パン屑のような砂礫がパラパラと降り、視線の先で砕けては散っていく。鋼は誰かに首を掴まれたように喉仏を晒しながら、それを見上げていた。卵黄のような瞳が水を飲むように周囲の情報を収集する。
 ビルの中にいた。倉庫か何かの一階になる予定だったのか、あちこちに柱が点在し、無人のフロアには塵芥が漂っている。壁の一角には子供が乱暴に引き剥がしたような大きな穴が空いていた。記憶が少しずつ、紙を火で炙るようにじわじわと戻ってくる。白い拳、唸る風、砕けた氷、痛む眼球。
 殴られたのだ。
 鋼は両足を跳ね上げ、その勢いで起き上がった。両足が強く床を噛む。瓦礫の中から白と黒を呼び起こす。W3B1。左手でホルダーから二枚続けて千切って放る。W3B3。
 さて――と鋼はその場で胡坐をかき、左手で口元を覆った。考え事をする時のクセだった。
 このままビルの中からスプレイダッシュで飛び出していくのは簡単だ。が、恐らくまた敵のパイロの集中砲火を浴びることになるだろう。それではまったく状況が好転しない。とはいえ、このまま相手が何もしてこないのをいいことに我慢比べよろしくこのビルの中で座り込んでいれば悪戯に時間と体力を消耗するだけだ。
 シフトするしかない。
 だが、それは敵も考えていること。たかが九〇メートルの射程距離では、どこへ逃げても黒を隠し砲台として設置されれば逃げ切れる保証はない。仮に九〇メートル近くのビルにシフトして息を殺していても、いつかは外に出なければならないのだ。その時にパイロを貰うのではなくエレキを貰うのであればお話にならない。
 鋼は海の中に沈んでいくように深く考え込んだ。
 恐らく敵が張っている九〇メートル圏包囲網を超えるならば、シフトを連続でかけるという手もある。シフトカウントは喰ってしまうが限界シフトを連続でかければ一八〇メートル。ナックルシフト程度の緊急離脱が可能だ。だが――
 臓腑を震わす衝撃と共に、天井から砂礫の小雨が降ってきた。鋼は顔をしかめた。この衝撃の原因は明白だ。敵は、九〇メートル圏内のビルを白か黒かは知らないが片っ端からぶち壊して回っているのだ。鋼が気づかずに九〇メートル圏内でシフトをかければ丸裸になる算段だ。どの程度の幅で建物を損壊させまくっているのかはルイに聞けば分かるし、もちろん、何も九〇メートルでなくとも、敵がビルを壊していない範囲でまず小さくシフトし、そこから改めて限界シフトで逃げ去るというのも手だ。だがそれではあまり距離が稼げないし、隠し砲台に撃墜される確率も高まる。いずれにせよ一度相手の独壇場に飛ばなければならない以上、どう頑張っても危険度はゼロにはならない。ゆえに、逃げるなら限界一杯で逃げたかった。それも、シングルシフトで。
 鋼は、自分の黒を氷殻の表面近くまで呼び寄せ、見上げた。
 打つ手は、ないこともない。
 ナックルシフトをかければいいのだ。あれなら、ハンドの射程距離一八〇メートルまで逃げれる。
 だが言うまでもなく、このビルから黒などを飛び出させようものなら、敵の集中砲火を浴びて焼き尽くされるのが落ちだろう。
 しかし、その拳が稲妻だったら、話は違う。一撃で九〇メートル圏包囲網を突破できる、そんなパンチを、鋼が撃てれば――
 そんなパンチが、あれば――――……


 鋼は、不調の黒を軽く振ってみた。氷殻ギリギリ一杯まで寄せてみても、まだ違和感は残っている。今度は右フックをくるくると氷に触れるような近さで回してみた。拳が何度も鋼の周囲を、子犬のように駆け巡る。
 もっと速くしてみる。
 拳の輪郭が融けるように滲んでいく。吹き荒れる風が床に積もった塵芥を払い清める。
 本来ならば腕のリーチという『限界』が阻んでしまう勢いを残さず加速させていく拳は、砲丸投げのそれのように、あるいは極小の衛星のように、氷の星の周囲を旋回する。
 キーワードは『遠心力』――
 八洲とのスパーリングの時に、すでに考案してあった隠し玉。だが、その性質上、その場で静止していなくては撃つことのできない『欠陥品』――今を逃せば次はない、二軍のパンチ。
 このパンチなら、貯めに貯めた遠心力を解放すれば、九〇メートルどころか一八〇メートルまで軽々と届くだろう。竜巻のごとく、周囲のすべてを破壊しながら。
 絶好の切り返しを思いついた鋼だったが、しかし、その顔は浮かない。それどころか、拳の旋回さえ止めてしまう。
 一つでは足りないのだ。
 このパンチなら、九〇メートル圏内から脱出することはできるだろう。しかし、それでは『次』に繋がらない。敵は鋼がシフトしていようがしていまいが拳が出た瞬間にこのビルをパイロキネシスで木っ端微塵にするだろう。そして拳が貫き去った方角へ追撃をかける。これでは相手の優勢が崩れない。
 もしこのパンチを使うなら、せめて双方向へパンチを出したい。そうすれば相手は追撃の手をどちらかに絞らなければならなくなり、空パンチの方へ向かえばよし、本命へ追撃をかけてきたとしても、一瞬の隙は奪える。その差は大きい。
 しかし、八洲相手のスパーリングですら見せたことのないこのパンチを実戦で、それも二つも使うことには危険性が伴う。ほぼ零距離で黒を無制限に旋回させ続けるということは、一つ間違えば鋼自身のアイスを砕いてしまう。笑い話にもならない。自身の強打が命取りだ。
 リスクを考えれば、やるべきではない。
 まだ無策に突っ走って外へ飛び出した方が損傷軽微で終われるかもしれない。
 あるいはいっそ、サンダーボルトライトを二発撃ってそこからナックルシフトをかけるか――その場合は、エレキキネシスの反動でグローブが破裂するまでのタイミングを取る必要があるが、それでも、最も距離が稼げる、最も安全な手段に変わりはない。
 今を生き残ることを最優先にするなら、トリプルカウントのエレキシフトだ。
 それでも残弾は二つ残る。一発でもあればノックアウトのチャンスはあるのだ。今ここで死ぬ可能性を我武者羅に追いかける必要などない。
 生き残れなければ、そこで終わりだ。
 いつまでも時間は待ってくれない。敵もそろそろ痺れを切らしてこのビルを吹っ飛ばすくらいはしてくるだろう。
 鋼は、音もなく滴ったぬるい鼻血を左手の親指で拭い取って、握り潰した。