Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 電話が鳴っている。自分のだ。



 ベッドの上でミイラのようにタオルケットを身体に巻きつけながら、黒鉄鋼はやっとの思いで電話に出た。
「……モシモシ?」
 おはようございます、と電話の声が言った。涼虎だった。
「ああ……おはよう」
『寝てました?』
「そうかもしれない」
『昨日の話は覚えてますか』
 昨日の話?
 鋼はぼんやりと中空を見上げる。そもそも昨日なにを食べたかも覚えていないのに人の話まで聞いて覚えているわけがない。なのでそれを正直に伝えるとぞっとするようなため息が返ってきた。
『今日は懇親会があると、お話したはずですが』
「こんしんかい?」
『下半期の実験が始まるに当たって、各々のラボのブラックボクサーとピースメイカー、それからあなたが以前言い当てましたが、この実験に出資して下さっている投資者の方々とパーティがあるんです』
「へえ、そりゃいいね。で、いつから?」
『いまから』
「早くね?」
『だから、昨日お話したんです、少し早くから出ますからちゃんと準備しておいて下さいって。……言いましたよね?』
「そうだったかな」
 涼虎の声音に霜が張った。
『……命令です。今すぐ戦闘服に着替えて転送座(シューター)まで来てください。今すぐです。会場へはルイに送ってもらいますから』
「わかったよ。……で、戦闘服? 正装でいかなくていいのか」
『パトロンの中には、ブラックボクサーを一種のヒロイズムで捉えている方もいらっしゃいますから。ボスには媚を売っておくものだと殊村くんが言っていました』
「あいつの言うことは話半分に聞いとけって。……で、おまえは?」
『は?』
「おまえはどうするんだ。ドレスとか着るのか?」
『……それが何か問題でも?』
「いや? べつに。ただ慣れないロングでも穿いて裾でも踏んづけないかと思ってさァ。あっはっはっはっ……あ」
 切れた。
 無情な不通音を残している受話器を見下ろして、鋼は眉根を寄せ、会いたくもない知り合いに出くわしたような顔を作った。
「俺は馬鹿か」
 どうやらそうらしい。

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 ため息をひとつ。
 寝巻きを剥いでシャワーを浴び、すっかり慣れた手つきで戦闘服を着る。ドブネズミ色のズボンと黒いアンダーウェアを着て、その上から飛行機乗り風のジャケットを羽織り、編み上げブーツのストラップを縛れば一丁上がりだ。鋼は鏡を見ないから、容貌(かたち)の出来栄えは分かりはしないが誰もなんとも言ってこないということはこれで問題ないのだろう。中から鍵を挿して引き戸を開けて誰もいない廊下に出る。誰もいない道をいく。少し寂しいけれどそうそう悪いものでもない、ぼんやりと、ボクシングのことでも考えながら一人で歩いていくことは。
(/カット)

