Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 いつ見上げても機嫌を損ねたっきりの空の下、小石を落として跳ねた飛沫のような高層建築の群れ、その一柱の屋上に、周囲の空気を切り裂いて一人の人間が瞬間移動で現れた。
 黒鉄鋼である。
 脳天にハンマーを喰らったように額を押さえ、足元がおぼついていない。どうもなかなかいいパンチをもらったようである。うう、うう、と呻きながら千鳥足でそこらをふらふらするざまはまるきり酔っ払いのそれだ。
 そんな鋼のアタマの中にべつの少女の声が割り込む。
『いやあビックリしてましたねえクロガネくん』
『――――!!』
 竜巻のごとく荒れ狂った鋼の脳波は、人の言葉を為していなかった。
『ビックリしてますねえ、クロガネくん』
『当たり前だ!! 言えよ!!』
 大出力で怒鳴った鋼に、流水じみた波長でルイがさらりと答える。
『べつにいいじゃん』
『はあ!?』
『いいからいいから。それよりほら向こうもかわいいセコンドのベーゼを受けて気合充分、向かってくると思うけど? いいのほっといて?』
『わかってるよ!! ああくそ、畜生!! やってやる、やってやるよ、やってやるってんだよくそったれがァ――――!!』
 少女は声で笑う、
『その意気その意気』


 アタマを振って、前を見る。
 まだ緩んでいる口元を一撫でして黙らせる。
 臨時政府庁舎と特別閉鎖裁判所の屋上に立ち合って、おおよそ一二〇〇メートル差を置いて睨みあう。
 その中央に作られたモニュメントはモノもいわずに、ただ閉じられた天を指している。
 馬上槍を二重螺旋で飾ったようなその構図の意味するものは地上への回帰。核戦争が終わって、いつか地上を目指そうという言葉が形として残されたもの。
 そんなガラクタを眺めるだけでガッツが湧いてくれば誰も苦労はしない。
 天候制御装置が壊れて永遠に澱み続ける羽目になった雷雲がチカリチカリと瞬く。機嫌を損ねていた曇天がとうとう癇癪を起こして黄金色の稲妻を落とした。
 落雷を浴びた二重螺旋と突撃槍のモニュメントが割れ鐘のような音を立てる。
 それが、ゴングだった。
 青い炎の軌跡を残して、二匹のモルモットが壊れた都市に広がる虚空に飛んだ。

