Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 夢を見た。


 何もかもが、真っ白だった。
 ちょっとやそっとの白さではない。なにせ地平線まで見渡す限り真っ白だ。
 いくら目を凝らしても、傷ひとつ影ひとつ見出せない。
 かといって清潔な印象はまるでない。
 鳥の糞や砕けた彫刻を寄せ集めたような、穢れた白。
 それがすべてだった。
 そんな真っ白な世界の中で、一脚のパイプ椅子に、鋼はぐったりと腰かけていた。
 何か大事なことをしている最中だった気がするのだが、どうしても思い出せない。ものを考えようとするとアタマの中がシュワシュワしてきて思考回路が根こそぎ殺菌消毒されてしまう。左手で何度も顔を擦ったが、効果はなかった。
 ここはどこだろう。
 俺は、……俺だ。
 それだけは、すぐに分かった。
「黒鉄鋼さん?」
 あ、はい。
 思わず返事をして、声がした方に顔を向ける。と、六メートルほど向こうに机に座った男がいた。攻撃的なダークブラウンのスーツ姿。ホチキス留めされた手元の書類をせわしげにめくっては、モノを見るような目を鋼に向けてくる。
 面接官だ、と鋼は思った。
 男が言う。
「困りますね、ぼうっとされては。いまがどういう状況かお分かりですか?」
「えっと……?」
「いまは、あなたが当社に就職できるかどうかの瀬戸際なんですよ!」
「就職?」
 言われてみれば、鋼もパリっとしたダークスーツを着ていた。喉元を締め上げてくるカッターシャツのボタンが、今頃になって苦しくなってきた。指を突っ込んで風を送り込みたい気持ちを堪えつつ、鋼は思う。そうだ、就職。俺は面接に来たんだ。でも、どうしてだろう。俺はボクサーだったはずなのに。
「本来ならとっくにお帰り願うところですが」
 男は、ため息まじりに言う。
「せっかく貴重な時間を割いてあなただけの面接の場を設けたのですから、ここでやめては本当に何もかも時間の無駄になってしまいます。黒鉄さん、質問に戻ってもよろしいですか?」
 戻るも何も、鋼は何も覚えていない。曖昧に笑って、頷いた。
「はい」
「まったく。……では、あなたの経歴を簡単に説明してください」
「経歴――?」
 鋼は、考えた。
「ボクサー、でした」
「それはもう聞きましたよ」男がうんざりしたように言う。
「その前は? なぜ、ボクサーになろうと思ったんですか?」
「それは、その、いつの間にか」
「いつの間にか、では説明になっていません。ふざけているんですか?」
「ち、違います。俺はただ――」
「俺?」
「――僕、いや私は、その、うまく言えないんです。どういう気持ちだったか、それははっきり思い出せる、はず、なんですが、でも、言葉にしろっていわれても――」
「言葉以外で、どう私に理解しろと? まァいいでしょう。では、質問を変えます。家族構成は?」
「えっと、親父はいません。会ったこともありません。俺が生まれてすぐにお袋を捨てて出て行った、とだけ聞いたきりです。そのお袋も十六の時に死にました」
「なぜ?」
「なぜ? なぜって、……過労です。女手一つで、ってやつだったんで」
「あなたはその時、何をしていたんですか?」
「何って、高校に通ってましたよ。普通に。それがなんだっていうんですか?」
「お母さんを手伝おうとは思わなかった?」
「――――」
「ただ学校の勉強をしていればいい、というのは社会に出たら通用しませんよ。社会というのは相互協力によって成り立っているんですから。普通に生きているだけの人間など不要です」
「不要――」
 鋼の呟きが虚空に溶けた。