 今でも覚えている。
 初めてダウンしたのは、デビュー戦の時だった。1R1分42秒。大振りで回した左フックが空を切って下からショートアッパーを突き上げられた。
 らしい。
 気がついた時にはキャンバスに大の字になっていて、ホールの照明を見上げていた。レフェリーがしゃがみこんですぐそばで指を揃えてカウントしていた。跳ね起きたのは本能に近かった。レフェリーと目が合った。
 ――現役時代、黒鉄鋼は決してダウンの少ない選手ではなかったし、目の上もよく切って出血した。だが、その戦績の中で負傷によるレフェリーストップは一度もなされていない。不思議なものでレフェリーが試合を止めたがる選手というものがいて、べつに八百長というわけではないのだろうが、その逆もなぜかいた。
 鋼はその手のボクサーだった。
 どうもレフェリーはパンチをもらった時のボクサーがその瞬間にどういう目をしているかで試合の続行と中止を見極めているようなのだった。試合を止められにくい選手はみな、どこか狂気と熱意を眼球から吸い上げて唯一無二の輝きに変換しているような、そんな瞳をしていた。
 なので鋼は心置きなく、玄人からは口を揃えて「もらいすぎ」と言われるボクシングを我武者羅にやりまくって、わずか十戦でグローブを壁にかけたボクサーにしては多すぎるほどのダウンの経験を得たのだった。ダウンにはいろんなダウンがある。鈍い音を立てて腹部に突き刺さったボディブローによってずるずると崩れ落ちていくダウン。あれは痛い。テンプルにフックを回されて意識ごと旋転する錐揉みダウン。言語障害が残るのはこの手のダウンだ。尖った顎を撃ち抜かれたダウンはデビュー戦の鋼のように一瞬意識が飛ぶ。戻ってこれるかどうかが永遠に消えない白星と黒星の交差を決める。
 では、このダウンはどんなダウンだろう。
「――黒鉄さん?」
 鋼は立っている。そういう意味ではスタンディングダウンとも言える。レフェリーがいないのでカウントは始まっていないが、誰かが顔の前で手を振ってもそよ風ほどにも感じなかったろう。約束の時刻を過ぎ去った時計を見た瞬間で止まったような、そんな顔をしていた。
「――あの」
 一方ルイは鋼の目を盗んで同調し、転送室の四方に備え付けられた監視カメラからではなく、実際に目の前の状況を冷静に分析していた。ああ、これはまずい。すぐにそう思った。なにせ赤いのだ。赤は駄目だ。赤は効く。特に涼虎のようなタイプだと――赤は――
「なにか、おかしいですか」
 そう言って、涼虎は身にまとった赤いドレスのスカートの裾をひょいと軽くつまんだ。追い撃ちである。鋼の足元がぐらついた。
「いや――」
「似合っていませんか?」
 似合っていないわけがなかった。
 普段は鉄の白衣で押し通しているこの飾り気のない少女が、まさにおめかしと呼ぶべき装いで鋼の前にいる。真紅のパーティドレスは細身のカラダにあつらえたようにフィットしたワンピースタイプ。多段になった裾は一段下がるごとに薄くなっていき最後には半透明な素材へと切り替わっている。両手を包む手袋もドレスに合わせた赤色。赤はいい、だがそれ以上に涼虎自身の肌がよかった。毒々しいまでのワインレッドをさらりと拒む絹肌は穢れを知らない潔白で、そのコントラストはどう考えても誰かが計算していたとしか思えない。その首筋に添って流れる緑がかった黒髪に触れられるなら腕のもう一本や二本は惜しくないように思えた。半ば冗談、しかし半ば本気で。
 綺麗だった。
「黒鉄さん?」
 いつもよりも赤い頬、そして唇に塗られた朱色が鋼に女が化粧をする意味を無理やり押し込むようにわからせる。
『だめだめ』
 ルイがこぽこぽと振動波で喋った。
『完全にダウンしてるよクロガネ選手。しゅーりょー。試合しゅーりょーでーす。TKO・1R負けー』
「はい?」
『敗因は女性経験の少なさですかね』
「うるさい」
 鋼はアタマを振って回復した。ちらっと涼虎を見て、
「い――いつも白いのが赤いのになってたからビックリしただけだ」
 その素っ気無い言い方にむっと涼虎がわずかに膨れる。
「白いのってなんですか。気に入らなかったんですか」
「気に入らなかったね」そんなことはなかった。
「じゃあ今度から黒いのを着ます」
「いやっ……黒……黒か……黒なあ……」
『なんか悪者っぽくない?』
「そうですか? ……もともと、これは殊村くんが貸してくれたドレスなんです」
 涼虎がまたスカートの裾をつまんで鋼にダメージを与える。
「私は、派手すぎると思ったんですけど……やっぱり、着替えてきましょうか」
 雷に打たれたのかと思った。思わず何も言えなくなった。
「確かべつのがあったはずです。そうだ、黒もありましたから、そっちにしましょう。黒鉄さんは赤いのと一緒にいるのは嫌なようですし」
「ちょっ、ちょっと待っ」
 言って、歩き出しかけた涼虎の手を思わず鋼の左手ががしっと掴んだ。
 そして目が合うと、それまでどちらと言わずに誤魔化しておいたくだんの一件が共鳴的に揺り返されて二人はぱっと視線を逸らした。
「――――」
「――――」
「……時間だろ? もう」
 固い声が出た。
 涼虎もそうだった。
「そう、ですね」
 お互いに視線を繋げられないまま、示し合わせたわけでもなく、涼虎がすとんと転送座にお人形さんのように座った。
「さ――先にいってますから。すぐに来てください」
 言って、カメラのフラッシュのような閃光が走ったかと思うと、もう次の瞬間には転送座は空になっていた。鋼はぬくもりも残っていない鋼鉄の座に着くと、頭上でこぽこぽ言っている培養脳を見上げた。
「――写真とか撮ってない?」
『ばーか』
 セントラルへの転送は、いつものそれより少しだけ荒っぽく思えた。

