抗をたったひとつの白(パイロ)に任せた。激震と爆発が何もかもを埋め尽くした。苦痛と恐怖の中で顔の前に掲げた左腕の時計の文字盤が目に入った。
 あと三十二秒。

 ○

 それにしても、
「――ひっどいやられっぷりだなァ」
 金髪の男の軽口に白衣の女が眉をひそめた。
「殊村くん、頑張っている人間に対して口が悪いですよ」
 モニターから溢れる青い影に満たされた転送室の中に、涼虎と殊村がいた。二人だけだ。涼虎は相変わらず黒ウサギのスリッパを履いて白衣に身を包み、ポケットに両手を突っ込んでモニターを見上げている。その脇に控えるようにして、殊村がどこから持ち出してきたのかパイプ椅子に深々と座って足を組んでいた。偉そうである。
「だって一方的じゃないか。実戦形式でスパー始めてからずっとこれだよ? 僕がジャッジなら止めるね、この試合」
 パイプ椅子をぎしぎし鳴らして、
「やっぱり無謀なんだよW1B5なんて。普通に初心者(ビギナー)はW4B2で、あとあとスタイルを変えるにしろ基本的なセオリーから身に着けていくのが先だったんじゃない?」
 べつに悪く言いたいわけじゃないんだけどとでも言いたげに肩をすくめて、
「補充できる黒を多く使えば長期戦向きに見えるけど、実際は逆だ。潰された黒の補充は気圧や水圧みたいなもので、下へ行けば行くほど、数字を重ねれば重ねるほどブラックボクサーにかかる負担は大きくなる。対して白は補充こそ効かないけどパイロはほぼ制限なしで撃てるし、その攻撃力も制空力も圧倒的。ある程度の補充ならともかくW1B5で待ったなしに黒を湯水のように使うなんて、まるで苦行だね」
「苦行――」
 ぽつりと、雫が滴るような涼虎の呟きを殊村は聞き逃し、
「彼に任せずこっちでスタイルを組んであげた方がよかったんじゃない?」
「そうしようと思ったのですが、頑として譲ってくれませんでしたし、一応ルイとは相談していたみたいなので、許可しました」
 それに、と涼虎は続ける。
「たとえ勝てなくても、生き残ってくれさえすればいいとも思うんです」
 甘いね、と殊村は情けも容赦もなく切り捨てる。
「涼虎ちゃん、わかってるはずだろ。僕らセブンスは嫌われ者の集まりだ。ここのラボを取り潰されたらもう他のラボでは引き取ってもらえない。なにせどいつもこいつも言うことは聞かない、時間は守らない、常識は知らない学歴はないのケチとヤボの塊みたいな連中だものね僕らは。――いいとこの大学に出て卒業論文は何を書いて研究室では何々教授の元に師事しましたってところでようやくスタートラインに立てるエリート様たちからすれば、僕らみたいな背景のないチンピラは、自分たちを否定する存在そのものってわけ。見殺しにするならまだしも仲間に入れてくれるなんて希望的観測さ。だから僕らがこの竪穴で生きていくには、結果が必要だ。何者をも黙らせる結果が」
 どこか、自分に言い聞かせるかのような殊村の長口舌。
 それに涼虎は何か言いかけて、やめた。そしてふっとため息をつき、
「心配無用です。――たかが負けたくらいで取り潰しにされるようなデキのものを作った覚えはありません」
「言うねえ」殊村は嬉しそうだ。
「ま、そうシンプルにことが進めばいいけど。それより涼虎ちゃんの方は大丈夫?」
 涼虎は小首を傾げた。
「なにがです?」
「もうすぐ黒鉄くん戻ってくるけど」
 殊村はくいっと顎をモニターに振ってみせた。右上のタイムカウントが見る見るうちに減っていく。
 あと三十二秒。
 画面の中では、ビルの森が矢のように降り注ぐ火の雨を浴びて黒煙に飲み込まれているところだった。
 涼虎は親の仇を見るような目でモニターを睨んだが、あまりにも表情筋の動きが微量だったために、殊村はそれがしかめっ面だと気づかなかった。
 棒を飲んだような声で言う、
「なにも問題ありません、ええ、問題? なんですかそれは。知らない言葉です」
「……そ、そう? ならいいんだけど」
 涼虎は背中に氷を突っ込まれたように身を縮めて、それっきり緩めようとしない。敵を見つけた亀のように首をすぼめ、目はモニターを上目遣いに見ているようでその実なにも見てはおらず、ポケットの中で握り締められた白衣の生地が年老いたようにしわくちゃになっていることに気づいているのかいないのか。いないだろう。
 叱られるのをわかっていながら家へ帰る子供のような涼虎のことなど気にもかけずにタイムカウントがゼロになり、そして二人の背後の転送座(シューター)に空気が細い管を通るような音がして、どさりと誰かが腰かける気配がした。振り向く。
 誰もいなかったはずのその場所に、黒鉄鋼が汗だくになってそこにいた。
「ぜぇっ……ぜぇっ……はぁーっ……」
 すかさず殊村が立ち上がって、いつの間に持っていたのか、水の入ったボトルを鋼の口元へ持っていった。鋼はボトルから突き出たストローを慣れた様子で口に含み、吸い上げた水を飲まずに吐き出した。吐き出された水を殊村がバケツに繋がったノズルで受け止める。
「くそっ。強いな」
 慣れた手つきで殊村が、鋼の腰から下がった目減りしたグローブホルダーを新品と取り替えながら言い、
「君が来るまでうちのナンバー1だった男だからね」
 鋼はにやっと笑い、
「そんな記録は、塗り替える」
 インターバルは九十秒しかない。
 転送座に埋まるようにして腰かけた鋼に、すっと涼虎が身を寄せた。手を伸ばしても掴めないかもしれない長い黒髪が一房流れた。
「黒鉄さん、気分はどうですか」
「ああ、散々撃たれたから目がチカチカするよ。でも心配はいらない、実はさっきボコボコにされながら思いついたことが一個あっ」

