Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 深海のような、青い光が満ちている。
 その中で、培養槽を取りつけられた転送座に、一人の少女が座っていた。金色に近いクセのある髪。Sサイズの白衣に包まれた子供っぽい身体。そして、氷のように揺るがない瞳。
 氷坂美雷だった。
 少女は、モニターの時刻表示を見上げる。
 手持ちのボクサーは、まだ来ない。
 ため息をひとつ零して、白衣のポケットに両手を突っ込む。指先に、銀紙の包みの感触。その手触りを引っかくようにして楽しみながら、目を閉じる。
 美雷のアイスピース。
 ブランド・コード;魔手火札(マジックハンド・レッドカード)。
 エレキ/シフトの装弾数はボクサーの質にもよるが、およそ六発。これまでのアイスピースの最多装弾数は五発なので、これだけでもすでに新記録だ。たった一発、装弾数を上げるために、この一年間のすべてを突っ込んだ。
 この一年。
 朝と昼と夜と夢と魂を費やして、美雷はこのクスリを作った。寝食を忘れ、欲望を捨て、孤独に耐えた。たったひとりで机に向き合い、未知という闇と殴りあった。アイディアのジャブで道を作り、努力のストレートでガードを壊し、センスのフックで相手を追い詰め、そして気の遠くなるような時間という名の右アッパーを叩き込んで、美雷はいま、指先にその結晶の感触を味わっている。
 持てる力は、すべて出し尽くした。
 人間の脳を目覚めさせるクスリとしては、この世界中で誰にも負けないものが出来た自信がある。
 だが、それは向こうも同じだろう。
 枕木涼虎――
 彼女も、才能に関しては自分と同等、いや、それ以上だ。
 もし、彼女が自分と同じだけの努力と時間を費やせば、人間をやめるほどの精神力を持っていれば、おそらく、美雷などでは歯が立たないだろう。
 生まれ持ったパンチの質が変えられないように。
 アイディアの質もまた、生来のものがある。この世界には、当たり前のようにどれだけ頑張っても届かない高みがあるから。
 けれど。
 けれど、枕木涼虎には、氷坂美雷が持つような狂気は決してない。
 彼女は、生涯、狂うことはできない。
 優しいから。
 優しい人に、何かに勝つことなど絶対にできない。
 勝負の世界は、狂気の世界。
 だから、諦めさせてやるのが一番いいのだ。自分には、この世界で、こんな魔窟で生きていくことなど無理なのだと。普通にどこかの別の誰かになって、平穏に暮らしていくしかないのだと。
 美雷は、ポケットの中の銀紙を握り締めた。
 それはもう、自分自身を握り締めるのと、ほとんど同じだった。


 ○


 扉が開いて、転送室にボクサーとピースメイカーがやって来たのを見て、殊村真琴は転送座から立ち上がった。
「や、元気?」
 軽く言う金髪の青年に、黒髪のボクサーが笑う。
「ボロボロだけど、いま充電してる」
「……充電?」と、鋼を支える涼虎が怪訝そうに眉をひそめる。
 くっくと殊村が笑い、虎の子のボクサーを転送座に座らせるのを手伝った。その身体は鉛のように重かった。
「何か食べる? っていっても消化のいいパンとかしかないけど」
「いや、いい。それよりうがいさせてくれ」
「いいとも」
 ボトルから水を口に含んだ鋼が、ジャブジャブと口をゆすいだ後、殊村の持つノズルにペッと唾液まじりのそれを吐き出した。
「作戦は?」
 おもむろに、殊村が聞いた。涼虎も気がかりそうに、チラリと鋼を窺う。結局、ロクな相談もできずに本番になってしまった。
 鋼は背もたれにアタマを預けながら、薄く笑った。
「スタイルは、変えない。W3B3の捨身(リベリオン)でやる。相手のスタイルが分からねえから、初っ端は様子見かな。エレキは無駄撃ちしないで、狙っていくつもりだ」
 殊村が得たりと頷く。
「ああ、それがいいだろうね。相手は強豪フォースの氷坂美雷と、ドランカーだって噂の新人ボクサーだ。君みたいにESPDで消耗してることは、まずないと見ていい。油断は禁物だよ」
「へっ、ガキに負けるほど耄碌してねえよ」
「ははっ、その調子で頼むよ」
 殊村がチラリとモニターの時刻表示を見て、転送座から一段下がった。あと五分もすれば、いま画面に映っている廃墟都市は、リングになる。
 それまでの時間を、もう一人のピースメイカーに譲るつもりだった。
 殊村に目礼して、涼虎が鋼のかたわらに立つ。
「黒鉄さん……」
 それきり、言葉に詰まって何も言えない涼虎の髪を、鋼が左手でくしゃくしゃとかき混ぜた。いつもなら、振り払われているところだったが、涼虎はされるがままだった。
「心配するな。大丈夫だって。な?」
「…………で」
 よく聞こえなかった。
「悪い、なんだって?」
 涼虎は、罪を告白するように、囁いた。
「死なないで」