(カット)
 もっとも、娯楽施設であるセントラルまで鋼と脳波同調する射程距離を持たないルイにとっては、結局お留守番の形になるわけで、元々ふてくされ気味なことも無理はなかった。
(/カット)



 ○


 やめときなって、二人とも怒るよ。
 そう言ったのは殊村真琴だった。転送室へと続く通路を先をいく剣崎八洲の太鼓持ちのように付いていく。八洲は振り返りもしなかった。
「うるせーな、俺だってボクサーなんだぜ。セントラルで休暇を楽しむ自由くらいあるんだ。そもそもそのために作られたところだろうが?」
「それはまァ、そうだけどさァ」
「何か問題でもあるのかよ」
「だから、いくならいくで最初から一緒にいけばよかったじゃないか。こんな覗きみたいな真似したら怒られるって。僕はもうあの液体窒素みたいな目で見つめられるのは嫌だよ。まだ黒鉄くんに八つ当たりでどつかれる方がマシだ」
「おまえ結構タフだよな。……でもよ」と八洲はちらり、と振り返った。もう転送室は目の前だった。中には八洲のブレイン・スイと転送座が控えているはずだ。
「お前だって、あの二人が実際どうなのか知りたいだろ?」
 重油のような沈黙の後に殊村は答えた。
「知りたい」
「なら決定な」八洲は笑顔を見せた。殊村は肩をすくめて、
「揉め事は起こさないでよ? いまの君は正式には控えのボクサーであって来期の実験には参加しないんだから。見咎められて難癖つけられたらちょっと言い訳利かないよ。向こうは結局、お金でルールを買えるところなんだから。危ないよ? 君が思ってるよりもあの連中って」
「わかってるって。心配するな」
 八洲は言った。
「俺は超能力者だぜ?」
 嬉々としてお節介を焼きにいく友人の後ろ姿に殊村は静かな吐息を贈った。振り返りながらぶつぶつとアタマの中で考える。さて、自分が担当するボクサーがいなくなったとわかれば八洲のピースメイカーを務めるあの少女の機嫌はどうなるだろうか。
 八つ当たりは免れまい。殊村は覚悟を決めた。
 損な役回りであることは、前々から分かっていたつもりだった。