 ○

『お見事です、マスター』
 アタマの中で、少女の声がする。
『アングル・タイミング・パワーどれを取ってもKO級のキスショットでした。相手がノックアウトされなかったのは、ひとえに向こうのアイスのタフネスによるものと思われます。あなたの落ち度ではありません』
 それを聞いて、八洲はふっと笑った。
 アタマの中の声はいつも優しい。
『ありがとよ、スイ』
 そのまま流れるように腰のグローブホルダーから素早く六発のグローブを千切り取る。身を捻るまでもなく、それを肩口からポイと放り捨てた。スプレイダッシュが生み出す風の螺旋にグローブたちが吸い込まれていく。見捨てはしない、すかさず充填(マウント)。カンフル剤でもあるミストの補助のおかげで、ラウンド越しでも白を充填し直せる。ちなみに第2ラウンドでもマウントし直せるのは、あらかじめ使用するアイスピースに2ラウンド用のミストを混ぜてあるからだとか。もっとも脳にさっきまでのブラックボクシングが継続していると誤解させるだけの効果しかなく、失った白までは戻ってこない。
 風が鳴る。
 どうして自分たちを捨てるのかと追及するように、白四発/黒一発の拳がスプレイをかけている八洲に追いついた。追い越す。周回軌道に乗る。スタイル・『キングダム』展開。目前に二重螺旋のモニュメントが見える。引っかけるようにして旋回。
 馬上槍を中心にして線対称を描くように、反対側で自分と同じ軌道を取った相手と九〇メートル差で向かい合う。
 黒鉄鋼だった。
 アタマの中の声が言う、
『相手は新米です。今まで通り白(ひだり)で翻弄しましょう』
『……新米、ね』
『黒鉄鋼がスタイル・リベリオンを展開。相対距離八三・七メートル。シフトキネシスの射程距離内です。接近することをオススメします』
『そうする』
 ハンドキネシスの射程距離はアイスピースの質にもよるが平均して一八〇メートル前後。ここからでも充分に拳が当たる距離ではあるが、相手の姿がかすむほどの遠距離戦をキングダムで挑むのはあまり好ましくない。補充の利かない白はお互いをカバーし合う必要があるからだ。自然、ボクサーを中心とした拳の織り成す半径は短くなる。特に相手が犠牲を恐れない黒拳使い(ブリッツ・ファイター)である時などは。
『さっさとシフトしますか、それともじっくりスプレイ?』
『じっくりいく。シフトはさっき一つ使っちまったしな』
 ちなみに黒鉄鋼が使っている『調整用アイスピース』はシフト/エレキは6分5ラウンドの一試合で四発の使用が可能になっている。八洲の『ブルーパスポート』も同じく四発である。
『了解』
 八洲はスプレイをかけた。自分の前方へ周回する白の弾幕を張り始める。パイロを黒でガードした鋼の姿が爆煙に隠れた。すぐに現れる。小刻みなスプレイダッシュをかけて、的を絞らせない。
 ひゅん、
 軽い唸りを乗せて鋼の黒が一発、火炎を掻い潜って接近してきた。八洲の目が磁力を帯びたようにそれを追う。だが、あえてかわそうとはしなかった。鋼の拳がめきりと拳を握ってモーションに入った。
 それでも八洲は、ただそれを見ているだけ。
 エレキを使ってくるようなら、シフトするつもりだった。
 ここにブラックボクシングがただ黒を振り回して先にエレキを当てた者勝ちにならない秘密がある。
 エレキは、それがどんなタイミングであれ必ず発動前に紫電の放出が一瞬見える。状況によってはスプレイでもかわせるし、シフトならほぼ確実にさばける。つまりエレキはいわゆる一つのテレフォンパンチ――よっぽどでない限りは見え見えなのだ。
 鋼の拳が、紫電を見せずに動いた。
 八洲は、避けない。
 ビル一柱をジェンガのように容易く破壊せしめる黒のフック。その殺人パンチが、八洲のアイスその鼻先をかすめ、火花が散るような速度であらぬ方角へと飛んでいく。
 スカだ。
 八洲は、爆炎に包まれた戦闘空域の向こうにいる男を見て目をすがめる。
 これが黒鉄鋼の弱点。
 切れはあっても狙いが定かではないパンチ。三度のスパーリングを経て、八洲はもうほとんど鋼の黒には注意を割かなくてもいいということを知っていた。少なくとも戦闘空域から偶然紛れこんできたようなラッキーパンチは放っておいてもほとんど逸れていく。これが二、三発と連続して接近してくれば別だが、それでも芯を捉えたパンチには至らないのではないかと八洲は思っている。
 セオリーでは、まずエレキを使わない黒のノーマル・ブローを小さく細かく速く相手に当て、その連続攻撃にエレキを組み込む。だが鋼にはそれができない。その証拠にほとんどエレキを使ってこない。シフトは八洲が使わせない。ある程度の集中力が必要とされるシフトは連続攻撃の最中では発動までに時間がかかる。第2ラウンドでビルの森から鋼が脱出できなかったのもそのせいだ。これは単純に、経験の問題でもある。


