Neetel Inside ニートノベル
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 誰かに肩を揺さ振られている。
「黒鉄さん――黒鉄さん――」
「え――?」
 誰かと思えば、涼虎だった。シャンデリアの逆光を受けて、顔に影が差している。
「ちょっといいですか、あの、気になることがあって」
「ああ、何――?」
「剣崎くんが来ているみたいなんです」
「八洲が?」
「はい――それで、あの、帰還用のシューターに聞いてみたんですが、八洲くん、まだ戻ってきていないみたいで。ちょっと一緒に探してくれませんか」
 鋼は、よろりと一歩踏み出した。クチから流れる言葉と、アタマの中で響いている言葉が少しも一致しない。
「ああ、いいよ、わかった。どこから探す?」
「黒鉄さん」
「ん?」
 涼虎が、心配げにまつげを震わせていた。
「――なにか、ありました?」
「いや? べつに、なんにも」
「そう、ですか」
 鋼は不思議そうに聞き返す。
「俺、なんかヘンだったか?」
「いえ、べつに……いきましょう、なんだか嫌な予感がするんです」
「女の勘ってやつ?」
「そうかもしれません」
 それから鋼と涼虎は、ホール中を探し回った。
 だが、八洲はいなかった。
「どこいったんだアイツ。ひょっとして上の部屋のどれかとか?」
「問い合わせてみましたが、いないみたいです」
「ったく、手間隙かけさせやがって」
 鋼は笑った。
 本当に辛い時、鋼は明るく振舞う。
 どうせ誰もわかってくれないから、という、ガキっぽい意地で。
 自分でも、思う。
 俺は、とうとう大人になれなかったのだ、と。
 大人はきっと、こんなことで落ち込まないのだ。
「あとはもう、トイレぐらいか……」と鋼。
「ちょっと見てきてくれませんか。男子トイレは、ちょっと」と涼虎。
「なんだよ、かわい子ぶっちゃって」
「…………どうせ、私は可愛げのない女です」
「誰もそんなこと言って――」
 鋼は黙った。
 二人は、ホールの外周通路にいた。
 涼虎が、怪訝そうに尋ねる。
「黒鉄さん――?」
「血」
「え?」
「血のにおいだ」
 それだけ言って、鋼は走り出した。女の勘どころの話じゃなかった。何も知らないのに、鋼はもう後悔していた。まだ何も知らないのに――
 そして、すぐに知った。
 突き当たりにある、寂れた男子トイレ。鏡が割れ、タイルに血が飛び散っているそこに飛び込んだ。滑りかけるブーツにブレーキをかけて、そして、開け放たれたドアの向こうを見た。
「黒鉄さん? いったい――」
「――来るな」
 鋼の怒声に、涼虎の身体がびくりと止まった。
「来ないで、やってくれ……」
 その声は、震えていた。
 一歩一歩、トイレへと近づく。その横顔には、いまにも泣き出しそうな表情が貼りついていた。
「八洲……」
 汚らしいタイルに躊躇わず膝をついたとき、トイレの中から真っ赤な手が伸びてきて、鋼の左腕を掴んだ。ひっ、と来るなと制したにも関わらず『それ』を見てしまった涼虎が短い悲鳴を上げた。鋼こそ、いまにも悲鳴を上げそうな顔をしていた。その目が、上に滑る。便座の真上の壁に、吐き気がするような血の赤で、こう書かれていた。

 カリスマ参上。

 左腕が痛んだ。見ると、真っ赤な手が鋼の腕を掴んでぶるぶる震えていた。トイレの中には喘ぐような息遣いだけが満ちていた。
 その喘ぎが声だと気づくのに、鋼はだいぶ時間を使ってしまった。
 声は言っていた。悲壮な思いで告げていた。真っ赤な爪を突き立てながら、痛みでもって叫んでいた。
 あいつを倒してくれ、と。


 もう、
 もう何も聞こえなかった。
 鋼はキレた。
 振り払うまでもなく赤い手は敢闘虚しく力尽きタイルに沈んだ。鋼は轢き殺しかねない勢いで涼虎を突き飛ばしてトイレから駆け出した。耳鳴りがしていた。目の前が真っ赤に染まっていた。そしてその『赤』の向こうにあまりにもコントラストが強すぎる、夏の日差しを叩きつけたような鮮明さでさっきの光景が、トイレの中の地獄が浮かび上がっていた。喉の奥から蛇の鳴き声じみた呼気が漏れた。身体のどこかにある殺意のポンプから中身が吹き出たのかもしれない。構わない、と思う。どうせブッ殺すんだ。ホールへ続く扉を蹴破って一番近くにいたブラックボクサーを殴り飛ばした。殺意の波動が走って、吊られたシャンデリアが破壊され即席のプレス機になった。誰もいない場所にそれは落ちたが、視覚的な効果は抜群だ。客どもが悲鳴を上げて我先にと正面出口からネズミのように逃げていく。きちがい一匹によくもまァそんなビビれるもんだ。お得意の正論はどうした? 言ってみろよ。いまの俺に何か正しいことを言ってみろよ。二目と見れない顔にしてやるからよ。
 いきなり背後から羽交い絞めにされた。ヘッドロックをかけられたままギリギリギリと首だけで振り返ると、サングラスをかけた黒服の顔がすぐそばにあった。でかい。ライト・ヘビー級はあるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。問題なのは、誰も彼もが金のかかった正装のピースメイカーたちが、ジャケットを羽織った虎の子のブラックボクサーたちを素早く逃がそうとしていることだ。どいつもこいつも子羊のように出口へ向かっている。あの中の誰かが八洲をヤったのだ。あの中の誰かが。
 ライト・ヘビー級?
 なめんな。
 その場で右足から踏み込み、ガキの首ひとつくらいなら捻じ切れるくらいの回転を全身にかけた。竜巻のようなシフトウェートに黒服が耐え切れず吹っ飛び、かけつけてきた仲間にぶつかって転がった。戦果なんてどうでもいい。自分が強いかどうかなんて確かめたくもない。いままさにシャッターが下りようとしている出口に向かって猫科の猛獣を思わせる猛烈なダッシュをかける。距離が路銀のように溶けていく。ブラックボクサーたちの背中をピースメイカーたちが懸命に押してシャッターの向こうへ押し出そうとしている。ブラックボクサーたちは脇目も振らずに逃げていく。その中にあの黒いドレスの少女がいた。顔を腫らした少年を庇って、走っていた。
 顔を腫らした少年の口元が、笑っていた。
 それを見て思う。
 とうとう出てきたヘビー級の男にしがみつかれながら、思う。