 ○


 要するに従軍慰安婦みたいなものか、と言ったら怒られた。でも結局そういうことだろう、と鋼は思う。
 セントラル・ヘヴン。
 そこは一番から七番までのラボが接触できる唯一の緩衝地帯。あらゆる行動には監視がつくが、その代わりに許された範囲でいくらでも羽目を外していいところ。飲み食いは自由で希望があれば男女問わず床の相手も呼べるらしい。そんなもの呼んだら二度と口を利いてくれなくなりそうな知り合いがすぐそばにいるので鋼は興味がないフリをしていたが、しかし内心では納得していた。その下衆っぽさに。生命を張って新薬を治験する半ばギャンブルに参加してくれている以上は持て成すのが当たり前――そこで「惜しい」と思わせなければボクサーの心はリングから離れていく。誰も彼もが戦闘狂いなわけもなく、結局は土臭い欲望からしか闘争本能は生まれない。黄金は糞にも似て、蝿が止まった行き過ぎたでその価値は絶えず止まらず変動する。
 虫唾が走った。
 だから鋼は、実際にセントラルに敷き詰められた絨毯を踏んで、眩いシャンデリアに顔を打たれて、右手に親しみ左手にグラスを携えた紳士淑女の面々にお愛想を振りまいていくことが即効で嫌になってしまった。完全にふてくされたガキの態度のそれで涼虎の斜め後ろをくっついてダンスホールの中をジグザグに俯きながら進んだ。
 気に入らなかった。
 見たこともない顔で笑う涼虎も気に入らなかったし、当たり前のようにジロジロと鋼の空っぽの袖に鬱陶しい視線を絡めてくる金持ちにもウンザリした。こいつらの神経は「金さえ払えばいいだろう」の単細胞でできていてそこから1ミクロンだって進んじゃいないのだ。そして何よりも気に入らないのは、こいつらから受け取った金なんぞ目の前でズタズタに引き裂いてやると思いはしても、結局は彼らなしでは元の木阿弥になるしかない無様な今の自分だった。
 もうすぐリングに上がれる。
 その確約がなければ、耐えられなかった。
 ここまで気分を害するものかと思う。下らない、おべんちゃらと上っ面の気遣いだけがぬるぬるとして流れていく場所で静かに白痴じみた微笑だけを浮かべていればいい、そこまでわかっていながら鋼にはそれができない。今すぐ左拳を自分は今日、決して死なないのだと思い込んでいる連中の鼻っ柱に埋め込んでやりたい。間違いなくベアナックル――素手でそんなマネをすれば相手は死ぬだろうが。よくて鼻骨骨折。
 俺は違うぞ、と思う。俺はお前らがぶら下げた餌なんかに食いついたりはしない。そんなものは偽物だ。仮の契約であって仮の欲望だ。俺はそんなものはいらない――だが俺はいま、こいつらの懐から流れた金で一丁前みたいな顔をして服を着ている。畜生、いっそいますぐここで全裸になってやろうか。何かが変わる気がする。
 そこまで考えてとうとう殴るか脱ぐかの瀬戸際まで追い込まれた時、それまで周りを取り囲んでいた人垣がさあっと分かれて、昆虫じみた喧騒が少しだけ止んだ。涼虎に呼ばれた気がして鋼はうっすら顔を上げた。
 目の前に、白いドレスに身を包んだ少女が立っていた。
 どこかで見た顔だった。