 て、

 もちろん、なんの覚悟もしていなかった。
 時間が、世界から盗まれた。
 なんの前置きもなく、涼虎の薄い桃色の唇が、啄ばむように鋼のそれと重なっている。
「――――」
 時間が、少しも進まない。
 抵抗する意思を奪う湿った舌先が鋼の前歯を乗り越えてその奥へと進み、カラダの中で一番身近な内側をまるで探し物でもしているかのように蠢く。自分の左手が拳を握ってぶるぶると震えているのをどこか冷静な心が感じていた。見張った目は焦点のぼけた彼女の瞳だけを見ている。
 動けなかった。
 そして、始まった時と同じくらいにあっけなく、それは終わった。涼虎は身体を離して、少し散らばった髪をかき上げて何事もなかったかのように澄ましていた。
 冗談じゃなかった。
 鋼はわなわな震えながら、涼虎を見上げた。
「バっ……バっカかお前、なんっ……なっ……ひいっ!!」
「……落ち着いてください」
 さすがの涼虎の鉄仮面もタガが緩んだ。下唇を噛んでついっと目を逸らす。さもバツが悪そうだったが鋼からすればそんな顔をされても困るのだった。いきなりキスをされたのは鋼の方だ。それも一方的に。鋼はトイレットペーパーでも手繰るように傍らの殊村の白衣を引っつかんでぶんぶん揺さぶった。
「これが落ち着いていられるかっ!! 助けてくれ真琴くん、こいつ仕事中に俺になんて狼藉を」
 殊村は諦めたように深い息をついて、
「驚くべきことにこれも彼女の仕事の内なんだよね。ああ、いいなあ黒鉄くん。羨ましいなあ。ずるいなあ。死んでよ」
「俺が悪いのか!? 今のは俺が悪いのか!?」
 左手でアタマを抱えて地団太を踏み始め現実との迎合がまったく出来ていない鋼の肩をぐっと涼虎は押さえつけた。繰り返すがインターバルは九十秒しかない。やめてえ、やめてよう、と必死の抵抗に出る鋼の口に有無を言わさず白衣のポケットから掴み出した色とりどりの氷殻を四切れ突っ込んだ。
 実戦用アイスピースの継続使用においては、ノッカーなどとは違って調整用の特製ピースが付随して使用される。その目安は2Rを終えて3Rへむかう時のインターバルと4Rから5Rへむかう時のインターバル。
 なぜキスをしなければならないのかということを説明する時間がないことに涼虎は身を焼かれるような思いを感じる。調整用のピース『ミスト』は様々な種類と組み合わせがあり、ボクサーがアイスピースを飲みブラックボックスした後に出てくる脳の反応はさらに多彩で複雑で精密で面倒で下手を打つと不可逆のダメージが残る場合がある。それ自体はミストを投与すれば落ち着くものなのだが、その配合を間違えればやはり死(デッド)、そして実験から戻ってきたブラックボクサーに二十種以上あるミストからどれとどれを組み合わせて投与すべきか知る手段は現在ピースメイカーによるブラックボクサーの口内を五感によって探知する方法以外にない。
 なぜと言われても困る。そんなことは涼虎が聞きたい。