 面接官がぺらりと書類をめくる。
「高校は中退、と。十七歳でプロボクサーに?」
「ライセンスが、十七歳から取れるんで」
「それまではどうやって生活を?」
「お袋の貯金が、高校を出るくらいまでは喰っていけるくらいには残ってたんで、それで」
「そのお母さんの気持ちを無にして、中退してしまったわけだ」
「……ボクシングに専念したかったんです」
「亡くなられたお母さんの気持ちは考えなかった? きっと高校ぐらいは出て欲しいと思っていたでしょうに」
「喰っていける自信は、ありました。俺の戦績を見てもらえば、分かると思います」
「自信があったら、何をしてもいいと? 自分の独断で、他人を犠牲にしてもいいと?」
「誰もそんなこと、言ってないでしょ?」
「実際に、君はやっていけなかったではないですか」
 面接官の石のような目が鋼の空っぽの袖を見る。
「私にはどうも、君がボクサーではない証拠が見えるのですがね」
「……だから、仕事を貰いに来てるんすよ。それがなんか悪いですか? それが、そんなに蔑まれなきゃいけないことですか?」
「ほら、これだ」面接官が軽蔑したように口元をゆがめる。
「だからあなたは子供なんですよ、黒鉄さん。ドスを効かせているつもりですか? はっ、かえって滑稽なだけですよ。なんですかその目は。私の質問に答えずに、睨めばそれで済むとでも?」
 鋼はもう我慢しなかった。ネクタイを剥ぎ取って、前かがみになった。
「いいから、まずあんたから答えてくれよ。俺がそんなに悪いのか?」
「君が全身全霊を尽くせば、何もかも犠牲にすれば、きっとお母さんは死ななかったはずだ」面接官は芝居がかった仕草で、かけていたメガネを外し、目頭をぎゅっぎゅと揉んだ。
「下らない夢を追いかけた挙句に、腕を落とし、金を浪費し、青春を無駄にした。そうして今、まるで許しを乞うように私の前に座っている。いまさらだと自分でも思いませんか? なんてみっともないと少しは恥じてみせたらどうです。ボクシングでメシを喰う、自慢の拳さえあればどうにかなる。そんな甘い夢に溺れて現実から逃げた人間を雇いたいと思う企業があると思いますか?」
「俺は、俺はチャンピオンだったんだ!」
「だから? たかが日本王座を一度奪取したくらいで何を生意気な。あんなラッキーパンチが当たったからなんだというんです。よくもまァ自分でチャンピオンだなどと名乗れますね。――チャンピオン? それは仮のものでしょう。世界チャンピオン以外はすべて偽者だ。ひとまずのかりそめの姿に過ぎない。この世で一番強いやつにならなければ、あなたの傲慢は許されない」
「……お前」
「違うと言うなら答えてみてください」
 面接官が、手の中で眼鏡を畳んだ。石のような目が、鈍く輝く。
「あなたの拳が、我が社にとってどんなメリットがあるんですか?」
「メリット、だと? ふざけんな、くそったれ、そんなもん――」
 教えてください、と男は言う。
 私には分からないのだ、と。
「そう、私にはわからない。仲間のひとりも助けられない拳に、いったいなんの意味があるのかが」
 鋼は、いきなり見えない手に喉仏を潰されたように、何も言えなかった。ツゥ……っと、こめかみから、一筋の冷たい汗が滴った。身体が震える。寒さのせいではなかった。
 いつの間にか、男は両手を組んで、その向こうから鋼をじっと素顔で見ていた。いまさらになって、鋼は男の顔が誰のものか気づいた。
 自分だった。
「八洲があんな目に遭っていた時に、お前は何をしていた?」
 男が言う。
「鍛えた技の名残を使って、お前は素人相手に何をした?」
「それ、は」