『敵ボクサー、バックスプレイをかけてやや後退』
 だが、それでも八洲は鋼を弱いとは思わなかった。
 恐らく涼虎や殊村から見れば八洲の闘いぶりは鮮やかで洗練されていて、鋼は一方的にあしらわれているように見えるだろう。ひょっとしたら八洲のブレインでさえそう思っているかもしれない。
 だが、それは違う。
 最初は、八洲も彼らと同じ意見だった。鋼から提案してきたスパーリング――W5B1対W1B5など少しも実戦的ではない。まずブラックボクシングで手札(カード)といえばW4B2かW3B3。稀にW2B4がいるくらいでリミット一杯までどちらかに偏らせるなどデメリットの塊でしかない。こうして優位を保っている八洲のW5B1『キングダム』でさえ他のボクサーと実戦でやりあえば白の高さと射程距離の狭さを突かれて包むような攻撃を喰らいラウンド3を待たずして撃墜されているはずだ。もちろん鋼のW1B5などは一方的に打ちのめしてくれと言っているようなもの――牽制のために振る白が一つしかないのだから。
 その鋼と三度のスパーリングを経て、八洲はいま、第3ラウンドにいる。
 第3ラウンドに、だ。
 手加減はしていない。
 するならもっと早くにしていたし、鋼からはいっそ殺すつもりでかかってきてくれと頼まれていた。でなければスパーなんてやる意味がない、と。そういうタイプが稀にいることは八洲も知っていたし、だから八洲はそれを真摯に守っていた。
 それでも、
 全力で押して、第3ラウンドまでもつれこんでいた。
 たった三度の、スパーリングをしただけの相手に――
 闘いづらいことこの上なかった。白の差し合いでは圧倒的に八洲が上だ。だが、キングダムの性質上、白を自分の近くに配備しておくことが多く懐を深く構えた相手にはなかなか潜りこませてもらえない。鋼はキスショットこそ狙ってはいるようだが、それも一撃離脱に近いやり方を目指しているらしく決して迂闊に近寄っては来ない。そのあたりはさすが元プロボクサー。徹底していた。
 殺るなら確実に、というわけだ。
 ならばW5B1の特性を活かしてシフトを使い相手の死角からゼロレンジで仕掛けるのはどうか。セオリーならそうだろう。事実、さっきは決まった。だが、八洲にはそれができない。なぜだろう、さっきは決まったのに、もう一度決められる自信がない。あんな背後へのガードを無くした攻撃特化の『リベリオン』相手にシフトをかける自信がない――
 理屈でいえば鋼のスプレイにミソがある。鋼は常に左右方向へ交互にスプレイを振っていて、ひとところに留まっていない。しかも左右へ動くたびに身を捻って自分の死角を最小限に絞っている。それでまず、シフトで狙える死角が狭くなっているということが一点。だが重要なのはそんな小賢しいことではないのかもしれない。
 リベリオンを張る以上、鋼は背後や真上からのキスショットが致命傷に至ることをわかった上でそうしている。そう、さっきは上手くいった。だが次はそうはいかないかもしれない。さっきのアレが誘いだとはまさか思いはしない。しないが、覚えられてしまったのではないかという恐怖はある。死角からの攻撃、それに対してあいつは『カウンター』を狙っているのではないか――八洲はその考えがアタマをチラついて離れない。シフトして急降下したら相手がどこにも見当たらず、いきなり横っ腹を撃ち抜かれればさすがの八洲も強制転送されかねない。
 負けたくなかった。
 その気持ちが、絶対的優位にいるはずの八洲の手を縮ませている。
 白の差し合いで優位を維持しているからといってなんだというのか。相手のアイスには煤ひとつついてはいないだろうが。そう思いながらも、この状況を打破する気持ちが湧いてこない――
『マスター』
 スイが、グラスに満たした水のような声で言った。
『チャンスです』
 何事かと思った。
『なに? なんて?』
『黒鉄鋼は動揺しています』
『なんで』
 スイは答えた。
『これがラウンド3だから、です。黒鉄鋼はさっきのインターバルで初めてミストを投与されたはずですから』
 一瞬、なに言ってんだこいつ、と思ったが、すぐにスイの言わんとしているところに八洲は気づいた。
 今度こそ、声を出して笑った。
『――なるほど』
 だが、言われてみればそうかもしれない。
『つまりあれか、いま黒鉄のやつは涼虎の「べろちゅー」を喰らったばかりで足元が覚束ないはずだからいっちょボッコボコにしてやろう――って言いたいのか?』
『おおむね、そういうことです』
 澄ました声でブレインが答える。八洲はブレインが冗談を言うのを初めて聞いた。鋼のブレインは感情表現が豊かなタイプだが、ほとんどのブレインはスイのように自分の意思をあまり表には出さないのが普通だ。それなのに。
