Neetel Inside ニートノベル
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 投手が捕手のミットにめがけて自慢の速球を投げ込むように、虚空の鏡をぶち抜いて出現した黒鉄鋼の身体が転送座の中心に音を立てて激突した。アバラが軋み背中が弾む。勢いよく咳き込み始めた鋼の背中を殊村がさすってやった。
「くそっ、ノーコンめ」
「ボクサーをこの距離で安定して転送させられるだけ、ルイはいいブレインです」
 相変わらず鉄仮面の涼虎が、人形のように整った表情のまま鋼の顔をタオルで拭った。鋼は子供のように嫌がって、殊村が差し出したボトルを奪ってその水を口に含むと、べっと飲まずに吐き出した。その慣れた様を静かに見つめながら、涼虎が言う。
「さっきのは、『ノリ』ですか?」
 鋼が急に異国語で話しかけられたような顔になる。
「――何? なんだって?」
「最後のエレキライト」
「最後のって――ああ。お前、俺がこの土壇場で何も考えずに動いてると思うのか」
「違うんですか?」
「当たり前だ。――俺の黒は残念ながら今度も言うことを聞いてくれない。エイリアンに乗っ取られたような気分がする。1ラウンドは白の差し合いになったから目立たずに済んだが、クロスレンジになったらオモチャ同然なのが丸分かりだ」
 だから、と一つ空咳をし、続ける。
「たとえエレキカウントを一つ消費してでも、敵に見せておきたかった。俺の黒の威力を」
「その効果はあったようです」涼虎はその場に跪いて、鋼の腰のグローブホルダーを新品と取り替えた。最後のエレキライトを除けば鋼の黒の消耗はゼロ。拳数が無為に増えずに済んでよかった、と目で思いながら、
「相手のボクサーは明らかにあなたの黒に動揺していました。恐らく、不用意にあなたの黒に近づくような真似はしないでしょう」
「それはそれで困るんだがな。黒が利くあたりまで接近しなきゃ、ノックアウトで倒せない」
「逃げ腰の相手を追い切れないあなたではないでしょう」
 鋼の口に2ラウンド用のノッカーを詰め込んでいた殊村が笑い出した。
「――とにかく、黒鉄さん。あなたは今、エレキカウントを一つ失っています。その意味はわかっているはずです」
「ああ。極端な話、俺がこれから残った五発のエレキを相手に必殺の位置から撃発したとしても、向こうがすべてシフトでかわせば、俺が残弾ゼロの時にヤツは残弾1。そうなれば、獅子に喰われるシマウマは俺の方になるな」
「ええ。ですから、長期戦は不利です。あなたの黒のこともありますし」
「じゃあどうする」
 涼虎は言った。


「次のラウンドでノックアウトしましょう」


 鋼と殊村が目を丸くしている。
「――真琴くん、俺はひょっとするともう駄目かもしれない」
「ああ、君もか。僕も駄目だからお揃いだね」
 涼虎がむっと眉根を寄せる。
「私が積極的な意見を言ってはいけませんか」
「お前は俺をなだめる役だと思ってたよ」
「違います。私はあなたを勝たせる役です。心身ともに充実させ、リングへ送り出すのが私の仕事です。黒鉄さん、私に見せてください。本物のボクサーの『ノックアウト』を」
 鋼は、くすぐられたように笑った。そしてそれを綺麗に引っ込めて、言った。
「目ぇ瞑るなよ」
 インターバルは九十秒。
 空気が弾ける音だけ残して、鋼は転送された。


 ○


「ビビったら向こうの思う壺だよ」
 めっきり口数の減った虎の子のボクサーの顔を拭ってやりながら、美雷は言った。その目はもう助からない小動物が死んでいくのを眺めているかのように、冷えている。
「――わかってる」
「わかってないよ。何、その顔。さっきまでの威勢はどうしたの?」
 燎は、いま初めて自分の前に誰かがいるのに気がついたような顔をした。
「お前こそ、浮き足立ってんじゃねえのか。顔、赤いぞ」
 美雷はものでも扱うようにいきなり燎の顔を両手で挟んだ。驚き硬直する少年の目に、自分の視線を注ぎ込もうとするかのように、見下ろす。
「当たり前でしょ。あたしは今、黒鉄鋼と闘ってるんだから」
「――俺だろ、闘ってるのは」
「1ラウンドはね。でも、もう分かったでしょ。白黒六つの拳と異能を振り回すだけじゃ、ブラックボクシングはできないし、あの男を倒すこともできないって」
「そんなの――」
「これ以上、あたしに逆らえば」
 美雷の親指が、燎の目元を撫でた。
「両目を潰す」
「――――」
「逆に考えて。今、あたしが君を殺さないのは、まだこっちに勝ち目があるからだって」
 燎は、隙間風のようなため息をついた。
「勝ち目、だと?」
「そう。君は気づいていなかったかもしれないけど、黒鉄鋼は完全なブラックボクサーじゃない」
「どういうことだ?」
「モニターで見ていて分かった。彼は、自分の黒をかばっている」
「かばうって、黒はマウントし直せるだろ。かばうなら白だ」
「ちがう。動きが不自然なんだよ。黒ならもっと先行させて囮にしたっていいのに、まるでお気に入りのペットみたいに黒鉄鋼は三つの黒を自分のそばに置いていた。なぜか?」
 燎は、もどかしげに先を促した。
「――なぜなんだ?」
「脳の中のブラックボックスは不可知領域。あたしにも分からないことだらけだけど、でも、ひょっとすると黒鉄鋼は右腕を切断してから、左脳の地図が再配置されているのかもしれない」
「再配置?」と聞き返す燎の口の中に、美雷はノッカーを指で押し込んだ。これはボクサーの脳に『ブラックボクシングはまだ続いている』と錯覚させ、一度マウントを解いた白と黒を再び長時間、といっても数分だが、使用できるようにさせるための投薬だった。3ラウンド以降はその反応が複雑になるため、ミストを使用することになる。
 美雷は話を続けた。
「今まで右腕を動かしていた脳の一部が、右腕をまったく使わなくなったことによって別の領域に侵蝕されて働きを変化させること。もし、彼の脳でそういうことが起きているのだとしたら――あの黒は、思うように動かせないのかもしれない」
「威力は、あったみたいだが」
「天性のものか、ピースメイカーのアイスが上等なのかもね。どっちにしろ、次のラウンドではっきりする」
 燎はとうとう折れた。どうしたらいいのか教えてくれ、と呟くボクサーに、美雷は指示を囁いた。
 セコンドの言葉を飲み込むうちに、ボクサーの目に光が戻っていった。

       

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