Neetel Inside ニートノベル
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 ノックアウト。
 狙いにいくなら、攻めの姿勢が必要だ。手駒はエレキとキスショット。パイロは消耗戦にしないのであれば撃たなくていいくらいだ。が、気前よく切り札を振り回したところでつまらぬワイルドピッチになるだけだ。要は、切り札を使える場面まで、戦況をどうやって持って行くか。
 カウントは、すでに相手が一つ優勢。
 ダメージは、相手の方が受けている――とは、言い切れない。鋼は足下のビルの森を氷殻越しに見下ろしながら、左手で口元を拭った。
 鼻血が出ている。
 今までも、スパーリングで鼻血が出ることはあった。が、ここまでひどい頭痛を伴う鼻血は初めてだ。性質の悪い二日酔いのように、耳の奥がガンガン鳴っている。自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。W2B1を前方に、W1B2を後方に配置したスタイル・ダイヤモンドの中で、鋼は第2ラウンドの雷鳴(ゴング)を聞いた。
 激励してくるブレインの声に頷き返し、スプレイダッシュ。青い澪を引きながら、敵との距離が死んでいく。
 希望を持つなら、接近戦だ。
 近距離なら鋼の黒も大人しくなる上に、キスショットもしやすくなる。偶発的な接触が起こりやすいということもあるが、遠距離ではキスショットを狙ってシフトした瞬間に相手に警戒されてしまい、せっかくのエレキ/シフトカウントが無駄になる。しかし近距離ならばスプレイダッシュで視界から外れたのか、それとも本当に瞬間移動したのか咄嗟の判断がしにくい。もっとも近づけば相手がそれを鋼にやってくる危険性も増してくる。いわゆる諸刃の剣というやつだ。
 そのためにも、まずはあのうるさい白(ジャブ)を掻い潜らなければならない。
 そう思い、身を強張らせた鋼だったが、予想に反して敵はパイロを撃ってこなかった。四つの白を四方向に配置させサークリングさせ、二つの黒を斥候がてら前方に押し出しているスタイル・ダブルホーンを維持したまま、近づくでも離れるでもない曖昧な距離感を保っている。
 妙だ。
 第1ラウンドの展開を考えれば、向こうは被ったダメージと、そして先手を打たれた焦燥感でもっと過激にパイロの弾幕を張ってくるものかと鋼は思っていた。そのゴチャゴチャした乱戦を丁寧に切り裂いて相手の懐まで潜り込んでいこうと思っていたところに、相手がまったくパイロを撃ってこない。氷殻越しに滲んで見える表情も、冷静そうに見える。
 局面だけ俯瞰すれば、絶好の機会だ。
 何せ相手が集中砲火の手を休めてこちらの思惑に乗ってやろうと譲歩してくれているのだ。インファイトで黒の差し合いに持っていければ、悪戯にパイロを撒かれて長期戦にもつれ込まずに済む。
 だが、気にかかる。
 たとえ自分が望んだ方向に進めるとはいえ、相手の誘いにまんまと乗ってやる形になるのは、よくない。常に、相手の罠である可能性に対していくらかの集中を注がねばならないし、実際にそうであることもありうる。かといって意固地になってこのまま睨めっこを続けているわけにもいかない。不自然すぎるし、相手に不調をバラすようなものだ。
 ゆえに、ここは進むしかない。
(……くそっ)
 煮え切らない気持ちのまま、鋼はスプレイダッシュをかけた。
 勝負とは、不思議なものである。相手がパイロを撃ってこない、それだけで心理的に鋼は圧迫されている。何もかも鋼の考えすぎなのかもしれない。相手はただ、パイロの無駄撃ちを温存しているのか、あるいは先制した鋼の動向を様子見しているだけなのかもしれない。そういった可能性が確かにあることを踏まえつつ、鋼はそれでも相手の手札に自分を殺せる刃が眠っている危険性を無視できない。だが、それでも殺るか殺られるかの瀬戸際から両手を挙げて撤退することはできない。鋼は、争うことでしか他者と関わりを持てない男だからだ。
 金髪のボクサーは、バックスプレイをかけて後退したが、やりあうつもりはあるらしい。風を孕んだ青い炎に背中を押された鋼に向かって、そのまま自らの黒を二つ、パンチとして放った。一発は軽めのジャブで鋼のパイロが撃ち落とした。二発目は黒同士のバッティングで両拳相殺(あいうち)。鋼はホルダーから一枚の黒(みぎ)を千切って投げた。たちまちカサカサと手袋が膨らみ充填される。スタイルをリベリオンに変換。背中は捨てる。
 敵が充填し直した黒が再び攻めてきた。今度は本体のアイスもスプレイで突っ込んでくる。さすがに四つの白からパイロの連射が撃ち出されてきた。鋼も応戦、だがどうせ自分の身を喰う蛇のようにグルグルと相手を追う形になる接近戦では多少のパイロはもらってしまう。それよりも、黒に重きを置いた方がいい。
 かすかな精神の糸で繋がった右手を心で探って確かめる。
 反応は、薄い。
 だが、それでも撃つしかない。
 まっすぐに突っ込んできた敵と交差していくその黒をダックスプレイでしゃがむようにして回避しながら、右辺上方、ちょうど本物の右手があればそれをまっすぐ伸ばした四本分の距離に配置してあった黒を、遮二無二まっすぐ振り抜いた。
 だが、鋼の黒が撃ち抜いた空域には、スプレイの残り香が漂うばかり。しかし外れるのは、想定内だ。問題は、それがどの程度、信憑性のある外れ方だったかということ。
 はっきり言って、黒が当たらぬとバレればこの勝負はおはなしにならない。
 ゆえに、徹底的にあの金髪のボクサーには『黒』の恐怖に囚われて続けてもらわなくてはならない。そのために貴重なエレキカウントを一つ消費したのだ。元は取る、絶対に。
 スプレイを丸くかけて反転、ビルの森を頭上に見ながら追撃の手を休めない。赤紫の炎の卵を虚空にばら撒き、とにかくまっすぐを意識して黒を殴りつける。空振りしたスウィングの反動で、自分の身体が六倍になったかのように思える。
 振り抜いた黒が足下の雲海に飲み込まれていったが、そんなことはどうでもよかった。
 視界には、灰色の濃淡があるばかり。
 敵がいない。どこにもいない。
 ということは、
(シフトキネシス――!)
 ふたたびショートスプレイで背後へ反転する。拳たちもくるりと向きを直して身構える。捨身(リベリオン)で背後を晒していたのは半ば誘いだった。これだけ無防備な型なら相手はいずれシフトで背後を攻めてくる。あらかじめこちらが用意していた隙ならば咄嗟の瞬間移動にも対処しやすい。ごくりと生唾を飲み込む。相手がキスショットしてくれば、カウンターを取れる。
 エレキなら、なおいい。
 唸り続ける黒の拳から小さな紫電が迸る。
 躊躇うことはない。
 勝てばいいのだ。何も考えず。すべて置き去りにして。
 相手が視界に入る前よりエレキを走らせておけば、上手い具合にタイミングが噛み合って衝突してくれることだろう。
 撃ち抜け――

