Neetel Inside ニートノベル
表紙

黄金の黒
第三部 『PANKRATION』

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 夢とは何か。
 夜に見る夢か。しかしあれは思い通りにならない。あんなものはまがい物もいいところだ。本物の夢はあんなのとは違う。何もかもが思い通りになるのが、夢だ。そして何もかも思い通りになる夢なんてものは叶った瞬間に飽きる冴えない夢だ。
 本当の夢は、何でも叶えることができるのに、それをしないやつが見る夢だ。
 叶わないと誰よりそいつが知っているのに、夢見ざるを得ないもの。絶対に届かないのに、どうしても手を伸ばしてしまうもの。氷のような空を掴むだけなのに。分かっていながら、何度でも手を伸ばす。今度こそ。今度こそと。
 夢とは、繰り返しだ。
 永遠に叶わない夢こそ真の夢物語。
 ならば、この都市は夢の街と呼んでも差し支えはないだろう。
 どれほど傷つこうとも、どこまで壊れようとも、地底深くに作られたその都市は、明日を迎えれば元通りに復元される。まるで最初から誰もおらず、一滴の血も流されたことなどなかったかのように、澄ましている。
 だが、もう数え切れないほどの挑戦者がこの都市に屍を撒き散らして死んでいった。氷の塊に押し潰されたもの。炎の弾丸に焼き殺されたもの。真横に落ちる稲妻に真っ二つにされたもの。風に喘いでなすすべもなく転落死していったもの。
 もう、数え切れないくらい多くの人間が無駄に死んだ。
 彼らの死はまぎれもなく無駄だった。
 死ぬとはそういうものだ。無駄死にじゃないやつなんていない。
 その代わりに、彼らは一人残らず感じて死んでいったはずだ。
 止め処なく、溢れるほかない、まじりっ気なしの人生を。





 いま。
 灰かぶりの都市に、一人の男が立っている。
 塔と言ってもいい、周囲を睥睨してやまない傲慢な建築物の頂上に、彼は立ち、風を浴び、前を向き、狂気の時を待っている。
 片腕の男だ。利き腕を落とされ、もう自分の名前さえ満足に書けなくなった男だ。顔よりも前に空っぽの袖を見られることに慣れてしまった男だ。俺は誰よりも強いのだと信じていた男だ。
 この男がリングに上がることは、もうない。
 永遠に、その腰に栄えあるチャンピオンベルトが巻かれることはない。
 誰よりも強い男だった。誰にも負けない男だった。
 その男が今、もう一度、世界に喧嘩を売ろうとしている。
 失われた右腕の貸しを取り立てるために。
 俺はお前になれなかったと言い残して消えていった男の仇を討つために。
 負けるわけにはいかない。
 風が吹いている。
 年老いた悪魔が腹の底から吐き出すようなぬるま湯の風だ。
 その風の中に、男は、残った手で掴んでいた布きれの束を、ばら撒いた。
 超一流のパントマイムのように、ばら撒かれた手袋が人の手の形に膨らんでいく。白黒六つの拳が、虚空に装填される。
 男は、左手を前に伸ばす。
 その指先のさらに先から、透明な氷がパキパキと張り巡らされていく。貪欲な樹木の根のように。もっと先へ、先へと、広がり伸びて、男を球形に包みこむ。
 開いていた手を、握る。
 視界の上で、雷雲が不機嫌な猫のように唸りながら、チカリチカリと瞬いている。
 もうすぐ、稲妻が落ちるだろう。
 予知能力などなくても、分かる。
 耳の後ろから聞こえてくる励ましに、頷きで答える。
 視線の先にある、二重螺旋と馬上槍。
 男の敵もまた、その塔を見上げているだろう。
 首筋に触れると、びっしょりと冷たい汗をかいていた。
 頚動脈が今まさに産まれようとしている赤子のように打ち続けている。
 指先が、震える。
 それを握り潰すように、拳を作る。
 逃げ出したくなるような快感が背筋を走る。
 熱を持った眼球が石になったように動かない。
 喘ぐような、待ち時間。
 永遠さえも繰り返したかのような、気の遠くなる一瞬を越えて、
 真っ黒な雷雲から、一振りの稲妻が落ちた。
 それは、どこか樹木に似ていた。
 男は駆け出す。声援のような風が彼を後押しする。
 ジオラマのような都市の空に、一匹の男が飛び出していく。


 男の名前は黒鉄鋼。
 黒塗りの拳闘士/ブラックボクサー。

       

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