 前を見る。
 不思議なやつだと思う。
 あいつがここに来てから、妙なことばかりが起きている。少なくとも退屈はしない毎日になった。ひょっとしたら、実戦に明け暮れていた頃よりも。
 拳を握って、八洲は決めた。
 よし。
 やろう。
 たかがスパーリングで手を縮ませていて何になる。自分の役目は実戦を控えたブラックボクサーの調整相手だ。勝つだの負けるだのはどうでもいいことだ。いまはただ、あいつに質のいい練習をさせること。それが一番大事なことだ。
 決めた。
 クロスレンジだ。
 白拳使い(ファイアスターター)で鳴らした剣崎八洲と『ブルーパスポート』の真価を見せてやる。
 八洲はスプレイダッシュをかけて自ら戦闘空域に突っ込んだ。周回するおのれの白と黒の半径をほとんど等しくするほどにスタイルを圧縮(プレス)する。鋼とその黒との距離も縮まる。なめし皮を磨くような小刻みなスプレイの音が聞こえそうな近距離。三〇メートル。
 速射砲のような白を撃ちに撃った。
 弾幕のひとつ、八洲の炎を鋼の黒が拳の甲で弾く。
 バレーボールサイズの火弾がやや着弾点を逸らされて爆発する――
 瞬間、その炎の裏に忍ばせていた八洲の白が水を得た魚のように躍り出た。
『クロガネくん、白!!』
 鋼の目が見開かれる。その口元が剃刀じみたスリルで笑みに歪む。
 八洲の野郎。
 こっちの目を引く炎そのものを囮にして、虎の子の白を突っ込ませてきやがった――!
 くそったれ――だが、
 まだ間に合う。
 周囲に飛んでいた黒を固めてガードに回す。アイスにまでは攻撃を届けさせない――
 結果的に言えば、八洲の白は鋼のアイスに届いた。
 白が、燃えた。
 一瞬だった。
 見間違えたかと思うような刹那、燃える拳が鋼の黒のシールドのようなブロックをぶち壊して氷殻を撃った。気がついた時には、鋼は回転する天地を半失神で眺めていた。
 話には聞いていた。
 それは、パイロキネシスの奥義とも言える技で、力加減を間違えればみずからの白を自爆させてしまう諸刃の剣なのだが、その代わりに瞬間的に黒並みのパンチ力を白に与える能力なのだという。外科医のような精密さが求められるために初心者の鋼にはやる前から禁止令が出されていた。
 時間と経験の試練を乗り越えたボクサーにしか使うことのできない本物の技術。
 パイロフィスト。
 言わば、リードブローから繰り出されるKOパンチ。
 その真価は幻想の脇腹にしかと刻みつけられた。なるほど確かに甘くない。これがあるなら熟練のボクサーが白を重視した戦闘計画(ファイト・プラン)を組むのもよくわかる。セカンド・アイスの芯にまで亀裂が入った。確かに、これは効く――
『だ、だいじょうぶクロガネくん!? めっちゃ効いちゃったみたいなんだけど!!』
 こちらの脳を常にモニターしているブレイン・ルイが精神の波長で鋼に叫ぶ。鋼は笑い、制動スプレイをぶっ放して追撃のパイロをかわしつつ、自分の心境と状態を慎重に吟味した結果、次のように述べた。
『アドレナリンのションベンが出そう』
『全っ然だいじょうぶじゃないね!? しっかりしてぇ!! 気を確かに持ってぇ!! あと2ラウンド持てばまたリョーコちゃんとのべろちゅータイムなんだからウェヘヘヘヘヘ』
 しっかりするのはお前だと言いたい。
『失礼な!!』漏れていた。
『あたしの数少ない楽しみをなんだと思ってるの!! クロガネくんにはビシバシテキパキ頑張ってラウンド5まで進んでもらわないといけないんだから!! その後はどうでもいいや』
 冗談はさておき、
『ああ、本当は自分のクチビルというやつでぶちゅーっとやってみたかった……』
『その話まだ続くのかよ!? ふざけんなよ俺いまスパーしてんだぞ!!』
『はいはい頑張ってー。これでいい? あ、いまヤシマとの相対距離が一〇〇メートル突破。シフトキネシスの射程から外れたよー』
 少女の声が笑う、
『チャンスだね』
 その通り。
 鋼鉄の天地のど真ん中で、鋼はスプレイをアンバランスにかけてその場で宙返りをする。後方へ飛び去っていく八洲のパイロの連打が巻き起こした破壊の気配を背中で聞いて、前を見る。パイロフィストを喰らってから自分をカバーさせるのに費やした黒を左手でホルダーから千切って充填。奇跡的に生き残った白と共に六発の拳を円環運動(サークリング)させる。スタイル・『シリンダー』を展開。
「いくぜ」
 不可視の鎖を外されたように拳が鋼の右脇から一斉に放たれる。黒黒黒白黒黒。至近距離でシリンダーをぶつけ合うとお互いの白が状況次第でごっそり減って勝負の趨勢が風のように変わることもあるのだが、それはまた別の話。
 鋼の真意は今、そこにはない。