 だが、エレキが撃発されかかるまでのコンマ数秒が経っても、相手はどこからもキスショットを撃ってこなかった。あまりの時間の短さにルイからの声すら届き切らずに止まっている。呆然とする鋼の首筋に、ぞわりと怖気が走った。ほとんど時間が止まっているかのような感覚の中で回避できたはずもない。
 剣と剣を打ち合わせたような甲高い音がして、鋼の上辺後方から全力でスプレイダッシュをかけてきた天城燎のキスショットがものの見事に炸裂した。引鉄を落としかかっていたエレキが衝撃による集中力の切断でキャンセルされる。接触したアイス同士から氷の破片(チップ)の飛沫が上がり、鋼の顔が苦痛と驚愕にゆっくりと歪んでいった。時間に油が差し直されて、二つのアイスボールはキューに突かれたビリヤードの球のように角度をつけて勢いよく弾かれた。鋼のアイスは見えないレーンに乗せられたかのように滑らかなコースでビルの森へと落下していく。やがて立ち並んだビルを何本もなぎ倒して、やっとアッパースプレイをかけて持ち直した。が、そこに追跡してきていた敵の黒がまさに鼻っ柱をへし折るといったようにストレートを鋼の顔面真前にぶち当たり、鋼のアイスはやはりアスファルトにめり込む羽目になった。ストレートか、と相手のパンチの拳種を覚える。瓦礫と砂塵を渦巻く風の力で吹き散らし、首根っこを掴まれた猫のように鋼はアスファルトに空いた穴の中から飛び出した。そこを待ち構えていた相手の二つの黒がフックを繰り出してくる。一つは避け、もう一つはしたたかに貰った。返す刀でこちらも黒を振り回して相手の拳をパチンと潰した。本体はハンドキネシスの平均射程である一八〇メートル以内にはいるのだろうが、姿は見えない。かわした敵の黒をパイロの連打で焼却処分しながら、鋼は考える。セオリーなら、頭上から炎の雨を降らせてくるところだが、その気配はない。どうやら相手は完全に持ち直したらしい。まったく恐れることなく、シフトを上手い具合に死角になっていた『鋼の斜め上辺前方』にかけ、こちらが警戒している背後へ反転した瞬間にキスショットを落としてくるとは――そもそもパイロを撃たずにこちらの動揺を誘ったあたりから考えても、もうこれは相手のボクサーが優れているとか強敵だとかいう話ではない。
 本当の敵は、金髪の少年じゃない。
 向こうの、セコンドだ。
 静まり返った都市の中で、磔にされたように身動きが取れないまま、鋼の顎を冷たい汗が滴った。
 第2ラウンドが始まって、三分が経過しようとしていた。

       

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