Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 いきなり人前で裸に剥かれたようなものだと、思ってもらって構わない。
 悠里が涼虎に言い放った言葉には、それだけの威力があった。
 ――それを知らないことが罪って感じ。
 何も、
 何も言い返せなかった。
 悠里と鋼が、シャンデリアの光を浴びて、懐かしそうに話をしている間に自分は入っていけなかった。
 自分は、枕木涼虎は黒鉄鋼のセコンドなのに。
 ブラックボクサーには必要不可欠の、ピースメイカーなのに。
 何も、言えなかった。
 ただ、黙って、自分の知らない世界について話す二人の話を聞いていただけ。
 水なんて、少しも飲みたくなかった。ただ耐え切れなくなって、逃げ出してきてしまった。
 鋼の顔をまともに見ることもできず。
 現実を直視することもできず。
 逃げ出した。
 周囲の喧騒が遠く聞こえる。出資者に囲まれて談笑する、どこかのべつのブラックボクサーの姿が見える。涼虎は度重なる拷問を受けた人間のように虚ろな目の端でそれを捉えていた。
 かつて日本王座に就いたことがある男は誰もが、あんな風に笑っていたのだろうかと思う。
 借り物のドレスのスカートをぐしゃぐしゃになるまで握り締め、唇を噛む。
 悠里は、正しい。
 自分は、ボクサーだった頃の黒鉄鋼を知らない。
 それは確かだ。映像だって見たことはない。取り寄せようと思えばそうできたのに。見ようと思えば見れたのに。自分は、黒鉄鋼が闘うところを、自分の手持ちのブラックボクサーがどんな人間だったのかを、本当の意味で見たことがない。
 ――見たいのか?
 ――わかりません。
 嘘だ。
 本当は見たくなんてない。考えただけでも身体が震えてしまう。パッと点けたテレビに偶然にも彼が映っていたらと思うとニュースひとつ見る気にならない。もし、真っ黒なグローブを着けて、自分とまったく同じ体重の相手と懸命に殴り合っているその姿を見てしまったら、気づいてしまうから。
 自分が何をダシにしたのか。
 自分が何を踏み台にしたのか。
 だから、見れない。見たくもない。
 恐ろしくて――

 スカートを掴んでいた手を、離した。
 毒のような疑心が、冷えた脳髄に根を張る。
 それだけだろうか、と思う。
 自分は黒鉄鋼のことを何も知らずに、彼を生き死にのやり取りへと駆り出している。その傲慢さが、その身勝手さが自分でも許せなかった。だから、逃げた。
 本当に、それだけ――?
 それとも、自分は、何かべつの感情を抱いているのだろうか。
 美しい悠里の微笑みに水をかけられたように動けなくなっていた黒鉄鋼を見る自分の目には、いずれ血まみれの未来に対する罪悪感しか宿っていなかったのだろうか。
 踊ろうなんて柄にもないことをいきなり言い出した自分には、本当に、弱い女の薄ら寒い策略がなかったと言い切れるのか。
 苦い味が喉にこみ上げてきた。
 悪魔と契約して魂を売り渡した人間は、こんな気分がするのだろう。
 相手のぬくもりがまだうっすらと残っている左手を見つめて、涼虎は思う。
 もし自分があの男(ひと)に好意を抱いているとしたら、それは、ただ許してもらうためにこの薄汚れた脳髄が捻り出した媚態という名の策略だ。けだもののおぞましい本能だ。
 死ねばいい。
 こんな自分なら死ねばいい。心も魂も砕けてしまえばいい。
 彼の生命の重さも知らずに、ここまで穢れる魂ならば。
 もはや、足元の絨毯とドレスの赤の区別もつかない。酒の魔力もあったのだろう、亡霊のように覚束ない足取りで涼虎はホールを彷徨った。自分が飼い殺しにしているブラックボクサーから逃げているのか、それとも彼を探しているのかもわからないまま。そして、自分のラボのナンバーを袖に刺繍されたジャケットが視界に映って、顔を上げた。
 だが、見つけたジャケットの持ち主は、黒鉄鋼ではなく。
「あれ……?」
 剣崎八洲は、ここにはいないはずだった。