 ――逃げるのか。
 八洲をやったくせに。
 八洲をやりやがったくせに。
 この土壇場で逃げるのか? この俺から逃げるのか?
 かかってこいよ、ブッ殺してやる、いますぐケリをつけようぜ、カリスマ野郎。
 いるんだろ、そこに。
 俺の声が聞こえてるんだろ?

 シャッターが、閉じていく。
 猛獣から善良な人々を守るために。

 いいぜ。
 逃げろよ。無事に、安全に。
 だが忘れるな?
 おまえは今、確かに、逃げたんだ。
 そんなにか?
 なあ、そんなにか?
 女の、


 女の背中に隠れて、そんなに嬉しいか?


 答えてみせろよ――
 ああ、よくわかった。
 わかったよ。
 馬鹿な俺にもようやくわかった。
 ここには、ボクサーなんて一人もいなかった。最初から。
 この俺を、含めて。


 鋼は、吼えた。


 ヘビー級かどうかなんて関係なかった。気迫と殺意が圧力を跳ね返した。黒服たちのサングラスが粉々に砕け散り、拳ひとつ分の距離さえあれば鋼の左がボディ撃ち一発で歴戦のSPたちを真っ赤な絨毯にアルマジロのように丸まらせてしまった。人間が耐えられるようなパンチではない。ましてやベアナックルである。黄金などと呼ぶのは生ぬるい、それはもはや鋼鉄の凶器だった。真っ赤な血に塗れた鋼は行き場のない拳を次々と襲い掛かってくる黒服たちに叩きつけた。左腕一本で殴り続けた。風のように避け、槍のように突いた。拳銃を持ち出したやつにはその機構そのものに波動を当ててジャムらせた。スプリング一個ブッ壊れただけで使えなくなるものをよく武器として信じる気になったものだと思う。まるでオモチャだ。
 俺の拳は違う。
 捨てパンチとフェイントが鋼の空間を作る。本命のフックが男たちの顎を粉々に撃ち砕き、水月にまともにブチこまれたボディアッパーは焦げ茶色の吐瀉物を胃袋から引きずり出し、そして体重を乗せた左ストレートはガードの上から相手の鼻をへし折った。もう止められなかった。その動きは水のように柔らかく、風のようにたおやかだった。怪物がいるならこういう存在を指すに違いなかった。誰が見ても勝ち目なんてないはずだった。その道のプロの男たちを相手にして、ボクサーに、たかがアスリートに何ができる? 本物と見世物は違うのだ。それが、この世界に静かに流れている常識のはずだった。だから彼らが雇われたのだ。
 常識?
 正論?
 馬鹿じゃないのかと思う。
 そんなものがこの土壇場で役に立つものか。
 おまえらには絶対にわからない。
 俺の気持ちは絶対にわからない。
 俺は、友達はあまり多くないけど、数少ないその友達だけは、絶対に失いたくないんだ。
 傷つけられたく、ないんだ。
 ああ、そうだ。
 この拳が俺に教えてくれる。
 おまえらの血が俺に教えてくれる。
 俺があいつを、なんだと思っていたのかを。
 それだけが、真実だ。
 生贄だ、てめえらみんな。
 俺を止めようと刃向かったことを悔い改めて這い蹲って涙を流せ。
 俺に逆らうとどうなるか、徹底的に教えてやる。
 なに泣いてんだよ? 首振ってんだよ?
 ひょっとしてこの程度だと思ってんのか?
 なめんなよ。
 俺の拳はこんなもんじゃねえ。
 俺の、右は、
 俺の、右は――――


 こんなもんじゃ、なかった。


 最後の一人を殴り倒し、拳についた血を無意識のうちに舐めていた。
 その血は、怒りのせいか蜜のように甘かった。
 まだだ、まだ足りない。
 こんなものじゃ今の俺は止められない――
 背後に気配。
 まだ生き残りがいたのかと舌打ちする。
 振り返る。
 そこにあったのは、見知った顔。
「枕木?」
 とすっ
 軽い音を立てて、首に何かが刺さった。
 途端に、足から力が抜ける。前のめりに倒れこむ。視界の端に首に刺さったままの小振りな注射器が見えた。立てない。
 嘘みたいなダウンだった。そう言おうとも思った。だが、声が出なかった。
 意識が急転直下で闇に溶けていく、その間際。
 涼虎が、両目に冷たい輝きを宿して、こちらを見下ろしている。
 その桜色の唇が、無声の囁きを放った。


 だから言ったでしょ?
 私は卑怯者だって。

       

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