 肩まで伸ばした色素の薄い髪は天然の茶色で、稀少動物のような毛並みをしていた。すっと通った鼻筋は大人びているが、その両目は小動物のようにくりくりしていて悪戯っぽい。高慢さと恭しさを兼ね備えた愛嬌はそこらの乞食の安っぽい生命よりもよほど重そうだった。
「あんた……! あんたは、ええと」
「知らないはずよ」
 白いドレスの少女は笑った。
「名乗ってないもの」
 その微笑で鋼はすべてを思い出した。呆然とする。
 隣にいる涼虎が訝しげに呟く。
「……知り合いですか?」
「いや、いつも俺の試合を見に来てくれてた子なんだよ、デビューしたての四回戦の頃から。凄いな、いいとこのお嬢様だったのか」
「そうみたいね、でも驚いた。まさかあなたがいるなんて」
「いや俺も……」
 鋼はしげしげと少女の全身を眺めた。
「驚いたよ。……枕木、この人なんて言うんだ?」
「……新藤悠里。出資者の一人のご令嬢です」
「そして、枕木涼虎博士の数少ない幼馴染」
 悠里は笑った。
「どこまで喋っていいのかな?」
「何も、話す必要はありません」
 涼虎は珍しく、敵意混じりの声音で言った。
「……そ? でも私は勝手に名乗るけどね。よろしく、黒鉄鋼くん」
 ためらわずに左手を差し出す。鋼はそれに応えた。握手越しにチカリと目が合う。
「遠慮しなくていいよ。大金持ちの娘って言ったって、実の娘じゃないもの」
「……そうなのか?」
「うん。私は孤児でね、今のパパにもらわれたんだ。……いきなり重い話でごめんね? でも気にしなくていいし、もっと黒鉄くんと仲良くなりたいからとっととバラしたの。巻き添え喰った人には悪いと思うけどね」
 巻き添え。
 それの意味するところを、鋼は涼虎の顔を見ることで確かめる勇気はなかった。
 いつの間にか、吐き気は消えていた。
「…………」
「気にすることなんてないのにね、孤児なんて、今時。そんなこと気にするほど余裕のある人間、もうこの国にはいないもの。そう思わない? 黒鉄くん」
「え? ああ……どうだろうな。そうかもしれないな」
「その右腕だって、べつに誰も同情も興味もくれなかったでしょ?」
「…………」
「ふふ」
 悠里はフリルのついた綿のようなスカートの前で手を組んで、んんっと少し身体を伸ばした。
「身体が凝っちゃった。動きにくいね、こういうの。そっちはどう? 動きやすい?」
 鋼はいま自分が服を着ていることに気づいたような顔で、ジャケットの裾をつまんだ。
「ああ、うん、まあ、普通」
「そうじゃなくてさ」悠里はくすくす笑う。
「古きよき拳闘の日々はどうなのかな、ってこと」
「拳闘?」
「だってそうでしょ。いま、あなたはボクシングをしているんだから。ブラック、がその前につくけど、大したことじゃないよそんなの」
 悠里は、ちらっと黙ったままの涼虎を見やった。
「黒鉄くんが引退した時は悲しかったな……」
 そこで鋼は、ようやっと、ずっと前から聞きたかったことを吐き出した。
「なんで、俺の試合を?」
「好きだったから」
 鋼は石のように黙り込んだ。悠里がそれを見て夢のように笑う。
「ふふ、嘘。ホントは友達にビデオを頼まれてたの。デビュー戦からあなたのファンでね。でも見てるうちにすっかり私まであなたのパンチの虜になっちゃった」
 顔を寄せ、
「だからあの事故は本当に悲しかった。これからって時だったのに……」
「……彼は、そんなに強かったんですか?」
 涼虎が言った。どことなく二人と一人の間に流れていた緊迫が弾けて、不必要なまでの注目を呼んだ。
「それを知らないことが罪って感じ」
 と悠里は言って、出し抜けに鋼の空っぽの袖を掴んだ。そしてそのジャケットの肌触りからかつて見た何かを呼び戻そうとするかのように、何度も指先で撫でた。鋼は身を固くして、それに耐えた。
「性格や経歴やファイトスタイルを話題にすれば、黒鉄くんを好きになれない人はたくさんいたと思うよ。ガード甘いし、パンチもらいすぎだし、ボクシングを知っていれば知っている人にほど、あんまり好かれてなかったよね。雑誌とかでも辛口コメントされてたし」
 読んだのか、と鋼は暗い気持ちになる。結構いろいろ、大言壮語を吐き散らかした覚えがある。
「それでも、あのリングの上で、焼いたパンみたいに汗で身体を光らせて相手に突っ込んでいく背中を見て、私は思った。彼は、人間を殴り倒すことにかけては神様みたいに天才的だって。骨まで壊すボディブローと意識を天井近くまで吹っ飛ばすアッパーカット。……スマッシュって言うんだっけ?」
 そう、スマッシュ。
 懐かしい名前。
 黒鉄鋼の、一番得意な、サンデーパンチ……。
 悠里は夢見るように続けた。
「雑誌にはこうも書いてあった。……彼と対戦した相手は負けて目が覚めたようにボクシングから遠ざかった選手もいれば、一階級上げてベルトを掴んだ選手もいる。いずれにしても彼と拳を合わせた人は、そのパンチに心のどこかを変えられてしまうんだって」
「そんなこと書いてたのかあの記者……勝手なこと言いやがって」
「いいじゃない、その通りだと思ったし。知ってる? あなたが倒したチャンピオン、引退したんだよ」
 はるか昔に、後輩の楠春馬から聞いたような覚えがある。