 ○


 その手を取らないやつがいたら嘘だと思う。


 べつに、大した話じゃない。
 高校に行きそびれた。
 中三の冬に両親が離婚して、そのドタバタで、そのまま住んでいた家に残るかどうかも怪しく、結局離れることになって、裸同然で東京に出た。そのまま、どこかの高校にもぐりこむこともせず、学力も足りず、八洲はスーパーの品出しのバイトに入った。
 きっと、物凄く努力すればなんとかなった程度の話だとは思う。
 壊滅していた学力は一年二年でどうにかなるものではなかったかもしれないが、そういうやつら向きの学校だってあったわけだし、あるいはいっそ不服な親元から離れることだって、選ばなければそう道がなかったわけじゃない。
 たとえば、ヤクザの使い走りになるとか。
 たとえば、公営ギャンブルで喰いつないでみるとか。
 たとえば、……ボクサーになる、とか。
 もちろんボクサーと言ったって、チャンピオンにでもならなければその道一本で喰っていくことなどできはしない、そんなことは八洲にもわかっていた。
 それでも、一番進みたかった道を思い起こして悔やめと言うなら、ボクサーだったろうと思う。本当はどんな男だってそうじゃないのかと思う。拳ひとつで自分の前に立ちはだかる男を軒並みぶち倒して食い扶持を稼ぐ。そんな夢を一度も見たことがない男なんて、本当に男と言えるのか。
 八洲は、そういう男だった。
 元々、鋼に突っかかっていったのだって、やつが自分の進めなかった道を歩いてきた男だったからに他ならない。
 八洲はボクサーにはならなかった。何度も何度も近所のジムを窓から覗き込みながら、誰か声をかけてはくれまいかと期待しながら、とうとうサンドバッグを叩いたことさえない。
 両の拳で自分の世界を変えることをせず、時給八百二十円の誰にでもできる仕事をして、たった一度の青春を喰い潰した。
 結局、そのささやかな生活は弟の煙草の不始末で自宅が全焼し、あっけなく終わった。
 母と弟を失った日、八洲はヘルプで入ったレジの打ち間違えで三年続けたバイトをクビになっていた。
 二度目のチャンスも、八洲は蹴った。
 泡銭うずまく世界から目を切って、父親に泣きつくこともせず、それから半年、畜生のように暮らした。飲食店の残飯を漁り、おがくずのにおいのする毛布をまとった。生ゴミから出るあたたかいガスを求めてゴミ箱の中で眠った。
 その暮らしは、ある日の明け方、一人の白衣を着た少女の差し出した手によってあっけなく終わりを告げた。
 彼女は言った。
 こっちへ来ませんか、と。

 その手を、
 その手を取らないやつがいたら嘘だと思う。

 それが、枕木涼虎との、そして、ブラックボクシングとの出会いだった。
 八洲に訪れた三度目のチャンスは、ほんの少しだけ、優しかった。
 だから最近、生命の恩人の鉄仮面が錆びついてきたように思えたのは、彼女に救われた身としてやっぱり心配だったが、ようやくわかった。
 杞憂だと。
 ダンスホールで鋼に手を差し出す涼虎の顔を見て、それがわかったのだ。
 鋼と涼虎はうまくやるだろう。
 自分には、彼女にあんな顔はさせられない。
 涼虎も最初は短くない付き合いと、そしてやはり本物のボクサーが女からは理解しがたい人種だったということもあって、だいぶこちらの肩を持ってくれたが、それもそろそろ限界、あの鉄仮面に打たれたボルトはタガが外れる寸前だ。
 願わくば、その仮面の下にある顔が、つまらないほどあっけなく、いつまでも、笑っていて欲しい。
 そう思う。
 飛行機乗り風のジャケットに両手を突っ込んで、見えない誰かに肩をそっと押さえつけられたように、八洲はため息を深々と吐いた。
「ったくよお」
 煙草でも吸わなければやっていられない、と八洲が思ったのも無理はない。