 ○



「プロジェクト・イカロス」
「――あ?」
 転送座に就いて、パンをかじっていた燎がそばに控える美雷を見た。
「なんだって?」
「言ってなかったかなと思って。この実験の名前」
 確かに、正式名称などは聞かされた覚えがなかった。ひょっとするとボクサーには教えない決まりだったのかもしれないが、そんなものを守る美雷ではない。
「イカロスって、あれか。高い崖の上から空を飛ぼうとして、落っこちたとかいう……太陽に羽を溶かされたんだっけか」
「そう、それ。有名なギリシャ神話。私、あの話が好きなんだよね。聞いてると勇気が湧くっていうか」
「……馬鹿な夢を見て転落死したやつの話が? お前さ、前から思ってたんだけどどうかしてるんじゃねえのか」
「そうかもね。でも、ピッタリだと思わない?」
 美雷が、モニターを見上げる。
「たったひとつのマスターピースを作り出すために、あのリングはこれまでにもう何人ものブラックボクサーの血を浴びてきた。普通だったら、こんな実験は許されない。あまりにも非人道的すぎる。でも、この地の底の底では、それがルール。変更不能の命題。当たり前の、こと」
「……ま、人の生命の軽さを思い出すにはうってつけの場所だよな」と言って燎は、頬についたパンくずを拭った。その顔には、まだ馬鹿な男につけられた青アザが残っている。
「ふん、愚者か。確かにそうだ。この俺と氷坂美雷を相手にして勝とうなんてな」
「……そうだね。そういう意味もある。でもね、イカロスの話には、愚かさ以外の寓意も秘められてると思うんだ」
「寓意?」
 美雷は、床を見ている。そこに自分の道を指し示す経典があるかのように。
「本当に空を飛べる人間を見つけるには、本当に、どうにもならないことをどうにかしようとするなら――こんな伝説が残るほどに大勢の犠牲者が、必要ってこと。でなければ、本物の一人を見つけることはできない。本当に空を飛べるものを見つけることは、絶対に、できない」
「…………」
「どんどんどんどん死ねばいい」
 美雷は言う。
 当たり前のことのように。
 モニターの向こう、都市の向こう、何もかもを貫いたその先を見ながら。
「負けて死ぬやつには、負けて死ぬやつなりの価値がある。だから、死ねばいい。どんどんどんどん死ねばいい。闘って、抗って、なんの甲斐もなく死に続ければいい。死ぬしかないやつらを踏み越えて、そうしてようやく、本当の一人が現れる。何人死のうが構わない。夢を諦めるくらいなら――」
 その言葉に、嘘偽りは何一つとしてない。
 たとえ自分がリングに上がるとしても、美雷は同じことを言うだろう。
 そう言うしかない、そう言うことしかしらない、魂の怪物。
 その怪物の、太陽よりも熱く燃える炎を宿した目が、何かを嚥下するように動いた。
 もうすぐ、ゴングが鳴る。答えが出る。
 死ねばいい。
 いや、違う。
 殺してみせる。
 私の作ったボクサーが、あなたを殺す。