 そりゃそうだろうな、と思った。
 あんな振りの大きいアッパー一発もらってベルト取られちゃ、やめたくもなる。
 あの一瞬は、お互いが気づけないくらい速かった。
 何かを思うより速く、拳が出た。
 鋼はすぐに自分が勝ったなんて信じられなかったし、向こうだってそうだろう。
 再起しようと思えば元王者にはできたはずだが、そうしなかったということは、それだけ徹底的にあの男のプライドを、鋼の拳がぶち壊してしまったのだろう。恐らく。



「あの人が引退したくなるのもわかるよ。それぐらい、あなたのボクシングは凄かった。世界だって狙えると思った。ちゃんと練習して、技術を上げて、しかるべき時にしかるべきリングにいれば、きっとその腰には金色に輝く世界チャンピオンのベルトが巻かれるはずだ……って」
 そう、そして、
 ついたあだ名が、
「黄金の右……って、ファンの間では呼んでた。なかなかいないよ、そんな新人」
 涼虎の視線を、頬に感じる。
 だが鋼は振り向かなかった。
 魅せられたように、悠里の言葉に聞き入っていた。
「でもよかった。あなたはこうしてまた戻って来たんだもの」
 悠里の小さな手が、ぎゅっと空っぽの袖を握り潰した。
 骨が軋むほどに、強く、握った。
「今度は負けないでね、黒鉄鋼くん」
 じゃね、と軽く言い残して、新藤悠里は去っていった。最初からいなかったのではないかと思えるほどの唐突さだった。
「……変わった子だったな、いまの」と鋼は言った。
「なあ枕木。……枕木?」
 見ると涼虎は、他人のようにその場を早くも立ち去ろうとしていた。鋼は人垣を左手一本で掻き分けて、やっと赤いドレスに追いついた。
「どうしたんだよ。……ひょっとして機嫌悪いのか」
「そうかもしれません」
 珍しく、涼虎は認めた。
「……そりゃ、難儀だな」
 責めるように涼虎が鋼を見る。
「それだけ?」
「だって他に、どう言えばいいんだ」
 涼虎は黙った。そしてウェイターの一人から琥珀色の液体が注がれたグラスを受け取ると、一息で飲み干した。それで済ますのかと思えば、空いたグラスを受け取ろうとしたウェイターからクロスカウンターで琥珀色の液体が満ちたグラスをかっさらった。まとめて三つ。
 曲芸師のように続けざま、グラスを呷って空にする。
「おいおい」
「きっと私が嫌な気分になっているのは、あなたの試合を見たことがないから、です」
 空になったグラスに、涼虎の顔が歪んで映っている。
 鋼は、気のないジャブのように言った。
「……見たいのか?」
「わかりません」
「……無理に見るようなものでもないさ。血だって出るし、傷は増えるし、いいことねえよ」
「……なんだか、いいですね」
「え?」
「何かをやってきた人の、重たい言葉に聞こえます」
「俺はべつに説教なんか……おい?」
 涼虎がふらりとよろめいた。赤色が瞬いて、吸い込まれるように鋼の手の中に収まった。
 触れるような距離で目が合った。
「……枕木?」
「踊りませんか、黒鉄さん」
 涼虎の頬が、差した朱よりも赤くなっている。
「みんなそうしていますから」
 言われてみれば、確かに二人がいるのはダンスホールであって、すぐそばでは紳士淑女が手と手を取り合って音楽に合わせてステップを踏んでいる。しかしそれは、自分たちには関係のない世界のことだったはずだ。
「いや、俺は、ダンスなんて」
「じゃあ」
 涼虎の左手が鋼のそれをまさぐった。
「手だけでも、繋ぎましょうか」
 鋼は息を呑んだ。
「お前、酔ってるだろ。……酔ってるんだろ?」