 ――どうして死んでくれなかったんですか?


「俺のせいじゃない。俺は、悪くない」
「言い訳するのは簡単だよな」
「じゃあ、どうしろっていうんだ。どうすればよかったっていうんだ。俺に何ができたっていうんだ。俺に、俺に何が、俺に――」
「そうとも」
 スーツ姿の鋼が自嘲する。
「お前には何もできない。何もつかめない。何も変えられない。自分も、世界も。お前は何も変わってない。あの頃のまま、ガキのまま、ただボクシングに逃げているだけだ。この期に及んで、俺は――」
 白い世界が、音を立てて剥がれ落ちていく。パラパラと。バリバリと。
 終わる世界の中、誰もいない椅子を見つめながら、スーツ姿の鋼は左手一本で顔を覆う。



 強くなれば、
 強くなれば、すべてが変わると思っていた。
 すべてが――――


 ○


 だん、だん、だん、と。
 涼虎が、バスケットボールを体育館でバウンドさせている。
 他には、誰もいない。
 幕が下ろされたステージの前で、白衣を着た涼虎は、気のない調子でボールを弾ませ、おもむろに両手でぱしっとそれを捕まえると、爪先立ちになってゴールにボールを放った。ゆっくりとボールは放物線を描いて、飛んでいった。
 がん、
 そっけない音を立てて、ボールがゴールに弾かれ、てんてんてんと体育館の床を転がる。涼虎は足元に戻ってきたボールを拾い上げる。
 涼虎のボールは、いつもリングに嫌われる。
「残念」
 振り返ると、殊村真琴が、ミラーグラスをきらきらさせながら立っていた。口元には、あの表情の読めない微笑が浮かんでいる。
「ちっとも上手くならないね」
「……ボールが悪いんです」
「ははっ、そうかもね。きっとそうなんだろう」
 涼虎は、ちらっと殊村を見る。
「……なんの話ですか?」
 殊村は、びっとVサインを突き出して見せた。
「悪いニュースが二つあるけど、どっちからにする?」
「……どう、選べばいいと?」
 突き出していたVサインを、殊村が白衣に仕舞いこむ。
「じゃ、八洲くんの方からいこうか。……容態は、安定したよ。あれだけ滅茶苦茶に殴られて、後遺症が残りそうにないのがラッキーだったってさ。脳内血管が水道管みたいに破裂しててもおかしくない怪我だったからね。とはいえ、全治三ヶ月」
「……三ヶ月」
「生命に別状はないから、不幸中のなんとかだね。いや、やっぱり不幸は不幸かな」
「どういうことです?」
「セントラルに申請した、フォース・ラボに対する苦情申請。あれ、蹴られた」
 涼虎の呼吸が、止まった。
「……え? そんな、だってあれは誰がどう見たって……」
 殊村が肩をすくめる。
 そんなこと、最初からわかっていたことだろう、とでも言いたげに。
「八洲くんは、今回はうちのブラックボクサー枠じゃない。スパーリングパートナーは、ボクサーとしてはカウントされない。だから、セントラルがうちに対して提示してきたのはフォースからの新しいスパーリングパートナーを買う費用の賠償だけ。それだけはキチッともらってきたけど、涼虎ちゃんが望んでたように向こうの研究プログラムそのものを凍結させたり解体させるとかは、無理だった」
「それは、つまり、彼は……備品でしかない、と?」
「そう言われたのと同じだね。ま、仕方ないさ。泣こうが暴れようが、それが上の出した結論だ。雇われの僕らは従うしかない。どんな世界だろうと、理不尽さは付きまとう。例外はない」