 黒鉄鋼。




 ○




 ゴングが鳴った。二人のボクサーがコーナーから飛び出す。真っ黒なグローブを両手に嵌め、顔にはヘッドギアを着けている。地下のリングのオレンジがかったランプの下で、二つのボクシンググローブが交差した。ぱあん、とパンチにしては軽い音。一人がたたらを踏み、相手が重ねてジャブの連打でペースを掴みにいく。ジャブ、ジャブ、ストレート。愚直なまでのワンツースリー。倒せる左でガードを壊し、開いた顎から右を撃ち込む。だが、顔を背けられてクリーンヒットには届かない。リングの外でセコンドが的確に指示を出しているのが聞こえてはいたが、どこか遠い気持ちでそれを聞いていた。
 クリンチされ、レフェリーに引き剥がされる。距離を取って仕切り直し。相手はもう、こちらのファイトスタイルを今の一瞬で味わい切って、接近戦には持ち込ませないつもりらしい。左を棒のように突き出して距離を取ってくる。こちらがラフに攻めれば狙い澄ましたカウンターでダウンを狙って来るだろう。そう、チャンピオンでもなければ有名ジムに所属しているわけでもない自分たちには、どうしても『KOで勝つ』ということが必要なのだ。観客に、ボクシング界に、スポンサーに、拳でもって誰が強いのかを教えてやらなければならない。でなければ、この暗い地下室が自分の夢の墓場になるだけだから。
 さすがに上手い。倒すというよりも当てることに意識を傾けた的確なジャブをいくつももらう。セコンドから頭を振ってパンチをかわすように指示が飛んでくる。それができれば苦労はしないが、それができなければ勝てはしないのがボクシングの苦しいところだ。
 そうとも――ただの思考ゲームとは違う。
 これは、必勝法のない闘い。頭を捻れば、策を練り上げればどうにかなるようなものじゃない。仮に確実に勝てるプランを思いついたところで、それを実行するカラダがなければ所詮はそれまで。白痴のように走りこみ、痴呆のように殴り続けなければ、何もかもが無意味だ。ボクシングの真実は氷のように冷え切っている。
 相手に勝つには、相手より強くなるしかない。
 どこまでも、相手より、ただ強く――
 試合前の減量もいよいよピークで、身体は重く、汗は冷たく、意識はやもすれば相手のパンチにまぎれて消えてしまいそうだった。それでも走りに走った足は動いた。誰かにしがみつかれているような気さえする重たい拳はギリギリなんとか使えるレベル。こんなんで本当に人間が倒せるのか、自分でも疑問だ。だが弱音を吐いている余裕はない。コーナーに詰められて、もう十七秒近く一方的にボコボコ殴られているのは他でもない自分だ。弱い顎を守って空いたボディを撃たれるたびに膝が落ちそうになる。セコンドの指示はもはや怒鳴り声だ。ああ畜生――このままだと負けるのは、自分だ。
 かすむ視界の向こうに、勝利を確信した相手の顔が見える。
 勝ちをくれてやってもいい。
 そう思った。
 こんなスパーリングで押されてダウンしたからって、それがなんだと言うのか。試合前に無茶な練習をすることこそ愚の骨頂。大切なのは、ベストのコンディションで出来る範囲内で煮詰めたトレーニングを積み、きちんとリングに上がること。それがボクサーとしての、当たり前の心構え。分かっていたことだ、そんなことは一つ残らず。さあリングを下りよう。ロープから転がり出て笑って相手を見上げよう。握手の一つでもして気持ちよく終わろうじゃないか。それがスポーツというものだ。そうだろ?
 そこまで考えて、ようやく分かった。
 自分のどうしようもない、捻くれ者っぷりが。
 トドメとばかりに相手が右を振りかぶる。モーションが大きい。完全にスウィングパンチだ。左ボディががら空き。拳も腕もなく一直線に開かれたその脇腹が、思わず生唾を飲み込むほどのご馳走に見えた。
 鉤型に固めた左ボディフックを、壊すつもりで振り抜く。
 こちらのパンチが脇腹を撃った瞬間、相手の動きが完全に止まった。気持ちの抜けた右のブローがこめかみをかすめて背後へ消えていく。頭はそのことを考えていたはずなのに、いつの間にか左ボディをもう一撃見舞っていた。パンチを撃って相手の腹が震えてから、自分が殴ったことに気がついた。身体をくの字に曲げた相手とヘッドギア越しに目が合った。やめてくれと言われても、やめられなかっただろう。それよりも早く、左の三連撃目を飾るショートアッパーが、相手の顎を斜め下からぶち抜いていた。唾液にまみれたマウスピースが宙を飛び、スパーリングパートナーが背中からリングに落ちた。ゴングが鳴る。
 楠春馬は、ヘッドギアを外して、倒れた相手を見下ろした。