『黒鉄鋼との相対距離が一三〇メートルを突破。シリンダーから撃ち出された拳が接近、――エンカウント』
 連鎖爆発。
 愚直に突っ込んできた黒を八洲の白が迎え撃つ。黒煙で視界が悪い。掴めば掴めそうな質感を持った煙から不意打ち、鋼の火弾が飛んできた。
 これが狙いか。
 しかしせっかくの近接火炎(クロスファイア)も猟犬じみた八洲の黒がすべて払いのけた。正確無比なその軌跡はいまの鋼にはないものだ。炎を弾いて爆発が起きた時にはもう引き手を取って回避しているため八洲の黒はゼロダメージのまま。
 鉄壁、
 キングダムは崩せない。
 八洲は鋼の黒と白を相手にしながら、アッパースプレイ、視界の悪い空域から離脱して鋼を目視しようとした。スイによればシフトキネシスの射程――九〇メートルよりも向こうにいるらしいが、それでも油断はできない。なぜならシフトキネシスには『裏技』があって、それを使えば簡単に射程制限の九〇メートルを越えて飛んでこれるからだ。
 その裏技とは、通称『ナックルシフト』。
 自分との距離が九〇メートルを超えたところにある拳と自分を入れ替えるという、チェスでいえばキャスリング――キングとルークを入れ替えるような戦術だ。この能力はまだ一年ほど前に開発されたアイスピースで発見されたばかりで、比較的最近のピースでしか使えない。
 単純なシフトキネシスと違いナックルシフトにはいくつかの制約がある。まず一点、自分の拳と入れ替えになるためにその拳は逆に自分がいた地点に転移してしまう、ということ。危険地帯から逃げる時など、黒ならともかく白にはあまりかけたくない技――というよりも、ナックルシフトは黒にしかかけられない。黒を多くマウントした際の利点のひとつと言える。
 そして二点目は、位置の入れ替えが自分と対象になった拳だけではなくほかのマウントされた拳にも及ぶ。簡単に言えば、ナックルシフトをかけた時の周囲の拳の位置が『反転』する。コンパスを使って弧を描いて、それを反対側にも同じように引いた図を想像するとわかりやすいかもしれない。たとえば今、黒煙に紛れている黒のどれかに鋼がナックルシフトをかければ、鋼自身はここまで飛んでこれるが、元々この空域にあった拳はすべて鋼が元いた地点まで飛ばされる。そういう制約つきの超・長距離シフトがナックルシフトなのだ。
 だが、いかにも鋼が使いそうな技ではある。
 ゆえに八洲は不意の一撃を警戒してアッパースプレイをかけたのだが、杞憂だったらしい。鋼はまだ遥か彼方にいる。
 考えすぎか――
『黒、接近』
『む』
 スイの声に釣られて黒煙の塊に目を落とす。だが、そこからぼフッと吐き出されてきたのは鋼の黒だった。何かの衝撃を喰らって吹っ飛んだのだろう。なんだ――ただの裸馬か。
 だが、それが油断だった。
『黒、接近!!』
 遅かった。
 八洲の視界一杯に迫るほどの近さと速さでべつの黒が黒煙から突っ込んできた。
 ただし、裏拳で。