 涼虎は答えずに、身を離し、左手一本で鋼と繋がったまま、すっと、
 自分の右手を、背中に回した。
 鋼は覚悟を決めた。
 途端、震えるような、くすぐったい恐怖がこみ上げてきた。
 涼虎が、一歩踏み出す。鋼はそれを受けて、一歩下がる。
 きっと最後までそれぐらいしかできないだろう。
 鮮やかな熟練の踊りに耽る男女の間で、忘れ去られたように、二人、拙い足を運んでいく。緩やかなピアノの優しい音色が時間を殺してくれていた。
 少し前まで、自分がこんなところに流れ着くなんて思ってもいなかった。自分の人生は、あの日に確かに終わりを告げて、後は狂ったようにただ、毎日を、お情けで与えられた余生をひとつひとつ潰していくだけの人生が待っているのだと思っていた。それでいいと思っていた。鋼の気持ちなど関係なく、そうなるしかないはずだった。
 なら、いま、目の前にある現実はなんなのだろう。
 夢なのかもしれない。
 ふっと真実が忍び寄ってきて、この世には超能力も地下世界もないのだと告げるのかもしれない。それを受けた鋼は少しずつ現実味を取り戻して、夢を信じられなくなって、はったりと気づいた時にはもうあの六畳間の上に転がっていて、相変わらず右腕は失われたまま、暗い天井と通り過ぎていく車の排気音と選りに選りすぐったエロ本だけが黒鉄鋼を待っているのかもしれない。
 もし、そうだとするなら。
 この左手から感染してくる温もりは、ずいぶんいくらか手の込んだ脳髄の悪戯だ。
 たまには脳のやつも憎いことをする。褒めてやってもいいくらいだ。
 そうとも。
 ずっと、このまま、何も起こらなければいい。
 涼虎の瞳と絡みついた視線を味わいながら、鋼はそう思った。
 このままでいい。
 このままで――
「黒鉄さん」
 涼虎が言う。その俯き加減の顔に、お前は夢かと問いかけたくなる。
「ボクサーは、フットワークが大事なんじゃないですか?」
 何を言われてるのか一瞬わからなかった。
 どうやら、からかわれているらしい。
 鋼は笑った。
「ボクサー相手は何度もしたけど、お前の相手は初めてだからな。緊張してるんだ」
「元王者の目から見て、私はそんなに強く見えますか?」
「ああ、強そうだね。一発大きいのもらったらノックアウトされちまうな」
 涼虎は笑った。そして、すぐにその裏に影が走った。
「私は、あなたが思っているほど強くもないし、立派でもありません。いつも悩んでばかりで、臆病で、……悔やんでばかりいるんです」
「枕木……」
「黒鉄さん、一つ聞いていいですか?」
「ああ」
「ここでの生活は、辛くないですか。来なければよかったと思いますか?」
「何言ってんだ。そんなことあるわけないだろ。……枕木?」
 とすっ、と。
 涼虎は、アタマを鋼の胸に押し当てた。
 心臓の音を、聞かれたと思う。
「……私はやっぱり、卑怯者ですね」
「枕木……?」
 涼虎は身体を離して、額に手をやった。
「少し疲れました。お水飲んできます。黒鉄さんはちょっと散歩でもしててください」
「散歩って、お前な」
「踊りたい人がいれば、誘ってきたらどうです?」
「バカ、いねえしそんなの」
 それを聞いて、涼虎はふっと笑って、
「またあとで」
 去っていった。
 鋼はふらり、と飲んでもいない酒の酔いでも醒ますように、覚束ない足取りで歩き出した。緩んだ口元を左手で覆う。何度もリフレインするのは、あの笑顔。
 今日はきっと、いい日になると思った。

       

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