 それから殊村はにへらと笑って、「アラブの石油王に生まれたかったなァ」と冗談を吐いたが、涼虎は無視した。
「……好野に、なんて言えば」
「ああ、彼女、もう落ち着いたの? 僕、最近見かけてないんだけど。まだ暴れてんの?」
「いえ、今は平静です。ですが、やっぱり、ショックだったみたいで。ピースメイカーとして、自分の受け持つブラックボクサーがあんなことになる、なんて」
 俯く涼虎に、一拍置いて、殊村が言う。
「それ、本気で言ってんの?」
「え?」
「……いや、いいや。分かってないなら。まァ、好野にも僕が伝えとくよ。また髪の毛、掴まれたくないでしょ?」
「……すみません、お願いします。私には、どうすればいいのか、わからないので」
「所長のくせにね」
 突然吐かれた辛辣なセリフに、一瞬、涼虎が呆然とした。が、すぐにまた、長い髪で表情を隠す。
「わかってます。自分でも」
「わかってるだけじゃ、意味ないさ」
「…………」
「ま、いいさ。君には能力がある。それは事実だ。だから、ラボメンの緩衝材くらいは、僕がやってやるよ。でも、次からは自分で言いなね。これぐらい」
「……はい」
 ため息。
 殊村が、続ける。
「二つ目のニュースは、黒鉄くんのこと。『箱詰め』にされてから」腕時計を見、
「七十二時間。そろそろ終わってもいい頃だけど、リンクしてるルイちゃんからの報告だとまだ小康状態にはなっていないらしい」
「剣崎くんの時は……」
「六時間」殊村は即答した。恐らく、彼自身が何度も反芻した数字だったのだろう。
「うちのラボで出た最長時間は紅堂の十八時間。その四倍も経ってるのに、まだ、症状が治まらない」
 涼虎が、ぽつんと呟く。
「ESPD……」
「そう。超感覚ドランカー。度重なるアイスピースの摂取に脳が適応してしまって発症する禁断症状。僕もまさか、これほど黒鉄くんに……」
 言いよどみ、
「……適性がないとは、思わなかった」
「そんな言い方……」
「じゃあ、他になんて言えばいい? 他のラボのケースファイルを総ざらいにしたってあれほど重度のESPDになったブラックボクサーが実験に復帰できた試しはないんだぞ? どんなに長くても、五十時間がリミットだ。それを超えてESPDを押さえ込めなかったというなら、もう……」
 殊村は、首を振った。
「僕らは、新しいボクサーをどこかから融通してもらえないか、検討すべきだ」
「……そんなこと」
「彼が、箱から出て来れなければそれまでだ。実験はキャンセル。このラボはブラックボクシングの研究機構としての任を果たせず、僕らは解散。他のラボにツテがあるような面子じゃない。仲良く揃ってサメのエサさ」
「サメ?」
「本土に帰れるわけないだろ。口封じで殺されるか、あるいはどこかのラボの使い捨ての検体になって廃人コースさ。フィフスの噂知ってる? ライトまで赤いらしいよ」
「…………」
「……じゃ、僕は好野に、八洲くんのこと伝えにいくから」
 背中を向けた殊村に、涼虎が言う。
「殊村くん」
「……ん?」
「私たちは、人でなしですね」
 殊村は笑った。
「そうだよ。なんだと思った?」
 涼虎が、ボールを放る。放物線を描いたボールが、リングに弾かれる。
 涼虎のボールは、いつもリングに嫌われる。