 ホールの喧騒と輝きを避けるように、八洲は外縁の通路に出た。扉一枚挟んだだけで、寒くなるような沈黙が下りていた。薄暗い照明と灰色の床に挟まれて、八洲はジャケットの懐をごそごそ漁りながらトイレに向かった。
 基本的に、ブラックボクサーは禁煙を勧められる。なぜならタバコというものは脳に悪影響を与えるものだからだ。
 アイスピースと煙草はピースメイカーたちによれば直接の影響はさほどない、ということになっているが、それでも『万が一』が起こることを朝起きてから寝るまで心配していなくては呼吸も出来ない人種にとっては、見過ごせないことなのだろう。ギった煙草で震える身体に暖を取ったこともある八洲からすればちゃんちゃらおかしい。煙草ぐらいで死ぬなら死ねばいいのだ。もっとも、連中が心配しているのはブラックボクシングへの影響であって八洲の生き死にではないわけだが、それはそれでムカつく。
 なので八洲は、なんの気兼ねもなくあたたかいホールで高級煙草をスパスパやっている連中の脇をすり抜けて、一人寂しくトイレで安煙草をくゆらせにいくところなのだった。うすうす予感していたとはいえ事実上の失恋もあいまって、どこからどう見てもいいとこなしなのだが、なぜだかどうして、それほど悪い気分はしなかった。
 奥歯のように薄暗い僻地にあるトイレを見つけて中に入り込む。目を伏せて入ったために気づくのが遅れた。八洲はぎょっとしてその場に釘づけになった。
 洗面台で、半裸の女と男が身体を押しつけあっていた。
 うわあ、と思う。いくらなんでもここでやるか? そういう部屋ならいくらでも上にいけばあるのになんでわざわざここで? そういうシュミの人たちなのか? よっぽど背中を向けて出て行ってやろうかと思ったが、目の前の光景のインパクトがあまりに強すぎて思考がショートしていた。なにやってんだホントにもう。
 八洲から見て左半身になっていた男がちら、と八洲を見た。八洲はその時、ようやくそいつがまだガキと言っていい、せいぜい高校生ぐらいの年齢で、そして飛行機乗り風のジャケットを着ていることに気づいた。襟に毛皮がついた、くすんだ銀色のジャケットはブラックボクサーの備品のひとつだ。
 その若いボクサーは、トイレの入り口でぼけっと突っ立っている八洲を確かめて、その目を糸で引いたように緩めた。
 八洲も男である。
 それが「お前に俺と同じことができるのか?」という挑発行為に他ならないと一発で気づいてアタマにカアッ血が上った。
 売られた喧嘩は買うほかない。
 ここで逃げ出すくらいなら堂々と個室に入って深々と煙草を吸ってやる。
 あとあと気まずくなってコトが上手くいかなくなっても誰が責任なんぞ取るものか。
 八洲は鬼のような顔で愛と愛がぶつかりあっている胸糞悪い現場の前を通り過ぎ、個室に入ってどっかと便座の上に腰かけた。精神衛生上あまりよろしくない環境音を耳にしながら安い煙草に左手の指先で火を点けようとしたが、思っていた以上に動揺していたのか上手くいかない。仕方なくライターを取り出してさっさと点火した。クスリに頼らなければ煙草ひとつ吸えない超能力者というのもなんだか少し物悲しかった。
 幾筋もの紫煙が、悪臭を消して天に昇った。
 八洲が煙草を三本根元まで吸いきる頃に、外の情事が終わった気配がした。その頃にはもう八洲はいまさら出るにも出れず、完全にグロッギーになっていて、五十も歳を喰ったような顔になって項垂れていた。十数分前の自分に教えてやりたい。意地を張らずにさっさと消えろと。そうすればこんなオーブンに入れられて焼かれるような生殺しの目に遭うことにはならなかったのだ。鍵を開けて少し戸を開けたり床の隙間から覗き上げたりしなかった自分を褒めてやりたい。畜生、失恋したての男になんて仕打ちをしやがる。これが神様のやり方か?