「……タイトル挑戦への準備は、整っているようだな」
 リングを下りた春馬に、白石会長が声をかけた。首にかけたタオルで、汗だくになった春馬の顔をぐいぐいと拭ってやる。
「それにしても、スマッシュか。お前も頑固な男だな。あれは攻撃力こそあるが、どうしてもガードが下がる。ましてやお前が使ってくることはチャンピオンも読んでいるぞ」
「何が言いたいんです?」
「……タイトルマッチでは、使うなよ。左のガードが下がるということは、相手の右が飛んでくるってことだ。王座決定戦で決まった王者とはいえ、相手はチャンピオンだ。くだらない感傷に気を取られていて勝てる相手じゃ」
 そこまで言った白石会長の胸倉を、バンテージを巻いた春馬の手が掴んだ。
「くだらない感傷?」
「……春馬、落ち着け」
「僕は落ち着いてますよ。分かってますから。このスタイルじゃ世界は取れないってことくらい、ね」
「……春馬」
「ジャブ、フック、ストレート、アッパー、スマッシュ」
 暗誦するように、春馬は言う。
「このスタイルから出る左はすべて倒せるパンチだ。しかもそれが相手に近い方の腕から出ると来ている。攻撃力だけなら抜群だ。先輩は、そういうボクサーだった」
「……なら分かっているだろう? あいつがなんて呼ばれていたのか」
 春馬は、手を放した。その目が責めるような光を、帯びる。
「……黄金の右」
 白石会長は、伸びきったシャツの襟首を直した。
「皮肉なものだ。黄金の右と呼ばれていながら、やつが現役時代に右で取ったKOはわずか一つ。引退試合になってしまった、あのタイトルマッチの時だけだ。それ以外のKOはすべて左。右はほとんど、使っていなかった」
 白石会長が、壁を見上げた。そこには白石ボクシングジムから生まれた、数少ない国内チャンピオンたちの写真が飾られている。
「黄金の右……その、わずか十戦の新人に送られるにしては大袈裟な呼び名は、誰もがあいつの『右』を期待していたからだ。左を制するものは世界を制する。確かにそうだ、だが左一本で掴めるほど世界のベルトは軽くない。誰もがそれをわかっていたから、あいつを『右』と呼んだんだ」
 白石会長は、罪人のように俯き、目を瞑った。
「あの日、初めて右でKOを取ったあいつを見て、わしは確信した。あいつは国内で終わる男ではないと。本当に、これからという時だったんだ。変則ボクサー。今になって思えば、あいつはその手のトリッキーな選手だった。変幻自在にスイッチし、右でも左でも相手に合わせてパンチの種類を、試合の中で増やしていく。あいつはデビュー戦の頃から、傍で見ているわしより相手のことを分析していることがよくあった。もし、今もここでサンドバッグを叩いていたら……グローブを壁にかけずにボクサーであり続けたなら……」
 チラリ、と春馬を見る。
「……悪いが、お前にはあいつほどの才能はない」
「……分かっていますよ」
「分かっているなら、スタイルを戻せ。昔のようなアウトボクサーに戻るんだ。足を使え。距離を取れ。まずくなったらクリンチしろ。ポイントアウトのために小刻みなパンチを積み重ねろ。それが、お前のボクシングだ」
「客を呼べないボクシング、ね」
「その代わり、お前は勝つだろう。黒鉄鋼が巻いたベルトをどこかの別の誰かに巻かれたくなければ、お前が取れ。春馬」
「言われなくとも、取りますよ」
「なら、いい」
 白石会長は、背を向けた。もう今日のトレーニングは終わりだ。
(……先輩)
 いったい、どこへ行ってしまったんですか。
 何もない部屋だけ残して。誰にも何も言わず。
 どうして、何も言ってくれなかったんですか。
 たとえ誰が見捨てようと、僕だけは違ったのに。先輩がどんなになろうとも、僕だけは、先輩のことを覚えていたのに。
 先輩は、強かった。
 誰が認めなくても、僕だけは、覚えている。
 あの黄金のスマッシュを。


 そして、春馬はその時、確かに聞いた。ふいに足を止めた春馬に、会長が怪訝そうな顔で振り返る。
「どうした」
「いま、聞こえませんでした?」
 春馬は、リングの方を見ている。照明の落とされた、暗いリングを。小首を傾げるばかりの白石会長の気配を背中で感じながら、春馬は、暗闇に向かって呟いた。
「いま、絶対に鳴りましたよ。どこかで絶対――」






「ゴングが」

       

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Neetsha