 もちろん細かい脳の情報をブレインであるルイに言語出力してもらえれば何も涼虎が一定ラウンドごとに捨て身の一撃になど打って出る必要はないが、クドクドと続くルイの言語出力が終わるまでにはおおよそ三日半ほどかかる。書類で出力してもらってもそれを翻訳するのに二時間。だが、こちらのやり方ならブラックボクサーの口内に舌先を入れてそこから唾液の分泌具合や歯のエナメルに流れる微弱な活動電位の影などを追いかけるやり方なら、――綺麗にほぼ一瞬でカタがつき、このように涼虎はインターバルが終わる前に鋼のブラックボックスの反応具合を正しく捉えて白衣のポケットから『アンバー』・『アンバー』・『サファイア』のミストと氷漬けの赤『ゴールド・ブラッド』を取り出し、被験者の口にそれらを無事突っ込むことが可能になったというわけだ。めでたしめでたし。
 泣きたいのは涼虎も同じだった。
 今までのスパーでは、1Rで終わっていたためにここまで辿り着くことはなかった。いやもちろんわかっている、散々ルイには言われた『なんで早く言わないの?』そんなことは涼虎にだって分かっていた、ちゃんと説明して理解を得てこれがなんでもないことなのだと、言ってみれば人工呼吸と同じただの医療行為のひとつなのだとサラッと言ってしまえばそれで済んだ話をこの土壇場までボクサーに黙っていたというのがそもそもおかしい。そんなことは涼虎が一番わかっている。誰よりもわかっている。
 でも言えなかった。
 なぜかは、わからない。
 針のむしろのような沈黙が、流れた。
 冷静なアタマのどこかで誰かがタイムカウントを告げる。
 あと七秒。
「必要だったんです」
 ギリギリやっと、それだけ言えた。だが、すべての事情を簡潔に言い表しているいい言葉だと思う。必要だったから。そう、これは必要なことで、不必要だったらまさかやりはしないことなのだとちゃんと相手に伝わったはずだ。
 チラッと鋼の顔を見やる。
 鋼は実に落ち着いたものだった。その顔つきは真実を探求してやまない哲学者のように思慮深く、ボクサーにしては細い指を唇に沿わせてその感触を丁寧に確かめていた。問い質すまでもなかった。
 全然聞いていない。
 涼虎の中で、何かが切れた。
 小さな拳がめきりと鳴ってからが速かった。
 涼虎の右ストレートが綺麗なフォームで転送座に突き刺さるのと、タイムカウントがゼロになるのと、紫色の放電をぱチぱチと残して一瞬前までそこにいたブラックボクサーがブレインにリングへシュートされるのがほとんどすべて同時だった。
 仲間の突然の発狂に殊村がパイプ椅子にへばりつくようにしてビックリしている。
 じわじわと伝わってくる拳の痛みと、絶句している殊村の気配、そして胸の中で繁殖し始めた得体の知れない感情のすべてが、涼虎には荷が重すぎた。
 ぐちゃぐちゃになった感情は、言葉になって走り出る。

「――もぉ!!」

 ――黙って冷えピタを(なぜ持っている?)差し出した殊村の手を涼虎の裏拳が払い落とし、
 そして、
 第3ラウンドが始まった。

       

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Neetsha