 ○


 後頭部に手をやってみると、べったりと血がついていた。
 どうやら自分で、壁にアタマを打ちつけていたらしい。
 いよいよもって、狂ってきた。
 鋼は背中を壁に預け、床に足を広げて座り込んでいた。狭い部屋だった。いくつかパイプが通っている以外は、純粋な正方形。幅は六メートルといったところか。右手に洗面台が一つある。そのそばの隅には傾斜した溝がある。排泄はそこでする。下手にトイレなどつけるとあの手この手を使って自殺するやつがいるからかもしれない。左手奥には缶詰のピラミッド。すべて同じ種類の栄養食が詰めてある。嫌がらせとしか思えない。
 鋼は、ごん、ごん、とアタマを壁に打ちつけながら、渇いた舌で言葉を紡いだ。
 アイス、アイス。
 アイスをくれ。
『……駄目』
 アタマの中の声は、いつも同じ返事をする。
『いまアイスを舐めたら、もっとひどくなるから』
 鋼は笑う。この状況よりひどいことなどあるとはとても思えない。脅し半分に思い切りアタマを壁に打ちつけようとして、首筋に神経パルスの電撃を叩きつけられた。棒で打たれた獣のように鋼は甲高い悲鳴をあげ、身をよじった。
『もうすぐだから。もうすぐ』
 そんな言葉を信じていられる時間は過ぎた。
『頑張って』
 そんな言葉で、この身を裂く苦しみは癒えはしない。
 左手を顔の前に掲げる。
 ぶるぶると震えていて、時々、あらぬ方向に拳が出る。そのたびに肩が引っ張られて、鋼は無様に床に転がる。足がもがくように動くが、どこへ進むというわけでもない。ただ、じたばたと、死に損ないの虫けらのように悶えている。
 もう、この箱のような部屋に閉じ込められてから何時間経ったのか、分からない。五年は間違いなく経っている気がする。
『そんなに経ってるわけないよ』
 少しも楽しくなさそうに、少女の声が笑う。
『しっかりして。クロガネくんは、ヤシマの仇を取らなきゃなんだから』
 ヤシマ? 仇?
 鋼はそばに転がっていた空き缶を、缶詰の山に投げた。物凄い音を立てて、がらがらと缶詰が崩れ落ちる。
 何もかも、知ったことじゃなかった。
『……クロガネくん。なにその気持ち』
 うるせえ。アイスをよこせ。
『いい加減にしなよ。ホントにどうでもいいの? ヤシマ、大怪我したんだよ? すぐそばで見たんでしょ? 仲間をあんな風にされて……禁断症状が辛いのは分かるけど、しっかりしてよ。そんなんじゃなかったじゃん、クロガネくんはさ』
 てめえに俺の何が分かる。
『わかんないよ。わかんないけど』
 辛いんだよ。
『わかるよ。リンクしてるから』
 わかってない。わかってるなら、アイスをよこすはずだ。本当にわかってるなら。
『アイス、アイスって。まるで子供だね』
 うるさい。たかがイルカに何がわかる。
『……あ、それ言っちゃう? ふーん。ひどいんだ。あたし気にしてるのに』
 勝手に気にしてろ。
『いいよどうせ。好きなだけ暴れなよ、心の中で。あたしは、あなたのスタビライザーでもあるんだから』
 アイス。
『駄目』
 くそったれが。
『ふふん。あーいい気持ち。犬とかお預けにするのってこういう気持ちなんだ。人間がペットを飼う気持ちがわかったかな』
 殺すぞ。
『いいよ。おいでよ。転送室にあたしの脳味噌はあるからさ。禁断症状を耐え切って、小康状態まで持ち直して、ここを出て試合に出てくれるならあたしは殺されたっていいよ。あなたのためにあたしは生きてるんだから。あなたに殺されるなら仕方ないよ』
