欲しいものはなんでも手に入った。




 燎は螺旋塔の周囲をスプレイで旋回、青い風の尾と連れ従える白黒六つの拳を引いて、刃物のような視線を二百メートル先へと送った。
 黒鉄鋼は、白と黒、それぞれ三つずつの拳を引っ張っていた。
 W3B3だ。
 ブラックボクシングにおいて、W4B2の次にバランスのいいと言われるスタイル。どちらかといえばエレキを扱う黒が一つ多いために、攻撃的なスタイルと呼ばれる。
『距離、百三十メートル』
 ブレインの声に合わせて、撃った。
 四つの白から怒涛のごとく火球が放たれる。耳を劈く削岩機のような音。あっという間に黒鉄鋼と自分の間にあった空間が黒煙に閉ざされる。
『スプレイを提案』
 言われるまでもなく、右上に回避。直前まで燎がいた空間を黒鉄鋼が撃ち返して来た炎のジャブが通過していく。黒煙の雲は晴れない。一端、視界の晴れたところまで飛んで状況を整えてもいいかもしれない。ぺろり、と燎は真っ赤な舌で唇を舐める。さて、どうする。
 いや、突っ込もう。
 黒煙を嫌がって背中を見せた獲物を、みすみす逃がすことはない。
 スプレイダッシュ。
 燎はまっすぐ黒煙の中に飛び込んでいった。マウントスタイルは捨身(リベリオン)。背後を気にする必要はない。
 煙が、晴れる気配を見せる。
 思ったよりも、早い――






「!」



 目の前に、敵の氷殻があった。
 出会いがしらに四つの瞳が、見開かれる。
 かわせない。
 耳障りな音を立てて、高速でこすれあいすれ違った氷殻が火花を散らした。痛む脳髄を黙らせてハードスプレイ。氷殻にかかった回転を止め、姿勢を安定させる。
 なるほど。
 同じ考え方をしてくるのか。
 燎は笑った。
「やるじゃん」


 ○


 覚悟していてよかった。
 出端を挫かれる形にはなったが、キスショットをもらって、ファーストに亀裂程度で済んだのは幸先がいい。鋼は左手で鼻をこすった。もう汗ばんでいる。
『オッケーオッケー、ミスじゃない。これからこれから』
 ルイが言った。鋼は頷く。
 視線は前から逸らさない。
 黒煙はすでに埃っぽい風の中に紛れて千切れ、都市の空は束の間の晴れ間を取り戻している。
 敵は、ゆっくりとスプレイして、こちらを中心にサークリングしている。その周囲を白四つ、黒二つの拳が追随していく。
 W4B2。
 ファイアスターター。
『カウント確認。Eの6-6。フルマウント』
 Eの6-6。どちらもエレキ(E)/シフトを未使用という意。
 フルマウント。言わずもがな。
『長期戦に持っていこう。1Rから飛ばすことないよ。落ち着いて、冷静に』
『オーケー』
 こちらも白三つを氷殻の前に、倒したコーンのように構える。黒二つを護衛として左右に。残った一つは奇襲(シフト)に備えて背後。
 スタイル・フレイムチャージ。
『――ッ!!』
 お前は俺の使い方を間違えている――そう言って苦痛を与えてくる脳髄を無視して、強めのパイロを撃ちまくる。今度は拡散させていないため黒煙も小さい範囲にまとまって、相手を捉え切っている。前方から敵のパイロが三つ。黒二つでパリングさせ、残った一つをソフトスプレイで丁寧にかわした。
 距離を、詰めていく。
 今こそ上手くパリングしてくれたが、不調の黒は、相変わらずキレが悪い。距離を取られ、パイロを撒かれればそれに細かく対処できるとは思えない。
 長期戦――鋼は思う。
 果たして自分には、そんな時間があるのだろうか?