 一刻も早く出て行って欲しい。衣擦れの音を聞きながら八洲はそう思った。外の二人が、何事か囁き合っている。へえ、人間の言葉しゃべれるんだ、と八洲はクサった。それぐらいさっきまで凄かった。
「……すごい、ブラックボクサーよりも向いてる仕事があったんじゃない?」と女が言う。
「まさか。これが俺の天職さ」カチャカチャとベルトを締める音。
「こんな危険な仕事が?」
「他の仕事は他の連中がやればいい。俺は、他の誰にもできないことがしたかったんだよ」
「いいね、それ」女が笑う。
「そういう男って好き。見ていて飽きないもん」
「見てるだけならな」
「ね、どうして燎はさ、ブラックボクサーになったの?」
 八洲の濁った目がトイレの壁に書きなぐられた矢印に翻弄されている。なぜとっとと出て行かないのか。こんなところで立ち話するような下世話をいったいどこで覚えてくるのか。
 燎と呼ばれた少年が答える。
「親父がうちにピースメイカーを連れてきたんだ。その場でノッカーを、ああ脳の中のブラックボックスを覚醒させる励起剤なんだが、それを飲ませられて一発合格さ」
「じゃあスカウトされたってこと?」
「そういうことになるな」
「へええ、やっぱ違うんだね。あなたは何か持ってるんだ。普通のボクサーは借金苦とか、自殺志願者とかから選ばれるらしいけど。でもそういう心が弱い連中は、あんまりアイスピースに適合できないんだって。だから最近はスカウトなんか始めたのかな」
「ま、当て馬ってのは弱ければ弱い方がいいからな」
「なんでェ?」
「負けても誰も悲しまない」
「あはは、言えてるゥ」
 女がハイヒールをパイプか何かに当てる音がした。洗面台に座っているらしい。
「でもよかった、あなたみたいな素敵な人がボクサーで。正直言って、超能力者の殴り合いなんてあたし興味なくってさ。なのにうちの馬鹿親が熱上げちゃって、将来は私たちのムスメも超能力者にィ、とか言ってて。そんなことあるわけないじゃんね。くっだらない」
 吐き捨てるようなセリフには、親なしでは生きていかれない子供の鬱屈が滲んでいる。
 扉越しでも、顔を見なくても、その気持ちは八洲にはよくわかった。
 燎が笑う。
「ま、せいぜい俺に投資するように言っとけよ、間抜けなパパとママに」
 そこで女は少し黙った。
「……ね、ちょっと聞いたんだけど、あなたが今期の最初の試合に出るってホント?」
「ああ、そうらしい」
「その相手がさ……元ボクサーって話は? あ、つまりホントの殴り合いのって意味」
「合ってるよ」
 八洲は思わず立ち上がりかけた。が、出て行くよりも黙って座っていた方が話を詳しく聞き出せると思いなおして便座に静かに腰を下ろし直した。
 対戦相手が、元ボクサー?
 燎は、壁に背をもたれかけさせたらしい。
「黒鉄鋼。元日本……階級どこだったかな、とにかくどっかの軽量級のチャンピオンだったやつ」
「チャンピオン?」
「ああ、まァでも大したことねえよ。世界を獲ったわけじゃない、防衛戦だってやってない」
 八洲の拳がめきりと鳴った。
 大したことない? 世界を獲ったわけじゃない?
 ――それが、何もしていない人間が言っていい言葉か。
 女が、恐る恐るといった感じで、尋ねる。
「……あのさ、違ってたらゴメンなんだけど、あの、そのなんとかって人、事故で腕がなくなったって。で、その事故っていうのが……」
 ああ、と燎は笑った。
「俺がやったんだ。――ざまあねえよな、あの時に死んでりゃラクだったのに」
 八洲は、落書きだらけのドアを蹴破った。