 べきいッ

 アイスにひしゃげた黒が突き刺さる。
『――――ッ!!』
『ますたあ!!』
 スイの悲痛な声に八洲は答える余裕がなかった。芯こそ外していたが威力はやはり底抜けだった。一気に五〇メートル近く後方へ流されてしまった。スプレイで制動をかける。
『――くそ、やられた』
 タネは割れていた。予想もしていなかった。
 まさか、
 拳を投げてくる、とは。
 確かに自分の拳同士なら精密動作に難があっても掴むぐらいなら出来もするだろう。そして滅茶苦茶な方角へ投げたとしても、力の抜き方をシンプルにすれば『まっすぐ』飛んでいかせること自体はそれほど難しくもあるまい。少なくとも今までのようにボクシング初心者が振りかぶって打つような大振りの右フック/オーバーハンドライトよりかはいくらかストレートに近い直線的なパンチが望める。たとえ裏拳でもなんでも。くそ、わざわざ超遠距離戦に運んだのは体勢を立て直すためだけでなく、ナックルシフトからのキスショットに八洲の意識を振らせるため――無謀な男にしては『切れる』やり方だ。
 だが、それもここまでだ。タネは割れた。もうそうそう喰らわない、あんな派手なパンチなど。
『マスター!!』
 今度はなんだ、そう思って何気なく見た――
 左。
『!』
 今度こそ、心臓が止まりかけた。
 いや、止まるヒマもなかった。つくづく八洲は思い知ることになる。黒鉄鋼の性格というやつを。鋼は、優位と勝利の違いを骨身に染みて理解している男だった。そう、優位はなんのためにあるのか。安心するためか。違う。
 勝ち切るためにあるのだ。
『――――ッ!!』
 燃えるような速度を帯びて、黒の拳がもうすぐ目の前に迫っていた。アドレナリンが大量に分泌されて粘性を帯びた五感と時間の中で八洲は確かに見た。鋼の黒が正確な軌道に乗っているのを。
 綺麗なフォームだった。
 そのフォームは名前を、『右フック』という。

 めキィッ

 冗談みたいな威力と共に、八洲の幻想の脇腹に鋼の黒のフックが突き刺さった。ファースト・アイスが乾燥し切って風化した植物のようにあっけなく砕け散る。もとより一層になど期待していない、が、セカンド・アイスまでが亀裂で視界不良を起こしていた。それを綺麗にしてくれるものがあるとすればそれはこの土壇場にあってはもはや絞りに絞ったガッツしかない。ガッツだ。撃ち抜かれた衝撃でスプレイなしに吹っ飛ばされながら八洲はよく強制転移されなかったものだと霞む意識の中で考えていた。おそらくはスイの一言、あれで心のどこかで覚悟の種が芽吹いていたのだ。それがなければ恐らくやられていた。くそ――ゆっくり考える時間も、相手を褒め称える隙もない。今度のタネも八洲は瞬時に見抜いていた。
 鋼の不調の黒、それが正しい軌跡を描けたたったひとつの答え。
 それは、ハンドキネシスの射程距離。
 ハンドはボクサーを中心に据えて半径一八〇メートルが射程限界。つまり突き詰めて考えれば、その制限範囲は綺麗な円なのだ。八洲はさっき弾かれて空域をおっぽり出されたように見えた鋼の黒を思い出す。あれだ――あれを密かに潜行させて射程限界一杯まで辿り着かせ、そこから射程のリミットめがけておおまかな力の方向だけ定めて思い切りぶっ放したのだ。あとは射程距離の『レール』に沿ってパンチは自動的に走っていく。エレキを使わなかったのは、エレキの特性として射程を無視して突っ込めることが邪魔だったからだろう。
 最初から、裏拳は囮。
 こっちの予想できないフックが本命――

 そして、
 恐らく、
 ああ、
 畜生!