 だが、立ち止まって考えてみたところで、状況が好転するわけでもない。
 それどころか、攻め時だった。
 フレイムチャージからのパイロの集中砲火。強いパイロ、ではなく、全力のパイロを一息でかけた。爆音と黒煙の量が一気に増える。鋼は釣り針のような軌道で黒煙に飲み込まれた敵を追った。自分までまた黒煙の中に突っ込めば危険な上に、シフトされて狙い撃たれてはたまったものではない。
 この距離から、シフトも警戒に入れつつ近づくのがベスト、だ。
 敵が黒煙から逃げ出してきた。シメた――と思い、ハタと気づく。敵は、曇天を足下に見る形で、都市へ落ちていっていた。なかなか賢い。背中を都市に向けて落ちれば、確実に頭上にいる鋼を一発で視認できる。
 ――面白ェ。
 パイロをいくつか撃って追ったが、小刻みなスプレイで逃げられた。滑空するツバメのように緩やかなコースで距離を取られ、くるりと反転、仕切り直される。構え直される、敵の六つの拳。
 本体よりも、白(ひだり)を狙った方がよかったな、と微かな後悔。
『どうやら、少年Aクンはジャブの応酬がしたいらしいね』
『インファイトが苦手だと思うか?』
『どうだろ。最初に雲(けむり)の中に突っ込んできた辺りなんか、ケッコウ好戦的に見えたけど。ま、インに入ればウチが勝つからいいけどね』
『おだてるのが上手いネ。で、どうする。リードしてくれよ』
『うぅん』
 ルイは悩ましげな声を出してから、あっけらかんと答えた。
『逃げちゃえば?』



 ○



 パイロの扱いには自信があった。球速も時速450キロ強。全力を出せば時速500キロは出る。
 燎は金色に染め上げられた髪をかきあげ、鋭い視線を飛ばして状況を復習する。距離は百八十メートル弱。少しスプレイをかければあっという間に詰まる。敵はフレイムチャージで好戦的。シフトしてやれば動揺するだろうが、どうもそれを誘ってるようなニオイもある――相手の思う壺になるのは面白くない。
 結局は、待ち。
 ジャブの応酬になれば球速も破壊力も、こっちに分がある自信がある。今さっきみせた追い撃ちのパイロ、あれが黒鉄鋼の全力のパイロだろう。悪くはないが、物凄くいいとも言えない。及第点、プラスアルファといったところ。
 俺の敵じゃない。
 ジャブで差を見せつけ、相手の戦意を殺ぐ。
 ましてや相手が元ボクサーなら、感傷的にもかなり効く。
『マスター、ここは待ちを提案します。なぜなら――』
『はいはい』
 ブレインに適当な相槌を返す。いつまで経っても、ボクサーの思考レベルに追いついてくれないのは、所詮はイルカということか。
 美雷なら、そんなことはないのに。
『――ん?』
 燎は、目を細めた。
 相手が、スプレイをかけている。が、近づいてこない。青い炎が、瞬いた瞬間を最大にして、どんどん小さくなっていく。
 黒鉄鋼が、逃げている。
『距離、三百を突破。戦闘想定範囲外です。追撃を提案』
『どういうことだ――?』
 疑問に思いながら、スプレイダッシュ。猛加速してもすぐには追いつけない。
『何を考えている? ビルの森に下りる気配もない。このままじゃ壁に激突するぞ』
『恐怖に駆られて逃げ出したのでしょうか』
『それはない、と思うが――』
 それとも、どちらかといえばこのオープニング・ラウンドを巧みに切り返して攻めさせないこちらを『優勢』と見て、間を置くつもりか? 第2ラウンドに入って、仕切り直したいのか。もしそうなら、それほどまでにジャブの応酬を嫌がっているということになる――燎は唇を歪めた。
 思ったよりも、早くカタがつくかもしれない。
『よし、追い詰めてやる。もっと加速するぞ』
『どうなさるおつもりですか?』
『ふん、あんな速度で飛んでれば激突寸前に急ブレーキをかけなきゃならない。そこでアイツがヒヨったところをキスショットさ。ブッ潰してやる』
『いい作戦です、マスター』
『お前に言われるまでもない』
 うっすらと、視界の端に壁が見えてきた。黒鉄鋼は鉄砲玉のようにまっすぐに飛んでいく。なるほどなるほど。ギリギリまで高速で飛んで、間一髪のところで旋回、燎を壁にぶつけようという腹らしい。馬鹿が。そんな手に引っかかる俺だと思うのか?
 俺は、お前の腕の仇なんだぜ。
 チキンレースだ。俺は逃げない。
 受けて立つ。
 歯を食いしばり、アイスが軋むほどの強烈なスプレイをかけて、黒鉄鋼の背後につける。これでは鋼が速度を落としただけでもキスショットになる。
 前門の虎、後門の狼。
 ハサミ撃ちだ。
 壁は、もう目の前に。
 さあ、どうする、元チャンプ――!!


