 蝶番がへし折れてばったりと倒れこんだ扉を、どこか冷めた自分が眺めていた。だが、身体は勝手に動いていく。映画でも見ているような遠い気持ちで、八洲は二人の前に立った。がりがりに凝った眼球が男の薄ら笑いを捉えて動かせそうになかった。
 てめえ、と絞るような声が出る。
「いまなんつった」
「な、なにコイツ……キモッ、マジ意味わか」
 八洲はキレた。
 洗面台の鏡が不可視の波動を喰らって次々と割れていき、そばにいた女が悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。一名脱落。
 燎が、組んでいた腕をほどき、壁から背を離す。その目が八洲のジャケットの袖にある数字を見る。
「セブンスか。確か黒鉄のところのラボだな」
「そんなこと聞いてねえ」
「そうカッカするなよ。これでも飲んで落ち着けって」
 燎はポケットから缶コーヒーを取り出して、それを八洲に放った。
 その缶が、何もない空中で破裂した。
 アメーバのような黒が八洲の視界の八割を一瞬で殺し尽くす。八洲は怯んだ。燎が踏み込む気配。
 辛うじて間に合った八洲の右ガードに男の左フックが叩きつけられた。ライト級はある体格の八洲の爪先が浮いた。
「……!!」
「悪い悪い、力の制御がまだできないんだ。ルーキーなんでね、大目に見てよ、先輩。大目にさ」
 男がすっと構える。左拳は軽く伸ばし、右拳は顎の前のオーソドックス・スタイル。軽くフットワークを取って揺れるその体格はせいぜいバンタム級のそれ。
「ボクシングでもやってみる? ボクサーらしくさ」
 自分のモノとは思えない声が出た。
「お前はボクサーなんかじゃねえ」
「どうだろう、肩腕がないやつよりはマシだと思ってるけど」
 急転直下、八洲は右ストレートを撃った。
 が、撃ち抜いたのは虚空。
 アタマを下げて姿勢を低くしていた燎がにやりと笑い、右ショートアッパーで八洲の顎を突き上げた。
「ぐっ」
 ダメージはそれほどなかったが、しりもちを突いた。リングの上ならダウンを取られるところだ。八洲は立ち上がって、顎を撫でた。頬の裏から血の味がする。
「この野郎ォ」
「わかってないな、おまえらなんかじゃ勝てないんだよ、俺には」
 男が素早くジャブを放ってくる。八洲の顔が衝撃で弾けた。
「つっ!」
「だいたいさ、鬱陶しいんだよ、ベルトとか、栄光とか、そういうのさァ」
 燎は、笑いながら八洲を殴る。ジャブ二連発からの左ボディ、ガードが空いたところに右ストレート。
「王者とかなんとか言ってるけど、あんなのそれだけだからね? べつに国一個持ってるわけでもねーし、世界チャンプになれりゃ儲かるのかもしれないけど、たかだか日本王者くらいでゴチャゴチャと……くだらねえよ」
 起死回生の八洲の右ストレートをバックステップでかわしざまに左フックの置き土産。ボディを打たれた八洲の口から泡が飛ぶ。
「あんな狭苦しいリングでグローブつけて殴り合って、強いだ弱いだ言っちゃってまァ飽きないもんだよな。どんなに切れるパンチでも拳銃持ってこられたら土下座して命乞いするしかないし、そもそも寝技も関節もない格闘技にある意味ってなに? おのれの拳二つで挑むことに意義がある! ……ってかァ? へっ、馬鹿馬鹿しい。勝てなくても頑張ればそれでいいなんざガキのお遊戯とレベルが一緒だっての」
 もはやグロッギー状態、ガードを固めて亀に成り果てた八洲にブロックの上から容赦なく、燎の右ストレートが突き刺さる。
「だからさ、はっきり言っておいてくれよ黒鉄サンに。右腕無くしててめえでまともにマスもかけねえからヒマしてんのはわかるけどさ、落ちこぼれが俺の世界に侵入してくるのはこっちからしたら目障りでしょうがねえんだわ。大人しく生活保護でも受けて余生を過ごしていればいいんだよ。……あんたはもうボクサーなんかじゃないんだから、ってな!!」
 もはや反撃する意思が見られない八洲に燎は左のストレートを叩きつけた。その肉の感触に満足し、拳を引き戻そうとした。
 が、できなかった。
 ぞっとした。
 八洲の左が、燎の左を掴んでいた。
 交差する腕越しに、ぎらぎらとした両目が輝いている。
 やばい。
 そう思った時にはもう遅かった。
 絶対に離さないと固く誓った八洲の左に動きを封じられた燎の顔面に、極限まで圧縮された剣崎八洲の右拳が突き刺さった。
 顔面の皮膚が伸びるほどの一撃だった。
 殴り抜けざま、後頭部から倒れこんだ燎に、八洲は吐き捨てた。
「ボクサーじゃないのはお前だけじゃない。……俺もだ」