 絶対に粉々にしてやる。覚えとけ。
『あーはいはい。覚えておきますよっと。でもね』
 少女の声が、険を帯びる。
『あなたこそ覚えておいてよ。あなたには、いろんな人間が期待をかけてるんだってこと。知ったことじゃない? ふざけないでよ。そんなんで済まされると思ってんの?』
 鋼は、身を固めた。
『…………』
『あなたからしたら全然理解できないことかもしれないけどね、アイスピース作るのって凄く神経を使うんだよ。だってモルモットとかに投与しても効果ないし。だからね、一発勝負で人間の脳に適合するものを調合しないといけないの。どうやってるか知ってる? 簡単だよ、経験とカン。それだけ。たったそれだけで、結果を出さなきゃいけないのがピースメイカーなの。ヘタしたら人間一人、自分のセンスのなさで殺しちゃうかもしれないんだよ? それがどれだけ負担かわかる? その負担を乗り越えて作ったアイスが、いつか、未来になると信じてみんなまともにご飯も食べないで仕事してんの。それがあなたにわかる?』
『…………』
『ピースメイカーだけじゃない。あなたのスパーリングパートナーだって、そう。ヤシマがいつもスパーが終わった後、あたしにあなたのこと自慢しに転送室に来てたの知ってる? あいつは天才だって、いつか絶対なにか物凄いことをするやつだって、恋人ののろけ話でもするみたいに喋りに来てたんだよ? 本当は、自分がリングに立ちたいはずなのに。誰よりも、あなたになりたかったはずなのに』
『…………』
『あたしだって』
 声が、震えを抑える。
『あたしだって、ただの脳味噌だけど、培養された自分のカラダも持ってない化物だけど、でも、あなたの応援が出来るのは、嬉しかったし、それでいいって思ってた。あたしには、何も出来ない。ただ見たり聞いたりすることしか出来ない。でも、でも、でも、あなたは、違う! 違うでしょ!?』
『…………』
『あなたには、力がある。誰にも負けない強さがある。それはパンチの質とか、元国内チャンピオンとか、ましてや戦闘センスなんかでもない。あなたは、本当の強さを持ってる。誰もがくじけてしまう時に、前に進める力がある。だから、あなたはここにいるんじゃないの? だから、あの日、リョーコちゃんの誘いに乗ったんじゃないの? 右腕がなくったって、あなたは諦めてなんかいなかった。心の底じゃ、何も失ってなんかいなかった。……あなたが』
 ルイは、言う。
『あなたが、勝たなきゃ、いったいどこの誰が、何かに勝つって言うのよ……!!』
 不思議な気分だった。
 ただの声が、神経パルスの揺らめきが、泣いていた。
『負けて死ぬなんて絶対許さない。あなたは、勝たなきゃいけないのよ。負けていった人たちのために。あなたが倒してきた人たちのために。そして何より、あなたを信じている、何もできないあたしたちのために』
 だから、と少女は言う。
『だから、だからお願い。勝って。どんなものにも、誰にも何にも負けないで。必ず勝って。でないと、あたし……』
 声は、それきり、消えた。時々、すすり泣くような気配だけを、鋼は感じていた。
 それからの百四十二時間は静かに過ぎた。鋼はほとんど身じろぎもせずに、空っぽの右袖を掴んで、前を向いていた。闇の中に、何も見通せなかった。だが、あかりなど少しもいらなかった。
 その両眼に、煌々と輝く、誰にも消せない炎が燃えていたから。
 拳を握る。
 試合。
 試合だ。