『マスター』
『…………』
『マスター』
『うるせえな、なんだ』
『一つ、疑問に思ったことがあるのです』
『後にしろ』
『いえ、ぜひ今に』
『チッ、早く言え。なんだ?』
『黒鉄鋼の手のことなのです』
『手?』
『はい。彼の手はどこにあるのか、と――』
『馬鹿かお前。話聞いてなかったのか? あいつの腕は俺が落としてやったんだよ、地獄にな』
『いえ、そうではないのです。マスター。私が言いたいのは――










 ――彼の白と黒の「ナックル」はどこにあるのか、ということです』










 な・に?








 前を見る。慌てて探す。
 ない。
 黒鉄鋼は、単騎だ。
 一人で飛んでいる。
 お供の拳もつけず、に。
 壁が、もうすぐそばまで迫っていた。
 避けられない。避けられるはずがない。
 事実、そうなった。
 こんな速度で、黒鉄鋼は、マックススピードのスプレイダッシュで壁面に突っ込んだ。その勢いのまま、しかし、アイスには亀裂ひとつ走らない、そのまま、吸いついたように壁に止まっている。いや、それは所詮はアドレナリンが見せた束の間の夢だった。なぜなら黒鉄鋼は壁に吸いついたわけでも、速度を魔法で殺したわけでもなかったから。
 ただ、自分の白黒六つのナックルを、重ねて使っただけだった。
 『クッション』として。





 幼女がぬいぐるみの群れに飛び込んだ時のように、黒鉄鋼を受け止めた六つの拳は彼があらぬ方向へ跳ね返ったあとに弾んで吹っ飛び、燎の前にはもう、ただの壁しかなかった。
『――ッ!!』
 悲鳴が出そうなほどのスプレイを前方にぶっ放した。が、無論、殺しきれるわけがなかった。
 激突、衝撃。
 セカンドにまで達したインパクトに燎の脳がシェイクされる。嘔吐寸前だった。畜生、アイツ、なんでこんな――本当にこれが初戦のブラックボクサーか? 本当は前から訓練を受けていたんじゃないのか? 聞けば俺よりスパーリング回数は少ないはず――なのに。畜生、認めたくない。アイツの強さが、
 アイツの強さが、『本物のボクサー』だから、なんて。
 馬鹿か。阿呆か。それとも白痴か。あるわけない、そんなこと。本物のボクシングをやっていたからって、こんなに戦闘センスが培われてたまるか。それならまだ、同類だと認めた方がマシだ。
 アイツが神様から愛された、自分と同じ『ギフテッド』なのだと。
 もう容赦はしない。スプレイを自分にかかった回転と逆方向にかけて姿勢の支配を取り戻す。見上げると、クッションを使ったとはいえ猛スピードで突っ込んだ黒鉄鋼の方もようやく体勢を整えなおしたところだった。
 くそっ。
 今してやられたこの屈辱を、アイツに何倍にもまして味わわせてやりたい。
 だが、慌てるな。まだ1R。深追いするにはまだ早い。脳をつつくブレインの声は、もう残り時間が五秒もないことを伝えてきている。ダメージでは確かにこちらの方が被害を受けた。それだけのことだ。
 やられはしたが、やられる気はしない。
 くるりと燎はスプレイで旋回。距離は二百五十メートル近くまで広がった。ここから攻めてくるってことはまずない。
 まず安全圏――


 そう思った、ため息のすぐ隣を、
 斜めに稲妻が横切った。


 かすりもしなかった。
 稲妻は、ビルの森を深々と貫いて、終わった。
 もう水の出ることのない、誰も戯れることのない噴水の前に、サイズを間違えて生まれた子犬の遊んだあとのような傷跡が残された。
 崩れ落ちていくビルの森。
 積み木を倒した時のようなその音を聞きながら、燎は思った。
 今のは、螺旋塔に落ちるはずだった、『本物の稲妻』じゃないのか。
 今のが、人間の脳髄から搾り出した能力でやったことだというのか。
 振り返る。




 あれが、黒鉄鋼のサンダーボルト・ライト――……




 嘘だ。
 絶対に嘘だ。
 あんなエレキをもらったら――
 シフトなんて、関係ない。
 当たれば、死ぬ。
 殺される。






 喉が唾を飲み込む。冷や汗が首筋を濡らす。
 天と地ほどの距離を隔てて、二人の視線が絡み合う。
 脅える男と、脅す男の瞳。
 鈍くかがやく黄金は、むしろ黒く見える。