 燎がふらつきながら立ち上がる。まだ愚かにもガードを上げようとしている。馬鹿が。完全に足にきているガキ一匹を仕留め切れない八洲じゃなかった。勝負は、ただ握った拳を振り回すだけの安い喧嘩にもつれ込んでいた。洗面台のそばにしゃがみ込んでいた女はもういない。八洲が立て続けに決めていく左右のボディフックの見事なラッシュの目撃者は、もうお互いしかいなかった。その猛攻に、たまらず燎が嘔吐した。構わずその顔を八洲は殴り抜けた。子供が見ていたら泣き出していただろう。それぐらい苛烈で一方的な攻撃だった。
 だが、泣いているのは八洲だった。
 悔しかった。
 何がそんなに悔しいのか。目の前の自惚れたガキの安い啖呵か。それとも腕を切断されボクサーの夢を奪われた黒鉄鋼への同情か。あるいは、今さっき自分で吐いたセリフがそっくりそのまま自身を傷つけていたからか。
 そうとも、俺は、ボクサーじゃない。
 ボクサーに、なれなかった。
 いや、ならなかったのだ。
 あと、ほんの少しの勇気が無くて――
 あと、ほんの一歩が踏み出せなくて――
 もし、あの時、あの氷漬けにされたような両足が前に進んでいたら、いまの自分は何かが変わっていたのだろうか。
 あのダンスホールで涼虎と手を繋いでいたのは、自分だったのだろうか。
 そんなラチの開かないイフの話に溺れながら、八洲は殴り続ける。べったりとした油じみた血液が飛び散り、壁のタイルに映る影が即興の残酷劇を演じる。
 殺しかねない勢いだった八洲のラッシュも、汚らしい床に燎がずるずると座り込んだことで終わりを告げた。八洲はツバを吐きかけたい気持ちを押さえて、うずくまった少年に言った。
「死ね」
 いまほどこの呪われた言葉が相応しい瞬間もないだろう。
 八洲はまだ熱した血で湯だっているアタマに手をやりながら、ふらふらとトイレから出て行こうとした。少し冷静になると、これからブラックボクシングをやる予定のボクサーをボコボコにしてしまったので、上から何か処罰が下されるかもしれない。おそらく涼虎に迷惑をかけることになるだろう。それを思うと憂鬱だった。そう、それに心配事はまだある。
 右腕を殺したガキがトイレでノビていることを黒鉄鋼に伝えるべきか、どうか。
 随分、迷った。
 だが、答えは出せかった。
 トイレから出ることもできなかった。
 誰かに足を掴まれていたから。
 八洲はいよいよ怒りが感極まって半ば笑いながら、足元を振り返った。見ると、燎も笑っていた。その血まみれの口になにかくわえている。
 白い粒の張った氷殻の中に、揺らめく赤茶色の液体が見えた。
 止める時間は、なかった。


 燎は、その氷菓を噛み砕いた。

       

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Neetsha