 勝負が、俺を待っている。


 ○



 最後の一歩が、どうしても踏み出せなかった。
 涼虎の前に、封印された扉がある。電子的なロックと、物理的な南京錠によって、その扉は堅く堅く、閉ざされていた。
 二百二時間。
 それが、枕木涼虎が現実から目を切った時間。
 それが、黒鉄鋼がこの『箱』に詰められてから経った時間。
 涼虎は、その時間に決着をつけなければならない。この扉を開けて、禁断症状に苦しみ抜いたボクサーを解放してやらなければならない。
 もう、電子ロックはパスしてある。
 あとは、南京錠に鍵を差し込み、捻るだけ。
 それだけで、黒鉄鋼を苛み続けた二百二時間は終わりを告げる。
 それだけで、彼を救うことができるのに、この期に及んで涼虎は、最後の一歩を躊躇する。足は震え、手は固まり、いたずらに小さな銀色の鍵を握り締める力ばかりが強くなって痛いほどだ。
 怖かった。
 自分が落とした牢獄から、囚人をこの手で解き放たなければならないことが、なりふり構わず怖かった。
 モニターしているルイからは、中にいるブラックボクサーを出しても問題はない、という報告が来ている。理屈では、分かっている。それでも、どうしても、最後の一歩が踏み出せない。ここまで来れたのに。あとちょっとなのに。
 この奥では、自分のボクサーがまだ苦しんでいるのに。
 涼虎は、息を呑んだ。
 それこそ人間一人を刺し殺すような気持ちで、南京錠に鍵を差し込む。
 捻った。
 南京錠が絡まっていた鎖をまとわりつかせたままジャラジャラと落ちると、それを吹っ飛ばして扉が開き、中から黒いものがどうっと床に倒れこんだ。涼虎は小さな悲鳴を上げて飛び退った。意味もなく白衣の前を押さえる。
「…………よう」
「黒鉄、さん……」
「ひさしぶり」
 思っていたよりも、へらへらしている。
 鋼はその場に大の字になって、浅く息をしていた。顔面は真っ青で、びっしりと玉の汗をかいている。どう見ても病人だった。スタミナドリンクでどうにかなりそうな衰弱ぶりではない。そのくせ、目の色を見るだけで、もう彼の中から薬物中毒者の狂気が去っていることがすぐにわかった。
 涼虎は、背後に隠し持っていた注射器を、そっと白衣に仕舞いこんだ。視線を逸らさないように気をつけて、床に転がっている鋼に言う。
「大丈夫、ですか」
「ん? ああ、なんとかな」
 鋼は立ち上がろうとしたが、よろけて壁にしたたかにぶつかった。涼虎は慌てて、鋼を左側から支えた。
「悪いな。まだ足がフラフラすんだよ」
「当たり前です。こんな……」
 こんな長い時間も、いったい誰が彼を閉じ込めたのか思い出して、涼虎は口をつぐんだ。鋼の疲れた目が、それを見て笑う。
「気にするなよ。べつにあんたのせいじゃない」
「ですが……」
「死ななかっただけラッキーだったと思おうぜ。それでさ……」
 鋼はよろめきながらも、一歩、前へ踏み出した。その足の向かう先には、おそらく、エレベーターがある。
「時間の感覚、ねえんだけど、今日だよな、俺の試合」
「……はい」
 鋼の左腕を飼っているフェレットのように首に巻きつかせながら、涼虎が答えた。
「正確に言えば、いまから三十分後です」
「ははっ、そりゃよかった。遅刻しないで済みそうだ」
「……私が言うのも、卑怯ですけど、大丈夫なんですか? とても闘えるようには……」
「心配いらない。一番きつかった時の減量に比べれば、こんなのどうってことねえよ。現役時代、俺はとにかく体重が落ちにくくてさ……いつも苦労したんだ。それにさ、八洲をボコした野郎と戦れるんだから、疲れなんてぶっ飛ぶぜ」
「……ルイから、もう聞いたんですね?」
「聞いた。天城燎って言うんだろ、俺の相手。へっ、ムカつくよな。格好つけまくりの調子くれまくりの、いけ好かない名前でさ」
 眩しいくらいに白い通路の果てに、エレベーターが見えてくる。
「結構きついこと言われたよ、ルイちゃんに」
「ルイが?」
「ああ。なんて言ってたっけな……お前は逃げてるとか、確かそんなんだ。意識が朦朧としてて、あんまり覚えてないんだけどな」
「そう……ですか」
「でも、あいつの言うとおりだ。俺は、逃げてた」
 鋼が、噛み締めるように言う。
「この右腕を落として、俺は落ち込んだりしなかった。本当はな、心の底で嬉しかったんだよ。分からないか? そうかもな。俺はさ、病院で目が覚めて右腕がどこにもないのを初めて見た時、思ったんだ。……これでもう、闘わずに済むって」
「…………」
「ボクシングをやってて、辛くない時なんてなかった。いつもきつくて、辛くて、誰かに愚痴りたくて仕方なかった。嫌で嫌でしょうがなかったよ。それで、じゃあなんでやるんだって言ったら、多分、それしか出来ないからだったんだな」
「……ボクシングしか、出来ない?」
「ああ。走るのが辛いからって、すりむけた拳が痛いからって、グローブを壁にかけて俺にいくアテなんかなかった。俺がいていい場所なんて、どこにもなかった。だから、自分がいていい場所にいたいなら、俺はリングに上がるしかなかった。俺の試合を見に来てくれてる観客だけが俺の本当の家族だった。あの真っ白なスポットライトの下でだけ、俺は、どこかの別の誰かじゃなかった。俺っていう人間でいられた……」
「……わかる気が、します。なんとなく、ですけど」
「ありがとな。そう言ってもらえるだけでも嬉しいよ。ああ、そうとも。俺にはこれしかできない。闘うことしか。そして勝つことしか。俺にとっては、小さな勝ちとか、終わった勝ちなんてもの、どうでもよかったんだけど、ルイちゃんに言わせるとそうじゃないらしいぜ」
「そうじゃない?」
「勝者には、勝者の義務がある。負けていったやつらのためにも、勝ったやつは負けちゃいけねえんだ。勝ち続けなくちゃいけない。たとえそれがどんなに辛くとも。負けた方がマシな人生になろうとも――そういうことらしい」
「…………」
「俺も、そう思うんだ」
 エレベーターが来る。扉が開いて、誰もいない箱が開かれる。そこに二人は、足を踏み入れた。涼虎に支えられながら、満身創痍の身体で立って、閉じていく扉に置き土産のように鋼は呟く。



 俺は負けない。
 必ず勝つ。

       

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Neetsha