 八洲はなけなしの気力を振り絞って身をよじり、振り返った。そうだ、何かで読んだことがある、ボクシングにおけるパンチのコンビネーション。
 フックというものは、左右でセットにするものなのだ。
 案の定、親指を下にして、鋼の『左』フックが火花が散るような速度でもうすぐ目の前に迫っていた。
『マスタ――』
 戻ったら、絶対に、スイを相手に愚痴を言いまくってやる。
 だが、いまは、なんとしても、
 この一撃を、かわすこと――!!
 最後の力を振り絞った八洲のダウンスプレイ。制動をかける暇もなかったからかなり緩やかな下降だった。
 間に合うか――……
 ちりちりと八洲のアイスを震わせながら、鋼のフックが、虚空へと過ぎ去った。
 かわした。
 八洲はさすがにほっと安堵のため息をついた。
 さばいた。
 さばき切った。
 これでなんとかなる。いま大慌てで引き戻している白と黒が再びキングダムを展開させれば状況はリターンする。それにもうすぐゴングも鳴って第3ラウンドは終わりインターバルに入る。そうなれば、もう第4ラウンドからは決して油断しない。そう、第4ラウンドにいきさえすれば――
 ふと。
 もう、それはほとんど予知のようなものだった。
 振り返る。
 そこにいたのは、
 とことんしつこい、
 あの男。
 氷の城壁をまとい、風の王座に座し、仁王に虚空に立ち塞がる片手の男。
 黒鉄――鋼――……
 八洲は思った。
 キスショットだ。
 鋼はキスショットを狙っている。
 すぐに覚悟を決めた。耐えてみせる。見てから喰らうキスショットなんぞタカが知れている。もうすぐのはずなのだ。もういまにも鳴るはずなのだ。それさえ鳴れば、あの曇天から金色の稲妻さえ落ちてくれば――
 だがきっと、稲妻は自分に落ちるのだろう。
 鋼のすぐそばに、黒の拳が三つマウントされていた。
 さすがにもう理解が追いつかなくなってきた。休ませて欲しかった。つくづく思い知った。人間の勝利にかける執念というものを。あるいは男の意地というものの実態を。ここまでかと思う。ここまで人間は高みを目指さないと気が済まないのか、それともそうまでしなければできないのだろうか。
 何かに勝つ、などということは。
 鋼の白は生きていたが、ここにはない。恐らく中間距離だったあの空域にまだほとんどズレずに残っているのだろう。仕事は果たしただろうから。
 自分の黒を潰すという大事な仕事は。
 数は合っているはずだ。最初の裏拳でひとつ。次に右フックでひとつ。そのあとに左フックでひとつ。八洲がかわしたあの黒でナックルシフトをかけたのだろう。空域に残っていた二発の黒は鋼の白自身がパイロで撃ち砕き、そして裏拳の際に破裂した拳もついでにマウントして鋼はそばに置いたのだ。そうすればそのまま拳を引き連れてここまで飛んでこれるから。
 よくもまあここまで思いつくものだと八洲は驚愕を通り越して呆れるような心境だった。シフトをかけたくてもすでに八洲の心は溺れてしまってこの期に及んでのコンセントレーションなど、どこか遠くの絵空事だった。よくわかった。

 かわせない。
 絶対に。

 相手を見上げる。
 天を見上げる。
 無謀?
 無謀だと?


 これが、無謀な男のやることか?


 目だけは瞑るまい。
 そう決める。
 実に2ラウンドぶりに鋼と目と目がかち合った。
 曇った鏡のような目だった。
 視線で誰かを殺せる人間は、きっと誰もがあんな目をしているのだろう。
 空っぽの袖が足掻くようにはためく。
 あいつは、やる男だと思った。
 たとえ、相手が死ぬと分かっていても。
 そして。
 鋼は悩まなかった。
 三つの黒が放電を発し始め、周囲に電子を撒き散らして造ったイオンを螺旋に取り込み、焼き尽くし、そのすべての過程を速度に変換、三弾連弾まとめてぶっ放した。
 撃ち放たれた三つの黒は包むような柔らかい軌道に乗って、八洲のアイスをかすめながら、三重螺旋を描いてビルの森に突っ込み、瓦礫の高波を派手に跳ね上げた。
 ガラガラと崩れるその音が、どこか笑い声にも似ていた。
「…………」
「…………」
 八洲と鋼は馬鹿になったように顎を落として、呆然とそれを眺めていた。
 全部外れた。
 繰り返す。重ねて記す。
 全部外れた。

 ……あとのことはもう、わざわざ語るまでもない。

       

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Neetsha